一 夜灯――僕は元の主ではなく、刀工の逸話が元になっている。
顕現後しばらくして告げられたその言葉に何を感じたか、言葉にするのは難しい。
安堵のようでもあり、落胆のようでもあり、そのいずれも納得のいく答えではなく、あるいは最も近しいのは……疑念だったようにも思えた。
* * *
秋の夜に染められた板張りから、足袋越しに冷気が這い上がってくる。
夜戦から戻り、短い手入れを終えて自室へ向かっていた肥前は、縁側を通りかかったところでふと何気なく足を止めた。硝子戸だけが閉められて、その向こうに庭の景色が沈んでいる。わだかまる影のどこかから、ちりちりと高い虫の音が聞こえてきた。
月を呑んだような夜闇だった。それでもわずかな星明りか、寝静まった廊下よりは物の輪郭が見て取れる。背の低い植え込みと、その向こうに立っているのは何の木だったか。いつだったか、朝尊が誰かに尋ねていたのを横で聞いていたような覚えがあるのだが。
ぼんやりと思ったが強いて思い出そうという気もなく、視線を外して手入れしたばかりの左腕を何気なく見下ろす。今回の出陣で負ったちょっとした斬り傷は、もはやどこにあったのか曖昧になるほど跡形もなくなっていた。
手入れというのは面白い、と顕現したての頃に朝尊が言っていたことを思い出す。
面白い、と表現するのは彼らしいとしか言いようがないが、実際不可思議だとは思う。人の身体を持ち、人と同じように食事や睡眠を必要とするにもかかわらず、受けた傷はこうしてすぐに治ってしまう。
結局、どれほど人の真似をしようと、斬るために作られた身だということだろう。まして、知識を活かせる朝尊や、楽しんで家事をすることができる刀たちのような取り柄もなければなおのこと。ただ戦場に出て敵を斬る、その時だけこの身に意味がある。
淡々と思って、止めていた足を再び進める。
廊下の角を曲がって自室に帰りつき、音を立てずに障子を開けると、顕現したばかりの頃とさして変わらない、未だ殺風景な室内が出迎えた。明かりもつけないまま、畳んで寄せてあった布団の端を掴んで雑に敷き、ベルトと手足の装備だけ放り出して仰向けに寝転がる。手入れを受けた身体からは疲労も抜けているが、それでも何かが布団に沈んでいくような心地がした。
顕現からひと月ほど、出陣の経験もそれなりに積んできたが、一番慣れないのはこうして戦場から戻ってからの時間であるように思う。戦っている最中は余所事を考えている暇などないが、本丸に戻ると何とも言語化しにくい感覚が身体の奥で渦巻いて、できもしないくせにそれを捉えようと頭が空回りを始めてしまう。今日のように戻りが深夜になるような出陣では尚更だった。暗い静寂の中に、ぽつんと浮かんでいる自分を幻視する。
不毛な思考を吐き出すように溜息をつき、横向きに寝返りを打つ。隣室へ続く襖が視界の正面に来て、そこから漏れる光が目についた。
この本丸では、小さいながらも一振りにつき一部屋が与えられている。ただ完全な個室ではなく二間を襖で仕切ったものなので実質的には二振り部屋とも言え、肥前の隣は朝尊の部屋だった。
布団に転がったまま、細い光の線をしばし見つめる。向こう側に広がっているであろう光と、その中で文机に向かう朝尊の真っ直ぐな背中が目に見えるようだった。冷静に考えると、そこまではっきりと思い浮かべられるほど何度もその姿を見たことがあるかと言えばそんなことはないのだが、それでもその背中をよく知っているという確信が頭の奥に浮かぶ。ぴんと伸びた背筋、そればかりを見ていたような記憶が。
――それは誰の背中だ。
――それは、誰の記憶だ。
光の中の後ろ姿に手を伸ばしたくなるような衝動を押し込めて、肥前は瞼を下ろす。
深追いしてはいけない感覚だ。直感的に思うほど、かえって意識はそれに支配されて。そのまま、肥前は眠りに落ちた。
* * *
鈍く重い音を立てて、ただの物体と化した肉体が闇に沈んだ。
切先から滴る赤を払うと、口の端にじわりと笑みが浮かぶ。
自分にもこれならできる。いや、自分にしかこれほどにはできまい。
これでまた認めてもらえる。
次は誰がいいか。あの人の理想のために。あの人の語る正しさのために。
次は。
次は、次は。
与えられる歓喜を期待して走る。それはさしずめ、飼い主の元に獲物を持ち帰る猫のようであったかもしれない。
そして獲物を見せられた飼い主は、不快気に眉を寄せるのだ。そんなものを求めてはいない、そんなことを頼んではいないと。
何故。
あなたは、かつてそれを願ったではないか。よくやったと、認めてくれたではないか。あの時と何が違うのか。これが正しいのではなかったのか。
受け取られなかった獲物を手の中に持て余したまま、冷えた視線に見下ろされて立ち竦む。
違う。
――『斬りたいわけじゃない』。
視線が軽蔑を宿して遠のくのが恐ろしくて口走った。実際、嘘ではなかった。それ自体が望みではなかった。
だってこれしかないのだ。
おれはただ、あなたに。
* * *
唐突に意識が浮上して瞼を開ける。
見慣れた天井の木目が視界に映り、室内の闇が薄れているのを感じて何度か瞬いた。夜明けが近いのかと思ったが、夢を振り切るように上体を起こして、そうではないと気付く。
ぴったりと閉められていたはずの襖が、寝ていた肥前のちょうど正面で人一人通れるほど開かれている。差し込む灯りはもはや線ではなく、本で溢れた部屋の様子が十分に窺えた。にもかかわらず、見える範囲に隣室の打刀の影はない。
