警察署で蕎麦を食う「潜尚保さんの身柄を●●警察署にて預かっています」
電話口の男は淡々とそう言った。俺はそれに負けない抑揚のなさで「なるほど」と返した。電話口の男は一瞬黙り込んだ。これで次の瞬間、「信じておられないようなので潜さんに代わります」とか言って「広尾さんすみません俺、妊婦を撥ねちゃって。今日中に示談金300万振り込んで欲しいんです」って全然知らない声が聞こえてきたら面白いのにな、と思ったけど、男は「過去にもこんなことが?」と訝し気に尋ねてくるだけだったので潜の名誉を思い「俺の知る限り、警察のお世話になるのは初めてだと思いますけど」と答えるしかなかった。
男はそれから誰に代わることもなく、「お手数ですが、●●警察署へお越しいただけますか。」とだけ言って電話を切った。事件の話も口座の話も一切されなかった。それから俺は、騒がしい居酒屋に戻り、「同居人が捕まったから帰る」と言って適当に金を卓に置き、説明を求める同級生たちのことも置いて夜の渋谷を抜け出した。内心そこまで焦りはしてなかったけど、タクシーの運転手には目的地を伝えた後、「あー、急ぎ目で」と頼んだし、運転手もバックミラー越しに「え?」という表情を浮かべたあと緊張感に満ちた声で「違反にならない範囲内で、頑張ります」と言った。
ヒュンヒュンと移り変わる夜の繁華街を眺めながら、先ほどの電話を反芻する。潜が人を殴ったらしい。被害者の怪我は全治2週間。頬の肉を切り歯がぐらついたこと以外は、幸いにも大きな怪我ではなかった。俺に連絡が来た理由はごくシンプルで、俺と潜がルームシェアをしているから。もっと言えば本来保護者であるはずの潜の母親とはおそらく連絡がつかなかったからなのだろう。
潜が人を殴ったと聞いてまずはじめに「見たかった」と思った。そのあと「潜が人なんて殴るだろうか」とも思った。この二つの感想の根は同じで、初等部の頃に出会って12年間、俺は潜が激昂する瞬間を一度も見たことがなかった。いつもぼんやりとしており、悪口を言われても反応が薄く、小突かれたとて泣きもせず、理不尽に叱られても「はぁ」と力なく頭を下げ、俺との共同生活でただの一度も不平不満を言わなかった。自分の父親が俺の母親と逃げた、と聞いたときでさえ表情を変えなかった奴だ。「街中であいつらに会ったら、お前殴る?」と聞いた時、潜は手の中にある缶のおしるこの原料表示を眺めながら、「いや、別に……父親とはいえ、他人の人生なんで……」と答えた。すっかり人が変わってしまった母親の姿を見ても、そんな言葉が言えるもんなのか。他人に興味がないのか。それとも感情ぶっ壊れてんのかな。俺にはよくわからない。
取調室に入るとき、一応神妙な顔でも浮かべておくか、と思ったのに一瞬で馬鹿馬鹿しくなってやめた。警察官に案内された扉の先には無機質な空間が広がっており、部屋全体に不釣り合いな出汁の香りが漂っていた。正面に色気のない事務机があって、そこに今朝ぶりに見る顔があった。丼を前にした潜はほんの一瞬だけ俺に視線を向けたあと、何事もなかったかのように顔を伏せてズズッ、っと蕎麦を啜り、箸で山菜を摘まんで口に放り込んでいる。
「ほ~いい食いっぷりだ。山菜蕎麦をチョイスするなんざ、渋いねぇ」とデスクに肘をかけた恰幅のよい中年刑事が笑った。
「いいんですか、出前なんて食わせて」
規則違反では?と思ったことを口にする。取調室でかつ丼を振る舞う、という刑事ドラマの鉄板ともいえる行為は、実際のところ「自白に向けての利益誘導につながる」という理由で禁止されているらしい。正面のパイプ椅子に座っていた刑事が振り返り、「もうこの時間ですし、今回は任意同行なんでね。逮捕されてたらダメです。ちなみに彼の自腹ですよ」と首をすくめた。
「潜さんには一通り伺ったんで、一応この後は釈放予定です。その前に念の為あなた……えー、広尾さん、からもお話し聞かせてもらえますか」
「俺が?何故?」
促されるままに空いていたパイプ椅子へ腰を下ろしながら、鸚鵡返しに聞く。
「ここでは被害者、としておきますが、セラ、という男性ご存知ですよね」
