君に捧ぐ音色 一輪の花を君に贈ろう。
抱えきれない花束の代わりに、確かに君に届くように。
「むかしむかし、あるところに――」
触れた扉の向こうから、懐かしく愛おしい声がする。
からん、と鈍く響く鐘を鳴らして押し開けると、子供達に囲まれていた彼女は言葉を止めて顔を上げた。僕の姿を認めた彼女は、いつも通り長い髪を揺らして店主の顔で微笑んで……それから何故か、いたずらを思いついた子供のように笑みを深める。
出会い頭に向けられるには奇妙な表情に僕は首を傾げたが、口を開く前に子供の一人が彼女の服の裾を引いた。
「おねーさん、おはなし」
「ああ、はいはい。――昔々あるところに、一匹の猫が住んでいました」
お決まりの文句で始まる、よく通る声で紡がれる物語に、子供達が目を輝かせる。それを二度も邪魔するのは忍びなかったので、僕は追及を諦めて隅の席に腰を下ろした。
冬の風に晒された身体が、暖められた部屋の空気にほっとする。聖夜を今日の夜に控え、いつもより華やかに彩られた店内は心をもほどくようだった。暖炉の上にはオーナメントとキャンドル、壁にはリボンで飾られたリース。暖炉の前のカーペットにぺたんと座り込んだ彼女と子供達の背後には大きなツリーが鎮座して、彼女が語るおとぎ話に幻想的な雰囲気を添えている。
彼女は物語を商っている。
それは単純に書籍を売る、という意味であることもあったし、文字には記されない物語をこうして彼女が語り聞かせることもある。後者は商いと言うよりは子供向けの出し物だけれど、僕は彼女の話を聞くのが好きだった。どこか遠い夢の中の、旅の思い出を聞くような。
ちょうど始まるところとはついている、と僕は口元を綻ばせてテーブルに身を預け、森で暮らす猫の話に耳を傾けていたのだが、ひとつ物語が進んだところで思わず背筋を伸ばした。
「ある年の冬、猫が暮らす森に渡り鳥の一団がやってきました。その中の一羽が、ちょうど猫の目の前に降り立ったのです」
……この話は、まさか。
笑みを消してじっと見つめる僕に、彼女はちらりと視線を寄越し、面白そうに口角を上げた。先程の表情の意味を理解して、僕は小さく苦笑う。
――僕は、この物語を知っている。
色彩に乏しい冬の森の中、猫は舞い降りてくる翼を白い地面から見上げた。モノクロームに慣れた猫の目に、花が咲いたような温色はあまりにも眩くて。
「その鳥があんまり美しかったので、猫は思わず見とれてしまいました。そしてそれ以来、猫は毎日のようにその姿を探すようになりました」
始めはただ、雪に映える翼に目を奪われただけだった。けれど時折森の中で見かけてはその色を目で追うごとに、ますます目が離せなくなった。ひとつの仕草も愛おしく、美しいさえずりを聞いた時には胸を打たれた。やがてはその存在の有無だけで、世界の明るささえ変わるようで。寒くても空腹でも、その声と姿があればそんなことは忘れられた。
「――気付けば猫は、その鳥に恋をしていたのです」
彼女の語り口はおとぎ話のセオリー通りに淡々として、細かな感情までは語られない。けれどその歌うような声には、不思議と聞く者を惹きつける力があって。
……変わっていないな、と密かに笑む。
「やがて猫は、何とかして鳥にこの想いを伝えたいと思うようになりました。けれど猫の言葉で話しかけても、鳥は首を傾げるばかりです」
「鳥さんは、ネコさんの言葉がわからなかったの?」
子供達の輪の隅で膝を抱えていた少年が口を挟む。彼女は物語る口調を中断し、日常の調子であっさりと頷いた。
「ああ、当たり前だろう? 鳥は鳥で、猫は猫なんだから。猫だって鳥の言葉はわからなかった」
残酷なことを言う。確かにそれは事実だが、おとぎ話の中では、鳥と猫どころか星と花だって話をするものだろうに。
さらりと答えられて押し黙ってしまった少年に構わず、彼女は話を続ける。
「そこで猫は、懸命に神様に祈りました。どうか、あの鳥と話をさせてくださいと」
再び幻想へ飛ぶ眼差しを、頬杖をついて僕は追う。
猫は何も、鳥と結ばれたいわけではなかった。鳥はいずれ去る渡り鳥で、翼持たぬ身では共には生きられない。それでもただ、自分がここにいることを、その姿に声に勝手に救われて、交わらぬ世界でも幸せを願う者がいることを、知ってほしいと思ってしまったのだ。
「毎日毎日祈り続けた猫に、遂にある日神様は言いました。あらゆる星の降る奇跡の夜に、たった一言だけ届けてあげよう、と」
クライマックスの気配に、子供達が身を乗り出す。その期待に気付かぬかのように、彼女の語りは冬の夜の静けさで続く。
「それから猫は、どんな一言を選ぶべきなのか、ずっと考え続けました。約束のその夜も、空いっぱいの星の下、澄んだ森に響く鳥の歌さえ聞き流してしまうほど、ずっとずっと悩んでいました」
猫の想いは、あまりにも膨らみすぎていた。伝えたいことは山ほどあった。どんな一言を選んでも、自分の想いは正しく伝えきれないような気がした。
――そして。
「そして……『たった一言』を選べないまま、夜は明けてしまいました」
水を打ったような沈黙。
身を乗り出した姿勢のまま、子供達が固まっている。部屋中の装飾さえ、静止画の中で色を褪せさせたようだった。
やがてぱちん、と薪が鳴り、その音で我に返ったらしい最前列の少女が両手をついて彼女との距離を詰める。
「そ、それで? それから、どうなったの?」
「どうもならないさ。この話は、それでおしまい。たった一度の機会に猫は想いを伝えられず、鳥は森を去ってしまった。後は……そう、生まれ変わったら今度は言葉が交わせますように、と祈ることくらいしかできなかった」
またちらりと僕に視線をやりながら、彼女は無情に物語を閉じた。けれど今度は僕も彼女の意図がわからず、子供達と共に困惑するしかない。
……この物語が、それでおしまい?
