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    真央りんか

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    真央りんか

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    神ミキ。ヤギになった神先生

     ある休日のまだ日の暮れぬ頃。買い出しに行くという隣人の吉田に、三木は荷物持ちで名乗りをあげた。よく食べる隣人三人衆の食料なのだから、きちんと大義名分はある。なによりその量を一人で運ぶのは大変だ。吉田も断らず、二人で揃って町に出た。
     店に向かっていると、車道を挟んだ向かいに三木はよく知った顔を見つけた。神在月だ。視力は良くはない神在月も、三木に気付いた。付き合いの長さは伊達じゃないといったところか。三木の反応で吉田も神在月の存在に気付く。神在月は三木に連れがいるのを見て、二人に軽くペコリと頭をさげて、そのまま通りを進んでいった。
     三木を見ても慌てた様子はないから、ギリギリの逃亡ではないようだ。普段の買い物か散歩だろう。
     三木たちも特に足を止めずに目的地を目指す。
    「今のが、友人の神在月です。神在月シンジ。アイジャ飯の」
     漫画家の神在月と友人だとは、吉田に話したことがあるし、吉田も神在月の作品『アンドロメダイガコーガジャイアントバトル飯』は読んでいる。三木の言葉に、吉田は「ああ」と頷いた。
    「見覚えはある人だけど、あの人が神在月先生なんですね……んふ、あ、いや、ごめんなさい」
     吉田は思わずといった感じに笑いを漏らし、すぐに詫びて説明する。
    「いえ、自画像のヤギの姿がすり込まれてるので、実際は当たり前だけど人型なんだなと思ってしまって」
    「んっ…そうなんですよ」
     神在月が自画像にしている、二足歩行でちょっと猫背のヤギの姿を思い出して、三木もつられて笑ったのだった。



     そんな会話から数日後。
     三木が深夜勤務に備えて夕方に起き出すと、神在月から電話が入った。ところが繋がったのに聞こえてくるのは、ヒンヒンペソペソとした泣き声らしきものだけ。
    「シンジだよな?」
     問いかけてみると、「メエ」と小さな鳴き声が返ってきた。

     相手が自宅にいるのを確認して、三木はすぐに神在月の元へ向かった。途中、人通りのある場所を通ったとき、猫と犬が多いように感じた。警戒センサーに引っ掛かったが、神在月の様子を確認するのが先だ。
     神在月の部屋にたどり着きチャイムを鳴らすと、中でトテトテトテッと足音が聞こえてすぐ近くで止まった。だがドアが開かない。三木がほとんど待たずにノブに手を掛けると、鍵はかかっていない。そのままドアを開けると、出迎えたのは、神在月本人の自画像が紙から抜け出たような、服を着て眼鏡をかけた二足歩行のヤギだった。
    「………よう、あがるぞ」
     声をかけると白ヤギは頷いてから、てこてこと部屋に戻っていく。
     作業机の前で席に着いた白ヤギをまじまじと見る。どこからどう見ても白ヤギだが、デフォルメされているし、神在月の面影がある。金色のヤギの目はいつもと変わらない。間違いなく本人だ。電話の時より落ち着いていて、泣いてはいなかった。
    「シンジだな? 俺のことわかる?」
    「メッエー」
     状態を確認するために質問すると、普段あだ名で呼ぶような鳴き方で返ってきた。かすかにパサパサとした音が聞こえる。
    「言葉は出ないんだな」
     今度は「メ…」と短く鳴いた。心なしかしょぼんとした響きだ。パサパサ音がやむ。
    「ポンチか? 外で?」
     この町でこんな現象は、どう考えてもポンチ吸血鬼の仕業だ。首を捻ったりこくこくと頷いたりする様子に三木はスマホを出して、特徴が合う状況と、そこに繋がる吸血鬼出没情報を探す。先ほどの動物が多い様子は関係ありそうだが、肝心の原因はわかっていない。
    「クワバラさんに連絡は?」
     担当編集者の名前を出すと、神在月は首を横に振ってから、机の上のスマホを取り、スタイラスペンでポチポチしだした。張りついてでもいるのか、蹄の付いた足先は、きちんとペンを持っている。ペンが持てるということは――
    「漫画は描けるんだな?」
     三木の問いに、神在月はメッセージを打つのを止めて頷いたが、「メエ…」と困っている。
     ペンを付けペンに持ちかえると、「見て」と言うように三木を振り返ってから、紙に向き直って何か描く。現れた絵には、なんの問題もなさそうだ。
     もう一度振り返ってから、再び描きだす。
    「メエエ…」
     何やら苦悩している。
     見比べてわかった。最初のはコミックのおまけやあとがきに描くタッチ…自画像が登場しそうな場面のタッチだ。次のはストーリーのシリアスコマだ。描けてはいる。しかしいつも以上に時間がかかりそうだ。
    「俺からクワバラさんに、状況送っとく」
     メエと小さく鳴いたのは、依願か礼だろう。