刑事は写真を差し出しながら、繰り返し“被害者”のフルネームを口にした。俺はそれに答えず、卓上に乗せられた写真を見る。見覚えのある男が、年甲斐もなくぶすっと不貞腐れたような顔を浮かべ、頬を膨らませている。腫らしているというべきかもしれない。潜に殴られた名残なのだろう。込み上げてくる笑いを押し殺した結果、含み笑いになった。
「なんでもあなたの恋人だとか」
「は?赤の他人になって久しいですけど」
刑事は俺の目をじっと見つめたあと、小さくため息をついて事の経緯を説明した。聞けば、セラは俺の不在中にマンションを訪ねてきて在宅中だった潜と鉢合わせたのだという。潜の存在を知らなかったのだろう(話してないから当たり前だが)、激昂したセラは「誰だよてめぇは」「倖児出せ」と怒鳴り散らし、潜の胸ぐらを掴んだ。そんな状況下にありながら潜は落ち着いた様子で、自分と俺はただの先輩後輩の関係でしかないこと、ただルームシェアをしていること、俺は外出中で行き先も知らないこと、近所迷惑であること、このままでは調理中の鍋が焦げるので出直してほしいことを淡々と話した。激昂している人間と、真っ当なことを言う冷静な人間の相性は、悪い。セラの怒りのボルテージは最高潮に達し、潜に殴りかかった。
じゃあ被害者は潜じゃん、という顔を向ける俺に、刑事は首を振って続きを話す。
突然の暴力だったにも関わらず結果、潜は咄嗟に拳を避けた。対象を失ったセラはその勢いのまま床につんのめり、潜は此れ幸いと扉を閉めて台所へ向かった。鍵を掛けなかったことは、こいつの詰めの甘さとしか言いようがない。既に手遅れだった鍋のふたを開けたのと、勝手に自宅へ侵入したセラが再度潜を殴りかかったのがほぼ同時だったと言う。拳を受け、潜は顔を顰めた。それが痛みによるものなのか、はたまた万物に対する煩わしさか。だらりと力を抜いた潜は、一瞬だけ加害してきた男の顔をぼんやりと見つめた。そしてそんな素振りも見せずに、次の瞬間セラの頬に拳を叩き込んだ。
110番通報したのはセラ本人だったらしい。連行し、二人から話を聞いたが最初に手を出したのはセラであり、重ねて不法侵入の罪も重ねている。馬鹿な奴、と思いながら、俺は潜の背後に立ち、殴られたという頭を調べた。髪に触れると一瞬潜の身体がピクリと反応したが、何事もなかったかのようにそのままそばを啜り続けている。ぼさぼさの柔らかな猫っ毛をかき分け、地肌に触れる。指の腹で頭をそっとなぞると、ぽっこりと腫れているのが分かった。
「潜さん、取り調べには素直に応じてくれてるし、反省してらっしゃるし……正直言ってお互い様なんでね。まあ、あとは話し合いで解決してもらうのがよろしいかと」
潜は丼を両手で抱えてズズズ、と汁を啜っており、世の中にはいろいろな形の反省の見せ方があることを教えてくれていた。俺は潜を指しながら口を開く。
「お互い様?コイツの頭腫れてんすけど」
「でもね、あちらさんも歯が1本なくなってるから」
「グラついただけって聞いてましたけど」
「先ほど抜けたらしい。結構ひどい虫歯だったみたいよ」
「じゃあむしろ良かったじゃねえか。善行だろ。でもあっちはストーカー行為に不法侵入、暴行。話し合いでなんとかなる人間がすることなんですかね、これが」
刑事は俺を見て、ハァ、とわかりやすくため息をつき、片手で大きく髪の毛をかき撫でた。
「でもねぇ、ストーカーって言ったって……付き合ってたんでしょう?お互い怪我も大したことないし、潜さんもセラさんも学生さんですし、未来ある若者に前科がつくのは、こちらとして胸が痛むというか……ね?」
「つまり、たかがゲイの痴情の縺れごときに介入する暇はねぇ~ってことすか」
「やぁ、そうは言ってませんけど……困ったな」
刑事2人は顔を見合わせた。ひとりは苦笑し、ひとりは頭を抱えるように首をかしげる。
「今回のことはすべて調書にはとってるんで、次何かあったらすぐ動けますから。ね、今の彼氏もお強いみたいだし。あなたも平均的な男性と比べてもタッパはデカいんだし」
揶揄するような物言いに、何を言っても無駄なのだと悟り、黙り込んだ。
