とある面倒な隣人達 便利な場所かと思いきやどの駅からも少々距離があり、選択肢は多いのにどこを選んでも徒歩の時間は変わらない。お安めというよりはちょっぴりお高めなスーパーが多いけれど、庶民が暮らせないほどじゃない無い。
俺が住むマンションはこんな感じだ。
幹線道路も近いのに不思議と静か、木々も多い。日々の仕事で疲れた身体には辛い帰宅の道のりも、なぜかほっとする場所がいくつかあって気に入っている。暗がりも多いに不思議ではある。
マンション自体もなかなか古い代わりにしっかりとした造りで、騒音問題に悩んだことも無い。これは住人の民度によるのかもしれないが。
賃貸なら家賃はそれなり、らしいが払っていない俺は知らない。
別に俺が金持ちな訳ではなく、たまたま裕福な親族に頼まれ、留守番代わりに半端な管理費と光熱費だけで住んでいるからだ。有難いことです。
俺は性格も生活も大人しい方で、やんちゃなタイプとは真逆の存在。だからこそ家主からご指名があったのだろう。静かな住居は快適だ、だからより周囲にご迷惑が無いようにのんびりと暮らしている。
目下の悩みは仕事が忙しすぎること。朝は早く夜は遅く、便利で快適な部屋なのに殆ど寝ているのが残念だ。
暮らし始めて数日は何か妙だなと思えた理由は後日に分かった。
この部屋、天井が平均より高い。住民には背の高い外国人もちらほらみかけ、なるほどでけえ奴等にはこれくらいの余裕が欲しいのかと思ったものだ。
隣の住人も一見したところ外国人風。が、実のところよく分からない。陽気とは縁がなさそうな顔をしていることが多くて、最初はびびった。
服装は落ち着いたスーツ姿が多く、眼鏡があったりなかったり。背も高い、なかなか端正なイケメンだとは思うが、なんというか意味不明な迫力が半端ない。
変な表現だけれど、いったいこの人は何の人? というのが印象だ。
かと言って、失礼とか傲慢とかそういうんじゃない。
ごくごくたまに出くわすと、素晴らしく良い声で丁寧に挨拶をしてくれる。その所作にはなんというか、日本を感じる。
こんにちは、こんばんは。長くておはようございます。
その程度では発音から母国語は想像できず、おまけに俺に知識がない。だからと言って出身はどこですかと聞ける性格じゃあないし、敢えて言えば彼へそこまでの興味は無かった。
引っ越しの挨拶をしなかったので名前も知らない。家主からも聞いていない。そんな隣人の名を俺は突然知ることになった。
道で騒ぐパリピやヤンキーなら、うるせえなと思ってもさほど珍しい存在じゃない。
だが深夜にマンションの個人宅前で歌う男となると、珍しい分なかなか怖い。男だって怖いもんは怖い。なんかオペラとかに出てきそう。
顔はよく見えないがやたら背が高い若い男が、楽しそうに、なかなか良い声でハッピーバースデーなんて歌ってやがる。
通路には三人しかいない。俺と謎のオペラ歌手(仮)とお隣さん。
ひょっとして部屋の中なら聞こえないのかな、だから他の住人は怪しまないとか。まー、短い曲だ。おめでとうと祝福しているか、危うきに近づかず作戦かもしれない。
が!
