「ほら、これなんかどうですか」
燐音は手渡された春色のうすいジャケットに、ううと唸った。その反応を見たHiMERUは服を棚へと戻して、燐音へ振り返る。
「あまり迷っていては決まりませんよ」
「そうだけどさぁ」
がしがしと頭をかく赤色の男に、HiMERUはフム、と考えながらまた棚の方へと視線を戻した。暗い照明の店内にはアップテンポな洋楽が流れている。仕事をしようとする店員を笑顔で断ってからもう二十分。いざという時にきめてきたはずのギャンブラーは今、弟との『デート服』に頭を抱えていた。
「貴方が選んでくれと言ったのですよ。とりあえず、試着だけでも」
「……やっぱいつもの」
「だめです。弟さんは張り切っているんでしょう。答えなくては『兄』らしくありません」
「はぁ……、それ貸して」
手にした春色のジャケットとジーンズをもって、燐音は足取り重く試着室へと入る。カーテンを閉めて、聞こえないように息をついた。
弟との初デートの日が決まった。それは別に分かっていた事態だった。だが、いざ意識しはじめると、燐音の思考は混乱に陥った。
デートってなんだ。
何をするんだ。いつも通りじゃダメなのか。そのなぞは一人では答えにたどり着くことなどできず、迷いに迷った末、燐音はHiMERUに相談した。なにしろ、こはくちゃんは年下で座敷牢暮らしだからおそらくそんな経験はないだろうし、ニキについては論外だ。となれば消去法で一人しかいない。二人きりになったタイミングで、「デートの日程決まったんだけど」と漏らしたところ、かすかに輝いた瞳が燐音をがっちりと掴み、あれよあれよとアパレルショップにひっぱられた。
渡されたジーンズをはきながら燐音はここまでしなくていいのに、とカーテン越しにいるだろうHiMERUに心の中で文句を言った。嬉しいが、別にデート用の服まで聞いてない。ぶつぶつと言いながら、履いていたスキニーを脱いで、ベーシックな色合いのジーンズに着替える。明るいTシャツに春色のジャケットを羽織ったところで、カーテンの外からHiMERUが声をかけた。
「着ましたか?」
「あ、おう」
「開けますよ」
控えめにカーテンの端からHiMERUの目がのぞく。さっとカーテンの中に入り、じろじろと燐音を見た。
「やはりこのジャケットはあなたに合いますね。ジーンズはもうワンサイズ細くてもいいでしょう」
「これでいいよ」
「股回りが少し緩いように思いますが、どうです?」
「もともとストレートなんだし、こんなもんじゃね」
「ですが、試しに」
「メルメル、やる気だしすぎっしょ」
「やる気も出ますよ」
「なんで?」
「……内緒です」
しー、と人差し指を立てたHiMERUは、「もう一本色違いで持ってきます」とカーテンから出ていった。楽しそうな笑みを浮かべていたHiMERUに、燐音は首をかしげる。何が楽しいのだろう。もしかして、一彩に何か言われたとか? しかし、二人の接点は特に思いつかない。学校だって違う。そもそも、彼は飛び級だか何だかで大卒だったはずだ。寮生活も別の部屋だし、とあれば、他か? サークルは確か…、と考えたところで、カーテンからにゅっとジーンズが現れた。燐音はおとなしくそれを受け取り、履きなおす。先ほどより明るい空色のジーンズは燐音にぴったりだった。「着たぜ」という言葉に、HiMERUがカーテンの隙間から覗き込む。
「そちらのほうが春らしいです。ジャケットを少し暗くすれば完璧です」
「うぃ~」
「貴方の初デートなんですから、もっと気合を入れてください」
「お前の入り方がおかしいんだよ」
「ふふ、そうですか? 着替えたら出てきてくださいね。ヘアバンドもありましたから」
「そこまでやんのォ?」
「予想以上にあなたが着こなすので、楽しくなってきました」
