夕方の光が街をオレンジに染めている。アルバイトを終えたエグザべの、胸の奥が妙にざわついている。喉が渇いた。額に浮いた汗は今日が特別暑いわけでもないのに落ちてくる。なるべく早く帰らないと。そう思い大通りではなく近道の人通りの少ない路地を抜けようとして、曲がり角を曲がろうとしたそのとき数人の影が忍び寄る。
「あれ、オメガじゃね?」
軽い調子で投げられた言葉に、肩が微かに揺れた。振り返った瞬間、腕を掴まれそのまま裏通りへと押し込まれる。夕暮れの雑踏の音は遠ざかり、狭い路地に安っぽい笑い声だけが残った。エグザべは眉をひそめ、静かに言った。
「...どいてください」
運がない。そう思った。相手は五人。路地の出入口を塞ぎにやつきながらこちらを囲んでいる。
「ほんとにオメガなん?顔真っ赤だし、相手がいなくてお外に出てきちゃったのかなぁ」
胸の奥がぎゅっと縮まる。さっきから続く息苦しさが、今度は嫌悪に変わった。喉がひりつく。帰りたい。
「急いでいるんです。どいてください」
「えー。俺たちが相手してあげるよ。あれ、てか番いるんだぁ。飽きちゃったのかな」
咄嗟に首元を隠した。くそっ、発情期はどっちだよ。ふつふつと腹の底から怒りが湧いてくる。挑発に反応するのは良くない。今日はシャリアも帰ってくるし殴られるのも嫌だ。だからといって全員のして無傷で帰れる数ではない。まして、こんな低俗な猿に犯されるなんてもってのほかだった。
(落ち着け)
頭の中で唱える。リンチなんて難民時代に幾度も経験してきたことだ。感情を抑えて、見下さず、弱みを見せずに、対処する。やはり殴られよう。派手な音を立ててやれば隙ができる。その間に逃げよう。エグザべは一秒だけ目を細めて、大きく息を吐いた。胸の奥のざわつきが、言葉に溶けていくのを感じる。理性で押し殺すつもりだったはずだが、唇から出たのは予想外に冷たい声だった。
「お前じゃ相手になんないよ」
一人がかっと顔を赤らめ、拳を固める。相手の動きに合わせて倒れこんだが、まだ逃げ道は塞がれている。
「はーうっざ。なに?もしかして捨てられちゃった?ヤリたい癖に強がってんじゃねえ、よ!」
蹴りが飛んできた。エグザべは肩をすぼめ、寸前で身をひねってかわす。ヒュッと風を裂く音が耳元をかすめたが相手の足は地面に落ちた。その一瞬に、脇道へ抜けられるかもしれない空間を見つける。息を詰めて地面を蹴った。肩をぶつけられながらも身体を滑らせ、壁際を抜ければ出口まではまだ数歩。荒く乱れた呼吸を整える暇もなく、手が裾を掴んできて体勢が崩れた。膝をつき、必死に立ち上がろうとするその背へ、軽薄な声が浴びせられた。
「番のやつもてめぇなんて肉便器としか思っちゃいねえよ」
「あはっ。もしかしてご主人様は反抗するオメガを屈服させるのが好きなタイプ? 俺らと趣味合いそうじゃん。この場に呼んでもいいぜ」
声が路地の壁に跳ね返り、軽薄な笑いがなお続く。喉の奥が渇き、額の汗が一粒、瞳を濡らす。普段なら、いや、今日だって、出来るだけ穏便に済ませようと考えていた。逃げられるなら逃げる。騒ぎになれば不利なのは自分だと、理性が幾度もそう言い聞かせてきたはずだ。
でも、番を侮辱された瞬間、胸のざわつきが怒りに膨れ上がって、抑えようとする理性の輪郭がふっと溶けていくのを感じた。シャリアは誰よりも優しくて繊細なのに!何も知らないお前らが、欲を満たすためだけに使うな!自分のことはどう言われてもいい、シャリアが軽く扱われるのは許せなかった。自分の中でくすぶっていたものが、急に火を噴く。気づいたら拳を振り上げていた。
まず一発。