家で、正しくは家の中でやれ。そんでもって俺を通してくれ。
深夜の不審者は通路のど真ん中に立っている。そしらぬフリをして背後を通り抜けたいが通常の姿勢では難しく、何か言われたら怖いし嫌だし面倒くさいから近づきたくない。
俺は帰って寝たいんだ。飯風呂寝る、今はそれしか考えたくない。
エレベーターの扉が開いた瞬間に気付けたら降りるのを止め、一度外へ逃げたのに。どんくさい俺はふらふらと部屋へ近づいてしまい、お隣さんと目があってしまった。
申し訳ない、顔中でそう表現する彼にとって、この客はどういう存在なのだろう。
その時パアンと高い音がして、お隣さんの顔が一部消える。
ああ、クラッカーか。紙テープだの紙吹雪だのが宙へ放たれ、舞い落ちるあれこれが彼の顔を隠してしまう。で、歌がこれっつーことは。
「はっぴばーすでーなーなみーぃ」
謎の来客は歌い続け、俺は彼がナナミィあるいはナナミという名前か苗字、もしくはあだ名であり、今日がお誕生日なのだと知った。
これまで数回しか会ったこと無かったのに。俺は週末惰眠を貪りつつ、彼らと出くわし続けた。
常に冷静沈着そうなナナミサンも慌てるんだなと思いながら、俺も毎回慌ててしまう。
二人とも美形の区分に見えたし、喧嘩では無いようだがあの様子は俺もどこ見たらいいのか分からない。俺は目を逸らし続け、ナナミは苗字ということにしておいた。
ついでに部屋へ戻るたび、彼らからするとここみたいに天井が高い方がいいんだろうなあと改めて認識した。
……のを思い出した。
今はあれから二か月半ほどが経ち、季節は秋。ナナミさんにもオペラ歌手にも会っていない。そして俺は天井を、正確に言えば切れた電球を見上げながら身長について考えている。
平均身長の俺は、背伸びをしても交換するのは難しい。あの客の方、間違いなく手が届くだろうな。そんなことを考えながら替えの電球が無いことも思い出す。
「買いに行くか……」
今交換しないと忘れ続け、電球は次々と切れそうだ。
「あ」
目当ての電球を買った俺は久しぶりに隣の扉が開くのを見た。
このタイミングなら挨拶は必要と認識した俺は、ぽてぽてと歩きつつ口を開こうとしたが、腰を抜かしそうになった。だって出てきたのはナナミサンじゃなくて横向きの頭だ、驚く。
きょろと動いた頭は艶やかなプラチナブロンドなのか白髪なのか、なんか白いからナナミさんじゃない。これは逃げた方がと思ったのに、俺は本当にどんくさいのだ。ばっちりと目が合ってしまった。
「……嘘だろ」
こんな瞳、見たことない。
これ、あの謎なオペラ歌手だよな?
「あれえ?」
にこりと微笑んだ顔にはもちろん首から下がついていて、俺に気付いた彼は外へ出てきた。ラフを極めた姿で、ちょいちょいと俺へ手を振る。
これはこっちへ来い、ということだよな。
俺は恐る恐る近づく、しかない。そうしないと部屋へ帰れないし、ここで逃げたらいけない気がする。
あの目は、あんな瞳から逃げられる奴なんかいない。俺には無理だ。
「ねえねえオニイサン、隣の人だよね。機嫌の悪い凶悪な連邦捜査官みたいな人が逃げるの見なかった?」
「れ、連邦捜査官?」
「そうそう、ここに住んでるんだけど。知ってるだろ」
「あの人、連邦捜査官なんですか?」
びっくりした。
ついでに何で日本に他国の組織の方? とか瞬時に疑問が浮かぶ。大使館の護衛とかそういうのだろうか、いやあれは軍人だった気がする。軍人? も似合うな、あの人、知らねえけど。
唖然とする驚く俺へ、背の高い男は首を傾げた。なかなか上空なので見上げてしまう。
「いや、違うけど。アイツを何だと思ってたの?」
「た、戦うマルサの諜報員かと……」
「あっは! 違う違う。税金強そうだし、似合うけどね! アイツに取り立てられたらこえーなー」
適当だ。国税に諜報員なんかいないと思うが、咄嗟に浮かんだのがソレなんだからしょうがない。しかも違うのか。
「くっそ、また逃げやがって。なあ、アイツここから飛び降りたとか無い?」
「ここから」
部屋から出てきた男は手すりから下を覗き、つられて見た俺は仰天する。そりゃ死んでるよ! 良かった、いつもの地面しかない。
良かった、誰も倒れてはいない。ってどういう想像なんだよ、それは!
「そうか、飛び降りたりはしないのか」
「しませんよ!」
ナナミさんを探しているらしい男の顔を俺は恐る恐る眺める。
突然のハッピーバースデーリサイタルの際はやたら黒い服装で、バンダナでもしていたのか顔はよく見えなかった。その後は大慌てのナナミさんが割って入ってきたから、そっちに驚いてしまい、彼の容姿に気付かなかったんだ。
そうか。ひょっとしてナナミさんは芸能関係の人で、この人はモデルか何かかな。
「……あの、俳優さんか何かですか」
「うん?」
あの人もかっこいいし、俳優とかかもしれない。
それなら納得はいくし、奔放なモデルさんを一般人の眼から隠すのは大変だろう。俺が地味で芸能界など何も知らない奴で良かったですね、とかそんなことを考えていた。気さくに話し掛けて来るから、つい油断してしまったんだ。
「ナナミさんが」
「あ?」
怖い。
だから嫌なんだ、顔が綺麗な人は。機嫌を損ねると途端に顔が怖くなる。静かに、ワントーン低くなった声。
何が地雷だったんだよ、ンなモンがあるなら話し掛けないでくれ!