「わかっていただけて何よりですよ。被害者……いや、加害者かな?セラさんの方にはお二方にはもう近づかないようちゃんと忠告しておくんで今日のところは」
刑事が最後まで言い終える前に、部屋の空気を揺らすほどの大きなため息が聞こえた。全員の目が潜に向けられるのと、ガン、と音を立てて丼が机に置かれるのがほぼ同時だった。部屋に訪れた静寂など全く気にしていない様子で、すん、と鼻を啜っている。割りばしを箸袋に突っ込むと顔をあげ、唖然としてる警察官たちに向かって口を開いた。
「PayPay、使えますか」
□
コツコツと二人分の足音が廊下に反響する。とある家の前を通る時、豪快な水音とガキのはしゃぎ声が聞こえた。シャンプーの匂いに混じって、どこからかカレーの匂いがする。夕飯にしては遅すぎる時間だが、残業から帰ったどこかの父親が鍋を温めているのかもしれない。突き当りの角から同じ階でよく顔を合わせるおばさんが、両手にゴミ袋を抱えて出てくるのが見えた。すれ違う際、俺たちを二度見した挙句、「あら大丈夫だったのォ?」と言うのが聞こえた。俺たちはそれを無視して家に入った。靴を脱いでいる潜の後ろ姿が、いつもより億劫そうに見える。さすがに堪えてんのかもな、と思い「大変な目にあったな」と声を掛けたら、想像以上に他人事のような言い方になって自分でもちょっと引いた。
潜は黙っていた。シカトされるのかと思ったが、脱いだ靴を三和土に放り投げた潜がぼそりと「っていうか……今回がはじめてじゃないんで」と吐き捨てるのが聞こえた。一見淡々とした小さな声だったが、その言葉の端々に苛立ちのような棘が滲んでいる。
「は?何が」
「知らない人が押しかけてくんの、今回で3人目。……どんな別れ方してんですか」
うんざりとした様子でひっくり返った靴を足で直しながら、「警察沙汰にまでなるとは思わなかった。ふざけんなよ」と独り言のように呟いた。もはや敬語を使うことすら放棄している。目を合わせることすらせず、リビングに消える潜の背中をただ見送った。
潜は「知らない人」とは言ったが、別れた恋人のいずれかなんだろう。誰だったのか、全く見当がつかなかった。誰がやってもおかしくない、という意味で。天地が直っただけで、まだバラバラの方向を向いている潜の靴を直しながら、「嫌なら俺に言えばよかったのにな」と思った。優や沼が聞いたら「お前!そういうところだぞ」「いい加減にしろよ、潜が可哀相だろうが」と口々に怒りだすだろうが。
リビングには焦げ臭さがまだくすぶっていた。シンクに蓋が開いたままの鍋が放置されている。底に宇宙よりも深い闇が、水に浸かって広がっている。生前は一体なんだったんだろう。前日まで冷蔵庫にデカい豚肉の塊があったから、角煮でも作っていたのかもしれない。
ソファに座ってスマホを開くと、知らない番号から着信履歴が大量に残されていた。着拒して全部消した。ついでに未登録の番号から着信を受け付けない設定にする。
全然反省してねーじゃんこいつ。意味わかんねぇ、死ねばいいのに。放り投げたスマホがテーブルの角にガン、と当たって、そのまま床に落ちた。寝そべり、天井をぼんやり見つめる。風呂場の方から聞こえる物音に耳をそばだてる。シャワーを浴びた潜はいつもキッチンで水を飲み、汗が引いてから部屋に引っ込む。今日は、どうすんだろ。
少し後で、潜はあっけないくらい普通に、キッチンに入ってきた。白Tに短パン、首にかけたタオルで髪から滴る水を怠そうに拭っている。冷蔵庫からミネラルウォーターを出して一気に飲み干すと、バリバリとラベルを外し、ペットボトルをビニール袋に放り込む。ラベルは片手でくしゃくしゃに握り潰し、ゴミ箱に捨てていた。ゴミ箱のペダルを踏んで蓋を開いたとき、潜の動きが一瞬止まったことには、気が付いていた。
