同棲に至るまで頼れる先輩だと思ってたし、実際、しっかりした人ではあるんだと思う。でも自分のことになるとどこか抜けたところがあるというか、無頓着になってしまうというか、そんな印象も確かにあったのだ。
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「俺、卒業したら東京に行くんだよね」と言われた日のことをよく覚えている。思わず盗み見た横顔は、なんだか楽しそうで、それが少し恨めしかったような気がする。東京なんて、遠い。そう言えば「車で行ける距離だってお前が1番わかってんべ」なんて笑う。
それでも、気軽には行けない。ただの先輩に片道5時間かけて会いに行くなんてできない。偶然街で会う、という道も断たれたら多分もうこの人には会えなくなる。それが、不安だった。
「なんでだよ。学校の合宿とかは難しいにしたってさ強化、お前はまた全日本ユースの強化合宿とか呼ばれるだろうし、ついでに遊び来ればいいだろ~」
そう言われたって、実際数年後、突然会いに行く自分の姿は想像できなかった。「久しぶりだな~……え、なんで来たの?」と笑いながらも惑いを浮かべる菅原さんのことはぼんやりと想像できるのに。中学の先輩たちは卒業したらそれっきり、連絡先も知らないままで俺もそれが普通だと思ってたから、きっとこの人ともそうなっていくんだろうと容易に想像できた。「簡単に言わないで下さい」という言葉は、冷めた肉まんとともに飲み込んだ。
水色のマフラーも、味のある茶色いレザーのバッグも、あの後ろ姿を見かけることがなくなったな、と感じる頃には新しく入ってきた後輩の顔と名前もすっかり覚えて、縁下さんが主将と呼ばれることにも慣れてきて、もう季節は夏になりかけていた。菅原さんからは、1度も連絡はなかった。落ち込みはしなかった。裏切られた、という気もしなかった。ただ、まあ、そうだよなと思っていた。当然のことだよなと思っていた。
だからこそ、「部活の休みってどんな感じ?夏休み結構長く帰省してるから遊ぼ」とラインが来たときは、びっくりしたというよりも「うわ、この人間違えてるよ」と思った。部活自体は終わって、自主練はご自由にどうぞの時間だった。親に一言「遅くなる、飯は食う」と連絡してからラインに気付いた俺は、そこではじめてムッとした気持ちになって「俺、影山です」と一言返した。体育館の隅に置いてあったタオルの上に投げ捨てるようにスマホを放置してトス練を続けた。
さすがに見回りの先生に追い出されて、そういえば、というポーズで(実際は練習中もラインのことがずっと頭の片隅にあった)スマホを確認する。5件の通知。そのうちの1件は親からの「了解」というスタンプだった。
「俺、影山です」に続くメッセージを内心ドキドキしながら確認する。
『え 俺は菅原ですけど……何?』
『休みなかったら練習終わった後に飯食うだけでもいいぞ~、先輩が驕っちゃるからな』
『※ただし牛丼屋に限る』
『あ、もしあれだったら日向達も誘っていいから』
3回、読み直して俺に宛てたメッセージだ、とようやく理解した。途端に身体の中からじわじわと何かが込み上げてきて、いっぱいになった。床にモップかけてる間も、着替えてる間も、高揚感でいっぱいだった。自分でもわからないうちに、どうやら何かいいことが起こったらしい、という感覚で全身がふわふわとした心地になり、「何ニヤニヤ笑ってんだお前、キモ」と言ってきた日向の頭を右手で握りつぶした。
「……お前、菅原さんから連絡きたか」
「菅原さん?いや、誕生日にやりとりしたっきりで別に……何で?」
「た、誕生日……」
菅原さんの誕生日、確か6月だった。そうだ。しまった、おめでとうくらい送ってもよかったじゃねーか。こいつは送ってるし。もしかしたら月島の野郎も……?でもこいつは連絡来てない。俺にだけ来てる。俺だけを誘ってる。たぶん。
一進一退の攻防戦。「なんだよ」とデカい態度を見せる日向のことは無視した。当然このことは内緒にした。誘うわけない。
ほんの数日だけあった休みの日は菅原さんの都合が悪く、結局、半日練習の後に会うことになった。久しぶりに見た菅原さんは、大人びているというかシュッとしているというか、どこかが違った。「高校んときほど運動出来てないから太ったかも」と笑いながら頬を抑えていたが、髪型と少しだけ眉が違ったから、そのあたりの印象かもしれない。結局ファミレスでお互いの近況を話し、遅くなったことを謝りながらプレゼントを渡した。