顎に打ち込まれた拳が、路地に鋭い音を立てる。肉がへこみ、痛みが掌に返ってきて、金属のような血の味が口内をかすめる。蹴りが返ってきて、脇腹に鋭い衝撃が走った。息が詰まり、視界が薄く光を散らす。だが痛みは、怒りの輪郭をむしろ明瞭にするだけだった。
殴り合いなか、頭の中は異様に鮮明だった。裏路地の臭い、喧嘩の感覚、シャリアと並んでいた日の温度、すべてが襲ってきて、拳を振るわせる燃料になる。相手の呼吸、唸り声、皮膚が擦れる匂いそんな細部が、心を冷やし、頭に血を登らせる。己の体が火照っているのか、ただ胸の内が煮えたぎっているのか、境界がわからない。
気づけば、立っているものは誰もいなかった。殴り倒したあとにやってくる虚脱も、今は遠い。感じるのは、くすぶる不満の増殖だ。勝ったはずなのに、胸の中のざわめきは鎮まらない。拳の痕に残る微かな振動と、こみ上げる苛立ちが交差して、言葉にならない何かが喉の奥で渦巻いていた。
「どうしよう」
投げつけた鞄からからスマホを取りだしてインカメを映した。絆創膏では隠しきれない傷だらけの顔。いつかの記憶を思い出させる。
ようやく現実が見えてきた。息をする度に体が痛む。どこかの骨が折れているのだろう。服には返り血が付いているから一回帰るか?いや、シャリアに見られるかもしれない。怪我は隠せないけど、チンピラと喧嘩したなんて絶対に知られたくなかった。彼の前では、もっとまともでいたい。
だから、帰らない。
エグザべはふらつきながら公園まで歩いた。夕暮れの公園には誰もいない。ただ水道の蛇口から出る水音だけが耳に残る。水をすくって顔を洗うと血と汗が混ざり合ってアスファルトに滴り落ちた。冷たい水が傷に沁みる。何度も何度も繰り返し洗った。体のほてりだけがずっと取れなかった。スマホを握り直す。タクシーアプリを開いて行き先に「オメガ専用病院」の文字を入力する。タクシーもオメガ専用。オメガ専用のタクシーってなんだよ。アルファがタクシー運転手なんかなるわけないのに。事件があったって、オメガを犯人にするくせに。...だから区別するしかない。わかってる。些細なことでこんなにも心が乱される。かつて軍人だった時の自分とは遠くかけはなれて、なにか違うものになってしまった気がする。否、気がするのではなく、違うものなのだ。
迎えのタクシーに乗り込むと、シートの柔らかさが逆にみじめさを増幅させる。窓の外で沈みかけた夕日が、ビルの影に飲まれていくのを無言で見つめた。病院に着くと自動ドアの向こう、待合スペースの空気が鼻につく。甘ったるく重たい臭い。壁や床に染みついたような、ねっとりとした残り香。発情期真っ最中のオメガたちが、点滴を受けたり、カーテンの向こうで震えたりしている
。嫌な臭いだ。裏路地の臭い。酒とドブが入り混じった、あの時の臭い。理性を削ぎ落としていく、あの匂い。これと一緒になってしまったこと。こんなふうに考えてしまうこと。それ自体が、どうしようもなく嫌だ。全部嫌いだ。自分自身の体の奥に残る火照りも、今ここに立っている自分も。
「申し訳ありません、番の方の同意書が必要です」
受付カウンターで問診票を渡すと、職員は申し訳なさそうな顔で首を横に振った。事務的な声。けれど、その一言がエグザべの胸に鉛のように落ちた。
「同意...どうしてですか?」
返ってきたのは、冷たい「規則です」という一言。どんなに理不尽でも、それが現実だと分かっている。分かっているのに、喉の奥に何かがせり上がってくる。番の同意がないと治療も受けられない。ただ怪我をしただけなのに、ただ苦しくてここに来ただけなのに。
──自分ひとりじゃ何も出来ない。
胸の奥に鈍い怒りと虚しさが溜まっていく。
