二 末枯 朝尊に避けられている。……ような、気がする。
きぃん、きぃん、と耳に残る音が響く。
堀川国広からの預かり物を持って朝尊を探していた肥前は、鍛錬所で目当ての人影を見つけた。
火の入った炉の傍らで鍛冶精霊――と言うのだろうか、実際のところあの小人が何なのか肥前はよく知らない――がちょこまかと立ち働いている。その手前にしゃがみこんだ朝尊は、その動きと炉の様子を熱心に観察しながら、手にした帳面に何やら書きつけていた。
「先生」
「おや、肥前くん」
癖のある黒髪をまとめた後ろ姿に控えめに声をかけると、しゃがんだまま、にこやかな眼差しが肥前を見上げる。
大人びた笑みだ、と思った。青年の姿を取った刀剣男士に対しておかしな感想ではあるが、つまり余所行きの、と言ってもいい。
肥前の方はにこりともしないまま、手にしていた皿を差し出す。そこには、小ぶりの大福が二つ並んで乗っている。
「堀川から、なんかもらいもんのおすそ分けだとよ。おれと先生の分」
「ふむ。肥前くんが食べていいよ。僕は、今食べてしまうと夕食が入らなくなりそうだし」
少し首を傾げて皿を見た朝尊は、淡々とした調子でそう言うと、早々に炉に向き直ってしまった。興味の薄そうなその反応が意外で、肥前は小さく眉を寄せる。
「先生、甘いもん好きだろ?」
当然のようにそう口にすると、朝尊の表情が消えた。振り向いてまた、冴えた瞳が肥前を見つめる。
探られているような感覚に居心地の悪さを覚えるのと同時に、それこそ思い込みだ、と気付いて肥前も顔を強張らせた。朝尊が甘いものを好むと聞いたことはない。甘いものが好きだったのは。
凍るような沈黙が二振りの間に漂っていたのは、ほんの一瞬のことであったらしかった。きぃん、と鋼を打つ高い音がひとつ響き、肥前が我に返った時にはもう、朝尊はいつも通りの柔和な表情を浮かべていた。柔和だが、何を考えているのか読めない表情だ。
「嫌いでもないが、特別好んでいるわけではないよ。肥前くんこそ、腹が減っているのではないかね」
何と返すべきか分からずに肥前が黙り込むと、朝尊はそれを了承ととらえたのか、少し口の端を上げてから帳面に何やら書き込む手を再開した。
その注意がもうこちらに戻ってこなさそうなのを見てとって、肥前はひっそりと息をつく。皿の大福をつまんで立て続けに口の中に放り込めば、餡子の味が重く残った。
概ね、その程度のやり取りがひと月も続いた。
朝尊は非番の日は朝早くから書庫に籠り、肥前が遠征や演練から戻れば、何やら短刀たちとフィールドワークなるものに出かけるというのとすれ違う。部隊や内番は重ならず、研究を始めれば没頭してしまう彼に無闇に話しかけるのも憚られた。
このところ出陣の機会は多くなく、ただ自室の畳に転がって時間を潰していると、気がつけばそんな日々を回想してしまっている。
既に傾いたらしき陽は部屋には差し込まず、薄暗くなった空間に、時折隣から紙の音が届く。精力的に研究に勤しんでいる朝尊は、今日は自室で調べ物か何かをしているらしい。
避けられているような気がする――というのは、恐らく正確ではない。
行動範囲が異なるのはお互いの嗜好からして当然のことだし、この本丸の審神者は全刀剣をある程度均等に育てるつもりらしく部隊を固定していないから、出陣や内番が重ならないのも偶然で片付けられる範疇だろう。
それでも会おうと思えば会えないことはなく、会った際の反応にしても、朝尊の性格を考えれば目立ってすげなくされているわけでもない。
避けられるような心当たりもないのだから、気のせいと言われればそれまでかもしれないのだが。
それでも何かが、違和感を訴えてやまないのだ。
「……」
何を見るでもなく開いていた瞼を閉じてみる。余計なことを考えるくらいなら眠ってしまえばいい、と思ったが、眠気はなかなかやって来ない。ここ最近は、どちらかというと寝不足気味のはずなのに。
戦に慣れるにつれ減っていた悪夢の頻度が、近頃はむしろ高くなってきていた。
夢の中で肥前はいつも、妙な焦燥に駆られている。
斬りたいわけではない、だがもっと斬らなくてはいけない。
遠ざかる背中に追いすがる。
そして――隣室から差し込む光が、肥前を現実に引き戻す。
結局同じ思考に戻ってきてしまって、顔を顰めながらもう一度瞼を上げる。ちょうどその時、隣室から何やらどさりと音がした。
「……先生? どうかしたか?」
半身を起こして声をかけてみたが返事はなく、それきり何かが動く気配もない。しばらく逡巡してからそっと襖を開けて覗いてみると、文机に伏せた後ろ姿が見えた。
本の山を慎重に避けて近付いてみれば、朝尊は開いたままの本にうつ伏せて眠っていた。傍らには数冊の本が乱雑に散らばっていて、どうやら先程の物音は、積まれていたそれらが何かの拍子で崩れたものらしい。
それなりに大きな音だったと思うが、それでも目を覚ます気配のない朝尊の寝顔は青白く、心なしか疲労が滲んでいるようにも見える。そのことが、肥前の胸の内を訳もなく波立てた。
音を立てないように気をつけながら崩れた本を整え、部屋の隅に置かれていた外套を眠る背にかけてやって、来た時と同じようにそっと戻る。
ゆっくりと襖を閉めると、しんとした部屋の中に、外で枯葉が風に吹かれる乾いた音だけが響いた。
閉じた襖に両手を添えたまま、肥前は先日堀川国広と交わした会話を思い出す。
箱入りの大福をもらったのでお裾分けをしたいと言う堀川の部屋まで着いて行くと、そこには隣室との間を仕切る襖がなかった。
堀川の隣は和泉守の部屋だ。聞けば、何かと行き来しているうちに和泉守が面倒がり、外して完全な二振り部屋にしてしまったのだと言う。
『主さん、縁の深い刀同士で隣室にしてくれてるから、他にもそういう部屋はあるみたいですよ』
笑ってそう言った堀川の言葉が、やけに引っかかって離れない。
縁の深い刀。
果たして、そうだと言い切れるのだろうか。
――僕は元の主ではなく、刀工の逸話が元になっている。
朝尊の言葉が反響する。
否定しようと思えば――否定できてしまうのではないのか。
避けられる心当たりはない、が、逆に言えば親しくされる心当たりがあるのか。
何度開いても都度閉じられる襖に、拒絶にも似たものを感じてしまうのは穿ちすぎだろうか。
肥前は朝尊にとって、あの大福と同じ……嫌っているわけではないにせよ、特別な存在ではないのだと言われているような気がする。
ただ、だとしたら。
悪夢の夜に差し込むあの光は、一体何なのか。
堂々巡りする思考の不毛さに溜息をついて手を離す。
今度こそ眠ってしまおうと、肥前は再び畳に身を投げた。