咳をしても影山は今日から東京に行っている。連日泊りでの仕事だった。
帰ると家は真っ暗で、リビングからカラカラとななみちゃんが回し車を走らせる音だけが聞こえた。
電気をつけると一瞬音が止まった。
「ただいまぁ」
当然、ななみちゃんは「おかえり」などとは言ってくれない。この感じはなんだか久しい。
テーブルに荷物を置くとき、置き手紙に気が付いた。
「予定では26日に帰ります。ななみの面倒おねがいします」と影山のやたらデカい字で書いてある。
「ななみって、お前の女かよ」
思わずひとりごちるが「ちがいます」と否定する声もない。ケージに近づくと、ななみちゃんは回し車から降りて、こちらに近寄ってきた。
朝に用意されたエサはもうほとんど残っていない。ケージの掃除を軽くすると、水を取り替え餌を与えた。
「ひとの男取るなよな」とパンパンに膨れた頬をつつく。
ななみちゃんは俺の指を餌だと思ったのか、ひくひく動く鼻をくっつけてきた。
さて、自分のご飯はどうしようか。
影山が来るまでは、正直しっかり夜を食べることはほとんどなかった。面倒だからだ。
しかしアスリートの身体を支えているとなればそうもいかない。我ながらちゃんとした生活をしてこれたものだなぁと思う。4割は鍋料理だったけど。
ひとりだとあまり腹も減らず、野菜を切ることすら億劫だった。昔に買ったカップ麺があったよなぁ、と思いながらキッチンへ入る。
麦茶でも飲もうと冷蔵庫を開けると、ラップのかかった皿があった。蛍光ピンクの付箋が貼ってある。
「ひとりだとカップラーメンとか食べる気がしたので」と付箋いっぱいに書いてあった。
見透かされていたことに思わず苦笑する。
影山がつくったピーマンの肉詰めを食べてから、風呂に入った。毎週見ているドラマを見て、ひとりごとを言った。
ぼーっとしながら飲んだハイボールに咽て、「咳をしても一人……」と呟く。その瞬間、テーブルに置いてあったスマホが震えた。
影山からのLINEの通知だった。送られてきたのは東京タワーの写真だった。夜景を撮る難しさというものはあれど、こんなにブレブレなことってあるだろうか。
「東京タワーすげえ震えてない?東京寒いのかな」
俺が送ったボケはまんまとスルーされ、「ご飯食べました?」とだけ送られてくる。
「うまかった」
「よかった」
「仕事終わった?」
「まだ少しかかるみたいです。ホテルに戻ったら連絡します」
「いいよ、疲れてるだろ。明日も頑張れよ」
「菅原さんも」
そのあとに送ったスタンプに既読がつかなかったので、撮影に戻ったのかもしれない。
いつの間にかドラマが終わっていたのでテレビを消そうとしたが、リモコンがテレビ台のそばにあった。
面倒くさいなあと思いつつも立ち上がり、テレビの電源を消す。ふと違和感を感じてテレビ台を見返した。
「あれ、カメラがない」
影山に贈ったライカは、確か今朝までここにあった。フィルムが何枚か減っていたから、知らない間に撮ったのだろうとは思っていたが、まさか東京に持って行ったのだろうか。
明日は金曜日だ。よし、もう一息。クリスマスを前にテンションの上がり切った子ども達を相手にしなければならないので、英気を養うために早めに眠ることにした。
夢の中で、俺は見知らぬ男性の前で正座をしていた。何やら説教をされているようだ。俺は自らの落ち度を謝罪し、彼の怒りを宥めながらネチネチ何か言われるのをひたすら聞いていた。この男は誰なのか。なぜ俺は叱られているのか。よくわからないが何となく俺が悪い気はした。夢とは、そんなものだ。
嫌な夢だったな。と思いながらベッドから降り、しばらくぼんやりする。見知らぬ男、というもののどこか見覚えがあるような気がした。確実に俺の知り合いではない。
はて、誰だったか。これまた影山が用意してくれていたスープに焼いたパンをつけて、あれこれ考える。
呑み込んだパンが変なところに入り、咽た。慌ててティッシュを引き寄せたその瞬間、ハッとする。
俺は「咳をしても一人」でググった。この自由律俳句を詠んだのは尾崎放哉という俳人だ。顔を検索してみると、ビンゴだった。
夢から目覚めてだいぶたつもので、記憶は薄れつつあるがこんな顔だった気がする。少なくとも髪型や格好はこれに近い。
昨晩俺が「咳をしても一人」と呟いた瞬間、影山から連絡がきたことを続けて思い出し、「だから怒られたの?」と思った。
まあ、確かに俺は一人ではない。ちょっと格好つけてみただけのつもりだったが、尾崎放哉からしてみれば誤用(そんなつもりはなかったが)され、軽々しく引用されるのは遺憾だったのかもしれない。
そんなことを考えていたら、軽く遅刻した。
終わり