賛否両論の2身体はとっくに熱を失い、2月の夜の冷気が肌を覆っていた。赤葦はグラウンドの土を目一杯蹴りながら、体育館を目指して走った。正面入り口よりも、外から直接確認した方が早い。わずかに明かりが洩れた鉄扉を開ける。しかしすでにそこには、後片付けをしながらダラダラと駄弁っている一年の姿しかなかった。
「……他のみんなは?」
赤葦の姿を認めた後輩達が、「お疲れ様です」と慌てて姿勢を正す。
「ぼ、木兎先輩達なら、もう更衣室に行ったと思います」
「そう……お前らも遊んでないで早く帰りな」
「はい……!」
切らした息を整える間もなく、今度は部室へ向かう。窓から明かりが煌々と点っていた。中から木兎達の笑い声が聞こえる。ホッとして息を整える。
扉を開けながら「お疲れ様です」と言うと、制服に着替え終わった三年生達が一斉にこちらを見た。
「お疲れあかーし!早くメシ行こ~」
「待ってください木兎さん、今着替えを」
「告られた?なあ告られてたのか?」
「……告られてないです」
木兎や小見からの絡みを躱しながら、脱いだジャージで汗を拭う。ゆっくりと部屋を見渡し、赤葦ははたと気付く。
「……木葉さんは?トイレですか?」
「んー?ああ、木葉帰ったよ」
ベンチで携帯をいじっていた猿杙が顔も上げずに言う。「折角待ってたのにねえ」
「赤葦ばっかモテるのに腹立ったんじゃね?そこの紙袋蹴り倒していったぜ」
笑いながらそう言う小見を、鷲尾が嗜めた。
「今日に限っては真実味が増すから止めてやれ」
「鷲尾、それフォローになってないから……」
状況を把握しきれずに赤葦がわずかに苛立ちを見せる。
「いつ?」
「ん?」
「いつ帰ったんですか、木葉さん」
自然と強くなる語尾を何とか誤魔化しながら木兎を問いただす。
「え?10分前くらいかな?何か約束してたの?」
赤葦は自分のスマホを確認してため息を吐いた。「いえ……」
「彼女と約束とかしてたんじゃねえの。何か急いでたし」
「え……木葉さん、彼女いるんですか」
「いや?聞いたことねえけど。何かケーキの箱みたいなの持ってたし、人にあげんのかなって」
「あ~じゃあ俺らにくれたやつカモフラージュだったのかな?練習的な感じで」
「逆チョコかぁ~。やるじゃん木葉」
勝手なゴシップに盛り上がる一同を遮って赤葦は訊ねた。
「ちょっと待ってください……何ですかチョコって」
全員きょとんとした顔を浮かべる。
「え、さっき食べたじゃん……あ!そっか、あかーしいなかったから!」
「勿体ねえ~!そりゃ木葉からではあったけど、味はマジで美味かったのに」
「いやでもそんだけ貰ってりゃ別に惜しくも何ともないだろ。……俺らと違って」
小見の一言で「言うなよ」「一緒にすんな」と場がヒートアップする。一方で赤葦は頭を掻き乱したい衝動に駆られていた。今やすっかり気落ちして、ロッカーの一つでも蹴り飛ばしてやりたい気分だ。代わりにごつんと頭をロッカーにぶつけると、深いため息をついた。
「ダイジョーブ?あかーし……」
心配そうに顔を覗き込んでくる木兎を横目で見ながら言った。
「木兎さん、余ってないんですか。木葉さんのチョコ」
「もうない、食べちゃった……ゆきえちゃん達がくれたのなら多めに貰ったからある……」
木兎はラッピングされた菓子袋をおずおずと差し出す。「本当は食後のおやつにするつもりだったけど……」
惜しいという気持ちを隠そうともしない木兎にクスリと笑う。
「ありがとうございます。お二人のなら誰かがロッカーに入れておいてくれたみたいなんで、大丈夫です。食べていいですよ」
木兎はぱあっと笑顔になり、菓子袋を大切そうに鞄にしまった。ロッカーの中に、他にチョコらしきものは見当たらなかった。
行きつけのファミレスで夕飯を済ませ解散した後、再びスマホをチェックする。クラスメイトからメッセージが届いているくらいで、他には何も届いていなかった。
木葉はきっともう家に着いているだろう。誰かの家に居る可能性もなくはなかった。電話してみようか、と思ってすぐにやめた。赤葦と木葉は、何の用事もなく電話ができるような仲ではなかったからだ。
◇ホワイトデーの日にはもう三年生はいないのだと気付いたのは、彼らが卒業したあとだった。卒業はあまりにも呆気なかった。木兎達も涙ひとつ見せず、「またなー、あかーし!」と部活帰りのような気軽さで手を振り、学びの庭を飛び立った。
また明日も来るのではないか、そう思わせるあっけなさだった。そんな様子だったから、翌日の部活に来なかったことでさえ拍子抜けした。
