孵化■うだうだ良くないこと考えちゃう有馬くんと無自覚にそれを掬い上げちゃう谷ケ崎さんのお話。
ここは分煙化の波に飲まれ、都会の片隅に追いやられた小さな喫煙所。
この国の喫煙者はおよそ千四百万人。人口比率でいえば三十パーセントにも満たない数ではあるが、そこはマイノリティーに優しい昨今の国内事情。喫煙者にも権利をとどこかのお偉いさんが謳って真四角に切り取って作られたその空間で、しかし今、有馬はうんざりと立ち尽くしている。
昔はそもそも路上で吹かそうが歩いて吸おうが誰にも文句を言われない時代だった。
駅や娯楽施設には喫煙所があったが、そこは明るく綺麗な空間では息が出来ないほとんど社会不適合者の逃げ場所のようなものだった。
それが今はどうだろう。スタイリッシュなデザインと最新の換気設備。置かれている灰皿も洒落た細いスタンド型で火消しで嬲られた跡なんてひとつもない。
『あなたの煙が周囲の人を傷つけています』
わざわざ喫煙者に見せつけるように張られたポスター。お前が悪いと突きつけられる文言。
どうやら自分が逮捕されて北の監獄に収容されている間に、世の中はコツコツと清く正しいルールを守る社会へと変化していったようだ。
現にこのルールに塗れた喫煙所。定員は六名と決められていて、中に入れば立つ位置を足跡マークで決められてる。壁を向くように定められたその足跡に自分の足を引っ付けてみれば、目の前の壁にはここに煙を吹けと印がつけられていた。その印の横にはまたポスター。
『望まない受動喫煙のない社会を!』
ここを出る前に肺の煙を全部置いていけと書かれている。全ては世のため人のため。
あまりにも居心地の悪い空間に有馬は眉を顰めるばかりが、チラと横目に先客の喫煙者を見ればさも当然といった様子で足跡に沿って立ち、壁に軽く煙を吹いている。最新の電子タバコを片手にスマホを弄るその茶髪の男はどこからどう見ても輩な有馬とは見た目も真逆。白を基調にしたコーディネートは清潔感があって、谷ケ崎ほどの背丈はあるだろうが威圧感も柄の悪さもない。人当たりの良さそうな穏やかな印象がその横顔から伺えた。白。白。白。彼こそがこのスマートな喫煙所に在るべき人間のようだった。
(無理。)
耐えられない。結局有馬はその喫煙所をさらりと見渡しただけで、一本も吸わずに外へと出て行った。
街中で吸えない苛立ちからようやく解放されると思ったが、余計に腹の奥がドロドロと重くなっていく。外に出ても気は晴れず、周囲を行き交う人の波も不愉快に感じられた。
誰を見てもキラキラと眩しく見える。お行儀の良い坊っちゃん嬢ちゃんが増えているみたいだ。くそったれ。
少し離れた広場の片隅で、待たされていた谷ケ崎は大人しく座っていた。といっても足を広げてどっかり座るその見た目はどう見ても関わったらヤバそうな印象。黒。黒。黒。実際谷ケ崎のそばには人っ子一人近寄らずに避けられているようだった。本人はおそらく全く気にしていないのだろうが。
「もういいのか」
帰ってきた有馬に気づいて、谷ケ崎は一拍きょとんとする。「一服してくるわ」の一言から十分と経っていないのだ。いつもならもう少し待たせるから、不思議に思われて当然だ。
「吸う気失せた」
答える視線は谷ケ崎ではなく行き交う人波を見たまま。つんと短く言った有馬に、ほんの少しだけその表情を見た谷ケ崎は理由は問わず「そうか」とだけ返して立ち上がる。互いに触れられたくないものを抱えてここまで生きていた者同士だ。聞かなくていいことくらい分かる。
「燐童に言われてたやつはどうする」
「あとでいいんじゃね」
お遣いはスルーに決定。そのままどちらともなく夕暮れの街の中を歩きだし、ひとまずの拠点へと戻ることとした。
到底肌に合わない空間を身を持って味わったせいだろうか、いつもなら受け流すものも賑やかな街の中でやけに目についた。
電化製品店。書店。携帯ショップ。アンテナショップ。
そこかしこの店先に張り出されている文言たち。
新モデル、新機能、新商品、新作、新キャラ、新キャスト、新展開。
なんでも『新』がつけば良いってか。
変わっていくものに順応していくのが当たり前で、旧型を手放せずに馴染めずにいるのが時代遅れの懐古趣味ってか?
電子タバコは吸わない。ジャンプやマガジンだって電子書籍じゃなくてコンビニで立ち読みが良い。
洒落たバーやカフェは明るすぎる。綺麗すぎる。古い匂いがする薄暗い場末のスナックでいい。独特の孤独感がそこかしこにある深夜のファミレスでいい。こう思うのは旧人類か?
