声が聞こえた「燐童!」
危機を知らせる切迫した呼び声。自分が呼ばれていると分かっていても振り返ることは出来なかった。
腹の横が鋭いもので抉られる痛み。
痛み。身体の痛み。
全身の力が抜けて、両膝が地面に落ちた。その瞬間、背後から疾風のごとく横を駆け抜けていく気配。有馬の気配。
「任せろ」
燐童を越えていく最中に聞こえた一瞬の声はいつもの彼から発せられているとは思えないくらい静かだった。刹那に見えた横顔は激しい怒りを放っていて、開かれた瞳孔が逃げていく男を捉えている。あっという間に遠退いていく有馬の背を見送って、身体はついに地面へと突っ伏した。
銃を撃たれたのか、ナイフが刺さったのか。不覚にも不意をつかれた出来事で、自分が今どんな状況だったのか整理しきれない。混乱している。相手は確実に格下だったのに…下手を打った。
「燐童!」
すぐさま倒れた身体を仰向かせる強い力。うすぼんやりとした視界に谷ケ崎が映る。もっと悲壮な焦った顔でもしてくれているのかと思ったら、案外しっかりと現状を見据えた表情をしていた。まったく、山田一郎に敗してからの彼は以前よりもずっとリーダーの顔つきだ。
「伊吹は止血を。私は有馬くんを」
頭上から降ってくる端的な指示は時空院のもので、腹にトレンチコートがばさと脱ぎ捨てられた。分かったと答えた谷ケ崎が強い力でコートごと燐童の出血を圧迫し塞ぐ。思わずうあと呻いてしまった。押さえつけられると痛みがより強くなる。燐童の様子や谷ケ崎の処置を確認するまでもなく、時空院はすぐに有馬を追っていく。
「大丈夫、致命傷ではないですよ。すぐ戻りますので!」
そう大きな声で谷ケ崎に伝えながら駆けていく時空院は、ナイフと起動したヒプノシスマイクの両方を広げながら奇妙な笑い声をあげていた。
「有馬くーん!すぐに殺してはダメですよー!」
あんなのに追い回されたらピエロでも逃げ出すだろう。御愁傷様、犯人さん。どうせ死ぬなら道連れだ。
「燐童」
意識が遠退いていこうとする。それを妨げるように谷ケ崎が話し始める。いつもの落ち着いた声。
「心配するな、有馬と丞武が首を取ってくる」
「なんですかその戦国武将みたいな敵討ち」
いらないですよと呻きながら掠れた声で応えても、谷ケ崎は冗談か本気か分からない表情のままだった。
「お前が要らねえって言っても、あいつらは持って来るぞ」
そんな血生臭い演出は嫌だなあと思いながらも、なぜか笑けてしまった。変な会話だ。
「っげほ」
飲み込めない唾液が喉を苦しめて噎せる。緩んだ空気もつかの間で、血液が抜けていく寒さに身体が震え始める。その震えを殺すように、谷ケ崎の手には更に力が込められた。"此処にいろ"と呼び留める声。
「燐童」
痛い。痛い痛い。あぁなんでだろう、痛みには強いはずなのに泣きそうだ。
意識を繋ぎ止めていられない。目蓋が落ちていく。身体の力が抜けていく。目の前が真っ暗になって、独りになっていく感覚が襲ってくる。こればかりはやっぱり慣れない。やっぱり怖い。
あぁ…もう、独りになりたくないな。
「………」
気がついたら何処かの室内だった。どうやら生き延びたらしい。
背中に伝わる感触から、寝かされているのはまともなベッドではないようだ。きっと応急処置のために急拵えで身を寄せた廃屋だろう。しんと静まりかえった空気は 深夜の病室のようだ。
横たわったまま視線だけで横を見ると、すぐ傍のパイプ椅子に座る有馬が壁に背を軽く預けて目を閉じていた。手には銃を握ったまま。
その奥ではおそらく出入り口の番として、谷ケ崎も同じように目を閉じているのが見えた。微かに覗いてる指先や衣服が血まみれだ。どれだけ燐童の処置をしたのだろう。
「う、っ」
急激に腹の激痛が身体を貫いて、呻き声が漏れる。と同時に有馬はパッと目を開ける。物音への警戒はすぐに解け、やれやれといった様子で銃を腰に仕舞う。椅子を寄せ、呻く燐童を覗き見た。
「よう、起きたか?死にぞこない」
まったく、ずいぶんな言い様だ。…いの一番に敵へと駆けていったくせに。
「···ギリギリセーフってところですかね」
ぜいはあと息が上がる。それでも、余裕を見せて一息をついてみせた。
「有馬さん、ちゃんと持ってきてくれました?」
「あ?何をだよ」
「首」
「は……なんの話だよ」
訳が分からずに顔をしかめる有馬を、ふふと苦しみつつも笑ってしまう。笑われる意味も分からない有馬は更に引いた様子で眉を寄せた。
「なに笑ってんだ」
「仇は取ったのかって話だ」
やり取りで目が覚めた谷ケ崎の言葉に、振り返った有馬はハッと短く笑い飛ばす。
