Lost moon「月が綺麗ですね」
「――え」
隣から聞こえた声に、北村想楽は呟きを漏らす。
仕事終わり、古論クリスと帰り道が一緒になったのは偶然だった。人の少ない住宅地で想楽が足を止めると、クリスは一歩進んでから立ち止まり、想楽へと振り向いた。
目立つ容姿を隠すために、クリスの長髪は帽子の中に隠されている。想楽が度の入っていない眼鏡越しにクリスを見つめると、クリスは不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか、想楽?」
「ああ……ううん、何でもー」
ゆるく笑って歩きだしても、クリスの視線は想楽に注がれたままだ。
(……こういう時、うまいこと諦めないんだよねー)
ついた溜息に感情が混じる。
想楽がクリスに目を向けると、クリスの眼差しは月光よりも真っ直ぐに想楽に向けられていた。
「あのねー、夏目漱石が昔、アイラブユーを『月が綺麗ですね』って訳したんだよー」
「そうなのですか……想楽は博識ですね!」
「大したことじゃないよー」
ようやくクリスの目線から逃れられて、今度は想楽がクリスを盗み見る。
街燈の少ない夜道を月光ばかりが照らし、光を浴びるクリスの膚は内側から輝いているかのようだ。その横顔に心奪われてしまう理由は――思いを巡らせかけた想楽は、クリスに名前を呼ばれて考えを中断する。
「想楽も、想い人には『月が綺麗ですね』と伝えるのですか?」
「……うーん、そうじゃないかもー」
「おや」
目を細めたクリスが想楽の顔を覗き込む。クリスの顔にかかる金髪が月光を受けて煌めいていて、あえかな光の眩しさに想楽は目を伏せた。
「では、想楽はどう訳すのですか?」
「……。……今は分からないよー」
ゆるゆると歩を進めるうち、話題は移り変わっていく。
涼やかな風の中、月明かりを辿って分かれ道へ行き着く二人。軽い挨拶を交わして立ち去るクリスを、想楽は一度だけ振り向く。
「――月よりも、君の顔だけ見ていたい」
届かない声を送り、二人はそれぞれの雑踏の中に消えていった。