髪の話(事務所編)「……」
北村想楽の目は遠くへ向けられている。
事務所の壁、海洋を映すテレビ、テーブル、座る古論クリス、ソファの背もたれ。
「……」
テレビに釘付けになっているクリスは想楽が事務所に来たことに気付いた様子もない。背後に立っても振り向かないクリスの後頭部をたっぷり八十秒眺めてから「クリスさん?」と呼びかけると、クリスは首を回して想楽を見上げた。
「想楽、おはようございます」
「おはようー。随分集中してたんだね。後ろにいたのに気付かなかったでしょー」
「まったく気が付きませんでした……想楽は気配を消すのがお上手なのですね!」
「僕が上手なんじゃなくて、クリスさんが鈍すぎるんじゃないー? 後ろに誰かいたら、気になると思うけどー」
「それは――」
細められた金眸は目の前の想楽を超えて、もっと遠い場所へ向けられて。
「――そうかもしれません。昔から私の髪を触りたがる人はたくさんいましたから、人が後ろに立つことには鈍感なのでしょう」
「そっかー」
クリスの金髪はただ眺めているだけでもさまざまな喩えが浮かぶほど。これに触れたいと熱望する人々の顔を想像すれば、その顔の数だけこの黄金は輝きを増すかのようにも思える。
「希求され、乞われるからこそ輝いてー。……髪の毛、大事にするんだよー」
「……? はい」
想楽の言葉の意図は理解できないまま、クリスはとりあえずうなずくのだった。