Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    himemiya

    @himemiyacasa

    ベッターとどっちが使いやすいんだろ

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 26

    himemiya

    ☆quiet follow

    Mein Kuchenお前は俺だけのあまい、あまぁいケーキ



    とあるオフィスビルの昼下がり。二人の若い男は軽口を叩き合いながら、遅めの昼食にありつこうとしていた。時間の経った弁当の何とも言えぬのっぺりとした海苔の匂いとファストフードのケチャップの匂いが入り混じり、空気中に気だるげに漂いながらオフィス全体に広がっていく。
    「今日もコンビニ飯かよ?奥さんまだ許してくれねーの?」
    「そうなんだよ…ちょーっと内緒で風呂屋行っただけでよ。てかお前だってファストフードじゃん」
    「いーんだよ!こんなん腹が満たせりゃなんでも!」
    学生時代のノリが抜けない二人は足先にまで神経が行き届かないのか、行儀悪く脚を伸ばし、通路を塞いでいた。その少し手前では、うら若い女性の新入社員が自分のデスクに戻れず、かといって彼女の気質なのか二人に物申すこともできず、泣きそうな顔でおろおろとしていた。年配者は眉を顰め最近の若いものは、と呟くが、自分に実害がないからか無関心に目を逸らす。
    業務からの一時的な解放、積もり積もった鬱憤、そんなものが二人の声のボリュームを釣り上げていく。だが、最高潮に達する前、それは突如終わりを告げた。

    「…邪魔だ」

    馬鹿笑いをしていた二人は自分たちを覆う影に顔を上げ、びたりと固まった。
    「お、わっ!?冨岡課長、すいません。お、お疲れ様っす…」
    慌てて足を揃える二人をちらりとも見ず、冨岡と呼ばれた男は足早に自分のデスクに直行した。
    「あっ…ありがとうございます…っ」
    女性社員は頬を染めながら少し丸まった背に礼を言ったが、男は振り返りもしない。そうして、男ーー冨岡義勇は全てを拒絶するようにイヤホンを耳に嵌めると、片手で缶コーヒーのタブを上げながら、もう片方の手は手元の紙袋をがさごそと弄る。いつもと同じ、とあるパン屋の葡萄パンのようだ。
    そんな上司の姿を横目に見ながら、二人は声を落としてヒソヒソと呟き合う。
    「…たく、いつも通り陰気クセェな。イケメンだかなんだか知らんが、社会人なんだから目ぐらい合わせろよ…。」
    「まあ仕方ねぇだろ、あんなんでも優秀らしいし、イケメンなのは事実なんだからよ…。」
    「けっ・・・。今日も葡萄パンかよ。毎日毎日飽きねぇな」
    「でもよぉ、いくらなんでもおかしくね?俺らが入社した時から毎日だろ?・・・もしかして、あの噂マジなんかな」
    「噂?」
    「あぁ…課長、『フォーク』なんじゃねえかってハナシ」
    先ほどまでバカにするかのように毒を吐いていた男は、ひく、と喉を鳴らし、恐れと嫌悪の混ざった表情で顔を歪めた。
    「マジかよ…」



    冨岡義勇という男は、端正な顔をしているが、陰気臭い男だった。切れ長の青い瞳はどんよりとした曇りの日の水面の色をし、人と目を合わせて話すことはほとんどない。薄い唇はいつも憂鬱そうに結ばれ、綻ぶことはなかった。だが、目も鼻も口も、その全てが繊細に配置されており、陰気だが美しい男には違いなかった。周りは、初めはその容姿から義勇に色目を使うが、そのあまりの感情の起伏の少なさと人付き合いの悪さに、自然と離れていく。だが、彼は昔からそうであったわけではない。昔は年相応によく笑い、よく泣く子供であった。義勇の人生が大きく変わってしまったのは、彼が十歳の時のことだ。
    ーーこの世には、男女以外に第二の性が存在する。
    「ケーキ」「フォーク」「その他」
    「その他」など、なんと雑多な言い方であろうかと思うかも知れない。けれど、こと第二の性に関しては、「その他」に属している方が幸せなのかもしれない。これを「性」などと呼ぶには、あまりにも残酷で、もはや呪いではないかとすら思うからだ。
    人口の数%しか存在しない「フォーク」。「フォーク」は、一見するとフツウの人間と何も変わらない。だが、一つだけフツウの人間と異なるのは、”味覚がない”ということ。何を食べても、何を飲んでも、何も感じない。ただただ、生命機能を維持するために仕方なく食べるのみ。
    「フォーク」は後天的になることが多いらしい。義勇も例に違わず、ある日突然味を感じなくなってしまった。幼い日の義勇は戸惑い、驚き、両親に泣いて訴えたが、両親の反応は予期せぬものだった。
    (やめて!触らないで!)
    ーー後に、「フォーク」は世間で「殺人鬼予備軍」として扱われていることを知る。その訳を知ったのは、義勇が親に捨てられ、施設にいれられたときのことだった。親同様、義勇を嫌悪する施設の職員から浴びせられた罵詈雑言から、何故自分が疎んじられるかを知った。
    「フォーク」と同じく人口の数%存在する、「ケーキ」。「フォーク」は、「ケーキ」と呼ばれるその人間を文字通り「食す」ことによってのみ、味覚を感じるのだという。味覚のない「フォーク」が「ケーキ」を舐め、齧ることで遠い昔の「味」を思い出し、歓喜し、その内に自制が効かなくなる。口の中で甘く蕩けるその感覚に夢中になり、むしゃぶり、やがてはその柔らかな肌に牙を立て、最期には全てを食らい尽くしてしまうのだという。実際に、数年に一度起こる猟奇的殺人事件のほとんどが、「フォーク」による犯行なのだから。
    人間が人間を食べるなんて、と義勇は想像だけで吐き気を覚えた。それに、二十五年間生きてきて、そんな存在には巡り会ったことなどない。もう、「フォーク」「ケーキ」など、ただの都市伝説ではないのか。自分は、単なる味覚障害なのではないだろうか。義勇はそう考えていた。
    小さな箱の中、どこの誰だか知らない知らない男が言った。「食は人生の楽しみ」なんだと。もしその通りであるというならば、「フォーク」にとって人生とはなんなのだろうか。楽しみがないのなら、生きている意味などあるのだろうか。
    義勇は葡萄パンをじいっと見つめた後、あ、と大口を開けて齧り付く。パンの柔らかな生地やレーズンのぐにゅりとした感触は感じるけれど。
    だけど。
    義勇は光を失った瞳でパンを咀嚼し、ごくり、と塊を飲み込んだ。そうして、食事のたびに絶望するのだ。

    ああ なんの味も しない  と。



    会社へ行く途中にあるパン屋に寄るのは、いつものルーティンの一つだった。味は感じないとはいえ、食べなければ生命機能を維持できない。自炊することもほとんどなく、会社までの行き道に不便なことにコンビニもないため、このパン屋に寄るようになった。いつも葡萄パン二つ。義勇には味覚はないが嗅覚はあるため、焼き立てのパンの匂いが漂うこの店内は、ほんのひと時、ささくれ立った心を穏やかな気持ちにさせてくれる。義勇は周りの客に気づかれないよう、細く深呼吸をする。身体の中の肺が持ち上がり、パンの匂いを咀嚼する。その中に一際良い匂いを感じ取って、口内に唾が溜まっていくのを感じた。
    菓子パンのクリームの匂いなのか、あんぱんの餡の匂いなのか。それとも別の何かなのだろうか?
    この匂いを嗅ぐのも、義勇がこのパン屋に通い詰める理由の一つであった。今日は珍しく早く目が覚めてしまったため、いつもより一時間ほど早い時間にパン屋を訪れていた。店のドアを開けた瞬間、甘い香りがいつもよりも強いのを感じ、ごくりと喉を鳴らす。落ち着かない気持ちでカチカチとトングをならしながらいつもの葡萄パンを二つとる。少々行儀が悪いが、パンの陳列棚に顔を少し近づけてくん、と匂いを嗅ぐ。どれも該当する匂いはない。どうせ味などわからないが、この甘い匂いを堪能できるなら、一度食べてみたい。店員に尋ねてみようかとも思ったが、義勇は極度の人見知りだった。人間を避けるように他の客と距離を取りなから店内をぐるりと一回りし、あれだろうかとメロンパンに近づいていく。

    「何かお探しですか?」
    「!?」

    突然背後から声をかけられ、驚いて肩を跳ねさせる。だが、甘くて蕩けるような匂いが鼻腔の奥を擽って、義勇はその匂いにふらふらとつられて振り返った。そこには、このパン屋の店員なのだろう少年が立っていた。赤みを帯びた髪に、額には目立つ痣。耳元には太陽の図柄が入った札のようなピアスが揺れていた。にこにこと人好きのする笑顔を浮かべ、「それおすすめですよ」とメロンパンを薦めてきた。だが、義勇はそれどころではなかった。店員の声など耳に入らずにトレーを取り落とし、自分でも無意識のうちに少年に近寄る。
    「お、お客様?」
    少年の動揺した高い声も、どこか遠い。ほっそりとした首元に顔を近づけると、くん、と匂いを嗅ぐ。そうして、目を見開いた。
    ーこれだ。この匂い。いつも漂っていた甘い匂いは、この青年から香っていたのだ。
    義勇は濃厚な匂いに脳内をじわじわと犯され、息が荒くなっていく。本能のまま、目の前の少年の首筋に牙を突き立てようと大口を開けーー。
    「パン、落としましたよ!!新しいものと取り替えますね!」
    少年の声に、義勇は弾かれたように後方へと身を引いた。床に落ちたトレーとパンを片付ける白い帽子をしばらく呆然として眺めていたが、はっと気がついて、慌てて自分もしゃがみ込む。
    「す…すまない。ぼーっとしていた。落ちた分のパンの代金は払う」
    「いえいえ、大丈夫ですよ。」
    「いや、そういうわけには。」
    「じゃあ、ちょうど試作のパンが出来上がったんです。食べて、感想を聞かせていただいても?」
    こちらを見てきらりと陽の光を反射した瞳は、飴玉のような蕩ける赤い色をしていた。ぐら、とまた衝動が襲いかかってくるのを感じ、義勇は無理矢理青年とは反対の方向を向いて口元を押さえた。そうしなければ、顎を何かが伝って落ちてしまいそうだった。
    「………俺は口下手だから、役に立つような感想は言えない。落ちた分は払うから、清算してくれ」
    「わかりました。お会計しますね。三六◯円です。」
    「な」
    新しく取り替えたニ個の葡萄パンと、試作品だというサーモンオニオンパンを袋詰めされたにも関わらずニ個分の葡萄パンの金額しか請求されなかったため、しばらく二人は押し問答になったが、口下手な義勇が勝てるはずもなかった。
    「ありがとうございました」という明るい言葉を背に受け、何だか久々に軽やかな気分だった。カランカラン、というベルの音が鼓膜を優しく揺らした。