俺は何も変われずに置いていかれ、世間は未来へと進んでいく。
勝手に吸わされる副流煙を毒だというなら、こうやって勝手に押し付けてくる新時代の波だって充分に毒だろう。闇の住民を胡散臭い正義で追いやって檻に入れて蓋をして、ようやく羽根を伸ばせると思えば世の中から置いていかれたとまざまざ見せつけられる。何が言葉が武器になるだ。武器を持てと唱えているのには変わらないだろうがくそったれ。
「…………」
考えれば考えるほど次々に浮かんでくる言語化できない苛立ちをオーラで放つ有馬の後ろから、ぽてぽてといつもの足取りで谷ケ崎はついていく。
太々しく気だるげにけれどどこか風を切るように前を行く背中を見て思う。その歩き方で機嫌が分かるくらいには、付き合いが長くなってきたものだ。
元来自分はストレスに耐性があるほうじゃない。
逃亡生活を続けていく中で時折この胸に押し寄せるどろどろとした不快な重みは、吐き出す煙だけでは処理できない。せっかく拠点の廃ビルに戻ってきたというのに、やはり煙草を吸う気分にはなれなかった。
ひっそりとしたこだわりで紙煙草を愛用しているのだが、今はそれがなぜかひどく惨めに思えたのだ。
こんな時は誰とも関わりたくなくて己の周りを不穏なオーラでシャットダウンする。帰り道でもだんまりを決め込んでいた有馬は適当な廃材に出来るだけ触れない範囲で寄りかかり、宛てもなくスマホを弄る。その斜向いで、壁に寄り掛かった谷ケ崎は新聞を読んでいた。
確か燐童が入手してそのまま放置していた新聞。世間には疎い谷ケ崎はその実新聞やニュースをよく見るほうだ。教育に縁の無かった人生のせいか読めない漢字や意味が分からない慣用句も多いはずなのに、時空院に尋ねながら根気よく理解しようとするのだ。山田一郎に敗してから、恨み妬みから解放された谷ケ崎本来の人間性がよく見えるようになった。……根っからの黒ではないのだ。困ったことに。
世間の動向なんて脱獄囚の自分達にはほとんど関係ない。誰も俺たちのことなんか見ていないし、世界中から必要ないと無視される存在が俺たちだ。なのに、……
「なぁ····それ面白いか?」
有馬がそう問い掛けると、谷ケ崎ははてと顔を上げた。
「お前読んでもどうせ知らねぇことばっかりだろ」
「? 知らないから読むんだろ」
正論。こいつはたまにこういうところがある。
「〜····読んだところで意味ねえだろって話だよ。どうせ俺らなんか世間様から外れてる人間なんだからよ」
言葉の端々に苛立ちが残っている。自分に充てられた苛立ちではないと分かっている。谷ケ崎は多くは言わずに応えた。静かな落ち着いた声。何も責めず、ただ思ったことを口にするだけの真っすぐな声。
「俺は気にしてない」
「!」
ぐっと有馬は思わず喉を詰まらせ、視線を彼方に弾かせる。谷ケ崎を見ずに、何もない空間を見やる。何のことを言われたのかは分かっている。自分の苛立ちの原点を突かれたのだ。
「……別に、お前らに対してどうこうなんか思ってねえよ」
この街での潜伏場所には当初、有馬の当てがあった。
先の見えない逃亡生活の中で、頼りがあるのは救いになる。しかし窓口役だった男は有馬がこの地を離れているうちに姿を暗まし、つてを当たってもすでに有馬が知っている顔はほとんど無く、どこへ行っても門前払いを食らってしまったのだ。
こういう交渉はしつこく食い下がれば逆に警戒されてしまう。シッシと疎ましく手を払う者達の様子を見て、燐童は速やかに「他を当たりましょう」と撤退を判断した。
長い車中泊で逃げてきたD4の行動計画は、ここにきて見立て通りとはいかなくなっていたのだ。
「予定通りいかないことなんて今までもあっただろ」
まだ鬱屈を抱えている有馬の横顔に、谷ケ崎はきょとんと小首を傾げる。そんなに気に病むことじゃない。
「燐童が次の場所に探りを入れてくるって言ってたし、丞武だって何も文句は言ってなかった」
悪いことが起こっても、意外となんとかなる。兄を失い、自分を見失い、何も見えない真っ暗な時間を長く過ごした。けれど山田一郎に敗してから、不思議とそう思えるようになったのだ。『前を見ろ』と突きつけられたあの一言が、時間をかけて谷ケ崎の中で自分の一部になってきている証拠かもしれない。
けれど、有馬にとって今回の件はやけに刺さっているようだった。
「······たった数年で何もかも別物になってやがる」