「そりゃよかった」
さっとカーテンを閉めたHiMERUをじろりとにらんでから、燐音は元の洋服に着替えた。スニーカーを履いて試着室を出ると、HiMERUの方へと歩く。隣に立ってヘアバンドを一つ手に取った。藍色の布地に、控えめにステッチが入っている。
「これとかいいんじゃねぇの」
「HiMERUもそう思ってました」
「んじゃ、買ってくる」
そう言うと、HiMERUは外で待っていると言ってさっさと店を出ていった。手早く支払いを済ませて、近くのカフェに入る。何の迷いもなくケーキセットを頼むHiMERUの向かいで、燐音はホットコーヒーを頼んだ。
「それで、初デートはどこに行くんですか?」
「丸一日オフになってたから、この間バズってたお寺さんの花見に行くことになった」
「日帰り旅行の距離ですね。ま、兄弟なら問題ないでしょう、たぶん」
「多分って何だよ」
HiMERUがそれに口を開こうとしたところで、ウエイターがケーキセットとコーヒーを持ってきた。桜の花びらを模したチョコレートがのったロールケーキ。HiMERUはフォークを持つと、丁寧に切り分けて一切れ口に含む。かすかにあがる口角に、燐音はかわいいもんだなと思いながら自分もコーヒーを一口飲んだ。ふわりと香る香ばしいコーヒー独特の香りはショップの疲れを優しく癒す。
半分ほど楽しんだところで、HiMERUも落ち着いたのか、先ほどの話題の続きを話し始めた。
「多分というのは、弟さんがどこまで『リード』するかです」
「リード?」
「今回の恋愛は、いかにあなたを惚れさせるか、ですから。あなたは『とりあえず』付き合うことになったと言っていましたし」
「一彩がどうやって俺を惚れさせるかってことか。そう言われてもな」
「貴方が自然と弟扱いしなくなった時が、彼の勝利です」
「バトルかよ」
そう言った燐音の言葉に、HiMERUは盛大に眉をひそめて見せた。
「何を言ってるんです、恋愛は勝ち負けがつくものですよ。今回は、……『弟である自分』がライバルになるんでしょうか? 相手の思考を変えることは容易ではないのです」
「経験者みたいなこと言うんだな」
「……恋愛ではないですが、そういった事は経験済ですので」
「ふぅん。なぁ、なんでそんなに俺の話に乗ってくれるわけ」
「どういう意味です?」
「男同士の恋愛ってどうなのってこと」
「生物学的にはペンギンやイルカにもそういった個体はいますから、別におかしいとは思いませんし、」
そう言ってHiMERUは紅茶を一口、口に含んだ。そしてにやりと笑うと、
「天城、世の中に恋愛ドラマがあふれている理由を知らないのですか」
「急になんだよ」
「他人の恋愛ほど面白いものはないんですよ」
「俺っちのこと面白がってるってことか!」
「ふふ、あなたが甘えてくれたのが嬉しかったので、つい」
「甘えてねぇし!」
「いいえ、あなたは確かに俺に甘えてくれました、天城」
「勘違いっしょ、俺らはただのユニットメンバーだろ」
「我々は仲間、でしょう。そう言ったはずですよ」
苦し紛れの言葉はくつくつと笑った彼に一蹴された。燐音は苦い顔をしながら、コーヒーを一気飲みする。上品にロールケーキの残りを食べ始めたHiMERUを見ながら、小さく、「ありがとよ」と言った。
「報告を楽しみにしていますよ」
「は?」
「ここまで手伝ったのに、まさか報告しないとは言いませんよね」
「おいおい、仲間とは言えそこは別にいいっしょ」
「いいえ、言ったでしょう。『他人の恋愛話ほど面白いものはない』と。あ、お土産もお願いしますね。今ならまだ限定スイーツも間に合うかもしれません」
「……考えとくっしょ」
したたかな彼の『報酬』を、燐音は笑って受け入れたのだった。