「……先生?」
ぽつりと零れるように呼んだが、反応は返らない。
「……南海先生」
今度ははっきりと、意識して呼びかける。
すると、眼鏡をかけた白い顔が襖の陰から覗き、わずかに眉を下げて微笑んだ。身に着けている寝間着はいつもの長着と比べて色が薄く、その表情に余計に淡い印象を与える。
「肥前くん。すまないね、起こしてしまったかな」
寝静まった夜にふさわしい、柔らかな声が言う。
「いや……」
意図して起こしたんだろうに、とは思ったが言わずにおいた。
夢の残滓は既に遠ざかりつつあったが、いいものではなかったという印象は残っている。あるいは、先に起こしたのは肥前の方なのかもしれない。今が何時なのかわからないが、肥前が部屋に戻った時点で既に夜は深かった。いくら夜型の本の虫でも限度がある。
「先生も早く寝ろよ。おれは明日は非番だから、起こしてやらねぇぞ」
「ふふ。そうだね」
推測を呑み込んで極力普通の調子で言うと、朝尊は目を細めて軽く笑う。細められた瞳が、元に戻る一瞬だけひどく冷静な色で肥前を見つめた。観察するような、思案するような――そんな印象を肥前が捉える前に、瞬きひとつでその色は消える。
「実は、書に熱中しすぎてしまってね。寝物語代わりに、話を聞いてくれないか。誰かに話すと、考えがまとまって眠る気になれる気がするんだよ」
「そんな寝物語があるかよ……」
布団に潜って聞き流してくれていいから、と頼んでくる表情は無邪気そうで、先の一瞬は逆光の見せた幻だったかのように思える。それでも捨てきれない違和感に肥前はわずかに眉を寄せ、しかし言葉にできるほどのものもなくて溜息をついた。
「……本当に聞き流すぞ」
「うん。ありがとう」
深められた笑みにもうひとつ小さな溜息を追加して、言われた通り再度横になる。朝尊は開いたままの襖に上体を預けて座り、今日は刀の起こりについて考えていたのだが、などと早速楽しそうに話し始めた。
聞き流すと宣言したものの、どうにも朝尊を無下にできない肥前は初めのうち律儀に聞いていたのだが、肥前の持つ知識と遠すぎる時代の話なのもあって、寝起きの頭では半分も理解できない。途中で諦めて、ただ滔々と語る朝尊の横顔をぼんやりと眺めた。
朝尊の方も肥前の相槌などは本当に期待していないようで、肥前の方を見るでもなく、宙に向かってうたうように言葉を紡いでいる。視線がやや上方に向けられているので、隣室からの光を受けるようになった白い輪郭が先程までよりもよく見えた。
薄明りに透けるような人形めいた相貌と、柔らかく波打つ射干玉の髪。
芸術品と言った方が似合いそうな肖像に、肥前はしばし目を奪われる。そうしながら頭の隅で、回りくどい起こし方をした彼のことを考えた。
戦帰りに嫌な夢を見るのは、今に始まったことではない。むしろ次第に慣れてきた方で、初陣の時などひどい気分だった。
戦自体に問題があったわけではない。慎重派の審神者らしく出陣先は既に十分調査の済んだ時間軸で、遠征に慣れただけの経験値でも身体は問題なく動いた。
ただ、かえってそのことが、後になって肥前の心を無性にかき乱した。既にしみついたもののように身体は動いた、急所を斬る感覚を知っていると思った。それがたとえ肥前自身であれ、自らの手で刀を振るって命を断つ、それは初めてのことだったはずなのに。
そうして夜にはどこか懐かしいような悪夢に追われ……はっきりした記憶はないが、恐らくみっともなく魘された。ただ、その時は――隣室の打刀は極めて常識的に、肥前の枕元までやってきて揺り起こしたのだった。
眠りから引き戻された肥前は気付くと身体を半ば起こしていて、次第に焦点の合っていく視界は、何故か驚愕めいた温度で見開かれた鋼色を正面から捉えた。
見たことのない表情だ、と急に醒めていく頭が、縋るように彼の腕を掴んだ右手を認識して。何か口走った言葉の残響が喉の奥に漂っていた気がしたが、それも錯覚のようにまもなく消えて。肥前が何も言えずにいる間に、朝尊は今夜と同じように、どこか困ったように微笑んだ。
だから、あの時凍り付いた瞳の理由は、今になっても肥前にはわからない。
回想に沈んでいた肥前が枕に頭を置いたまま上目遣いに朝尊を窺うと、彼は変わらぬ調子で話を続けていた。よくもまぁひとりでそれだけ話し続けられるものだ、と素直に感心する。
耳触りのいい響きで語られる、内容が意識に引っかからない話というのはほとんど音楽のようなもので、肥前を緩やかに眠りに導いていく。その時になって肥前はようやく、話題選びまで含めて朝尊の計算である可能性に思い当たった。彼はほぼ間違いなく、肥前が魘されていたことを知っているのだから。
(……そういうところが)
重くなった瞼の隙間から穏やかな横顔を眺めながら、漠然とそんな言葉を思い浮かべた。
そういうところが、何だというのだろう。
今の身体も思考も結局は逸話に形作られているようで、ならば同時に顕現した彼のことも、自分はこのひと月分しか知らない。
その穏やかな微笑みが作り物かどうかなど、判断のしようがないというのに。
少し気を逸らせば、夏のあの日とは違う、細かな鈴のような虫の音が遠くで転がる。耳鳴りのように途切れないそれは煩わしく、肥前は心地良く流れていく声だけに意識を戻して目を閉じた。