ペタペタ、と自室に向かって歩き出す潜を横目で見ながら、俺はこのまま潜が出ていくんじゃないかと、なんとなく感じていた。そう思ったけれど、止める手立てがない。そもそも止める必要ってあるのか。別に俺は困らない。ここは俺の父親が所有するマンションのうちのひとつだから、家賃を折半してるわけでもない。飯なんてUberで事足りるし、消耗品のストックの場所だって探せばいつかは出てくる。なければ買えばいいだけの話だ。なんならお前の方が困るんじゃねぇの、と思う。行く場所あんの。突然友達の家転がり込むんだって、遊びたい盛りの大学生の一人暮らしに、居候って邪魔だろ。バイト増やすの?それとも、あの家に帰るつもりなの?でも、やっぱりなんとなくわかってる。潜はこういうとき、何のためらいもなくあっさり出ていくし、路頭に迷ったりもしない。なんとなく、上手くやっていくんだろう。
「ごめん」
隣接する部屋の引き戸に潜が手を掛けた瞬間、俺の口からはそんな言葉が零れた。悪いと思ったから、というよりも、今の潜に掛けられる言葉なんて、それくらいしか思いつかなかった。ごめんってどういう意味だっけな、くらいのマインドだから、当然俺の顔は申し訳なさそうにはしていなくて、振り返った潜が呆れたような目つきで俺を見ていた。「思ってもないこと言うな」とか「謝ればいいとか思ってんだろ」とか言われるかもしれない、くらいの覚悟をしたけど、潜は何も言わなかった。興味なさそうに部屋に引っ込んだ潜が後ろ手に扉を閉める寸前に、「明日以降の皿洗い、自分でやってください」というのが聞こえた。
翌朝、潜は起きてこなかった。それか俺が寝てるうちに家を出たのかもしれない。シンクに残された鍋の焦げをどうするか迷った挙句、丸ごとゴミ袋にぶち込んで、Amazonで新しい鍋を買った。4限までぶっ続けで授業がある日だったから、そのまま家を出た。
授業で顔を合わせた同級生の何人かは「同居人どうなった!?」と興味津々で尋ねてきたので「何の話だっけ」と返した。説明するのが面倒だった。飲み会から抜け出すための言い訳だったのだと思い込んだ奴らは不満げに「次こそは最後までいろよ」と文句を垂れた。
昼休み、学食で優に会った。同じキャンパスに通っていても別の学部だから、会えるとしたら食堂くらいしかない。「学食にいんの珍しいな」と正面に座りながら、優はにこやかに夏の予定を話し始める。優の親戚が所有するコテージを借りて2、3日のんびり過ごそうという以前からの計画だった。
「沼井が車出してくれるっつーから、8時半くらいにお前ら拾ってそのまま行こっかなって。途中SAとかで昼飯済ませて近くのスーパーで食材買い込んで……14時前とかには着く予定。沼井は平気だっていうけど一応途中で運転変われるように潜に免許証持ってこいって言っといてくれ」
「あ、潜来ないかも。つーかもううちにいないかも」
「え?は?何?……あ、もしかしてまたなんかやらかしたのかお前」
「わかんねーけど、潜怒らせた」
聞く前からどうせ俺が悪いという顔をしていた優に、事のあらましを説明する。優は何度か目を見開き、何か言いたげに口を開いたが、最後まで聞き終えると深いため息をつき、頭を振って「お前ってクズだわ」と言った。そしてカレーを2、3口食べ進めたあと、目の前にある水の入ったグラスを呆然と見つめ、「……クソ野郎」と呟いた。
「そこまで言う?俺も被害者なんだけど」
「身から出た錆っつーんだよお前のは」
苦々しい声で優が非難したその瞬間、テーブルが震えた。俺のスマホに2人分の視線が集中する。
「潜か?なんて?」
「いや、Amazon。鍋、今日中に届くって。お急ぎ便ってマジで早いんだな」
「どーーーでもいいわ!そんなこと」
カレーを完食したあとも優は、俯いたままスプーンで皿をなぞるようにこそいでいた。
「……でも、まあよかったのかもな。なんつーか、お前らの関係ってちょっと変だったし。共依存って言うか」
「共依存」
「詳しいことはわかんないけど、不健全だなとは思ってた。悪いけど」
「別に、悪かないよ」
「……ないとは思うけど、潜が俺を頼ってきたら、お前よりもあいつとるから。お前には教えないし」
「うん」
汁に浮かぶ油を箸でつつく。ひとつにまとまった大きな油の下には、蕎麦の切れ端と一緒に山菜が沈んでいる。
「食えねぇのに頼むな」