「……悲しい話だね」
輪の外で戸惑う大人をよそに、素直にしゅんと肩を落として少女が呟く。心から落胆した様子にさすがに彼女も眉を下げ、優しい手つきで頭を撫でた。
「まぁ、そういうこともある。猫が思い悩んだのも無理からぬことではあるけれど、言わなければ伝わらない想いも、一度逃せば訪れない時もある」
なだめる言葉に納得したのかどうか、小さく頷く少女の頭をぽんぽん、と軽く叩き、彼女はカーペットから立ち上がった。お開きの合図に子供達もぱらぱらと立ち上がり、一人また一人と店を出て行く。
その誰もが心なしか肩を落としているようで哀れだったが、彼女はそ知らぬ顔でひとつ伸びをすると、閉じていた窓を大きく開いた。
まどろんでいた部屋の空気を冴えた風が揺らして、夢から醒める心地がする。……夢から、あるいは夢のような遠い過去から。
「……子供に、しかも聖夜を前に聞かせるにはあんまりな結末じゃないかな」
長く暖炉の前にいて暑くなったのか、窓の外を向いて気持ちよさそうに風に吹かれている後姿に、席を立って数歩歩み寄る。小柄な背中に非難じみた声をかけてみるが、彼女は振り向きもせずに軽い響きで返してきた。
「教訓に富んだ物語じゃないか。教会の説教もかくやだろう」
「まぁ、教訓はそうかもしれないけど……続きまで話してあげればいいのに、あれじゃおとぎ話にしては後味が悪すぎる」
「嫌だね、のろけ話を聞かせる趣味はない」
「……その割に、あんまり美しかったとか何とか」
じとっと見つめて呟くと、聞こえなかった振りをされた。しばしの空白があって、窓の桟にもたれたまま、明るい褐色の髪を風に遊ばせて彼女は言う。
「別に間違ってはいないだろう。猫と鳥の物語はあそこで終わった。挽回も何も『彼ら』にはなかった。続編があるかどうかは、また別の話だ」
そう言われてしまえば、返す言葉はなかった。あの夜の鳥が何を思っていたのか、おとぎ話の語らない感情をどこまで知っていたのか、やはり猫にはわからない。
黙って僕も背を向けると、視界の端で彼女が頭を巡らせる気配がした。溜息をつきかけた僕の思考を破るように、それにしても、と通る声が明るく響く。
思わず振り向くと、彼女はいつの間にか身体ごとこちらへ向き直り、窓に腰掛けるようにして外の木漏れ日を背負っていた。
ふわりと風が吹き込んで、彼女の艶やかな長い髪が翼を広げるようにはためく。差し込む陽光に明るい髪色がいっそう輝いて、僕はいつかの冬の森を思い出した。
「おとぎ話らしくないだの聖夜に相応しくないだの、夢見がちなことを言っているけれど。念願叶って言葉を手に入れたくせに、せっかくの降誕祭に文句ばかりの君は、もっと他に私に言うことがあるんじゃないのかな?」
世界を彩るように、歌うように言って彼女は笑う。
――ああ、やはりそうやって、君は僕を救ってくれるのだ。
『あの時』の神様を、僕は後に意地悪だと思った。けれどきっと間違ってはいない。山ほどの想いは、口にしなければ伝わらないのに、いくら言葉を尽くしてもきりがない。
それを知っている僕達は、どんな言葉を交わそうか。
愛を、願いを、感謝を、零れるほどの想いを、たった一言に込めて。
祈るような思いで、僕は彼女に微笑んだ。
「……Merry Christmas」
君に喜びと祝福が降り注ぎますように。愛する君が幸せでありますように。
夜が明けるまでとは言わないが、たっぷりと沈黙を挟んだ末に音にした言葉に、彼女は満足そうに口の端を上げた。
「Merry Christmas」
返ってきた言葉と、交し合う笑顔を幸せだと思う。
いつになく嬉しげな彼女は開いていた窓を閉め、久しぶりに君だけのために歌ってあげよう、と得意げに嘯いた。
「あの夜の君は、歌を聴くどころではなかったようだから」
いたずらっぽく瞳を煌かせ、伸びやかな声を響かせる。
柔らかな旋律に身をゆだねれば、山ほどの想いさえ届くような気がした。