「...いいです、帰ります」
気づけば、自分の声がかすれていた。診察券を握りつぶした手のひらがじっとりと汗ばむ。誰も引き止めなかった。自動ドアが背中で閉まる音だけが耳に残る。
病院の外に出ると、夜の風が強くなっていた。足取りは重く、ふらつくたびに視界の端が揺れる。体の奥から上がってくる熱がヒートなのか怪我のせいなのか、もう分からなかった。頭の中の音が遠くなっていく。
(寒い)
思考が細く千切れそうだ。熱いのに寒い。寒いのに熱い。肩を抱きしめるように腕を回し、誰もいない夜道を歩く。街灯の光が滲んで、足元の影が二重三重に揺れた。
ようやく家の前に辿り着いた。ドアスコープの先は暗く、シャリアはまだ帰ってきていない。よかった...。エグザべは鍵を差し込もうとしたがどうにもうまく入らない。どんどん視界が暗くなる。ドアに額を押しつけたまま膝が崩れた。寒い。痛い...。鍵が刺さった。両手でドアノブを回すと、そのまま玄関に倒れ込んだ。床がヒンヤリとして気持ち良い。シャリアも体温が低いから、撫でてもらったらこんな感じだった気がする。やだなあ。せめてベッドに行きたい。そうすればこんな姿見られなくて済むのに。喉からかすかな声が漏れる。
シャリアの顔が、遠い夢のように脳裏に浮かんだ。何もできない自分が、そこにいた。
次の瞬間、世界は暗転した。
目を覚ますと、白い天井。病院特有の乾いた空気、見慣れたような天井の模様が、ゆっくり視界に入ってくる。視界の端で点滴の袋がゆらりと揺れ、チューブが自分の腕に刺さっているのを見つけた。どこかで見たことがある場所。壁の色、ベッドの金属の質感、廊下から聞こえてくる規則正しい足音。全部が懐かしい。
(軍の病院......だよな)
自分でも分からないくらい小さな声が喉の奥で漏れる。視界の端にはシャリアがいる。腕を組んで船を漕いでいた。
胸の奥がじわりと締め付けられる。迷惑をかけてしまったという気持ちが、遅れて重くのしかかった。連絡もせず、傷だらけで、玄関に倒れている自分を見つけた時、シャリアにどれだけ心配をかけただろうか。
「シャリアさん...」
驚いたように眉が僅かに動き、すぐに穏やかな笑みに変わる。
「エグザべくん。良かった、気がついて」
低い声が耳に届く。落ち着いた調子なのに、張り詰めた緊張がどこかに残っている。長い時間ずっと、ここで見守っていたのだとすぐに分かった。謝りたい。けれど声は出にくいし、何より彼の目を直視できなかった。罪悪感と同時に心配してくれていることが嬉しくて、その二つが胸の中で絡み合う。
「ごめんなさい」
ようやく絞り出すと、シャリアは小さく首を振った。
「謝ることではありません。あなたが無事でよかった」
シャリアはふっと視線を落とし、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「帰ったら、君が玄関で倒れてて。顔も傷だらけだし、呼んでも反応がないし」
エグザべはまぶたを重く瞬かせた。
「半日ほど眠っていましたよ」
抑揚の少ない声でそう告げられる。
「骨折はありません。軽い打撲と発熱。見た目よりも軽傷です。今日は安静にして、明日退院です」
さらりと報告を口にするその調子は、軍にいた頃の彼を思い出させる。冷静で、正確で、どこまでも安心感を与える口ぶり。
けれど次の言葉が、エグザべの胸に鋭く刺さった。
「もし、私が迎えに行けていたら、こんなことにはならなかったかもしれませんね」
柔らかに微笑む口調なのに、そこに含まれるのは自分を責める響き。
(違う、そうじゃない。関係ない......)