    それから、義勇は早起きをして一時間早くパン屋を訪れるようになっていた。少年はいる日もいない日もあったが、義勇に気がつくと太陽のような笑顔を浮かべて迎えてくれる。義勇は何故かドキリ、と音を立てる心臓に首を捻りながら、いつも通り葡萄パン二個をトレーに入れる。甘い香りが店いっぱいに広がっており、うっとりと目を細め、肺いっぱいに空気を吸い込む。これもおすすめですよ、と近くに来て話しかける少年の甘い香りにぐらぐらと脳髄が揺さぶられる。だがぐっと堪え、少年に勧められるがままにトレーの上にパンを追加していく。
    そうして、いつも通りレジに持って行き、会計をする。ちらっと見た少年の名札には、竈門炭治郎、とかかれていた。このパン屋の名前も竈門ベーカリー。この店の血縁者だろうか。
    「そういえばこの間の試作品のパンはいかがでしたか?」
    炭治郎という店員から漂ういい匂いにうっとりしていた義勇は、質問に急に現実に引き戻される。答えられるはずがない。だって、「フォーク」なのだから。お金を置いた義勇の指先が、僅かに震える。
    ーーもし「フォーク」だと気づかれたら、どうなる?
    義勇は慎重に言葉を選びながら、食したときのことを思い出した。
    そうだ。味は答えられないが、感触なら答えることができる。
    「………歯応えが。ぱり、としていて良かった。それと、上に乗っているサーモンオニオンの食感のバランスが良かった」
    「わあ、ありがとうございます!!実は今回は食感にこだわったんですよ!そこわかっていただけて嬉しいです!!」
    義勇の肩から力が抜ける。うまく質問に答えられたことに安堵の息を吐き出した。ちら、と相手の顔を伺うと、炭治郎はにこにこと嬉しそうに屈託ない笑顔を見せてくれる。他人にこんな表情を向けられたのはいつ以来だろうか。単に接客をしているからだろうが、それでも自分には眩しすぎるような気がして、目を逸らした。出る前にもう一度深呼吸して匂いを堪能すると、振り切るようにドアを開けて出ていった。
    「また来てくださいねー!」
    この明るい声のおかげで、なんとか今日も立っていられそうだ。



    「いらっしゃいませ…あ、おはようございます!冨岡さん!!」
    レジで顔を合わせるたびに一言、二言と会話が増えて行き、向こうもこちらを名前で呼ぶようになった。初めて呼ばれた時は驚いたが、ポイントカードで知ったのだろう。少年のお手伝い感覚だと思っていたら、大学生だというのだから驚きだ。随分と童顔なのだな、と思わず呟いたらよく言われます、と彼は苦笑いをした。
    いつものように会計を済ませ、退店しようとしたが、炭治郎にまだ時間はあるかと訪ねられた。
    「あ、ああ…まだ、始業までは時間があるが…」
    「よかったら、イートインして行きませんか?今日おすすめしたコロッケパン、温めるとさらに美味しいんです!」
    炭治郎ににこりと笑いかけられ、義勇は思わず頷いた。味などわからないが、冷たいより温かい方がいいに決まっている。決して炭治郎に笑いかけられたからではない、はず。
    イートインスペース端の席に座り、所在なさげにする義勇の前に「お待たせしました」と温めたコロッケパンと温かい珈琲の乗ったトレーをおきながら、炭治郎は義勇の顔を覗き込んだ。
    「勤務も上がりなので、隣でご一緒しても良いですか?」
    「え」
    義勇の返事も聞かずに炭治郎は一回店の奥に引っ込むと、帽子と制服を脱いでトレーを持って隣に座った。炭治郎が至近距離に来た瞬間にぶわ、とこちらを覆い尽くすような濃密な匂いを嗅ぎ取り、義勇は息を止め、細く息を吐いた。変に思われただろうかと炭治郎を横目で見ると、目があってにこっと微笑みを返された。義勇は何故か自分の頬が熱くなるのを感じ、慌てて目線を手元に落とした。
    「さ、どうぞ、珈琲の冷めないうちに!冨岡さん、いつも早朝にお疲れ様です。でも、前は来る時間帯違いましたよね?」
    「あ…ああ、最近は早く目が覚めてしまってな。それで…早めの時間に……だが、何故それを?」
    義勇は珈琲を啜りながら、僅かに身体を離す。近づかれるほど甘い匂いがして、おかしな気持ちになりそうだった。そんな義勇の様子を眺めながら、炭治郎は口を開く。
    「俺、早朝シフトなんですよ。いつも大学に行く入れ替わりに冨岡さんが入ってきてたんです。だから、遠目に何回か姿を見たことがあって…」
    「そうか……。」
    二人はパンを齧りながら、他愛もない会話を続けた。炭治郎はこの家の長男で、六人兄弟であること。将来この店を継ぐために、大学で勉強していること。パン屋だけれど、実は米派であること。
    義勇は相槌をうつばかりで、話していたのは殆ど炭治郎だけだったが、不思議と気まずさは感じなかった。義勇にとって、他の人間と関わることは億劫で、憂鬱で。その根底は、いつ拒否されるか分からないという恐怖によるものだった。それだけに、炭治郎とすごすひと時が穏やかなものであることに、自分でもひどく驚いた。
    炭治郎の話が一時途切れたところで、義勇は思い切って、出会っていた時から感じていた疑問を投げかける。能動的に会話をしたことなど、何年ぶりだろうか。
    「その、前から思ってたんだが、お前、なにかつけてるか?香水とか…。その…すごくいい匂いがするんだが…」
    炭治郎はきょとんとすると、くんくん、と自分の服の匂いを嗅ぎ、首を捻る。
    「香水もつけてないし、柔軟剤も匂いがきついものは使ってないです。ちょっと近くで嗅いでみてください」
    「な、おい」
    せっかく距離を取ったというのに、炭治郎は無防備に距離を詰めてくる。
    「どうですか…?」
    鼻先が触れそうなほど、近い。炭治郎の吐息が鼻腔を掠めたその瞬間、蕩けるような匂いが一層強くなる。パンの小麦の匂いとも、人工的な匂いとも全く違う。もっともっと甘く、蠱惑的で、嗅いでいるだけで理性を抉られる匂い。心臓がばくばくと脈打ち、勝手に口の中に唾が溜まっていく。そして、ふと思った。
    ーーこんなに濃密な匂いがするならば、もしかしたら齧ったら甘いのではないか?
    「え…?」
    無意識のうちに義勇は炭治郎を抱きしめ、その首元に顔を埋めた。
    「と、ととととと冨岡さん!?」
    炭治郎は顔を真っ赤にしてあたふたと慌てたが、拒否することはなく、おろおろと義勇の肩に手を添えた。炭治郎の首筋が発する匂いに義勇の青い瞳はうっとりと細まり、唾液まみれの舌で舌なめずりをする。そして、つい、目の前の首筋に舌を少し触れさせてしまった。

    「あ……?」


    「んうっ!?ちょ、冨岡、さ…!あ、んぅ…っ」
    義勇は目を見開き、夢中になって目の前の首を音を立てて吸い付いた。

    ーーなんだこれは?
    舌先が感じ取る、触れたところが溶けてしまいそうな、この蕩けるような感覚は?
    甘い?
    ああ、そうだ。遠い遠い昔に、母さんが作ってくれたパンケーキ。

    あ れ と 同じ あじが す   ル

    力加減も無しに羽交締めにされ、炭治郎の瞳が歪む。炭治郎は添えていただけだった手を拳に変え、義勇の肩を叩いた。
    「…………さ、ん……っ!冨岡!さんっ!!」
    鬼気迫る声色と衝撃に、一瞬にして義勇は正気に戻った。

    ーー俺は。俺は一体何を。

    暫く呆然とした後、状況を瞬時に理解し、義勇は血の気が引くのを感じた。カバンを引っ掴み、大して手をつけてもいない珈琲とパンを置き去りにし、走って店内から出て行った。ガランガラン、と入り口のベルの音が乱雑に鳴り響いて鼓膜を引っ掻いた。後ろから自分を引き止める声が聞こえたような気がしたが、義勇は全力で逃げた。
    どれぐらい走っただろうか。肩で息をしながら振り返って炭治郎がいないことを確認すると、義勇は足の速度を緩める。ふらふらと路地に入り、壁に手をついて震える手で口を塞ぐ。脂汗が止まらない。心臓の鼓動が鳴り止まない。荒い吐息が平易に戻らない。

    ああ
    そうかあれが
    「ケーキ」

    なんてことだ。「フォーク」と「ケーキ」なんて都市伝説だと思っていたのに。
    いた。いた。「ケーキ」は本当にいた!
    「フォーク」である自分が、唯一味を感じる「ケーキ」!!

    「ああそうだ…あれが…甘い…だ…。思い、出した……っ」

    幼い頃食べたパンケーキ。炭治郎もそれと同じ、甘くて優しい味がした。きっと齧り付けば、パンケーキと同じ、柔らかな感触も味わうことができたのだろう。
    ーーだが、それを望むということは、人間を食うということ。やはり自分は、周りからそう罵倒されてきたように、殺人鬼予備軍なのだ。親にもそう罵倒され、中学生のときには捨てられ、施設で育った。そこでも職員に噂は知れ渡っており、腫れ物に触るような扱いだった。「フォーク」だということを隠して、必死に生きてきた。自分にかけられた「フォーク」という呪いに苦しみながらも、それでも必死に生きてきた。

    ーーああ、それなのに。それなのに、それなのに!!神は何故これ以上の苦行を、自分に強いるのだろうか?

    義勇は、自分の舌を指で引きずり出して爪を立てる。やがてちりりとした痛みを感じたことから出血したのだろうが、その血の味すら自分は感じることができない。
    「忘れろ、忘れろ、忘れろ………っ」
    しかし、どんなに痛みを与えても、一度思い出してしまった味を、忘れることはできない。義勇はこみあげる嘔吐感と多幸感に包まれながら、蹲る。ぼたぼたと地面に落ちる水滴は、涙と涎が入り混じったモノ。

    「…………ぁあ、ぁ、ぁ、あっ……………」

    絶望感に打ちひしがれながら、義勇は暫くその場から動くことができなかった。





    —それから、義勇は竈門ベーカリーを避けるようになった。
    舌が「味」を思い出してしまった今、もしまた炭治郎に会ってしまったら、理性を保てる自信がなかった。たとえ炭治郎本人がいなかったとしても、「ケーキ」の残り香が漂うあのパン屋に入るのは、義勇にとっては拷問に近い。それどころかあの日、炭治郎を突然抱きしめ、あのほっそりとした首筋を舐めしゃぶってしまった。「フォーク」じゃなくたって、ただの変態だ。きっともう、炭治郎には軽蔑されてしまった。もう二度と、あの笑顔を向けられることはないだろう。
    竈門ベーカリーを避けて、気がつけばもう一週間ほど経過していた。パンの焼きたての香りと、珈琲の香りと、そしてなにより「ケーキ」の匂いを嗅ぎたくて仕方なかったが、義勇は自分を律して、パン屋に近寄ることは決してしなかった。

    義勇は死んだ魚のような目で葡萄パンを掴み、ふらふらとレジへ向かう。大量生産されたコンビニのパンは匂いすらなく、まるで霞を食べているようだったが、仕方がない。もう、竈門ベーカリーに行かないと決めたのだから。
    「会計三七◯円っす」
    やる気のないバイトの声に言われるがままに財布を開くが、手に力が入らず、財布の中身を床にぶちまけてしまった。のろのろと拾いに向かえば、店員の呆れたようなため息が聞こえて、なんだか惨めな気持ちになった。最後の五円玉を広い、緩慢に顔を上げると、何故か目の端がちか、と光り、義勇は目を眇めた。そこにはデザートが陳列されている棚があった。昨今のコンビニスイーツは商品が豊富だ。プリン、シュークリーム、ブドウゼリー。色とりどりのスイーツたちが、めいっぱい着飾って存在を主張している。義勇の視線は自然とその中の一つに吸い寄せられ、焦点があったその瞬間、濁った目を見開いた。

    白いクリームの乗った、パンケーキ。

    途端、口内にあの時の「味」が広がる。優しくて、ふわふわしていて、舌の上にじんわりと広がっていく甘さ。気がつけば、義勇はパンケーキを引っ掴み、レジに叩きつけていた。
    「……これも」
    「は…はい」
    義勇の鬼気迫る様子に、店員は先ほどとは打って変わり、おどおどしながらバーコードを読み込んだ。義勇はカウンターの上のパンケーキを穴が開くほど見つめていた。叩きつけられたパンケーキはひしゃげ、歪な形になってしまっていた。



    「お、漸く許してもらえたのか?久々に弁当持ってるじゃねーか」
    「おー。土下座しまくったぜ。ははっ」
    男は弁当箱の中から唐揚げを箸で摘み上げると口の中に放り込み、目を細めた。ぱき、と衣を食い破ったその瞬間、中から肉汁が溢れ、旨味が口の中いっぱいに広がっていく。唐揚げを食べ尽くしてからはスピードダウンし、嫌そうに溜息をつく。同僚の男はそんな彼の弁当箱を覗き込み、げらげらと男を指差しながら笑う。
    「お前ガキかよ。野菜も残さず食えよ」
    「いらねえって言ってんのに余計なもん入れやがってよ」
    男は汚いものでも扱うかのように、箸の先でほうれん草をつつき、悪態をつく。水分を失ってしなだれたほうれん草は、上に乗っていた唐揚げの油を吸い、表面をテラテラと光らせていた。
    「俺嫌いなんだよな、ほうれん草。苦いし青臭いし感触がきめぇし。ははっ、ゴミい」

    ダン!!

