ファウレノ ファウストが偶然魔法舎の玄関を通りかかると、丁度南の魔法使いが帰ってきたところだった。
「あっ! ファウストさん、こんにちは!」
「こんにちは! 今日も魔法使いの家は賑やかだったんですよ」
「やあ、ファウスト」
「ただいま戻りました」
ファウストに気づき、次々にあいさつをする南の兄弟や、後ろにいる大人たちにファウストも軽く返事をする。
「ああ。ネロがリケとクッキーを焼いていたぞ。もらってくるといい」
「わあ! 美味しそう!」
「兄様、早く行きましょう!」
ファウストの言葉を聞き、ルチルとミチルはあっという間に駆けて行った。残ったフィガロとレノックスは、それを慣れた様子で見守っていた。
「さっきまで魔法使いの家でお茶をしていたのに、若いねえ」
「ネロのおやつは特別なんでしょう」
感心した声を出すフィガロに、レノックスが気軽に返事をしていた。未だに、自分の魔法の師と元従者の距離感に戸惑うことがある。二人が走り去った廊下を見ていたフィガロは、くるりとファウストに向き直った。
「さてと。俺たちはルチルとミチルに追い付かなきゃ」
「そうですね。ファウスト様も、ご一緒にいかがでしょうか」
レノックスから提案されたが、丁度授業の準備のために自室に戻るところだったので、ファウストは首を横に振った。
「いや、僕は部屋に戻る」
「そう、じゃあまたね」
「ファウスト様、失礼します」
フィガロはひらりと手を振って、レノックスは軽く会釈をした。二人が歩き出すのを見て、ファウストも、足を動かしたときだった。
「そういえば、レノ。お前今日のお茶会であくびをしていただろう」
フィガロの声に思わず足を止めた。耳に入ってきた情報が、うまく映像にならず、かといって無視もできなかった。
「……していましたか?」
「えっ、無自覚? お茶会に来た、記者のお偉いさんが長々と話してたとき、隅っこの席であくびをしていたじゃないか。俺の目は誤魔化せないよ」
「気が抜けていたのかもしれません」
「たしかに自慢ばかりでつまらなかったけどさ。俺でさえ愛想笑いしていたのに」
「少し話が難しくて。次は気を付けます」
「お前なあ……」
その後もフィガロがレノックスに苦言を呈していたようだが、食堂へ遠ざかる二人の会話を聞き取れたのはここまでだった。
ファウストは、しばらくその場でぼうっと立っていた。あまり想像しにくい場面だった。ファウストが知っているレノックスは、真面目で誠実な魔法使いだ。現在の魔法舎での会議や任務の打ち合わせはもちろん、遠い昔に軍にいた頃も、どんな話し合いの場でも表情が崩れることはほとんどなかった。だから、他人が話しているときにあくびをする緩んだ姿に、あまりぴんときていなかったのだ。
「……珍しいな」
ファウスト呟きは、誰にも聞かれることはなかった。
授業の準備に予想よりもてこずり、その日ファウストは徹夜した。朝方にやっと一段落し、お茶でも飲もうと部屋を出て、キッチンへ向かう。自室の四階から三階へ下りたとき、ファウストはばったりとネロに会った。眠そうに肩を回していたネロは、ファウストを見て目を見開いた。
「あれっ、おはよう先生。随分早いな」
「おはようネロ。寝てないんだ」
「えっ、徹夜? 大丈夫か?」
「ああ。少し作業に集中していただけだ」
階段の踊り場で話していると、窓の外から賑やかな声が聞こえた。窓から下の中庭を覗くと、何人かの人影がある。シノ、カイン、レノックスの、いつもの鍛練のメンバーだ。加えて、三人と同じように練習着を着た、アーサー、リケ、オズまでもが側にいた。ファウストの横から、ネロも窓の外を覗きこんだ。
「お、やってるな」
「中央の魔法使いが全員いるのか」
「ああ。皆でシノたちの朝の鍛練を見学するんだってさ。一緒に体を動かすって昨日リケが言ってたから、今朝は朝食を少し多めにしようかなって。これから作りに行くとこ」
「なるほど……」
中庭では、シノたちが軽い準備運動をしていた。これから走りにでも行くのかもしれない。レノックスは、オズと並んで子どもたちを見守っていた。特に会話をしている様子もなく、かといって重苦しい空気もないようだった。ネロと話しつつ様子を眺めていると、不意にレノックスが、自身の口元に手を当てた。まさか、と思うより早く、レノックスは、ふわあ、と一つあくびをした。自分とネロの喉から、同時に、ひゅ、と息をのむ音がした。よりにもよって、レノックスの隣にいるのはオズだった。
固唾を飲んでいると、あくびに気づいたシノやカインがレノックスに話しかけていた。レノックスはそれにいつも通りの表情で答えている。その間、オズはレノックスに特に反応することはなかった。
「……」
「はー、びっくりした……。羊飼いくんの胆力はすごいな」
恐ろしい北の魔法使いの前で気を抜ける魔法使いは、いったいどれほどいるのだろうか。オズとレノックスはそれなりに良好な関係なのは知っているが、だとしても、オズの機嫌を損ねなかったようでよかった。ネロが肩の力を抜いていると、ファウストがぽつりと呟いた。
「僕の前ではしないのに」
「ん?」
「レノのことだ」
視線を外に向けたままのファウストの表情は暗く、声音も重苦しい。急な変化に、ネロは恐る恐る声をかけた。
「えっと、先生?」
「レノックスは……僕の前で気を張りすぎているのかもしれない。僕の前ではあんな顔をしない」
そう呟いたファウストの顔には覇気がない。ずんと空気を重くしていくファウストに、ネロは慌てて口を開いた。
「あー、そんなことないと思うぜ? そもそも、先生と一緒にいて眠くならないのはいいことだろ?」
「それはそうだが、でも、まさか、オズやフィガロといるときの方がリラックスできているなんて……」
「いや、そもそもその二人の前であくびできんのは羊飼いくんくらいだから……」
睡眠不足の頭では、普段よりも後ろ向きな見方しかできないのだろう。ネロの正直な意見は、既にファウストの耳には届いていなかった。ファウストはネロに背を向けて、ふらふらと歩きだした。
「あっ、先生? メシは?」
「後でいただくよ……。すまない……」
ふらふらと自室へ戻っていくファウストの背中を、ネロは一人見送った。