花陰に寄す処 列車は、延々と連なる桜並木の中を走っていた。
ひどく古びた車両だ。吊り革は色褪せ、座席はところどころ破れ、窓枠には錆が浮いている。
その見た目の割になめらかな、たたん、たたん、という規則的な走行音だけが、花明かりの向こうに続く宵闇へと消えていく。
「なぁ先生」
擦り切れた座席に姿勢よく座り、単調な揺れに身を任せていた朝尊は、隣から呼びかける声に視線を下ろした。当たり前のように並んで座る肥前は、冷めた目つきで周囲を見渡す。
「これ、どこに向かってるんだ?」
「さて。列車くんに訊いてくれたまえ」
からかったわけではなかったが、肥前ははぐらかされたと感じたのか、僅かに眉を寄せてじとりとした目を向けてきた。あからさまな溜息がひとつ漏れて、角度を変えた問いが続く。
「おれたちは、どこまで行くんだ?」
「どうだろうね。肥前くんは、どこへ行きたい?」
柔らかに訊いたつもりだが、肥前は眉間のしわを深めて視線を泳がせた。どこって、と一度口ごもった後、ふいと顔を背けるように正面へと向き直る。
「……どこへも、行けないだろ」
戒めのような諦観が、人気のない列車内にぽつりと落ちる。
その言葉を否定するのは難しく、肯定するのは気が進まなくて、朝尊も黙って前を向いた。向かいの窓は開いていて、そうしていると互いの表情は見えない。窓の外を通り過ぎていく夜桜を見送りながら、そういえば本丸は今桜の景趣だった、などと考えた。
列車はただ走行音だけを響かせて、始まりも終わりもないような桜並木を駆けていく。闇に白く浮かぶ花弁がさわさわと揺れて、甘い花の香りがした。桜の香りとしては不自然な、微睡むようなそれが朝尊は不快ではなかったが、肥前にはどう感じられるのだろう、と思う。
「なぁ先生」
「何かな?」
いつも通りのやり取りの後で、肥前が意を決したように息を吸う気配がした。正面を向いたままにもかかわらず、口の動きが見えるように感じる。
「これは、おれの夢じゃないのか?」
その言葉を聞いていたように、車輪の音が一瞬途切れたような気がした。窓から流れ込む温かくも冷たくもない風が、朝尊の髪の先を微かに揺らす。
「……どうだろうね」
曖昧な回答がどう響いたのか、肥前は不意に朝尊の右手を掴んだ。瞬いてそちらを向けば、真っ直ぐに見据えてくる紅の瞳とぶつかる。
「別にいいだろ。どこへも行けなくたって」
夢うつつの世界の中でそれだけが現実のような、鮮やかな赤に捉われて言葉を失くす。その間も逸らされないその光が確信を伴った強さなのか、肯定を望んで同意を求めているのかは判断がつかなかった。
「……そうだね。君がそう言うなら」
できる限り穏やかに響くことを願って微笑みながら答えたが、ようやく視線を外した肥前の表情は冴えない。恐らくあまり本心には聞こえなかったのだろう、ということは朝尊にも察しがついた。少なくとも、幾許かの真実を含んでいることは間違いないのだけれど。
それから、しばらく沈黙の時間が続いた。肥前はそれ以上何も問うてくることはなかったが、掴まれた右手はそのままだった。
その間も、列車は淡々と走り続ける。いつからとも、どこまでとも知らず。
変わらない車窓の風景に本当は少しも進んでいないのではないかと錯覚し始めた頃、車内の明るさがほのかに増した。
背後の窓を振り向くと、どこまでも闇が続くばかりだった樹間に、天鵞絨のような夜の海が見える。僅かな波間に、水平線の向こうからやってくる朝の光が揺らめいていた。
肥前くん、と呼びかけようとした声が音になる前に、右肩に重みがかかる。そちらを向いて確かめれば、朝尊の肩に凭れた肥前が、俯きがちな姿勢で目を閉じていた。
眠ってしまった――というよりもこの場合、目覚めに向かってしまった、のだろう。現実を受け入れた者は、夢に留まる資格はないのかもしれない。
取り残された朝尊が朝陽の差し込む車内を何気なく見渡しているうちに、列車も少しずつ速度を落とし始めた。通り過ぎる桜の様子からそれを察した朝尊は、ゆるく頭を巡らせて、握られていない方の手で傍らの座面をそっと撫でる。
破れた座席、色褪せた吊り革、錆の浮いた窓枠。
これが現実なら到底、走行機能を残しているとは思えない列車。
「君も、もういいのかね」
静かにそう問えば、答えるように金属の軋む音がした。
「……僕は、もう少し目覚めなくてもよかったのだがね」
どちらにともなく密やかに囁くと、肥前に肩を貸したまま背後の窓に頭を預け、曙色に染まっていく海を眺める。きらきらとした輝きを散りばめた水面を、相変わらずどこまでも続く薄紅が甘やかな檻として縁どっていた。
これは誰の夢なのだろう。どこかへ、どこまでも行きたかったのは。
肥前の言葉は正しい。刀剣男士は、本質的にはどこへも行けない。凧を繋ぎとめる糸を切ることはできない。
それでも空にあるうちは彼が少しでも心休まるのなら、その時間が出来る限り長くあればいいと思った。
それ自体は間違いないことで、けれどそれだけかどうかは定かではなかった。自分の知識は本丸のためにあればいい、と思う一方で、それ以上のものを求めたくなる気持ちがないと果たして言い切れるのか。
凭れていた窓から離れ、目を閉じた肥前の横顔を見下ろしてみる。引き結ばれた口元は、決して失われない矜持の表れのようで。どれほど雁字搦めになろうとも、彼は常に立ち向かうことを選ぶのだろう。
いずれにせよ、彼が目覚めてしまうのであれば、ひとり残る意味はない。どこへ行けるとしても、彼が共にいないなら。
触れた部分から伝わる重さと体温を感じながら、握られた手に視線を落とす。
「……そうだね」
もう一度呟いて、どこへも行けなくてもいい、と言った彼のことを思う。
強がりのようにも聞こえたそれも、必ずしも嘘にはならないのかもしれない。この温度と感触が、傍らにあるのなら。
彼の答えにようやく追いついた気持ちで、静かに頭を寄せてみる。
どこへも行けないのなら、ここにいよう。この優しい温もりのもとに。
握られた手を握り返し、そっと緩やかに目を閉じる。
瞼の裏に最後まで残る花霞の中、たたん、たたん、と規則的な音が、手を振るように少しずつ遠ざかっていった。