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    桜庭薫が小糸ちゃんのボイスレッスンを見る話

    あやふやな闇にすくむ「あ、やー……」
     途切れる歌をドア越しに聴くのは何度目か。
    「あ、やぁ……――違う……」
     桜庭薫が予約したレッスン室の利用開始時間まではあと十五分ある。早く着きすぎて、しかし離れる気にもなれずにドアにはめ込まれたガラスごしにレッスン室の中を伺うと、黒いツインテールを揺らす後ろ姿が見えた。
    「あやー……ううん、」
     他の事務所のアイドルと共演することは珍しくないが、少女の姿も声も薫は知らない。
    「あ、や、ふ――?」
     面識のない彼女に介入する必要はないと知りながら、薫はレッスン室のドアを開けていた。
    「……!」
     ツインテールが大きく旋回し、ただでさえ丸い目を丸くして薫を見つめる顔が翳る。「315プロの桜庭薫だ」と端的に告げると、彼女はあえかな声で283プロの福丸小糸だと名乗った。
    「同じところを練習しているようだが、楽譜はあるか?」
    「……! ……は、はい……」
     小糸が差し出す楽譜はボールペンとマーカーペンの書き込みが多すぎて読み取りにくいが、該当の箇所はすぐに見つかる。咳払いに近い発声を繰り返してから薫がその場所を歌い上げると、小糸は両手を口元に添えて静かに瞠目した。
     繊細なビブラートと乱れない音程。ろくに発声練習をしていなくても掠れることのない歌声を響かせた薫は楽譜から小糸へ視線を移すと「二音目の『や』を強調した方が良い」と助言した。
    「ボイストレーナーに見てもらうことが一番だが……一箇所だけでなく、前後のパートも含めて練習したほうが良いと僕は思う」
    「……はい。……でも――」
    「?」
    「!」
     長い前髪と眼鏡の奥の視線を受け、ぱたぱたと首を振る小糸。何でもないと言外に告げる小糸は、しかしすぐに眉を下げて「でも」と呟いた。
    「このパートは、わたしのソロ、だから……。……だから、ちゃんと歌わないと……って……」
     隣に立っていても、最後の方は聞き取りにくいほど小さな声で。
    「……そうか」
     呟いて、薫は小糸に楽譜を返す。細腕が楽譜を抱きしめる寸前、彼女が歌おうとしていた一節が薫の瞳に灼きつく。
    「――あの! ……見てくれて、ありがとうございました……っ!」
     ぺこりと小さい頭を下げて、薫の反応から逃れるように小糸はレッスン室を出て行く。
     ――去りゆく彼女がステージに立つ時、どんな姿を取るのかを薫は知らない。
     美しく装った姿を見せるのか、あるいはありのままの彼女として立つのか――アイドル福丸小糸を輝かせるのは彼女のプロデューサーであり薫ではないから、薫には彼女の努力にも結果にも口を挟むことはできない。
     ただ。
    「あやふやな闇にすくむ……」
     ――彼女がそうでなければいいと、そう思った。
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