    馬鹿笑いをしていた二人の肩が跳ね上がる。二人どころか、オフィス全体に緊張が走った。男がそろそろと後方を見れば、視線の先では、いつもは存在感がなく、静かな筈の陰気な上司が拳を机に叩きつけ、二人を射殺しそうな目で睨んでいた。その視線の冷たさに、男達の心臓は縮み上がった。
    「うるさい…飯ぐらい静かに食えないのか…!?」
    「す、すいません、冨岡課長…」
    義勇はふい、と二人から視線を外すと、手にしたパンケーキを口に運ぶ。
    ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ
    大口を開け、何かを探し回るように咀嚼する。義勇の口の周りにはクリームとパンケーキの欠片が飛び散り、その口でぶつぶつと何事かを呟く。オフィス内の人間は皆、義勇の異様な様子に身を引いていた。義勇はいつもは存在感がない。それは、所作に特に問題がないからだ。それどころか、よく見ている人間なら、義勇の洗練された所作に気づいていただろう。だが、今はどうだ。まるで飢えた獣の如く、歯を剥き出しにし、獲物を食い荒らしている。密かに義勇に想いを寄せていた女性社員も、その異様な姿に近づくのを躊躇っていた。しんとしたオフィスには、義勇のぐちゃぐちゃという咀嚼音が響きわたっていた。



    味のない塊を必死に飲み込んだその後は、真っ赤に焼き切れていた脳内が段々と冷静になっていく。昼食時は部下の軽口が異様に癇に障り、理不尽に怒鳴りつけてしまった。流石に声を荒げるのは大人気なかった。妙なところで真面目な義勇は一言詫びを入れようと、二人を探す。確か二人は、喫煙者だった筈だ。このオフィスに喫煙ルームはなく、喫煙者の溜まり場になっているのは、非常階段の外にぽつりと置かれた灰皿の周りだけ。案の定、すりガラス越しに二人の背中らしきものが見え、義勇はドアノブに手をかける。だが、次の瞬間に聞こえた台詞に、びたりと手の動きが止まる。
    「やっぱり冨岡課長ってフォークなんじゃね?」
    妙に響いて聞こえたその声に、頭の中が真っ白になった。ドアノブを握った指先が知らず知らずの内に、カタカタと震え出す。
    何故?どうしてバレた?会社では絶対にバレないよう、細心の注意を払ってきた。飲み会は一切顔を出さなかったし、土産などで配られる食品も全て家で食べるからと持って帰った。味を尋ねられてもいいように事前にネットで口コミを調べ、無難な答えを返すようにもしていたはずだった。
    「だよなー。毎日同じパンだったのも味がわかんねーからこだわりがねえんじゃねえの」
    「飲みも一度も来ねえしな。ボロが出るから避けてたりして」
    「それにしても、あのきったねぇ食い方!課長に惚れ込んでた伊藤も引いてたな。ざまぁねぇわ」
    は、と義勇の口から漏れでた息は震えていた。莫迦に見えた二人だが、発言は的を射ていた。義勇が「フォーク」とバレないためにしていた行動は、全て裏目に出ていたということか。それ以上二人の会話を聞いていられず、義勇は踵を返すと、ふらふらと自席へと戻っていった。
    ーー額が痛い。ズキズキとした痛みが走り、その衝撃で目玉が抜け落ちてしまいそうだ。義勇は片手で頭を支え、俯く。先ほど食べた昼食が、ぐるぐると洗濯機のように胃のなかで回転している。だが、きっとこのまませり上がってきたとしても、自分は胃酸の味すら感じ取ることができない。
    そんな当たり前のことが感じ取れないなんて、自分は本当に人間なんだろうか?
    「あの…冨岡課長、大丈夫ですか?」
    「…ああ」
    重い頭を上げれば、部下の女がこちらを覗き込んでいた。手にはトレーを持っていて、その上には湯気のたったコーヒーが置かれていた。ふわりと漂うその匂いに、一瞬パン屋のことが頭をよぎった。最後に会った時、机の上に置きっぱなしにしてきてしまったな。
    「お疲れですね。よかったらこれ…どうぞ」
    「ああ…すまない」
    ことりとデスクの上に置かれたマグカップ。とても飲む気になれず、義勇はそのまま再び額を押さえたが、いつまで経っても女が動く気配がなく、疑問に思って顔を上げる。何故か彼女は立ち去らず、こちらの様子をじいっと見つめていた。彼女の真っ黒な瞳は、まるで金魚のように無機質で、感情が見えず、義勇は戸惑った。
    「さあ、ドウゾ」
    ーーやっぱり冨岡課長ってフォークなんじゃね
    全身からどっと冷や汗が吹き出す。
    今飲まないのは、彼女の目には不自然に映ってしまうのだろうか?
    ーーばれるわけには、いかない。
    義勇は勝手に震える手を必死に隠しながら、マグカップの取っ手を握り、一口啜る。熱いということは、わかる。けれど、いくらその熱さが喉を焼いたとしても、自分には味などわからないのだ。そうして、脳の引き出しをひっくり返し、必死にコーヒーの味についての批評と、オフィスの情報を引っ張り出す。

    コーヒーヲカッテクルジョセイシャインハアジニウルサクコーヒーノバイセンガフカイモノヲエラブトイッテイタフレーバーハフラワリーツマリアジハニガミガツヨクハナニヌケルカオリハ

    「に…苦いが、花のような香りがするな…ありがとう」
    「………」
    ーーなぜ黙っているのだろうか。自分は何か、間違えただろうか?
    「おい…どうし…」
    義勇がマグカップをデスクに置くと、女性社員はかつ、と一歩下がった。彼女の瞳には、はっきりと恐怖と嫌悪が宿っていた。

    「近づかないでください!!」

    女のキンキンとした叫び声が鼓膜を引っ掻く。視界の端では、一服を終えたであろう、二人の男の部下の姿もあった。二人はこちらの様子に気づくと、にやにやと嫌な笑みを浮かべた。
    「冨岡課長…っ!あなた、フォークですね!?」
    「っ……!!」
    オフィス中の人間の視線が全身に突き刺さっているのを感じた。オフィスは、水を打ったように静まり返っていた。こんな時に限って、電話一本すらもこの状況を助けてはくれない。どくどくと心臓が嫌な速まり方をする。義勇は震える息を押し殺しながら、なるべく平静を装って答えようとした。
    「…何を根拠に」
    「このコーヒーを平気な顔をして飲んだのがその証拠です!これ、塩が大さじ二杯も入ってるんですよ!?味がわからない証拠じゃないですか!!」
    「……っ!!」
    ーーそうだ。そういえば、この女。
    やけにボディタッチが多く、先週厳しく注意したところだった。もしかしたら、他の部下もいる前で叱り飛ばしたのが、彼女のプライドを傷つけたのかもしれない。

    部屋の隅という安全圏にいる部下の男は二人して顔を歪め、笑っていた。口の動きから、「やっぱりな」と悪態をついていることがわかった。はくはくと、口が無意味な動きを繰り返す。何か、言い返さなければ。けれど、元来口下手な義勇は、咄嗟に上手い返し方が思いつかなかった。だから、馬鹿正直に答えるしかなかったのだ。
    「そうだ」   と。



    ふと気がつくと、義勇いつの間にか公園らしきところにいた。ここ数時間の記憶が曖昧だ。自分は何故、こんなところにいるのだろうか。ぼんやりと灰色の空を見上げれば、ぽつ、と目の下に滴が落ちる。空から落ちる滴は次第にその数を増やしてぽつぽつと小雨になり、そのうちざあざあと本格的な雨になった。傘も持たずに出てきたため、義勇はすっかり濡れ鼠になってしまった。けれど、全てがぼんやりと滲んでいて、義勇はそんなことにも気が付かなかった。緩慢に瞬きを繰り返しながら、ふと目に入った公園のベンチに腰掛ける。腰掛けた瞬間、普段の何倍もの重力が襲いかかってきて、義勇は前を向いていられず、地面を見た。脳天に打ち付ける雨は激しさを増し、このまま叩き潰されてしまいそうだった。

    (冨岡課長ってそうだったんだ…)
    (見たかよあの食い方…きったねぇ…)
    (冨岡君、部長がお呼びだ)
    (君の仕事ぶりは分かってるよ。…だけど、ねえ?フォークというのは…周りも不安になるし…)
    (さ つ じ ん き よ び ぐ ん)

    「……はっ」
    人は何故、絶望した時に笑いがこぼれるのだろうか。それはもうきっと、笑うしかないからなのだろう。ドス黒く染まっていく土を見つめながら、義勇の脳裏には両親の顔が薄ぼんやりと浮かんでいた。十二の歳までは一緒に暮らしていた筈なのに、何故だか彼らの顔は曖昧だ。両親には、罵倒されていた記憶しかない。けれど、彼らは悪くない。それもこれも、自分が「フォーク」なんかになってしまったせいなのだから。だって、彼らはいつも自分を罵倒しながら、泣いていた。会社の人間だってそうだ。彼らは悪くない。自分が全部、悪い。人間として当たり前の五感を欠損し、人生の楽しみもなく、周りの人間に嫌われ、空にすら嫌われる始末だ。子どもの頃は冷たくされて悲しいと思っていたが、大人になるにつれて、だんだんと心が凍りついていって何も感じなくなってしまった。きっと「フォーク」は味覚だけでなく、心まで何も感じないようにできているのだ。そうに決まっている。そう思わなければ、もう、もうー。
    「…何故」
    自分は「フォーク」などになってしまったのだろうか。俯いて地面を眺めていると、叩きつける雨に促されるように、漸く両目から涙があふれてきた。義勇の慟哭も絶望も、全て雨が覆い隠してしまう。
    誰にも届かない。どこにも居場所なんかない。