     クワバラからの返事はすぐに来て、アシスタントの手配についてと直接様子を見にくることが書かれていた。
     神在月にも同じ内容が送られて、なぜか体をぐねぐねしている。三木が来るまでに泣きやんでいたのは、おそらく漫画が描けるのが分かったからだ。ただ、のしかかったハンデを思うと、安心していられないといったところか。
     神在月はヤギ語で呻きながら、ぐんにょりと原稿に向かいだした。
     さっきから見ていると、ヤギとはいうが、どこか妙だ。イラスト通りにデフォルメされているのはもちろんとして、
    「メエエエエエ…」
     いやいやしている鳴き声がおかしい。なんというか、人がメエと鳴いてみせるそのままだ。神在月の声のまま。普段よりやや高い程度か。
    「そういえば、食事は? 食いもんは変わらない?」
     三木が声をかけるとポカンとしたので、ヨーグルトを持ってきてやる。試しにそのまま渡してみると、器用に自分で開けて食べはじめた。
     またパサパサと音がする。出どころを探して神在月の後ろを覗き込むと、しっぽが揺れていた。
    「…お前、それなんで揺れてるの」
     三木に問われて神在月は振り返り、ズボンを貫通して出ている自分のしっぽを見つけ、立ち上がった。三木を見て、しっぽを見て、三木を見る。高揚で目が輝いていた。表情の豊かさはヤギの範疇を超えている。しっぽはますます激しくピコピコ揺れた。
    ――ヤギのしっぽって、感情で動くんだっけ…?
     そうかもしれない。だが三木にはわからない。もしかしたら神在月も分かってない。
     このヤギは、あくまで自画像のヤギという生物なのだ。