「だってまたすぐ会うじゃん」
休日、カフェで落ち合った木兎がストローを咥えながら言う。
「木兎さんとはそうですけど。たぶん他の先輩方とは疎遠になるでしょう」
「なんで?会いたいっていえばみんな集まるだろ」
「木兎さんが誘うならともかく、俺の口からは言えないですよ」
「なんで?」
木兎には分からないだろう、と思っていたが本当に不思議そうにされると自分の感覚の方が変なのかと首を傾げたくなる。
互いの家にも勝手に上がり込める程の木兎と、他のメンバーでは決定的に違う。ただでさえ学年が違う気まずさがある。
気の良い人たちだ。「会いたい」と言えばあっさり頷き集まってくれるだろう。でもきっと各々の脳裏には「何故赤葦が?」という疑問が浮かんでいることだろう。
赤葦だって彼らと仲良くお茶をしばきたいわけではない。ただあの頃のように、当たり前に体育館に集まって、当たり前にバレーをして、当たり前にくだらない話をする。そんな何気ない日常が、もう二度と戻ってこないあの日常が、恋しいだけなのだ。
「もう大学の準備とかしてるんですか」
珈琲をスプーンでかき混ぜながら訊ねると、木兎は「ちょいちょい」と答えた。目の前のパフェに夢中だ。
木兎はスカウトによってかなり早い段階から梟谷とは別の大学に進学することが決まっていた。
「卒業の後、他の人には会いました?みんなどうするんですか」
「卒業式の翌日焼き肉食いに行ったのが最後かな?みんな結構忙しくなるっぽくてさー。鷲尾とか東京出るから引っ越しの準備で大変みてぇ。木葉なんか黒尾と俺とでどっか旅行いこって言ってたのに急にバイトと車校行き始めてさー。大学慣れてからってんでゴールデンウィークくらいになりそう」
「……最後の方、部活も顔出さなかったですもんね」
「赤葦さー、木葉のこと気にしてるよな」
「……そうですか?」
「気のせいかな?そんな感じしたけど」
「俺だけチョコ貰えなかったからかな」
「えー!?だってあかーし他の子からすっげー貰ってたじゃん……どんだけチョコ好きなの」
「別に、チョコが特別好きなわけじゃないです」
「そなの?」
パフェに刺さった飾りのチョコレートを隠すようにしていた木兎は、ホッとした表情を見せる。
「今年もお返しした?」
「しましたよ、できる範囲で。3年の先輩には間に合いませんでしたけど」
「マメだな~。本命じゃない子にもやってんでしょ?勘違いされない?」
「貰うときに一応、確認はしてるんで」
勘違いされがちだがマメなのは赤葦の母親だ。こういったイベントごとが好きな彼女は、紙袋いっぱいのお菓子を見て、当たり前のようにお返しを用意してしまう。赤葦は当日それをリストに書かれた通りに配ればいいだけだった。
「あかーしって好きな人いんの?」
「何ですか急に」
「気になったから。だって俺らそういう話したことないじゃん」
「はあ。特には」
「ふーん、ならいっか。本命いるのにお返しすんの、まずいんじゃねえのと思ったからさ」
「……それはご心配どうも」
木兎はグラスの下に溶けてドロドロに溜まった色んな液体をスプーンで混ぜながら「しょっぱいもん食べたい。焼き肉食いに行く?」と言った。聞こえないふりをした。
三年になった。冬までバレー部を続けるつもりの赤葦には、塾に行く暇などない。かといって成績を落とすわけにもいかない。となると授業と日々の予習復習が重要になってくるのだった。
いつの間にか部活が終わった後、まっすぐ家に帰らず行きつけの喫茶店に寄るのが習慣となっていた。家に帰ってご飯を食べ、風呂に入ると身体が自然とオフに切り替わるせいで勉強が捗らないのだ。
その喫茶店は客層も落ち着いており、時間帯的にも人が少なく適度な雑音が心地よい。店員がしつこく世話を焼かないのも気に入っているところだった。珈琲一杯でも嫌な顔をせず長居を許してくれるのも良い。
数学の宿題を片付けて一息つくと、白いノートに影が差した。顔をあげると女性店員がにっこりと笑ってこちらを見ている。あまり見ない顔だった。最近入ったのだろうか。
「……何か?」
「随分熱心に勉強されてるんですね。その制服、梟谷ですか?」
「そうですが……」
「よかったら珈琲のおかわりどうぞ」
「どうも」
なみなみとカップが満たされる様子を見ながら、「あんまり構って欲しくないな」という気持ちが滲む。にこりと微笑んで去って行く彼女の姿を見送りながら、それでも不思議と不快にはならなかった。