    「…ぅぁああぁああ…っ、ぁ、う、ぅあ、ぁ…っ!」

    こんなに苦しいなら、いっそ、いっそ。


    「………冨岡さん?」


    ふと雨が遮られ、冷たい雫の感触が止まる。のろのろと顔を上げると、そこには太陽があった。





    誰かに、呼ばれているような気がした。

    ぽつり、と大粒の雫が頬を叩き、炭治郎は空を仰ぎ見る。どんよりとした灰色の空の間からぽつ、ぽつ、と一定間隔で落ちてくるその雫は次第に無秩序なリズムを刻み始め、炭治郎は慌ててバッグの中の折り畳み傘を開いた。堰を切ったようなその降り方は、まるで子どもが泣きじゃくっているかのようだった。
    「予報では、週末まで天気はもつはずだったのになぁ…」
    ぽつりと落とした呟きさえ、雨音にかき消されていく。スニーカーの爪先に雨が染み込み始め、次第に足裏全体へと広がっていった。一歩踏み出すたびに沼の底へ沈んでいくような音が鳴り響き、炭治郎は眉を曇らせた。
    「早く帰ろう…」
    帰路を急ぎ歩調を速めたが、公園を通り過ぎた時、ふと誰かに呼ばれているような気がして、炭治郎は立ち止まる。燻る雨の向こう、何か弱々しい息遣いのようなものを感じて歩みを止め、じっと公園の奥を見つめる。
    「誰か、泣いてる…?」
    公園の中へと歩を進めれば、当然遊んでいる子供の姿はない。雨に打たれた遊具たちが、恨めしそうに佇んでいるばかりだ。
    「気のせいかな…」
    踵をかえそうとした、そのとき。全てが灰色に染まる景色の中、ベンチに腰を下ろし、地を見る男の姿が目に入った。この大雨だというのに動く様子もなく、蹲ってベンチに座っている姿は、今にも景色に溶けて消えてしまいそうだった。
    「…っ、冨岡さん!?」
    水ハネがジーンズの裾を汚すのも厭わず、炭治郎は彼に駆け寄った。手を伸ばし、今にも雨に溶けてしまいそうな彼のジャケットの裾を捕まえれば、水を吸っていてとても重たかった。
    「冨岡さん、冨岡さん」
    「………」
    「冨岡さん、風邪を引いてしまいます」
    「………」
    「冨岡さん!!」
    「……あ」
    数度呼びかけ、やっと気がついてのろのろと緩慢に上がった顔は暫くぼんやりとしていたが、相手を炭治郎だと認識した瞬間に、先程までの緩慢さが嘘のように機敏に立ち上がり、距離をとった。まるで手負いの獣のようだ。
    「…っ!……」
    「冨岡さん!」
    背中を見せ、去ろうとする彼の背中に両腕を回す。傘は炭治郎の手から滑り落ち、二人の周りにくるくると半円を描いて転がっていった。
    「っ、はなせ…」
    「お願い…行かないでくださいっ…」
    「………っ!!」
    冷たい体に擦り寄れば、義勇が息を呑んだのがわかった。雨の勢いは、ますます激しくなるばかり。ざあざあという音のカーテンが、二人を覆い隠してしまうほどに。



    「どうぞ。狭いですけど」
    炭治郎の一人暮らしのアパートは公園から程近かったので、義勇の手を引き、そのまま連れ帰った。初めは僅かに抵抗されたが、次第に彼の身体から力が抜け、終いにはふらふらと大人しくついてきた。炭治郎は足早にタオルを取りに行くと、下の兄妹たちにやってやる癖で、義勇の髪を拭いてあげようと背伸びをする。タオルはすぐに水を吸って重くなり、もったりとした重さを手首に伝えた。所在なさげに玄関の土間に佇む義勇は特に抵抗もせず、されるがままだった。炭治郎は、両手を伸ばして義勇の後ろに括ってあるゴムに触れようとした。彼は自分よりも十センチ程背が高い。もう少し、と手を伸ばせば自分の鼻先が彼の高い鼻先に触れた。すいません、と顔を上げかけ、炭治郎は頬を染めた。意図せず、まるでキスを強請るような体勢になってしまったことに気がついてしまった。
    「っあ…ごめんなさい、失礼します…っ」
    「………」
    水を吸って重たいゴムを解けば、少し癖のある、だが、艶やかで美しい黒髪が夜のカーテンのように炭治郎の頬に降りた。
    「少し下を向いてもらえますか?」」
    「………」
    何も言わないけれど、言うことは聞いてくれる。言われるがままの彼の髪を丁寧に拭いているうちに、ふと義勇と目が合い、どきりとした。決して派手な顔立ちではないけれど、その静かな美しさに一度気がついてしまうと、もう目が離せない。顔立ちももちろんのこと、何より目を引くのは、彼の青い瞳だった。海のように深く神秘めいたその色は凪いでいて美しいというのに、彼の瞳はいつも厚い雲が覆って翳っており、光が差したことはなかった。
    炭治郎が店を退勤するとき、入れ替わりで見かけていた義勇はいつも暗い表情をしていた。毎日毎日、買うのは葡萄パン二個だけ。他のパンには目もくれないが、葡萄パンも本当に好きで買っているのかもよく分からない。一ヶ月前のあの日、初めて自分のシフト時間に義勇がいるのを見つけ、意を決して声をかけた。
    最初は、ただ単純に心配していただけだった。けれど、交流を重ねるうちに、彼との時間を待ち望んでいる自分に気がついてしまった。自分のシフトではなかった日にも、無理を言って入れてもらったくらいだ。
    彼は言葉少なな男だけれど、お喋りな炭治郎の話しを受け止め、いつも耳に心地よい控えめな相槌を打ってくれた。何度か話しかけているうちに、彼のへの字に曲がっていた唇が少し緩んだのを初めて見て、嬉しかった。彼のそんな変化を見ているうちに、炭治郎はじりじりと心臓の端っこが熱を発する、そんな自分の気持ちを自覚した。彼の美しい顔も、物静かで知的な雰囲気も、いつも空っぽで寂しそうな表情も、その全てから目が離せない。この感情が何かわからないほど、炭治郎は子供ではなかった。
    義勇が店を避け出した理由は、間違いなく抱きしめられたあの日のことだろう。いきなり首筋を吸われたのは驚いたけれど、好意をもった相手に抱きすくめられて、嬉しかった。
    ー尤も、彼が店を避け出したことには、もう一つ心当たりがあるけれど。
    「………冨岡さん、身体、冷えたでしょう?シャワー使いますか?」
    「………………」
    「………冨岡さん?」
    「………っ、は、」
    反応が無いので顔を覗き込もうとすると、突然腕を掴まれ、がん、と玄関のドアに叩きつけられた。
    「ぃっ……!!」
    義勇の瞳はいつも覇気がなく、全てを諦めたような沈んだ色をしていたはずだった。それが今は、ぎらぎらと熱を持った鮮烈な青で、炭治郎の全てを食らいつくさんとしていた。炭治郎の背筋に、ゾクゾクとしたものが走る。それは恐怖なのか、それともーー。
    「とみおか、さ……」
    「……っ、は、はーっ、はーっ…!」
    「………っ、ぁ…」
    獣くさい湿った吐息が、頸筋を掠める。その熱に、炭治郎の背筋はぞくりと跳ねた。吐き出した炭治郎の吐息も、獣に煽られたように湿り気を帯びていた。
    「……ん、はぁ、ぁ…っ」
    「あぅ、とみおか、さ…っぁ、」
    炭治郎の喉が官能的なカーブを描いて反り返る。
    「っ、ぁ、まって、とみおか、さ、」
    「…は、はーっ、はーっ、は、は、…っ!」
    炭治郎の声など、彼の耳には届いていなかった。興奮状態にある義勇を一旦引き剥がそうとするも、とんでもない力で引き剥がすことができない。そうしているうちに、彼の熱い舌は蛞蝓が這うようなスピードで頸筋をなぞっていった。
    「……っ、ひぁ、ん」
    妙な声が漏れて炭治郎は口を塞ごうとしたが、両の手は彼に捕らわれ、ひとまとめにして頭上に縫い付けられてしまった。炭治郎の肌と義勇の舌の間をねっとりとした唾液が繋ぎ、卑猥な銀色に光る。二人分の荒い吐息が、狭い玄関の土間に落ちて広がっていく。炭治郎の動きを封じたことで、義勇の動きはさらに大胆になっていった。頸筋から鎖骨、そして胸へと徐々に炭治郎の服をはだけながら、舌で身体をなぞっていく。
    「ひあっ…そん……なっとこ……ぁ……う…、やぁ…っだ、めぇ…っ」
    押さえつけられながらも、つんとした強い刺激に、身体はびくんと跳ねた。彼の薄い唇は炭治郎の慎ましい乳首を挟み込み、そのままちろちろと先端を舐める。そのじりじりとした熱と刺激に炭治郎は顔を真っ赤にして身悶えた。
    「あぁあ、ん、あぅ、はぁ…っ」
    「はぁ、はぁ、竈門、竈門……っ」
    散々乳首を貪り尽くした後に漸く顔を上げた義勇と目が合い、心臓が大きく脈動した。曇天の海の色をした義勇の瞳は、今は朝焼けに照らされたかのようにぎらぎらと輝いていた。底なしに自分を求めるその視線には、見覚えがあった。炭治郎は息を乱しながらも、ある種の確信をもって義勇に問いかけた。
    「………冨岡さん。あなた、フォークですね…?」
    「……………!?」
    その言葉を聞くと、義勇の瞳に理性が戻り、弾かれたように炭治郎から身体を離した。
    「は、どうし、て、そんなことを…?」
    「冨岡さん」
    「は、はぁ、は、ちが、ちがう、俺、は、おれは、ただ、お前、を…っ」
    捕食しようとしていたのは義勇の方だというのに、彼はひどく怯えた目をしていた。炭治郎は義勇を怖がらせないように、肌蹴られたシャツをたくしあげながらなんでもないように笑った。
    「………俺、昔診断を受けて…自分がケーキだって知ってます…」
    「…!」
    「ケーキ」に自覚があるのは珍しい。何故なら、「ケーキ」も「フォーク」も人口の数%しか存在しないからだ。その数%同士が出会う確率など、奇跡に近い。それ故、「ケーキ」は自分が「ケーキ」だと気づかずに一生を終えることが多い。
    「どうして…、診断、を…?」
    「…俺、子供の頃にフォークの人に誘拐されたことがあって。その時の犯人の言動とか様子から、もしかしてと警察の方に薦められて、診断を受けたんです…」
    「そん……な……」
    義勇はその言葉を聞いて、青褪めた。
    最低だ。折角炭治郎を避けて、湧き上がる「欲」を押さえようと必死に抗っていたというのに、結局は「欲」に負けて彼にむしゃぶりついてしまった。公園で拾われた時も、すぐに離れようとした。だが、彼の甘い匂いを嗅いだ瞬間に、そんなことはどうでも良くなってしまった。もはや、理性でどうにかなる問題ではないのだ。
    ーーそうか。こうやって段々と理性を失って、最後には喰ってしまうのか。やはり世間が言うように、自分は殺人鬼予備軍なのだ。彼を喰ってしまう前に、はやく、はやく、消えなければ。
    もういっそ、この世から。
    「……そう、か………トラウマを抉るような真似をして悪かった。今度こそ、もう二度と会わないようにする。」
    土間に座り込んだ炭治郎を助け起こしてどかせると、義勇はドアノブに手をかける。そうして向けられた背中は今にも消えて無くなりそうで、このまま帰してしまったら、もう二度と会えないような気がした。炭治郎は義勇の濡れた服を無我夢中で引っ張り、背中から抱きついた。
    「!!………待って!待ってください……っ!」
    タオルで拭いたというのに、抱きついた彼の身体は驚くほど冷たかった。義勇はこちらを振り返りもせず、何かを堪えるように荒い吐息を吐き出し、唸り声を上げた。
    「…‥離せ」
    「いや!あのっ……そう!!前食べなかった珈琲とパンの代金!お返ししますから、パン屋に寄って行きませんか?ね?」
    「離せっ!!俺をフォークとわかっていながら何故構う!?これ以上一緒にいると、お前を喰ってしまう!!俺は、俺は、人間を喰うバケモノなん、だ…っ!そうなる前に、消える、から、だから、はな、せ…っ!」
    激情に駆られ、暴れる彼の身体を炭治郎はきつく抱きしめ、広くて小さな背中に頬を寄せた。
    「大丈夫、大丈夫ですよ…っ」
    「俺は、おれ、は、お前を、喰いたくない…っ!!離せ!はなし、て、くれ……っ!!」
    次第に、義勇の声は懇願の色を帯びる。フォークの本能に揺れながら、それでも抗って炭治郎を喰いたくないと泣く彼を見て、炭治郎の目頭は熱くなった。
    ああ、やっぱりこの人は
    「………優しいなぁ」
    「…………は」
    義勇にとって思ってもいない言葉だったのか、一瞬抵抗がなくなり、炭治郎を振り返った。あどけない無防備な顔で、なんだか幼く見えた。
    「ここ数週間、冨岡さんはうちの店を避けてましたよね。それは、俺と接触しないためじゃないんですか?」
    「………そうだ。でないと、俺は、お前に何をするかわからない……っ」
    「……ねえ、冨岡さん。提案があるんですけど。聞いてもらえませんか…?」
    「提…案…?」
    炭治郎が態と彼の身体に擦り寄れば、義勇の男らしい喉仏がごくりと上下した。