おかげで今日の寝床はこの廃墟。車もそろそろ足がつきそうだから乗り換えたいのに盗難にちょうどいい人目につかない駐車場が見つからない。喫煙所はあの有様で居場所がない。時代に置いていかれて、世間から無視されて、何もかも上手くいかない。
何がデスペラードだ。俺達がどれだけ喚いても、世界はお構い無しに未来に向かっていく。
俺達なんて結局、路上に吐き捨てられる味のしなくなったガムと同じだ。
胸の奥底に塞き止めていた泥水が身体の中で水位を上げていく。肺をヘドロでいっぱいにさせられる気分だ。
ストレスに軋む心がついに沼底へと落ちていく。苦しくて、どうしようもなくて、
「もうどうでもいいんじゃねえかって思うんだよな」
……気が付いたら口から零れる言葉を止められなかった。
「どこ行っても居場所なんかねえし。結局何やっても上手くいかねえし。情けないししんどいし惨めで苦しい。もうどうでもいいんじゃねえかって。どこに行っても真っ当に暮らせねえんならもう塀ん中でもいいんじゃねえかって。どこで生きていようが結局死んでんのと変わんねえじゃねえかって」
これはSOSだ。
「なぁ、お前はどう思う」
抱えているものすべて吐き出して叩きつけて、心のどこかで「お前もそうだろう?」と同意を求めている。
有馬がここでもうこんな生活は辞めるとD4を抜けていくことは容易なはずなのに、自分が辞めると決めたことになるのが嫌だった。惨めな自分を認めてしまうようで嫌だった。
碧棺と対峙した時に似ている。もう敵わないと頭では分かっていても、震える足を殴って立ち上がろうとした。絶対的なものに抗うことをやめることは、どうしたってできないのだ。
だからせめていつも根が暗い谷ケ崎に「おれもそう思う」と同意してもらえたら、この鬱みが軽くなるような気がした。「俺はまだやれんだけどコイツが根を上げたからここで終わりにするわ」って言えたらどれほど楽か。そう、これは……助けてくれと心が叫んでいるだけだった。
「…………。」
谷ケ崎は有馬の言葉を最後まで黙って聞いていた。
そこに同情や動揺は一切なく、慰めやフォローも一切なく、ただ聞いているだけだった。
でも、聞いていた。
どう思うかと聞かれると谷ケ崎には少し難しい。黙ったままうむと視線を落として考えてみた。きっと長い時間をかけてしまったのだろう、有馬は次第にむずむずと居心地悪げに膝を小刻みに揺らし始める。
「~~~…」
何言ってんだ俺は。柄にもないことをダムの決壊がごとく吐き出してしまった。しかも谷ケ崎相手に。……燐童だったらまだマシだったかもしれないのに。よりによって谷ケ崎に…。
徐々に冷静になってくると恥ずかしくなってくる。うーんと真面目に考えている谷ケ崎の様子についに返事を待てず「~あぁもういいわ」と立ち上がって話題を切り上げようとしたその瞬間。
「俺はどう考えても幸せだと思う」
思わず三秒ほど谷ケ崎の顔をまじまじ見つめてしまった。唖然とするとはまさにこのことか。
「は? 幸せ? 今が? どう考えても?」
信じられなくて「え」とか「は」とか意味のない単音が口をつく。
「いや、お前……それだけ考えて出てくる答えがそれ?」
幸せなわけがないだろう。谷ケ崎が嘘をつけない人間だと知りながらも、真意を確かめたくて尋ねてしまう。
「……確かにもう真っ当な人生なんか生きられねえし、明るく楽しく生きていけるとも思ってない。でも、」
谷ケ崎はほんの少しだけ笑っていた。それは己の喜びではなく、けれど人生への諦めとも違う、傷ついた人に寄り添う優しい微笑みだった。
「独りじゃない」
卑怯だ。有馬はその笑みに何も返せなくなる。胸に詰まっていた泥水が、純化されて真水にされていく。驚愕と少しの恐怖を滲ませて唖然とこちらを見やる有馬に、谷ケ崎は我関せずと続けた。
「兄さんが死んでからずっと独りだった。だから俺にとっては今が充分幸せだ。そもそも俺はガキの頃から世間のことはよく知らねえから……有馬が言うことはあんまりピンと来ない」
「おいコラてめぇ」
人様の渾身の胸の内、結局ピンと来てねえのかよ。
最後にはおいおいふざけんなとツッコまされてしまった。そして気づかされてしまった。あぁ、こうやっていつもの調子に戻っていくのかと。
悔しいが敵わない。認めよう谷ケ崎、お前は凄ぇよ。
人生に敗けたことから、殻の中に閉じこもっていた過去から、お前はそうやって孵化していけるんだな。
……まぁそうやって褒めてやるのはこのメンツの中じゃ俺の役目じゃねえから黙っておくわ。