     普段より時間がかかるのが確定している以上、原稿は着実に進めていかねばならない。まだ出勤まで時間があるので、三木は作業に付き添った。神在月がだらけそうなのを叱ったり宥めすかしていると、VRCからの情報が入った。人々の動物化の犯人が捕まったようだ。やはり変身系の能力の吸血鬼だった。
    「…吸血鬼それリアルで言えますか…?」
     三木が気付かなかっただけで、変身対象は動物だけではなかった。植物、食べ物、無機物、アニメキャラ、物体化できるものに留まらず、果ては風景まで、歩くホログラフとなった被害者もいたという。
    「その人の使っているSNSアイコンどれかになるんだと」
     匿名のつもりだった顔をリアルで晒させて、同じことを「リアルで言えますか」ということなのか。
     場が違えば言える内容の範囲など変わって当然だが、どこで出そうがアウトな表明も溢れている。アイコン姿を目撃されることで、身バレが発生したら大混乱だろう。何もかも一緒くたに明るい場に引っ張りだされたら…。自業自得もそうでないのも取り巻いて、世間が私刑集団でひしめく可能性はある。人類には早かったという方面の危険な能力だ。
    「なにも処置しない場合、効果が解けるまでの時間はそのアイコンのidでSNSにいる度合いによる。といってもヌイ廃レベルで三日程度らしい」
     急ぎやそれ以上解けないときはVRCまで、と一応そこまで読みながら、見るからに安心した様子の白ヤギを見る。神在月が白ヤギイラストを使っているのは仕事用のアカウントだ。そこまで入り浸ってはいない。そろそろ戻ってもよさそうだ。
     さっきまでぐんにょりしていたのに、神在月は急にそわそわして「メエ」とスマホを三木に差し出した。わからないまま受け取ると、ヤギは三木の目の前で、軽く腕を広げて胸を張って立っている。そしてちょこちょこと後ろを向いたかと思うと、そのまま一回転してまた「メエ」と鳴いた。たぶん、写真を撮れと言っている。この姿に残された時間が短いことを気付いたようだ。
     三木はピコピコうごくしっぽを最初に動画で収めてから、静止画に切り替えた。
     全身を、前、後ろ、横。肘や膝を曲げさせると、関節の動きは人型と変わらない、謎の生き物だ。前足…手の辺りも撮影する。どうやって物を持っているのか、目の前で見てもよくわからない。
     顔の表情も多少は作れるので、適当にやらせて収めていった。
    「口の中どうなってる?」
     軽く開いた拍子に気になって、あ、と開けさせると、草食動物らしいと言っていいのかわからないが、平らな歯並びが見えた。
     一応写真を撮ると、さすがに恥ずかしいのだろう、神在月の体がもそもぞと動く。
    「ほんとのヤギは、上の歯がないっていうよな」
     某有名アニメの演出的描写になされるツッコミを思い出し、三木が改めて口の中を見ると上下揃っていた。
     平らなそこにはダンピールの牙がない。
     スマホを置いて、神在月の顎を捕まえ口の中に指をつっこむと、当然の反応としておたおたしている。歯並びをなぞると前歯だけで一旦途切れ、更に奥に進むと、すっと突き出た歯に当たった。尖っている。牙だ。一番奥が牙になっている。
     これは神在月が自分で設定しているのだろうか。無意識の造形なのか。
     大人しく見せて、安心した相手を深く咥えこみ牙を立てる――
     手を深く入れられて、閉じられない口からは涎が溢れ、戸惑った涙目が三木を見る。
     見つめ返しながら牙を撫で上げると、神在月はブルッと震え、ざわっと立った毛並みが翳ったように見えた。
     ぞくっとしたものが走って咄嗟に三木が手を引き抜くと、ヤギはその場にへたり込んだ。口元を手で押さえながらプルプルとしている。
    「悪かった。吐き気とか気分悪いとかないか? …怒ったか?」
     首がふるふる横に振られた。三木はティッシュを取って神在月の目の前に座り込み、口元を拭いてやる。
     その毛色は輝く白だ。さっきのは見間違えだろうか。一瞬黒く染まりかけたように見えた。
     神在月の自画像は二種類ある。普段ののほほんとした白ヤギと、たまに出てくる闇色のヤギ。
     間近でじっと見つめると、白ヤギはきょとんと首を傾げた。人型よりもあざとさが増す。
     すべらかな短毛の頬を撫でた手で、毛の流れを逆立てるように顎下を辿り、ふわふわ頼りなげな髭を軽く引っ張る。三木は神在月のふにっとした鼻面にキスをした。
     ヤギはやっぱり白くて、後ろで速めにばさぱさと音がした。ふっと思わず笑みが出る。
    「違ったか」
     きょとんと効果音が付きそうな様子で、神在月は先程と反対側に首を傾げる。
    「さっき黒ヤギになりかけたのかと思った。エロいことでも考えたのかなって」
     三木のハハッと笑った顔を、ヤギの目がじっと見る。視線に気づいて笑みを薄めた三木に、神在月は身を寄せてそのまま乗り上げてきた。三木がされるがまま押し倒されると、目の前で神在月の毛並みが黒く染まっていく。
     白毛の時より光って目立つ金の瞳。さんざん表情を見せられたので、今が真顔だとわかる。触れそうな鼻先から、フンフンと息がかかる。
     三木が黙って見つめていると、神在月は不意に人型に戻った。
     お互いに軽く目を見張ったが、退くことはせず、三木は神在月の顔に手を伸ばした。親指で唇を撫で、そのまま口の中に差し込む。神在月は避けることもせず、むしろ反射のように指に吸い付いた。前歯の並びの端の牙を撫でると、神在月の頬が赤くなる。