    「竈門…………」
    「んぅ………冨岡、さ………」
    服を脱いで、ベッドで抱き合う。一見すると恋人同士の営みのようだが、それは少し違う。これは、「フォーク」の捕食行動だ。
    ーー炭治郎がした提案。それは、自分を「食べて」ほしい、というものだった。
    炭治郎を傷つけたくない義勇は当然拒んだが、炭治郎が「苦学生であまり食べられないんですよね、それの対価だと思ってくだされば」なんて嘯いて見れば、優しい彼は迷いながらも眉を下げ、最後には小さく頷いた。歳の割には身長が低いから、もしかしたら変に勘違いをされたのかもしれない。実際には炭治郎は裕福ではないが、苦学生というほどではないし、食べるのも不自由しているわけではない。本当は、彼に食事を奢ってもらうのも申し訳ない心地だけれど、無理にでも何かを交換条件にしないと義勇は頷いてくれないような気がした。
    そうして始まった「捕食」だが、義勇は炭治郎を決して傷つけなかった。舐めるだけでは物足りないだろうに、「フォーク」の本能に必死に抗い、炭治郎の肌に歯を立てることは無かった。そんな彼に愛おしさと憐憫を抱きながら、今日も彼の背中に手を回す。アパートの天井の、木目の模様をぼんやりと見つめながら考える。これで、何度目の捕食だろうか。「食事」が済んだ後、義勇はいつも自分に申し訳なさそうにしている。そして、自分はそれをなんでもないかのように受け入れている。けれど、それは違う。全然、平気なんかじゃない。
    炭治郎は口元を隠しながら、甘い声で鳴く。けれど、炭治郎の隠した口元は、妖艶に歪んで微笑んでいた。
    ーーそう。炭治郎は、はっきりと歓喜していた。けれど、それは身体的接触による擬似的な愛撫の刺激のせいだけではない。「捕食されてしまう」という被虐に、ゾクゾクとした快感を感じてしまっていたのである。
    だって、「ケーキ」は「フォーク」で食べるものだから。
    「あ、ん、あ、そこ、はぁ、ぅ…っ」
    「はっ……はぁ…はーっ、は、は……甘い….甘い…竈門……お前は全部甘いな……ん…ちゅ……」
    青い瞳をぎらつかせながら口の端から涎を滴らせ、自分の身体を貪る義勇は壮絶に色っぽくて、こんなに美しい「フォーク」に食べられるなら幸せだと思った。「ぁっ……冨岡、さ、ん、んん、ふ、ふふ、ぁ、あっ、あっ」
    今義勇は何度目かの捕食で少し余裕があるようで、少し身体を起こして炭治郎の身体を上から見下ろした。乳首は何回も舐めまわされたせいで卑猥に赤くなっているし、上半身の肌はどこも唾液でべたべただ。「ケーキ」の身体は、部位によっても味が違う。首の部分はすっきりとした甘さ、鎖骨は濃厚で、臍は甘さが控えめ。義勇は中でも甘みが一段と深い乳首が上半身の中でお気に入りで、そこを長時間吸うのが常になっていた。
    ーーあと、味わっていないのは。
    「フォーク」になってしまってからの十五年分の飢餓を癒やそうと、義勇は息も荒く炭治郎のズボンに手をかけた。炭治郎は慌てて身体を起こし、義勇の肩を軽く押した。さすがに、そこは。
    「ちょっ………冨岡さ、それ、は……っ」
    「……………ダメか?」
    義勇の捨てられた子犬のような目を見て、炭治郎は、うっと動きを止める。
    この行為は、捕食だ。義勇の本能を満たすための、食事の時間なのだ。それ以上の意味など、もたせてはいけない。けれど、ソコに触れられてしまったら、どうしても妙な気持ちになってしまう。いくら食事のためとはいえ、恋人でもない相手にそこを触れさせてもいいのだろうか。
    炭治郎が己の倫理観と戦っている間に、義勇は炭治郎のズボンを引き下ろし、太ももの間に身体を割り込ませた。
    「ひゃ、ぁ、ぎゆさ」
    「ん…柔らかいな」
    義勇はうっとりと炭治郎の太ももに頬擦りしながらあむ、と唇の先で愛撫のような甘噛みをした。また別の種類の甘さを感じたのか、義勇は恍惚とした目つきで優しく太ももを吸いあげる。炭治郎の太ももがびくりと跳ね、白い肌に赤い印がつくとそれを満足そうに見て、何箇所も痕を残した。
    好意をもった相手に下半身まで弄られ始めてしまっては、どうしたって性的に興奮してしまう。そうならないよう、炭治郎は義勇に触れられる前には必ず自慰をするようにしていた。でないと、彼にとって捕食でしかないこの行為が、別のものになってしまいそうだった。だが、そんな炭治郎の配慮も虚しく、局部付近を何度も吸われて、ペニスはその刺激にすっかり勃ち上がってしまった。下着一枚なので、見れば状態は一目瞭然だ。義勇の視線を一点に感じて、炭治郎は慌ててソコを手で覆い隠した。
    「すすすすいません!!つ、つい、勃っちゃって……っ、あ、あの、すいません、一回抜いてきま…あ、ひぅ!?」
    炭治郎が言い終わる前に義勇は下着を引き摺り下ろすと、ぱくりと炭治郎のペニスを咥えた。炭治郎は慌てて義勇の頭を押し返そうとしたが、生温かい感触に包まれ、力が入らずにゆるゆると手を添えるだけになってしまった。
    「はぅ、ぁ、あ、あ、やめ、冨岡さ、は、だ、めぇ…っ」
    「んっ……ぢゅるっ……はぁ、はっ……。ああああああ、甘い、甘い、お前の身体は本当に甘い………ああ、俺の……俺のケーキ……っ」
    「やだ、だめ、そんな吸ったら、でちゃぅ、やだ、やだぁっ…!」
    「はぁっ……お前の精液はどんな甘さなんだろうな……っ?俺にくれよ……飲ませてくれ…ん、じゅる…」
    「らめ、ぇっ!そんな、の、らめぇ…っ!離して、いや、だっ…」
    義勇の頭を引き剥がそうとしたが、とんでもない力でびくともしない。舐められ、音を立てて吸いつかれ、炭治郎はびくびくと身体を震わせる。義勇の歯が時折ペニスにあたり、痛みと少しの恐怖で目に涙が浮かぶ。首を横に振りながら、炭治郎は叫んだ。
    「あっ、出る、出ちゃう!とみおか、さ、おねが、はなし、て、離してぇ!!あ、あ、あ、………っ〜〜〜〜っ!!!」
    「………っ!!」
    義勇はうまく飲みきれなかったようで、炭治郎の精液は彼の顔中に飛び散った。義勇は少し驚いたような顔をしていたが、長い肉厚な舌でれろぉ、唇の端についたそれを舐めとると、途端に青い瞳をとろんとさせて、恍惚とした笑みを浮かべた。炭治郎はその光景を見て、羞恥心からえぐえぐと涙を流しながら首を振った。
    「うう、う、ごめんなさ、冨岡さん……そん、な、そんな、汚い………」
    「………あ、あ」
    「…ひっく、う、とみおか、さ…?」
    「あぁあ……あ、あ、あま     ぃ」
    「え?あ、や、うぁ!?♡」
    義勇は頬を紅潮させ、炭治郎の萎えたペニスに再びむしゃぶりついた。炭治郎は背徳感と快楽で頭がくらくらとしながらも、泣きじゃくって頭を振った。しかし義勇はやめてくれるどころかますます興奮し、炭治郎がくたりと脱力してしまうまで続けた。
    「…は、ぁあ、けほっ、も、ら、め、やめてぇ…っつら、い、イきたくない、よぉ…っ」
    「は、はぁ、はぁ、は、竈門……っ!」
    義勇は口の端から涎を滴らせながら、力の入らない炭治郎の身体をひっくり返した。ゆっくりと背中に舌を這わせながら、まだ捕食できる部位はないか探す。背をなぞる内に、炭治郎の呼吸に合わせてほんのりとピンクに息づくアナを見つけ、義勇は喉を鳴らす。蕾に顔を近づけ、ふ、と息を送れば、炭治郎はびくっ、と震えて背後を振り返ろうとした。
    「は、まさ、か、とみおか、さ、や、そんなの」
    「あぁ…うまそうだ……」
    「ひいぃ、いっ!?」
    ぬるりと体内に入り込んだ感覚に、炭治郎の背筋を背徳が走る。舌を窄めて突き入れられたであろうそれは、炭治郎の肉壁を余すトコロなくむしゃぶりつくそうと、傍若無人に暴れ回る。
    「や、やめ、汚いっ!そんなところぉ、汚いです!あ、あ、あん、ん、んぅ」
    「…………ぅ、っ、は、ああ………甘い…蕩ける……竈門…っ」
    義勇は止まらない唾液をナカに舌で塗り込みながら、ぐるりと舌先を回転させて肉壁の全てを味わう。肌よりも濃厚で、官能的な味がする。舌を尖らせてぐちゅ、ぐちょ、と音を立てて出入りさせれば、なんだかだんだんと甘味が増してくるような気がした。それだけではない。舌を突き入れるたびに感じる滑らかさ、弾力、その全てが舌をつたって脳にダイレクトに響いて、麻酔に侵されていくようだ。この舌に感じる感覚こそが、「その他」達のいう「食感」というものなのだろうか。義勇は考える。
    食感。そういえば、竈門と雑談した時に、食は味だけではなく、見た目も食感も大事なのだとか言っていなかったか。だから、そこにもこだわってパンを開発しているのだと。成る程。今ならわかる。
    至高の「食事」を味わいながら、義勇は凶暴に笑った。
    味も、見た目も、食感もーーー
    「最高だよ…俺のケーキ」
    「んぅっ!?」
    炭治郎のナカを貪っていた舌が抜かれたとホッとしたのも束の間、今度は舌よりも硬い別のモノを突き入れられ、炭治郎の口からはっきりと矯声がこぼれ落ちる。恐る恐るソコを見ると、義勇の長くて骨張った指が第二関節までずっぽりと挿入されていた。その光景に炭治郎はくしゃりと顔を歪め、大粒の涙を流しながら首を振った。
    「ふ……えっ……!とみおか、さ……っ!ちが、う、それ、ちがぅううう……そこまで、そこまでしたら、もう、これ、食事じゃないよぉっ…!」
    「食事……?何言ってんだ、これはセックスだろ」
    「んぇ?なんで…?なんでぇ、だって俺たち…」