「え~!ありがと!マジうれし……あ、目覚まし時計だ」
「昔、1限起きられるか不安って言ってたんで……」
「よく覚えててくれたなぁ。わ、木目調でおしゃれ~。温度と湿度もわかるやつだ、すげえ」
菅原さんは丁寧に袋にしまい直しながら「後期から早速使うわ」とにこにこした。
菅原さんはバレーサークルに入ってること、バイトをいくつか掛け持ちしていること、田中さんとはまめに連絡を取っていることなどを話してくれた。田中さんなら仕方ない、だって二人は本当に仲が良かった。この人たちはきっと大人になっても縁が続いていくんだろうと思えた。それが、本当はすごく羨ましかったことは言わずにいた。
「部活は、見に来ないんすか」
「ま~あんまり顔出して先輩面すんのもよくないしなぁ……でも青城との練習試合の時に応援しに行こうかって大地と相談してるよ」
「旭さんは?」
「旭は学校の課題が忙しすぎて夏もほぼ帰って来れないんだと。あいつ専門でバリバリ実技やってて、イベントとかコンテストとかもすげ~出まくってるから忙しいんだと思う」
「……まめに連絡取ってるんすね」
「一人暮らしってはじめた頃楽しさ半分、寂しさ半分だったしなぁ。家もあんまり居心地いい感じじゃないし。あ、写真見る?」
頷いて見せてもらった画面を見て、俺は何とも言えなくなってしまった。画角とかの問題もあるかもしれないし、写真じゃ何とも言えないという前提で──狭すぎる。ほんの少しの空間にベッド、机、ミニ冷蔵庫、本棚、そしてちゃぶ台が詰め込まれている。空白を埋めるゲームなのではないかと錯覚するほどに狭い。一時的な物置なのかと思い、顔をあげると「写真には写ってないんだけど、ここに水道がある」と付け足された。なるほど、写ってない場所に風呂とかトイレとか、収納があるのか、と納得するも、次の瞬間言葉を失う。
「四畳半、トイレは共同。風呂なし。家賃3.2万円」
「……………………ふろって、」
「ん?」
ようやく絞り出せた声はほぼカスカスになって菅原さんには届かなかった。
「風呂って、どうしてるんすか?無しってどうやって……?共同ってどういうことですか?」
「すぐ近くに銭湯あるんだよ。広いから、逆に良いまである。トイレ共同は心理的にあれだけどまあ学校も共同だと思えばな。家賃抑えるために色々削ったらこうなったってわけ」
大丈夫なんですか、それ。そんなことを言うのはさすがに失礼だと分かってるから、黙っていた。当時の俺は家賃の相場なんて何も知らなかったから、3万円超という大金を毎月払ってもこんな──こんな独房のような場所にしか住めないのだということが何よりも恐ろしく感じたし、菅原さんがケロリとしているのも怖かった。トイレに行くと必ず後から隣のおじさんが用を足しに来て、自分のちんこを覗き込んでくるのだ、と笑い話にしているのもすごく怖かった。何か大変なことがこの人に起きているのではないか。目覚まし時計なんか(写真に目覚まし時計写ってたし)より、防犯ブザーとかドアアラームとかの方がよかったんじゃないか、そんなことを思わされて、「引っ越しも検討してほしい」と念の為伝えた。菅原さんにはあまり響かないようで、「みんなそれ言うんだよなぁ……」とぼやいていた。一後輩の俺が何を言ってもあまり意味はないだろうと、直感的に理解はしていた。
店を出るとき、晩飯を驕ってくれた菅原さんに礼を言うと「いんだいんだ、お前が元気そうなら何より」と嬉しそうに笑っていた。
「影山、俺から連絡来て嬉しかった?」
「嬉しかった、です」
「俺もさ、影山から連絡きたらうれしい。わかるだろ」
俺は、ようやく気付いて、こくりと頷いた。
「連絡ちょうだいよ。どんなことでもいいから。何でもないことの方が嬉しいよ」
俺は再度頷いた。ちゃんと頷けたか自分でもわからなくて、もう一度大きく首を振った。
駅で菅原さんを見送った後、俺は月3.5万円ほどで借りられる物件を探しはじめた。東京の家賃の相場がそんなものでは済まないことに打ちのめされ、一方で仙台市内であれば(もちろん中心部は除く)、3.5万円でもっと広く、もっと新しく、風呂もトイレもガスコンロもついた綺麗なアパートに住めることも知って頭を抱えた。