頭ではわかっているのに、心の奥がざわつく。
「シャリアさんのせいじゃない」
声はかすれて、思っていたよりもずっと尖っていた。視線を逸らしたまま、エグザべは唇を噛んだ。罪悪感と苛立ちと、言葉にできない感情がごちゃ混ぜになり、ただ胸の奥で暴れていた。
「でも、君のヒートが近いのはわかっていました。やはり仕事を休んでおけば......」
「いえ、自己管理が甘かった僕の責任です。なのにあなたに迷惑をかけてしまいました」
自分でも、わざと突き放すような言い方になっているのがわかる。だけど止められなかった。胸の奥に溜まっていたものが、じわじわと表面に漏れ出してくる。
重たい沈黙。病室に響く不機嫌な呼吸。心を読まれてたら、惨めだなと思う。シャリアがハッと顔を上げた。段々と下を向いて、しまいには「すみません...」なんて言う。声がでかくてすみませんね。
「......そういえば病院から連絡が来ていました。なぜ、その時に連絡してくれなかったんですか?そうしたらもっと早く治療できたのに」
その言葉が、エグザべの頭に火花を散らせた。
唇が勝手に動く。
「なんでそんなこと言うんですか」
「なんでって......」
シャリアが目を細める。声は苦しげに揺れていた。
「私は、君に苦しんで欲しくないんです」
その優しさが、逆に胸を刺す。
「ああ、そうですよね。番がいれば治療受けられますもんね。番がいれば、番がいるなら、番がいるから!」
声が震え、思わず吐き出してしまう。
「番がいないと何もできない!」
自分でも、叫ぶような声になっているのがわかった。喉の奥がひりつく。目の奥が熱い。止めたいのに、止まらない。
「オメガはなにもできない!番がいてもそうじゃなくても!アルファだったら...アルファだったのに...」
自分の声がどんどん掠れていく。握りしめた拳が震え、点滴のチューブがかすかに揺れた。胸の奥に溜まっていた苦いものが、もう堰を切ったようにあふれて止まらなかった。
「オメガなんてなりたくなかった......」
目の奥が熱く、息が詰まる。
「番じゃなくて......僕は、あなたの恋人でいたいのに......」
言葉の最後は、もはや声にならなかった。顔を背けても、涙が頬を伝って落ちるのがわかる。
「...出てってください」
エグザべは自分でも驚くほど小さな声で、それを言った。これ以上こんな自分を見られたくなかった。
シャリアの表情が一瞬止まり、何か言いかけたが、結局そのまま無言で立ち上がった。足音が遠ざかるたび、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
扉が閉まる音が、やけに響いた。
残された病室の白い空気の中、エグザべは顔を両手で覆った。
(あたっちゃった......)
喉の奥がひりつく。涙が溢れて止まらない。
(わかってる。シャリアだって僕をオメガにしたくてオメガにした訳じゃない。番にしたくて番にした訳じゃない)
(人が倒れてたら病院に連れていくし、同意が必要なら戦闘中でも駆けつける。僕だってそうする)
シャリアの行動は全て当たり前のことだった。シャリアはエグザべのことを考えて大切にしてくれる。そんなのわかってる。わかってるけど...。
「惨めだなぁ...」
人の優しさを受け入れられず、傷つけて、傷ついて。最低だ。胸の奥が重く、どろりとした自己嫌悪が広がっていく。顔を拭っても、手のひらが濡れる感覚は消えない。
ふと目を向けると、ベッドの脇の小さなテーブルに抑制剤が置かれていた。白い小瓶が、やけに冷たい光を放って見える。そのラベルを見た瞬間、胸の奥に渦巻く思いがさらに濃くなって、エグザべは息を詰めた。
※※※
退院した。
荷物と書類をまとめ、白い廊下を抜けると、病院の玄関前に車が停まっていた。運転席に座るシャリアが、静かにこちらを見ている。ドアを開けて乗り込む。シートに背を預けながら、エグザべは小さく言った。
「おむかえ、ありがとうございます。それに病院に連れてってくれたり、手続きも、ありがとうございました」
お礼は言えた。それなのに、何回も頭の中で反芻させたごめんなさいが出てこない。自分が謝らないと、終わらないのに。だけど、それをすると、自分の惨めさまで認めなければいけない。シャリアを巻き込んで、自己嫌悪が止まらない。車内は妙に静かだった。エンジン音と信号の切り替わる音だけが響いて、二人の間の沈黙を埋めていた。
横目で見れば、シャリアは変わらず穏やかな表情を保っている。でも、その穏やかさが、逆に胸をざわつかせる。
玄関を開けると、家の中には温かな匂いが漂っていた。食事の匂いじゃない。もっと微細で、もっと個人的な、シャリアの匂い。番のフェロモンが混じった空気。安心する。それでもリビングに並んで座ることもできず、エグザべはリビングのソファに掛けられていたコートを無意識に手に取った。
ぼんやりとした頭のまま、それを羽織る。重い布が肩にかかる感触と甘くスモーキーな香りに、かすかに心が落ち着くのを感じた。ポケットに手を突っ込むと、何か固いものに指先が当たる。取り出してみれば、それはタバコの箱だった。シャリアのものだ。
一瞬、胸がざわつく。
(これ、シャリアさんのコートか)
そのまま、ベランダへ出た。夕方から続く冷たい風が頬をなでる。指先が震えるのは、寒さのせいか、それとも胸の奥の何かのせいか、自分でもわからなかった。
一本取り出し、ライターで火を点ける。
吸い慣れない煙が肺に入り、むせそうになるのを堪えながら深く吸い込む。肺の奥まで、シャリアの匂いが入り込んできた気がして、胸の奥がじんわりと痛くなる。
(結局、これだ。結局、シャリアの匂いに包まれて、安心してる......)