    「恋人だろ?」
    「え……」

    突然の義勇の言葉に、思考が止まる。
    炭治郎には義勇から告白を受けた覚えもなければ、「フォーク」の捕食行動以外でアピールを受けた覚えもない。この行為だって、「食欲」を満たすためのもののはずだ。それが、いつの間にか彼の中で様相を変えたのだろうか。これは嬉しい誤算だった。炭治郎は口元を綻ばせ、枕に埋めていた顎を持ち上げた。
    「冨岡さん…」
    嬉しい、と想いを伝えようとしたその時。突如強い力で頭を掴まれ、仄暗い瞳と視線が合った。青い瞳は、嵐が吹き荒れる海のように鮮烈で、濁った色をしていた。

    「なぁ炭治郎……おれたち、恋人、だよ   な?」

    ぎりぎりと掴まれている強さが強まり、炭治郎は痛みに眉を顰める。捕食者のぎらついた瞳で睨まれ、炭治郎は竦み上がった。
    喰われてしまう
    生存本能から恐怖が込み上げ、炭治郎の身体が震え出す。義勇の口からはだらだらと唾液が糸を引いて垂れ、獰猛な肉食獣を思わせた。
    「ひ……ぃ…」
    炭治郎の口から情けない悲鳴が漏れかけるが、義勇の表情を見てぴたりと止まる。

    彼は必死、だった

    高圧的な口調と乱暴な仕草とは裏腹に、義勇の瞳は悲痛に、必死に、炭治郎を見つめていた。もし何か一言でも拒んで仕舞えば、きっと彼は壊れてしまうんだろうと思った。公園で彼を拾った時の、彼の全てに絶望しているような空っぽの表情を思い出して、炭治郎は身体の力を抜いた。
    「冨岡さん…ん…」
    「………っ!?」
    苦しい体勢ながらも、炭治郎は首を伸ばして義勇の唇にキスをした。あんなに官能的な接触を繰り返しながらも、彼とキスをしたのは、ハジメテだった。思いがけない反応だったのか、また別の甘さを感じたのか、義勇が身体を硬直させたのを感じたが、炭治郎は手を伸ばして義勇のふわふわと少し跳ねた黒髪を撫でる。
    「………冨岡さん。怖くないよ。」
    「…………っ」
    「フォーク」が世間からなんと呼ばれているかくらい、よく知っている。

    殺人鬼予備軍

    「フォーク」ほど難儀な性はない。人口の数%しか発生しないために周囲の理解を得にくい上、詳しいメカニズムはよく分かっていない。「フォーク」はその特性や過去の事件から周囲に恐れられ、疎まれることが多い。それは「フォーク」の家族ですら例外ではなく、最後には捨てられてしまう。一時期は、「フォーク」の特異性から、彼らを擁護するような世論も出た。けれど、数十年に一度の間隔で起こる「フォーク」による猟奇殺人事件が起こるたび、それが掻き消えてしまうのは致し方のないことだろう。そうして彼らはどんどん孤立化して、精神も歪んでしまうのだという。
    ーーかわいそうに。食の楽しみを感じられず、周りの人間に疎まれ孤立して。この人は一体どれほどの孤独と絶望を味わって生きてきたのだろう。
    「………あなたが、好きです」
    「…………………は?正気か?」
    義勇は自分で恋人だと宣言したくせに、酷く驚き、疑うように炭治郎を見下ろした。そして見開いた目をすぐに眇めると、皮肉気な笑みを浮かべた。初めて見る、彼の悲しい笑みだった。
    「………ああ、同情か?お優しいことだ。俺みたいな異常者、断ったら何するかわかんねぇもんなぁ?とりあえず、機嫌をとっておこうってことか?」
    「………冨岡さん、絶対歯形をつけるほど噛みませんよね。前も、衝動を堪えるために、俺を傷つけないために店を避けたんですよね?………優しいなぁ、そういうところ、好き」
    「……………」
    「冨岡さんたら食べ方は綺麗なのに、パンを食べると口の周りにすごく食べかすがつくんですよね。ふふ、小さい子みたいで可愛い。」
    「…………やめろ」
    「優しくて、可愛くて。…こんなに美しいフォークに出会えて、俺は幸せです。好きです…冨岡さ…」
    「やめろ!!!!!!!」
    義勇は悲鳴のような声をあげ、炭治郎をひっくり返して覆い被さる。鼻先がくっつきそうなほど近づき、見開いた目で炭治郎を睨んだ。その鮮烈な光に臆しながらも、炭治郎は彼の目をまっすぐに見つめ返した。
    「俺が優しい!?いい加減なことを言うのはやめろ!!俺は…っ、俺は、お前を捕食してるんだぞ!?」
    「だけ、ど!俺を傷つけないじゃないですか!!だから俺は……っ!」
    「…っ!今はそうでも!!俺はそのうち、我慢できなくなってお前を傷つけて食うかもしれないんだぞ!?怖くないのか!?恐ろしくないのか!?人間を!食うんだぞ!?化け物みたいに!」
    「……冨岡さん……」
    「はは、は、はは、ははははははは!!!可哀想になぁ?フォークなんかに見つかって…!中途半端に手を差し伸べて!!最後には食われるのになぁ…っ!」
    「…………」
    いくら血走った目で怒鳴られようと、もう彼へ対する恐れは消えてしまった。彼の言葉の自虐の中ででてきたそれはきっと、彼自身が周りから言われ続けてきた言葉なんだろう。押し寄せる感情を抑えきれないのか、義勇の目から涙が零れ落ちる。濁った青から零れた雫はダイヤのように美しく、流星のような軌跡を描いて炭治郎の頬へとぽたりと落ちた。
    「冨岡さん…、冨岡さん、聞いて…っ」
    「はは、は、は……不幸だ。俺も、お前も……っ。ふ……っ…」
    義勇は顔を伏せ、片手で顔を隠す。指の隙間からは受け止めきれない彼の悲しみが溢れて、零れていく。炭治郎は堪らず両手で義勇の頭を抱き寄せた。びく、と義勇は怯えるように震えたが、炭治郎は力を入れて逃さなかった。
    「……冨岡さん。ケーキである自分とフォークである貴方が出会ったのは、決して不幸なんかじゃないと思うんです。むしろ、ケーキとフォークはお互いに補い合うために存在してるんじゃないかって。」
    「………」
    「味覚のないフォークと、甘いケーキ。俺たちは捕食者と被食者ではなく、運命だと思うんです。」
    「うん……めい……?」
    「………はい。俺は、貴方のためにケーキに生まれてきたんだと思う。ねぇ、好き。好きですよ、冨岡さん。信じて………」
    義勇はおそるおそる顔を上げると、涙で濡れた青い瞳で炭治郎を見つめる。
    「ほんとう……に…??」
    縋るように、助けを求めるように。義勇の涙の膜の向こうに、彼本来の青い海が垣間見えたような気がした。
    「はい。優しい貴方が、大好きです」
    「……っ!!竈門、ぉ……っ!」
    「んっ…、ん、あ、冨岡さ…っ」
    震える声と唇が重なる。義勇は心臓から湧き上がる歓喜に体が震えるのを感じた。
    ーーああ、甘くて幸せな味が、する
    「竈門……………ふっう……っ好き、好きだ……っ」
    「んぅ、ん………っ冨岡、さん……っねぇ、欲しい……あなた、が……」
    「っ、かまど……っ?」
    炭治郎は義勇に「味見」をされたアナに自分の指をくちゅりとつっこみ、ゆっくりとかき回しながら微笑み、誘う。聖母のような、娼婦のような「ケーキ」の妖艶な微笑みを見て、義勇の息が荒々しくクレッシェンドしていく。義勇は早急にズボンを脱ぎ捨てると、勃起したペニスを取り出し、炭治郎を見下ろしながら扱く。炭治郎の指先の隙間から垣間見える真っ赤な粘膜の色に涎をぼたぼた口から溢しながらペニスをぴとっとアナルに押し当てると、そう大して慣らしてもいないはずなのに、何故だか蕩けたような感覚がした。
    「…かま、どっ………!ぁ"っ…………」
    「ぁあぁああぁああ……っ♡おっき、ぃ……」
    炭治郎も「フォーク」に突き刺される被虐的な悦びに口端から涎を垂らしながら、涙を零した。義勇はあまりの多幸感から暫く動けずにいたが、顔を上げると炭治郎の涙をぺろりと舐める。味を知らないから例える術を知らないが、それでもこれは砂糖のような甘さだな、と思った。
    「………っ、動くぞ」
    「あ、はぃい、あ、あうっ♡あっ♡そ、こ、あ、あ、あうう、う♡」
    ローションも使っていないのに接合部からは、ぐちゅ、ぐちゅ、と泥を踏みしめるような水音が立つ。最初は加減して動いていた義勇だが、炭治郎の砂糖菓子のような涙を舐めているうちに頭の中がふわふわとしてきて、次第に突き刺すような腰の動きに変わっていった。部屋の中には二人の肌がぶつかり合う音と、卑猥な水音と、荒い吐息と嬌声が部屋を湿らせていく。
    義勇は突き刺すことで感じる多幸感と
    炭治郎は突き刺される悦びと
    「ケーキ」と「フォーク」の本能のようなものなのだろうか?初めて身体を重ねたとは思えないほど二人の身体の相性は悦く、二人は正気を失ったように激しくお互いを求め合った。
    「はーっ、はーっ、かま、ど……っあま、い、きもち、いい……好き、だ……好きだ………っ」
    「あっぅ♡きもちぃ、俺、俺のナカぁ、…もっと…刺して……っぁあぁあ……♡きもちぃ、きもちぃよぉ、なにこれぇ……♡」
    「おれ……も……っぁああぁ……かま、ど……っ」
    熱に浮かされたように腰を打ち付けながら、幸せそうに鎖骨を舐める義勇を見て、愛しさが込み上げる。もっともっと、自分で満たしてあげたくなった。
    「………ね、冨岡さん。噛んでいいよ。俺の血、飲んでいいよ……?あん、ん……っ」
    「!!かま、ど……だ、だが……」
    彼の瞳に一瞬正気が戻るのを、今は歯痒く思う。優しい彼はきっと、自分から噛み付くことなどできないだろう。そう判断した炭治郎は、自分の唇の端を噛み切った。
    「………っ!!」
    「竈門っ!?何して……っん、」
    炭治郎は義勇の首を引き寄せ、そのまま口づける。自分の口の中には鉄の味が広がっていくけれど、彼の口にはあまぁい味が広がっているのだろうか。
    「んぅ、ねぇ、俺、貴方に食べられるために生まれてきたんだよ…?ねぇ、食べて、齧って?俺、あなたにそうされたい……っ」
    「………っ、は、はぁ、は、あ…っ!あま、ぃ、あま、ぃっ、」
    「ん、ね、冨岡さん、もっと…も、と……っん、ぁああぁあ!?」
    犬の粗相のように片足を担がれたと思えば、ごじゅ、とペニスをこれ以上ないほど奥に突き入れられ、炭治郎は呼吸が一瞬止まった。
    大きくて、熱い。胎のナカを、「フォーク」に貫かれている。
    「あひ…ぃ、かひゅ、は、……っ」
    「はーっ…はーっ…!!!」
    「あ、ふか、ぃ、ふかいよぉっ!は、おなか、おなか破れちゃ……っ!♡」
    今までの優しい彼の愛撫からは信じられないほど手加減なしに激しく律動され、義勇に縋り付いていた腕が力なくズルズルと落ちていく。身体がずり上がるほど激しく貪るように突き入れられ、炭治郎は引き攣ったような声で喘いだ。義勇はだらだらと涎を垂らしながら、どこかラリっているような目をして激しく炭治郎を突き上げ、抉るように犯した。
    「あぐ、あぎっ♡ぁ、かはっ、はぅ、う、息、息、くる、ひ……っ♡」
    「あまぃ…あまぃ……なんだこれ……はぁ…竈門っ……竈門竈門竈門竈門竈門……」
    「ぁ、いだ、ぃいい……っ♡はげ、し、あう、ぐ、ぎ、あ、らめ、もうら、め、イく、イっちゃ、」
    その言葉を聞いて、義勇はタガが外れたように肌に噛みつき、血をじゅるじゅると啜りながら、炭治郎の奥の奥を抉る。炭治郎は絶叫して身体を痙攣させて身悶える。おかしくなりそうだ。突き刺され、舐められ、齧られ、食べられるために。貴方のために生まれてきた。
    ああ、幸せ。
    「冨岡……さ、……義勇、さん、ぁああ、しゅき、ぃ……っ♡刺して、俺のこと、崩して、グシャグシャにして潰して………っ♡」
    「………っ!!炭治郎っ!!」
    義勇は炭治郎の両足を肩に担ぎ上げると、膝立ちになってぶちゅ、ぶちゅ、と下品な音を立てて炭治郎の身体を何度も押し潰した。血を啜りながら、身体中の肌全てに舌を這わせて。炭治郎の背中にびりびりと快楽が走る。齧られた肌の表面の傷さえ、官能の一部となって。彼の身体に突き刺されるたびに、頭の中が真っ白になっていく。