「昨日、美味そうに食ってたから、本当は美味いのかと思って。でもやっぱただの野草」
野草て、と優が苦笑して、小さく呟いた。
「なんでお前らって、そんなに長く一緒にいたんだろうな」
□
配達完了メールが届いてるのに、宅配ボックスにも玄関前にも荷物はない。誤配達だと面倒だなと思いながら玄関ドアを開けた。靴があった。畳まれた段ボールがシューズボックスに立てかけてある。リビングに入ると、コンロには新品の鍋が置いてあって、ソファには焼きおにぎりをもそもそと咀嚼する潜の姿があった。いつもに増して寝癖がすごく、瞼は腫れぼったい。
まだ出ていってなかった。一日寝てたんだ、こいつ。荷物を床に置きながら「受け取り助かる」と言うと、発音は限りなく「ん」に近いくぐもった声が返ってきた。
「優が、旅行のとき免許証持ってきてって」
いや行かないっすよ普通に、とか言われるかもなと思いつつ伝えると、肯定なのか否定なのかわからない「ん」が聞こえる。まあ伝えるだけ伝えたから、と心の中で優に言い訳をする。
その日の夕飯は青椒肉絲だった。皿は軽く水で流して食洗器にぶち込んだ。翌日も潜はこの家に帰ってきた。潜の様子に特に変わりはない。ただ、少しだけ我儘になったような気がする。いや、違う。潜が我儘になったというよりも、俺の我儘に対してはっきり嫌だと言われることが増えたのだ。本当に些細なこと──筑前煮に絹さや入れるな、とか、クーラーあと2度下げてとか、そういうの、全部無視された。そのくせ、ソファで寝落ちすると「部屋で寝てください」と叩き起こされる。無視したまま寝ると、いつの間にかブランケットがかけてある。遅く帰った日は風呂が沸かしてあって、リビングはクーラーがつけっぱなしになっていた。
皿はいつの間にか潜が洗うようになっていた。「広尾さんに任せると、汚れ落ちきらないんで」と直々にクビを宣告されたのだ。
部屋の隅で、ボストンバッグに荷物をまとめている潜を見て、心が波立ち騒いだ。旅行の前夜だから、当たり前の光景なのに。
「……潜、Switch持ってってよ」
「嫌です、重いんで」
「あっちでマリカできるじゃん」
「はあ……広尾さんが持ってったらいいじゃないですか」
「じゃあドライヤー入れて」
「大将さん、別荘にあるって言ってましたよ」
「2個あったほうがいいだろ」
「……なんで荷物増やそうとするんですか」
答えないでいると、潜は財布の中に免許証が入っていることを確認してから、ボストンバッグのファスナーを閉じた。
「寝ないんですか。俺、起こせないっすよ」
そう言って立ち上がる潜の後ろをついていく。潜が自室の扉を開けようとドアノブに手をのばしたその瞬間、背後にまだ俺がいることに気付き、怪訝な顔で振り返った。
「……え、なんですか」
「一緒に寝たら朝、沼井が起こすとき楽かなって」
潜は呆れたように首を傾げながらも、何も言わずにベッドに入った。
「詰めて」
ブランケットをめくりながら奥へ行くように促すと「本気か?」という顔をした潜が俺をじっと見つめたあと、黙って場所を空けた。「嫌だ」という言葉の代わりに「消しますよ」という声がして、部屋が暗くなる。あ、枕持ってくりゃよかったな。一度ベッドに入ってしまうと出るのが面倒で、少し考えたあと、俺は潜の頭の下から枕を抜き取ると、それに頭を乗せて目を閉じた。頭おかしい、と半分諦めきったような呟きが聞こえた。
「潜も使う?もっとこっち来たら」
鬱陶しそうに身体を丸めて寝ようとする潜を力任せに手繰り寄せ、枕の端に乗せる。小さな唸り声と寝返りが起き、顰め面の潜と目が合う。瞬きをしたら、まつ毛が当たるんじゃないかってくらい近かった。
「何?」
「……大将さんと沼井さんって、なんでこんな人と友達なんだろ、って」
「はは、それ優も言ってた」
潜は黙って目を閉じた。俺の話を聞くよりも、睡魔に身を委ねることにしたらしい。
「潜も早く逃げた方がいいよ。人生めちゃくちゃにされるから」
思ってもないのに、俺の口はそんなことを言う。
少しあとで、寝息に交じって聞こえた「もう手遅れ」のひとことが、やけにくっきりと耳に残った。
おしまい