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高校卒業後、シュヴァイデンアドラーズに所属した俺は上京して、小平市にある会社の寮に入った。東京で暮らす、となった時一瞬ドキドキしたが負担はほぼなく、社員食堂も併設されていてすぐに馴染んだ。
菅原さんとはあれ以来定期的に連絡を取り合っていて、内定先が決まったすぐ後には、家族より先に話したりもしていた。
「アドラーズって本拠地どこなんだっけ」
「花小金井?ってところです。あんまり東京感ないところだって言ってました」
「でっかい公園あるとこだよな」
「はい。あそこ体育館あって。俺は東小金井寄りの寮に住んでます」
「え、中央線じゃん!俺今、三鷹台住んでるよ」
菅原さんはあれから、家族、親戚、友人たちによる説得のすえ、渋々引っ越しを決めた。それがいいと思います、と俺も背中を押した。だいぶ快適になった、引っ越してよかった、と喜ぶ菅原さんに胸をなでおろしたのも記憶に新しい。
「近いですか?」
「近~……いかな?井の頭線だから吉祥寺で乗り換えてすぐ。30分かかんないくらいじゃね?」
「近いですね。5時間から30分に縮まったと思えば」
「確かにな」
菅原さんの笑い声を耳に受けながら、言ってもいいのかどうか、はかりかねていた。少し迷って、踏み込んでみようと口を開いた瞬間、「遊びに来れば?」と言われた。それは今まさに俺が「行ってもいいか」と問いかけようとしていたことの答えだったから、そのまま口の形を変えて「行きます」と即答した。
確かに三鷹台までは近かった。でも駅からはそれはそれは距離があった。地図アプリを見る限り菅原さんが今住むアパートは駅と駅の丁度真ん中、つまりどの駅からも最も遠い場所にあった。
「神泉に住んでた頃は大学近いからってみんな根城にしてたくせに、なんか段々来なくなってさ。挙句こっちに引っ越してからは駅から遠すぎるってもう誰も遊びに来ねえんだよ。薄情なやつらだよ」
そう言いながら出してくれたスリッパを履いた。玄関はほぼキッチンと一体化していた。小さなコンロの脇には、たくさんの調味料がむき出しになって並んでいる。案内されたリビングは相変わらずギュッとした印象を受けるが、最初の部屋を見ていたお陰でかなりいい部屋なのでは?という感想に着地する。あの頃はなかった小さなテレビも、かなり人間らしい暮らしを演出している。
「相変わらず洗濯はコインランドリーだけど、好きな時間に風呂入れるのがかなりよくてさ。あ、そこロフトのはしごあるから頭気をつけろよ……そう、ロフトめっちゃいいじゃん!って思ったんだけどクーラーつけてもすげえ暑くて。影山に貰った時計置いてみたら40度とかだったからもう物置にした」
今、その時計はテレビの横にちょこんと置かれている。現在の時刻とともに、28℃という数字を指していた。よく見るとその隣には絵に描いたようなアナログの目覚まし時計が置いてあって、9時37分を指したまま固まっていた。
同級生以外でははじめて人の部屋に入った。そう気がついてからはそわそわとしてしまい、「部屋の真ん中立つな。ベッドに座れ」と言われる始末だった。狭いけど、不思議と居心地が良い。というよりも、菅原さんと過ごす時間が心地よかったのかもしれない。何をするでもなく、テレビを見ながら出された菓子を食べ、最近はまっているというゲームをさせられ、夕飯をごちそうになって帰った。駅まで送るという申し出は、遠すぎるから本当にやめた方がいいと説得して断ることにした。玄関を開けながら菅原さんが俺を振り返る。
「今日すげー楽しかった。お前が東京来てくれて嬉しい。影山は社会人だしバレーあるから忙しいと思うけど、また、遊びに来てよ」
この人は、寂しがり屋なのかもしれないと思った。故郷を離れ、学業にバイトにサークルに、忙しくしていて友達もいて、それでもふとした瞬間に孤独を感じてしまうのかもしれない。それを埋める相手は、俺じゃなくてもいいんだと勘付いてはいた。
「また来ます」
そう宣言した時、安堵し、嬉しそうに照れ笑いをする菅原さんを見て、「それがなんだ」と思った。