    「ハジメテ」の時はこんなに、感じなかったのに。

    「ぁ、イぐ、ぁ、だめ、らめ、らめ、らめ、ぇ………っ!キちゃう、クる、ぁ、ひぃ、い、ぁだめ、だっめ、えっ……!!!、あ、ぅぐ、ぎ、ぁ、ぅあ、ぁあぁあああ……っ!!♡」
    「炭治郎、たんじろ…っ!ぁ……ぐ、ぁ……っ!!」
    何度もフェラされたせいか、炭治郎のペニスからは色をなくした精が力なく滴り落ちる。義勇はペニスを奥に突っ込んだままぶるりと震え、長い間炭治郎のナカに吐精していた。
    「……っ、ぁ、はっぁ、あ、あ……っ♡」
    「ふーっ、ふーっ……ん、たんじろ…」
    義勇は吐精を終えると、壁に擦り付けるようにしばらくぬぢゅぬぢゅと緩慢にペニスを動かした。その度に炭治郎は細い喉を仰け反らせながら、砂糖菓子よりも甘い喘ぎ声を落とす。義勇はそんな官能的な様子に我慢ならず、貪るようにキスをした。
    「ん…ぢゅる、は、ぁ、炭治郎…っ」
    「あ…ふ、ぅ、ぎゆさ、ぎゆうさ… …っ」
    「なぁ…欲しい…。もっと…もっともっともっともっともっと欲しい欲しいホシイ」
    爛々と輝く青い瞳にぞくりとしながらも、炭治郎は微笑んで彼に手を伸ばした。

    「うん……。もっと食べて……俺の、フォーク…」

    その言葉を聞くと義勇はがばりと炭治郎に覆い被さり、再び彼の身体にむしゃぶりついた。いつも綺麗な所作で食事をする義勇とは思えないほど行儀悪く貪りついた。
    ーー後には、ベッドの上で食い散らかされた「ケーキ」と、恍惚と微笑む「フォーク」の姿があった。



    [何時ごろに帰ってくるんだ?]

    [今何してるんだ?]

    [昨日一緒にいた男は誰だ?]

    [なんで返信してくれないんだ?]



    真夏の日差しがちくちくと肌を刺す、ある昼下がり。横並びに歩いている学友らしき二人は、砂漠を彷徨う旅人の如く、フライパンのようなアスファルトの上をふらふらと歩いていた。履いているサンダルが少しでも脱げて素足がアスファルトにつけば、きっとジュッと音を立て、その部分だけハンバーグのようにこんがりとなってしまうんだろう、なんてゾッとしない想像をしてみたり。派手な金髪をじっとりと汗で濡らした青年は、こめかみから伝う新たな汗を拳で拭いながら、落ち着かないように隣の青年に声をかけた。彼はとても耳がいい故、先ほどから鳴り続ける音が、気になって仕方がないようだった。
    「なー炭治郎、さっきからバイブ音ずーっと鳴ってるけど大丈夫か?」
    「うーん、講義中は電源落としてて…。さっきつけたらメッセが一気に来たみたい」
    カバンからスマホを取り出し、画面を開こうとする今この瞬間も、途切れることなく一定の間隔でバイブは鳴り続けている。
    「前言ってた、付き合いだした人?どれどれ…うわ…っ!何そのメッセの件数…!?大丈夫なのその人…?」
    「うん。すごく優しいよ」
    「優しい……て…!」
    炭治郎の友人、我妻善逸は本来、失言が多い。思わず本音が口から飛び出してしまうのだ。正直、それで何度もトラブルに巻き込まれたことがある。けれど、相手は高校時代からの親友の恋人だ。口から思わず出てしまいそうなそれらを押し留め、善逸は慎重に言葉を選んだ。
    「……心配性なんだな」
    「………うん。そういうわけで善逸、悪いけど今回も飲み会は無理だ。」
    「りょうかーい。…なあ、炭治郎。その、何か困ったことあったら、言えよ。」
    「ははっ、大丈夫だよ、じゃ」
    善逸に手を振り、帰路につくと、自然と炭治郎の歩調は速くなっていく。脳内を占めるのは、昏い青の瞳をした恋人の姿。
    ー早く家に帰ってあげないと。
    そうしてとうとう、炭治郎は走りだした。恋人の待つ、あの薄暗いアパートへ。

    かんかんかん、と音を立てて金属製の階段を駆け上がり、玄関の前で膝に手をついて、乱れた息を整える。飲み込んだ唾は、少し鉄臭い味がした。急いでやってきたが、今から会うのは曲がりなりにも恋人だ。呼び鈴を押す前に身なりを整えようと、炭治郎は風で乱れたであろう前髪を気にして手で撫でつけた。
    時間にして僅か数秒。
    炭治郎の気付かぬうちに、玄関のドアが細く細く開いていた。そして、その隙間から滑るように生白い手が現れ、がしりと炭治郎の手首を掴むと、部屋の中へと引き摺り込んだ。玄関の壁にしたたかに背中を打ちつけ、炭治郎は小さく咳き込む。ふと顔を上げれば、暗い光を宿した青が至近距離でこちらを見下ろしていた。
    「義勇さん、ただい…」
    「なんで返信をしなかった?」
    帰宅の挨拶を遮り、熱のない冷え切った質問が炭治郎を貫く。その威圧感に炭治郎の手は微かに緊張したが、相手を安心させるように微笑んで、彼の頬に手を伸ばした。真夏だというのにその肌は体温がなく、何故か金属質な冷たさを感じた。その手に男は自らの手を重ね、頬から離すと炭治郎の手のひらをゆっくりと舐め上げた。そして、彼の不機嫌そうな表情は、その途端に恍惚と緩められ、口元に隠しきれない笑みが浮かぶ。
    それはそうだろう。昨夜ぶりに感じた「味」なのだから。
    「ごめんなさい…。講義中で。厳しい教授で、少しでもバイブ音が聞こえると注意されてしまうんです」
    「………そっか。」
    「連絡見て急いで帰ってきました。義勇さんこそ、帰り早いですね?どうしたんですか」
    「………はやく、会いたくて。」
    苦しいほど抱きしめられてまた少し咳き込んだが、炭治郎はゆるりと両腕を彼の背中に回し、抱きしめ返した。そうして、ようやく義勇は安心したように息を吐いた。
    ー心配性?その程度のものではない。この人が、自分に執着するのは。
    「なぁ…」
    炭治郎の首筋に唇を這わせながら、義勇は甘く、熱を帯びた声で囁きかける。ぷつり、と胸元のシャツのボタンを外された音がやけに大きく聞こえた。首元にかかる吐息は生暖かく、隠しきれない獰猛さを含んでいて、餌を目の前にした肉食獣を思わせた。
    そう。だって彼は
    ーフォーク、なのだから。

    「あ、あ、あ…ぎゆ、さ…っ」
    「ん…っはあ、はあ、はあ…っ甘い…炭治郎…っ!俺のケーキ…っ」
    炭治郎の服を性急に脱がせ、上半身を露わにして舌を這わせる。健康的な色をした肌が、義勇の唾液でぬらぬらと汚されていく。唇から始まり、頬、顎、首、そして上半身へ。昨夜ぶりに感じる味に義勇は我を忘れてむしゃぶりついた。
    ー何を飲んでも、何を食べても何も感じないというのは、どういう感覚なのだろうか。ただ生命機能を維持するためだけに何の味もしないモノを食すというのはきっと、想像を絶する空虚なのだろう。それ故、多くの「フォーク」は途中で発狂し、殺人を犯してしまう。その相手が、他人か自分かの違いはあるけれど。
    しかし、義勇は幸か不幸か「味」を思い出してしまった。それ故、「ケーキ」である炭治郎への執着は凄まじい。今どこにいるか、誰といるか、何をしているかを知りたがり、可能な限り炭治郎と一緒にいることを望んだ。義勇は社会人、炭治郎は大学生。故に、夜に義勇のアパートで逢瀬を繰り返すのが常となっていた。
    ぎしぎしと音を立てるパイプ製の安物のベッドの音。本来、人一人の重さしか想定していないそのベッドの悲鳴を聞きながら、炭治郎はぼんやりと、そろそろこのベッド壊れちゃうかもしれないな、と笑みを浮かべた。それを見て義勇はぴたりと動きを止め、炭治郎の顔を覗き込んだ。
    「…何を笑ってる?」
    「ん、ふふ…貴方に突き刺されるの、気持ちいいなぁ、て…」
    「…っ、随分余裕だな?…」
    「ああ、んうっ!?ふか…ぃいい…っ♡」
    「あぁ…お前は声まで甘いんだな…。甘くて気持ちよくて、最高だよ俺のケーキ…っ!」
    「ひぃぁ!?あっあっん、義勇さ、ぎゆー、さ、あぁあんうっ!イっちゃ、イっちゃうよおっ!」
    「はーっ…はーっ…!炭治郎炭治郎炭治郎…っ!離れたくないずっと一緒にいたいずっとお前を…っ」
    「や、はげしっ、ぃぃいい…っ!♡」
    ぱん、ぱんと肌と肌を打ち付ける音が速まり、やがて、その音が止んで静寂が訪れる。部屋に満ちるのは二人分の荒々しい吐息と、水気を含んだリップ音だけ。
    「はっ…たんじろ…っは、ん、ちゅ、…っ」
    「ぁあぁ……ぅ、う、ぎゆ…さ…ぁう…」
    「あぁあぁあ"……あまぃ…あまい…炭治郎…あまい…はぁ…はぁ…っ」
    未だ繋がったまま、義勇に汗を舐めとられ、唾液を舐めとられ、涙を舐めとられ。イった直後の敏感な肌を熱い舌で弄られ、嬲られ、炭治郎はまたナカをきゅうきゅうと甘く締め付けた。
    「……っぐ、ぅ…っ」
    「あ、あ、あ…っ」
    「…っは、はぁ…っふ、ふふ、俺がお前を食べてるのに…まるで、俺が食われてるみたいだな…っ」
    「は……ん、ぁっ…ぎゆさ…あん、ぅ…っ」
    「ああ…甘い…甘いなぁ…あまい…あまい…」
    ドラッグに酔ったような恍惚と蕩けた青の瞳で炭治郎を見下ろし、炭治郎の吐き出した快楽の証を指先で掬い取る。普通ならば青臭いソレは、義勇にとっては蜂蜜のように甘い甘いごちそうだった。
    「炭治郎…俺のケーキ…俺の…俺の…俺の…」
    義勇はぶつぶつと呟きながら、溺れるように炭治郎を掻き抱いた。世の中全てに見捨てられ、途中から親にすら見捨てられ、義勇の人生には何もなかった。このまま、何も感じないまま自分は人生を終えるのだろうと思っていた。けれど、義勇は「運命」と出会ってしまった。無味の人生に突如として現れた「ケーキ」に、義勇は必死に縋りついた。宛ら、蜘蛛の糸に群がる亡者のように。