    ピンポーン

     突然のドアチャイムに二人で固まる。つい息を殺したが、数拍置いてガチャッと鍵の開く音がした。
     クワバラだ。連絡の後、すぐ足を運んでくれたらしい。なんといっても神在月が虚弱の一人暮らしなので、緊急のときはクワバラは合鍵を使う。
    「邪魔すんでー」
    「邪魔すんねやったら帰ってー」
    「あいよー…ってこら」
     小ボケをかまして一旦足を止めさせた隙に、三木は神在月の下から抜け出して、何食わぬ顔で出迎えた。一見飄々とした雰囲気で顔を出したクワバラは、さっと目を走らせ神在月を確認する。
    「三木くん新喜劇もできるんか、ん、神ちゃんなんともないやん」
     三木が抜け出して、一人床にへたり込んだような状態で取り残された神在月は、情けない笑顔で「どうも」と挨拶した。
    「さっき戻ったんですよ」
     三木は説明してスマホを手にすると、撮影した画像を見せた。
    「作業もゼロではなく、少しだけ進めました」
    「器用やな」
     クワバラは応じながら、ヤギの画像を見る。全身像を何度か行き来する。
    「立体でもなかなかいけてるやん。この画像、ちょお送ってくれる? 企画にかけるだけかけてみるわ」
    「…作者のキャラグッズですか?」
    「前に出したスタンプは、なかなか人気やで」
     スマホを神在月に返して、本人から画像を送ってもらいながら、クワバラは原稿にも目を通した。
    「アシスタント増員はなしで、締切もそのまんまで大丈夫そうやね、安心したわ」
    「はいぃ…お騒がせしました」
     頭を下げながらボソボソと答える神在月に、クワバラはニッとわざとらしい笑みを見せた。
    「ほな、お・じゃ・ま、やから帰りますけど、ちゃんとこの調子で進めといてくださいよ。まあ危ないときは、お二人一蓮托生やし」
     誤魔化したのにバレている。三木は舌打ちを堪えて、ただしその感情は隠すことなく表情に浮かべた。
    「どうも、おつかれさまでした」
    「あ、ありがとうございました」
     フットワークが軽くてありがたい編集者に挨拶をして、二人で見送ったのだった。



     新横浜の小さな日常が一つ片付いて、神在月は椅子に座り直すと、傍らの三木にまっすぐ向いた。
    「ミッキー、今日はすぐ来てくれてありがとう」
    「そりゃ、シンジが呼ぶなら……頼ってもらえて嬉しいよ」
     三木は神在月の左手を取って、軽く指を握る。
    「お前がヤギになろうが、任せておけ」
    「ミッキー…」
    「でも、今はこの手がある方がいいかな」
     人型の手の指を確認するように触りながら、三木は握った手を持ち上げ、骨張った指の背にキスを落とした。
    「ミッキー…!」
    「…なんたって、原稿やりやすいしな」
     取った左手を机の上に置いて、椅子ごとくるりと原稿に向かせる。
    「あれええええ!?」
     罠にかかったような悲鳴があがり、三木は神在月の両肩をポンと叩いた。
    「じゃあ俺は今から出勤だから」
    「ううううう」
     襲い来る現実に、神在月はさっそく溶け出しそうに崩れて呻いている。三木はその背中を後ろから覆うように机に手をついて、項垂れた黒髪の後頭部に口づけた。
    「明日また来る。がんばれよ、黒ヤギさん」
    「…メエ」
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