「おい、オニイサン。なんであいつの名前知ってんの」
は? そりゃねえだろ、廊下で連呼していたのはアンタだろうが。これで隣人さんがナナミじゃない方がおかしいだろ。
気が弱い俺だが流石に何かを言ってやろうと、何かはこれから考えるけど、そう思った時だった。
だから! だから嫌なんだよ、本当に吃驚するからやめてくれ。
顔が綺麗な人が、俺みたいな一般人に話しかけ、笑い、怒り、そしてこんな笑顔に変わられたら。対象は間違いなく俺じゃないが、間近で被弾してみろ。ついでに今度は背後の気配がめっちゃ怖い!
鈍い俺でもこれくらいは分かる。俺の後ろには目の前の彼が会えて嬉しい相手がいて、破壊力満点の笑顔をふりまき、その誰かは俺の存在が恐ろしく不快なんだ。
だろうなー、だって顔だけじゃねえもん。この人、もう少しちゃんと服を着てくれないかなー。
俺が男だから油断をしているのだろうがこれは無い。しなやかな体躯に白い肌。やべー、この人男なのに目が痛い、なんだこれ。あとなんかいろいろ際どいんだが!
謎のオペラ歌手では無く、彼は有名なモデルということにしたので、パパラッチなどに警戒した方がいいと思う。上半身にシャツ一枚はいいけれど、羽織るならちゃんとした方がいいし、ボタンは閉めなきゃ意味がない。あとなんで裸足。
「あ」
もしかして俺のせいか? 最初は頭しか出していなかったのはこれが原因か。ならちゃんと着てから出てくりゃいいのに!
さり気なく、何とか退散したい俺の背後から怒気を含んだ声が聞こえる。
「何をしているんですか、アナタは」
「七海が!」
「……はあ。私は少々出かけますと言いましたよね」
「聞いてない!」
「言いました」
「うるせえ、俺を寝か」
「ねか?」
「少し黙りなさい。ああ、貴方でしたか。いつもすみません、またご迷惑をおかけしたようで」
スタスタと近づくナナミさんは背中を向けていたのが俺だと分かったようだ。ため息の方が主張の強い口調で、申し訳ないと頭を下げている。
「いえ、ええと」
「おい、七海。このオニイサン、なんで七海の名前知ってんの」
「これで知らない方がどうかしています。私の誕生日もご存じですよ」
そうですよねえ! ありがとうございます、名前だったのか。
俺は二歩ほど横へ動くと、七海さんが間に入る。
いつも大変だな、この人は。ぷくりと頬を膨らませた謎の白髪美人はぱちぱちと瞬きをし、また微笑んだ。すごいな、美人とその睫毛。
ここまでくると目の保養を通り越し、これ以上見たら良くない域に達して厄日になる気がする。
目の前に見えるナナミさんの後頭部がそんなに嬉しいんだ、この人。
「ま、いいや! ごめんね、オニイサン」
満面の笑みを浮かべた彼はくるりと俺へ背を向け、部屋の中へ消えていった。俺はその姿に目を見張り、その一瞬で七海さんは何を見たのか察したのだろう。シャツの隙間から見えた肌に残る、そしてあの妖艶な笑顔。
「……どうも、お騒がせを」
「いえ。ええと、ナナミさん」
「はい」
何か、と書いてある顔に俺は悩み、でも言おうと決めた。
「パパラッチには何も言いませんから」
「パパラッチ?」
「お幸せに!」
「はあ、ありがとうございます……?」
「あ」
俺とナナミさんは足元を見た。
そういえば持っていたのは電球だった。柄になく応援してしまった俺は両手で拳を握り、荷物から手を離していた。そりゃ落ちる。着地音に加え、妙な音もした。
電球って梱包が厳重なのに、どうして割れるかなー? 厄日か、これが厄日なのか。
正しくは割れたのでは無くナントカ線が切れたが使い物になりそうにない。同情したのか口止め料なのか、ナナミさんが予備の電球をくれた。
そういやナナミさんの苗字は何なんだろう。
ま、どうでもいっか。あんな美人に睨まれるのは二度とごめんだ。
どうせなら、ナナミさんを見つけて微笑むあの笑顔。それを通りすがりに見かける程度の人生でいたい。
見ないで済んだが、ナナミさんの怒った顔はご免被りたい。怖いので。迫力だけで沢山だ。