    離したくない
    離れられない
    誰にも渡したくない
    髪の毛一本ですら

    「俺のもの…」



    眠っている彼の手を取り、指先を口に含む。途端に口の中に広がる優しい甘さに、義勇の無表情に笑みが浮かぶ。義勇を悦ばせることができるのは、この世で炭治郎ただ一人だ。以前の義勇は満たされないが故、夜も満足に眠ることができなかった。けれど、炭治郎によって食欲も性欲も満たされるようになった今、自然と眠れるようになった。もう、炭治郎のいない人生など考えられない。満たされるようになった分、日中は以前よりも気持ちに余裕をもって生活できるようになっていた。部下の陰口も、「フォーク」を敵視する視線も、もはやどうでもいい。会社には暗に自主退職を促されたが、人権を盾に反論し、場合によっては訴えると脅した。それ以来、会社の人間からは腫れ物を触るような扱いだ。会社を辞める選択肢もあったが、炭治郎を永久に自分の手元に置いておくためには資金があるに越したことはないし、炭治郎さえいれば「その他」にどんな態度を取られようが、もう傷つくことはないと思った。いずれ、独立してもいいと思う。そうすれば、会社など行かずにずっと炭治郎の側にいることができる。義勇は、自分の人生に今初めて光明を見出していたのである。
    ーーだが、その分、炭治郎が側にいない時の義勇は、以前よりも不安定になってしまった。「味」を知ってしまった今、食の時間は前よりも苦痛を伴うものとなり、炭治郎に会えない日などは手が震えて、強い不安感に襲われてしまう。もはや、義勇の生活の全ては、炭治郎とどれだけ一緒にいられるか、に賭けているといってもいい。他人にこんな激流のような感情を抱くのは、生まれて初めてだった。

    だからこそ、嗚呼、分からない。

    義勇は、慣れない手つきで買ってきた夕食をローテーブルに並べ、炭治郎が目を覚ますのをじっと待つ。義勇の「捕食」が終わり、炭治郎が目を覚ました後、漸く炭治郎の夕食が始まる。二人が逢瀬するのはいつも義勇の仕事後の夜間のため、炭治郎の夕飯はいつも深夜近く。遅くに食べさせて申し訳ないと思いつつ、炭治郎を目の前にすると衝動を抑えることができず、むしゃぶりついてしまうため、どうしようもない。
    自身は、コンビニで買い込んでおいたぶどうパンを、眠っている炭治郎の指を口に含みながら無理やり胃に詰め込む。「捕食」と言っても、義勇が炭治郎にしていることは性行為だ。舌と心は一時的に満たされるものの、生物である以上はどうしても有機物を身体に入れなくては生きていけない。
    「面倒臭い…。こんなもの、食べたくない…」
    半分残ったブドウパンをごみ箱に投げ捨て、義勇はぽつりと呟いた。いっそ、「ケーキ」の柔らかな肌に牙を立て、その肉を喰らって骨をしゃぶれたらどんなに満たされるだろうか。そんな甘美な妄想が一瞬頭をよぎるけれど、その度に、義勇は「フォーク」の己の特性に嫌悪し、恐怖する。炭治郎のことは、傷つけたくなかった。
    「ん……」
    炭治郎の薄い瞼が、ぴくりと動く。そして、次の瞬間には林檎飴のような煌めきと蜜を纏ったルビーと目が合い、どくりと心臓が大きく脈打った。
    「あ・・・目、覚めたか」
    「はい…義勇さん、すいません、また俺、気絶して…」
    「いや。…俺が…お前の身体に夢中になってたから…」
    申し訳なさから義勇は項垂れるが、炭治郎は何故か嬉しそうに笑った。そうして、ローテーブルの上の豪勢な夕飯を見て、慌てて義勇に頭を下げた。
    「今日もこんなに…ありがとうございます」
    「いや…。代価として当然だ」
    「代価…」
    炭治郎はそれを聞いて何故か眉を下げ、少し悲しそうな顔をした。どうしてかは、義勇には分からなかった。そうして、炭治郎は「いただきます」と綺麗な仕草で箸をもち、食事に手を伸ばす。義勇はその向かい側に腰を下ろし、炭治郎の食事をじっと見つめる。義勇の手元には、当然食事は並んでいない。箸が控えめに食器と擦れる音と時計の秒針だけが、空間に響いていた。
    見た目は、好みだと思う。くりんとした赤い瞳。愛嬌のある顔立ち。ゆらめく炎のような額の痣。自分とは正反対の、明るく優しい気質。その全てが好ましいし、可愛いと思う。身体の相性も、とんでもなく良い。自分の性的対象は女だと思っていたが、そんなことはもはやどうでもいい。大切なことは、彼が「ケーキ」であるということだ。炭治郎を手元に縛り付けておくために恋人というカタチをとっているけれど、義勇にとってこの感情が恋かどうかは分からない。義勇は、「恋」も「愛」もまだ知らない。義勇の見た目に釣られて近寄ってきた女に人肌を求めて付き合ったこともあるが、すぐに虚しさを感じて別れてしまった。自分のひどい孤独感に他人を利用することに、自己嫌悪の感情すら抱いた。そうでなくとも、「フォーク」であることを隠し続けるのは難しく、そのうち、義勇は他人と関わることを諦めてしまった。
    炭治郎は、義勇のことを好きだと言った。その場しのぎの言葉や同情かと思ったが、「フォーク」と知っても尚変わらない彼の態度に義勇は戸惑った。笑顔と、優しさと、その身を差し出す自己犠牲。義勇には、凡そ理解し難いことだった。
    「……なぁ。どうしてお前は、俺の恋人になってくれたんだ?」
    「義勇さん、毎日それ聞くんですね」
    「分からないから」
    「だって俺、貴方に恋してますから」
    そう言って微笑む炭治郎に、どくりとまた心臓が音を立てた。この衝動は、恋と呼ぶにはあまりに狂暴な感情を孕んでいる。だって、今こんなにもまた、お前を喰いたくて仕方がない。

    嗚呼、分からない
    恋とはどんなものだろう

    二人の、ある種危ういインモラルな関係は、細々と続いた。恋人といってもすることは夜に逢瀬して一緒に「食事」をすることだけ。デートをしたり、旅行をしたり、そういう経験がほとんどない義勇にはその発想がなく、炭治郎と「食事」以外にどうすればよいか分からなかったのである。義勇ができることは、代価の夕飯に金をかけて炭治郎に豪華なものを食べさせることだけだった。
    「義勇さん…あの。ちょっといいですか」
    「…なんだ」
    夕飯中に箸を置き、真剣な目でこちらを見る炭治郎に、何故だかひやりとした心地がした。常にない雰囲気に義勇の背は硬直し、背中の筋肉が張っているのを感じた。
    「夕飯なんですけど…。もう用意してくださらなくて大丈夫です」
    「は」
    義勇は血の気が引くのを感じた。嫌な想像が脳内を駆け巡り、手に震えが走る。やっぱり、という悲嘆の気持ちとは裏腹に、狂暴な衝動がじりじりと腹の奥底からこみあげてくるのを感じた。
    「どうして」
    「え」
    「口に合わなかったか?足りなかったか?ああ、それは全部捨てていいから。何が食べたいんだ?なんでも買ってきてやる」
    「義勇さん、義勇さん、ちが」
    「なにが違うんだ!?」
    義勇はカッとなり、目の前の細い首を鷲掴んだ。炭治郎の瞳が見開かれ、少し苦しそうに咳き込むその光景が見えても、まるで自制がきかなかった。視界が徐々に端から真っ赤に染まっていく。ああ、これが視界を覆った時、俺はきっと。
    「俺を捨てるのか!?」
    「ぐっ、ちが、きい、てっ…」
    「はぁ、は、捨てる・・・くらいなら、最初から拾わないでくれ、味を思い出させないでくれ優しくしないでくれ独りでなんとか生きていたのにどうして俺の前にどうして今更どうしてどうしてどうし・・・!!」
    義勇の声が怒りと悲しみで激情にかられ、だんだんと大きくなっていく。その悲痛な叫びを聞いておられず、炭治郎はそれをかき消すように叫んだ。気道を絞められているから、大きな声はでなかったけれど。
    「義勇さん!!!」
    炭治郎はなりふり構わず手を伸ばし、義勇の頭を抱きしめた。首にかかった義勇の手は急速に力を失い、行き場もなくふらりと項垂れた。
    「たんじろ・・・」
    「はぁ、はっ・・・!勘違いしないでください!義勇さんの食事はこれからも続けますし、恋人関係だってやめません!」
    「じゃあ・・・なんで・・・っ」
    「は、は・・・っ!あのね、義勇さん・・・っ!俺、貴方に一つ嘘をついてたんです」
    「嘘?・・・」
    「はい。俺、別にそんなにお金に困ってるわけじゃないんです。ご飯だって・・・自炊できますし。黙っててすいません。今までのお金、返しますから・・・」
    「・・・そんなことはいい。どうして・・・」
    「だって、そういう条件でも出さなければ、貴方はあの雨の日、どこへ行くつもりだったんですか・・・っ?」
    「・・・・・・」
    「義勇さん、顔上げて・・・」
    義勇はおそるおそる視線を上げる。叱られた子どものような反応に、炭治郎は安心させるように微笑み、義勇の髪を撫でた。
    「義勇さん。俺たちは恋人同士でしょう?だから・・・代価、とか。そんなことはおかしいと思います」
    「炭治郎・・・」
    「それに・・・こんなにいっぱい食べきれないです。俺、太っちゃいますよ」
    そう言ってなんでもない顔で笑う炭治郎になぜか泣きそうになり、義勇は炭治郎の首の絞め跡をそろりそろりと撫でた。
    「ごめん・・・。ごめんごめんごめん炭治郎。嫌いにならないでくれ・・・っ」
    「なるわけないじゃないですか・・・。大好きですよ義勇さん・・・」
    「炭治郎…っ!!」
    義勇は炭治郎の胸に縋りつきながら、鼓膜を揺らす優しい声と炭治郎の鼓動に安堵し、目尻には涙が滲んだ。
    (あぁ・・)
    この胸に灯る温かな火は、一体なんという名前の感情なのだろうか。





    ☆お読みいただきありがとうございました。マロなどいただけると励みになります😭🙏また、執筆中のため、本文は変更になる可能性があります。

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭💖😭💯💗🙏💞😭😭❤💞🙏💞
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works