「仇だあ?んなもんじゃねえよ、俺が気に食わなかったから殺しただけだ」
その不貞腐れた表情が、充分な答えだった。
「丞武が必要なものを取りに行ってる。…悪いが、処置が済んだらすぐに移動するぞ」
様子を伺う谷ケ崎の声色に、燐童は「分かりました」と頷いて返す。それを見た有馬はこれみよがしに首を傾げた。
「おいおいてめえ歩けんのか?」
背負わねえぞと嫌そうな顔をしながらも、じいと燐童を見定める視線は 嘘をつかせない彼なりの優しさだ。
「仲良くよちよちお散歩するのはごめんだぞ」
「大丈夫ですよ、いざとなったら置いていってください」
何の躊躇いもなく、駆け引きもなく、冗談でもない。自然と出た燐童のその言葉に、有馬は苦い顔で後ろ首を掻いた。
「お前なぁ···」
「ただいま戻りました~」
遮ったのはドアが開く音と時空院の帰還。続く言葉を有馬は静かに飲み込んで、「遅えんだよ」と悪態を吐いて濁した。
時空院は起きていた燐童を見て 「あぁ良かった」と穏やかに笑った。
消毒液、ガーゼ、タオル。持ってきた品々をベッドの脇に広げながら、なぜかウキウキとしている。
「傷は浅かったのですが なかなか血が止まらなくてドキドキしたんですよお」
「そのドキドキは"どっち"のですか」
燐童がじとと据わった目で問えば、時空院は目を見開いたまま両腕を開いて更に笑う。
「もちろん!救えなかったらどうしようかという不安ですよ!」
「嘘が下手すぎんだろ」
視界を邪魔するその腕を有馬はすかさず叩き落とす。落とされた手はすぐに掲げられた。その指先に摘ままれたのは1本の針。
やけにライトに反射して見えたその針を舐めるように見つめた時空院は、ゆっくりと横たわる燐童の脇に立つ。誰の真似ごとか、医者のように手袋を嵌める素振りをしてみせた。
「さあて···傷を塞ぎましょうか」
「え待ってくださいこれ僕殺されません?」
ヒクと頬を引きつらせる燐童は、思わず谷ケ崎と有馬に視線を向けて助けを求める。しかし、世の中甘くないな。
「心配すんな燐童、骨は拾ってやる」
有馬はニヤリと笑って燐童の口にタオルを噛ませる。舌を噛んでは一大事。
「暴れると本当にあの世行きだぞ」
そう言って燐童の身体を押さえる谷ケ崎の力は怪我人を労る強さじゃない。
さすが悪名名高い闇の住人。三人揃えば 政府お墨付きの元掃除屋も真っ青だ。
「さあ!とっても痛いかもしれませんが、それが生きている証ですよ阿久根くん!」
「命乞いしたって死なせねえからなぁ、恨むなら格下相手に下手打ったてめえを恨めよ?」
こんな荒治療で生かされるなんて、あんまりだ!もっと優しくしろ!と吠えることは許されず。
もう二度とコイツらの前でヘマはしない。
迫る針に覚悟を決めながら、燐童はそう誓ったのだった。
「·····痛いんですけど」
げっそり。治療を受けた今の燐童にはその表現が一番似合う。
谷ケ崎が言った通り、燐童の応急処置が終わった四人はすぐに場所を移すために動き出した。
トラブルがあった場所の近くにいつまでも留まるのは確かに得策ではない。動くなら闇に身を隠せる夜が良い。当然の判断だ。
負傷した腹の出血は止まり、傷口もひとまず塞がった。燐童は覚束無い足取りだが 一人でも歩ける容態だ。
「っせえな、自業自得だっつってんだろ。いいから歩け」
言ってのける有馬は暗い路地を先へと歩いて行ってしまう。
「久しぶりに血肉に触れましたねえ」
主治医を務めた時空院もやけに上機嫌で、るんるんとペンのようにナイフを指で回しながら先を行く。憎たらしいことこの上ない。
「~···くそが」
「なんか言ったかあ!?」
「いえ何も!?」
ぼそと吐き出した憎まれ口は秒速で有馬に拾いあげられた。ビクと背を正して取り繕うと、納得したようにまた歩き出す。
(なんだ、これは···)
こんな茶化した空気の中で、それでも先を行く二人はいつもよりゆっくりと歩いているのが分かる。
お前を置いてはいかないぞという密かな意思表示。
····そんなことが、今やはっきりと分かってしまうのだ。こそばゆい感情に戸惑ってしまう。
「···燐童」
困った様子の燐童を見て、横を歩いていた谷ケ崎が不意に前を見たまま言った。
「これでもう悪い夢は見れねえだろ?」
燐童ははてと谷ケ崎を見やる。
何の話かと思ったが、すぐに思い当たった。
『人は孤独と生きるしかない!』
そうか、と腑に落ちる。
あの時自分が腹の底から叫んだ声はもしかしたら、最大のSOSだったのかもしれない。
もう、誰にも届くはずがないと思っていたのに…。
「····そうですね、おかげさまで」
観念してそう笑うと、谷ケ崎もほんの少し口許を緩めたようだった。