「ったく、お前に話した俺がバカだった」
一通りツッコミを終わらせて、そう茶化して切り上げようとすると、谷ケ崎は最後にどうしても聞きたかったのか妙に神妙に尋ねてきた。
「……結局、有馬は塀の中に戻りたいのか?」
「は?戻りたいわけねえだろうが二度とごめんだわ」
秒で即答。手のひら返しなのは百も承知。でも人間なんてそんなもんだろ。俺は真面目でお行儀のいいお坊ちゃんじゃないんでね。悪びれもせずにダウナーに入った自分さえもあっけらかんと裏切れる。
けろりと悪態で返したはずなのに、谷ケ崎はそんな有馬を見て安心したように小さく笑った。
「そうか、良かった」
「……~お前ってなんで“そう“なの」
谷ケ崎伊吹。こいつは人の闇をも飲み込む怪物だ。その脅威を知るものはまだ少ない。
「? “そう“ってどういう意味だ」
谷ケ崎は頭の上にはてなマークをつけて、少し納得がいかない様子で子供のようにむくれている。答えをはぐらかしていると、燐童と時空院が帰ってきた。四人揃うと、不思議とこの廃ビルの一角が明るくなるような気がした。
「僕の手腕を褒め称えてください!!」
今や堂々と仲間にそう宣言してくる燐童を「はいはいスゴイスゴイ」と棒読みで受け流す。
有馬が使っていた窓口役の男を見事に見つけてきた燐童は、時空院の狂気を盾に交渉を進め、何とかこの街での活動拠点を確保することが出来たのだと言う。
車も新たに入手し、寝床もひとまずは安心できる場所を用意できた。先ほどまでの不運はどこへやら。それぞれがそれぞれに出来ることを遂行していくことで、一気に何もかもが好転している。
『独りじゃない』 有馬の中で谷ケ崎の言葉がフラッシュバックする。
独りだったら抜け出せなかったラインが、こうやって変わっていくのか。
世の中が変わっていくように、俺達も変わっていっている。これが「いつも通り」になっていく。
…………案外、悪くないのかもしれない。
廃ビルを出ると夜はいつの間にか深まっていて人もまばら。歩きやすく、癪に障る看板やポスターも目につかなくなっていた。
「やっぱこのくらいの時間がいいわ」
新たな車を迎えに向かいながら、有馬は夜風を浴びて呼吸が軽くなっていることを実感していた。
「夜のほうが動きやすいのは確かですね」
有馬の真意とは少しズレているが、燐童は軽やかに同意してくる。
最初に脱獄した頃は飄々としていて腹に隠したものを笑顔で誤魔化していた顔。それがこうして妙に自信に満ちた笑みで頷いてくるようになった。
……コイツも谷ケ崎と同じく変わったのか。もしくはこれが本来のコイツらしさなのかもしれない。
「あの角を曲がった先の駐車場ですよ」と指を差して案内する燐童の横顔をチラと少しだけ横目に見てから、有馬はまるで独り言のように言った。
「手間かけさせた、悪かった」
「えっ!?」
ハッとして足を止める燐童の見開いた視線を背中に感じながらも、有馬は足を止めず振り返りもしない。
「え!? 今のなんですか有馬さん!? 僕に感謝してるんですか!?」
パタパタと浮かれて駆け寄ってくる燐童の気配を察し、有馬は逃げるように早足に駐車場へと向かっていく。その真横から、時空院の顔がぬるりと有馬を覗き込んだ。さっきまで後ろの谷ケ崎の横を歩いていたはずの時空院が、だ。
「っっ!?」
思わずビク!と大きく肩が跳ねてしまった。咄嗟に一発眼鏡に撃ち込むところだった。
「てっめ!?~~気配殺すんじゃねえよキルアかてめえは!?」
「おやおやご機嫌ですねえ有馬くん!何か良いことがあったんですか!?」
「たった今不機嫌になったわ」
じとりと据わった目で言ってみたところでこの馬鹿には効きやしない。あぁとうんざりして息をつく。
「マジでお前らといると疲れるわ。車着いたら煙草吸わしてくんね」
「ダメですよ、乗る前に吸ってください」
「先ほど用件も済まさずに伊吹を待たせて喫煙所に行ったのでしょう?」
「おいおい何告げ口してんだ谷ケ崎ぃ!」
少し後ろを歩いていた谷ケ崎が微かに口元を緩めていたことには気付かなかったことにする。とばっちりを避けて時空院の陰に入ったことも許してやることにする。
……さっきのウダウダ言ってた俺のことは、これでチャラにしろってことだ。
「有馬は結構繊細だったんだな」
「ぶっ殺すぞ」
前言撤回。
……どうやら俺もこいつらの前で新キャラを出してきているらしい。
■喫煙所にいるのは中の人🥢
■かいこ クリーピーナッツ
■だが、情熱はある