実際、俺は休みのたびに遊びに行ったし、あの人の暮らすワンルームでたくさんの時を過ごした。最初は冷えたグラスにいそいそとお茶を入れてくれていた菅原さんも、「喉乾いたら勝手に飲みな」と大容量の麦茶を指さすようになっていたし、お互い別々のことをしていることだってあった。菅原さんが課題に追われているときは俺が代わりに飯をつくったし、Excelの使い方がわからなくて菅原さんのノーパソで教えてもらったこともあった。他の奴に埋めさせてなるものか、という意地があった。正直に言う。この頃にはもう俺はこの人を好きだったから、徒歩26分の距離だろうと苦じゃなかった。忙しいと睡眠を疎かにしがちで栄養ドリンクで乗り切ろうとするところとか、油断するとチゲ鍋を7日間連続で食おうとするところとか、面倒くさがって洗濯物を溜めがちになるところとか。しっかりしているようで、心配で目が離せなくなるこの人を少しでも支えたかった。
転機となったのは、教育実習でヘロヘロになった菅原さんの様子を見に行ったある日のことだった。最終日を乗り越えた菅原さんはかなりぐったりとしていたため、俺が変わりに風呂を沸かし、飯を食わせた。回復したころにはかなり遅くなっていたこともあり、「泊っていけば?」と打診された。ドクン、と胸が音を立てる。そう遠い距離ではなかったし、寮暮らしだったからこの家に泊まったことはなかったのだ。明日は休みだから、泊っていける。いけるけど。
「や、でも寝るとこないんで……」
「え~……一緒に寝りゃいいじゃんと思うけど、まあ嫌ならロフトに客用布団あるからいったん掃除して……」
そう言いながらはしごを上がった菅原さんが、固まり、黙り込んだ。
「?どうしたんすか」
俺の呼びかけにびくりと身体を震わせた菅原さんは、ゆっくりとはしごを降りてくる。顔が真っ青だった。何かを伝えようとして、言葉が見つからなかったかのように口をつぐむ。様子が変だ。俺は菅原さんをどかすと、はしごを登った。そこにあった光景を確認したあと、俺は警察に電話した。
ロフトには誰かが住んでいた形跡があった。乱れた客用布団、散乱した食べ物のゴミ、丸まった使用済みのティッシュ、なくしたと思っていた菅原さんの衣服。住居不法侵入罪に該当するとは思う、と警察に言われた。はじめ、酔った自分とか、友人によるものではないか、と冷たくあしらわれたものの、割とすぐに全く関係のない人間のDNAが発見されたとのことで、結構な騒ぎに発展した。
菅原さん曰く半年以上はロフトには登っていなかったらしい。鍵も掛ける習慣がなかったとのことで、警察にはこっぴどく叱られることとなった。俺が遊びにくるようになってからは戸締りをするようになったため、締め出されることになったのではないか、と聞かされた。
「……なんで気付かなかったんだろ。俺、知らん人と二人暮らしだったってこと?」
呆然と呟く菅原さんは、かなりショックを受けているらしかった。無理もない。しばらくは友人の家に泊めてもらえることになったとは言え、さすがの菅原さんもあの家にはいられないと感じているようだった。
俺はずっと考えていたことを、口にすることにした。
「あの、次は一緒に住むの、どうすか」
「え?誰と?」
「それは……、俺と」
「え、だってお前寮に住んでるじゃん」
「別に寮って絶対条件じゃないんで。出ます」
「いやいやいや、お前にメリットないよ。絶対寮の方がいいに決まってるって。それに、俺、卒業まではこのエリアからあんま離れたくないし……」
「菅原さんに合わせます。家賃も折半すれば、今と変わらないくらいでもっといいところ見つかると思うんで」
「だって遠くなるじゃん、会社からも体育館からも」
「いいですよ別に1時間くらい。自転車で通えば、アップ代わりにもなるんで」
「ええ……だって寮で美味しい飯食えて、風呂も広くて、家賃も安くてさ、そんなの全部捨ててなんで……なんでそんなにしてくれんの」
警察署のベンチで、こんなかたちで打ち明けようとしてる。変だよな、と思いつつ、俺は正直に話した。
「まあ……下心が1割、心配が9割です」
「……そういうのって普通、下心の方がデカいもんじゃない?」
「すみません、心配の方が勝っちゃって……」
菅原さんは口を大きく開けて笑った。はじめは声が出ないほど体を折り曲げて笑っていたのが、段々泣き笑いみたいになっていく。
「やばい、夢みたい」
ぽろっと零れた菅原さんの言葉で、思いがけず、自分たちが両思いであることを知ることになった。
それから何度も話し合って条件をすり合わせて、新しいマンションに引っ越した。築30年の2DK。駅からは10分ほど。菅原さんの大学と、俺の活動範囲のちょうど真ん中くらいのエリア。寝室はお互い一部屋ずつわけたけど、菅原さんはほぼ自分の寝室には戻らない。朝、起きるたびにデカいベッドにしておいてよかった、と思う。
終わり