プライドがひりつく。自分はオメガなのだから受け入れないといけない。そんな言葉が、勝手に頭の中で響き、吐き出した紫煙がふわりと夜空に溶けていく。
もう一口、肺に流し込んだ瞬間、強烈な苦さが喉を焼いた。咳が込み上げ、目頭が熱くなる。
頭の奥がぐらりと揺れ、視界がにじむ。
「はぁ...」
心臓が早鐘を打ち、耳鳴りが響いた。大人ぶったつもりが、結局は自分に跳ね返ってくる。胸の奥にわだかまる不安も苛立ちも、煙と一緒に消えてくれるはずもなかった。足元のアスファルトに、吸いかけの煙草を押し潰した。視界に広がる火の粉がやけに虚しかった。
部屋に戻ると、シャリアはソファに腰を下ろしていて、ためらいながらその隣に座った。
「...ごめんなさい」
声が小さく震えた。
「僕、困らせるつもりじゃなかったんです。...でも、自分の感情が抑えられなくて」
シャリアは黙ってこちらを見つめている。
その沈黙に、言葉が次々とあふれ出た。
「不安なんです。...怖いんです。僕は、オメガのこと、きっと嫌いだったんです。発情しているオメガのフェロモンが怖くて、自分が自分じゃなくなるあの感覚が、嫌で...。だからきっと、無意識に差別してたんだと思います」
喉が詰まる。
視線を落とすと、拳が小刻みに震えていた。
「...そんな自分が、嫌なんです。嫌いだったものに、自分がなってしまって...。それを認めるのが、どうしようもなく怖いんです」
声が途切れ、堪えていた涙がまた溢れた。
シャリアの横顔は静かなままだった。
けれど、その沈黙はもう責めるためではなく、ただ言葉を受け止めるためのものに感じられた。
「......もうすぐ、ヒートが来ます」
自分の声が小さく震えているのがわかった。
「嫌いにならないでください......僕、ひとりでじっとしてますから」
必死に取り繕った言葉の最後は、掠れて消えた。
胸の奥がどうしようもなくざわついて、息が詰まりそうだった。
肩に羽織ったままのジャケットの襟を掴み、ぎゅっと胸元に引き寄せる。顔を押し当て、深く息を吸い込んだ。
コロンの残り香、微かに残る煙草の香り。それらの奥に、彼だけの匂いが確かにあった。
「...ああ」
胸のざわめきが少しだけ和らいでいく。
重くのしかかっていた不安が、ふっと軽くなるのを感じた。涙で濡れた睫毛を拭いもせず、目を閉じた。
「......安心します」
その声はほとんど囁きだったが、隣に座るシャリアにはきっと届いているはずだった。
「エグザべくん」
声はいつもより低く、少し震えていた。
「私は、君のことを守らないと、責任を取らないと、そればかり考えていました」
ゆっくりと言葉が紡がれる。
「そのせいであなたが傷ついていた。エグザべくんは大丈夫と言っていたのに」
思わず顔を上げると、シャリアの瞳が真っ直ぐに見ていた。
「すみませんでした」
彼は深く息を吐き、続けた。
「エグザべくんが許してくれるなら、ずっと一緒にいたいです。一人でなんて言わないで」
その声を聞いた瞬間、胸の奥にあった硬いものがふっと緩んだ。
嗚咽混じりに笑ってしまう。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
シャリアはそっと腕を伸ばし、エグザべの肩を引き寄せた。コート越しに伝わる温もりが、胸の奥まで染み込んでいく。
二人の間にあった見えない壁が、ゆっくりと溶けていった。