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    真央りんか

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    真央りんか

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    神ミキ。神先生サイン会。モブがちょこちょこ、オリジナル吸血鬼ががっつり出ます。蹴りや関節極め程度の暴力あり。

     書店側に用意してもらった楽屋がわりのスペースで、事務椅子に座った神在月シンジが唸っている。ついたての向こうから書店員さんが心配そうに覗いたので、俺は安心させるように笑顔でそちらに会釈してから、シンジに声をかけた。
    「外まで声聞こえてるって」
    「あうあうあう」
    「大丈夫。今日来てくれる人たちは、お前のファンなんだから」
    「アイジャ読んでくれるだけでありがたすぎるよ。俺なんていらないよ」
     今日は『アンドロメダイガコーガジャイアントバトル飯』新刊発売を記念してのサイン会だった。顔出しはこれまでもあったが、シンジ自身のイベントごとは滅多にない。おかげで大勢来てもらえたようだが、本人の緊張も増していた。
    「何言ってんだ、作者だろ。ほら、猫背になってる」
    「うお」
     俺は後ろからシンジの両肩を引いて丸まった背中を伸ばした。一つに結った髪の両脇から覗くうなじに目を落とす。
    「…今日は髪おろそうか」
    「髪?」
    「見せるのもったいない」
    「なにを?」
    「な、おろそ」
     上から顔を覗き込むと、シンジは一瞬びっくりしていたが、「うん…」と素直に自分で髪をほどいた。髪を梳いてやりながら、ああでもないこうでもないと分け目を変えて、利き手側の髪を耳にかけさせ少し固める。
    そこへ、ノックと共に関西弁で知らせが来た。
    「そろそろやで」
     担当編集者のクワバラさんだ。髪をおろしたシンジに「お」と反応したので、俺は「俺がやりました」とにっこりしてみせる。
    「ほぉ…さすがようわかっとる」
    「さ、神在月先生、お願いします」
     おどけた雰囲気を残しつつ、口調を仕事モードに切り替えて促すと、漫画家神在月シンジは溜息で気合を入れて立ち上がった。

     今日の俺の仕事は、名目上は臨時編集者だ。なんといってもオータムの編集者なので、護衛を兼ねてると言っていい。シンジのすぐ脇が俺の持ち場。クワバラさんは主に書店側との連絡に当たっていた。
     行列の先頭から順に一人ずつ、緊張と楽しみで浮き足立った様子の参加者が、シンジのいる机にやって来る。一人が終わりそうなところで、次の順番の方から名前を記入してもらった小さな用紙を受け取る。その時に見た目で全身チェック。差し入れがある場合は、念のため紙バッグなどは開けて見せてもらう。
     シンジの隣に戻って、ありがとうございましたと先の客を見送る。長引きそうならはがしも考慮しなくてはいけない。
     そこでシンジにメモを渡せば、次の客が来るタイミングに合わせてシンジが名前に目を通すのが間に合う。第一声のやりとりに目を配って雰囲気を読む。
     男性ファンが多いと思っていたが。比率は半々だった。高校生くらいだろうか、友人同士で来た様子の女の子が二人で順に終え、順路先で合流して興奮しているのが聞こえてくる。抑えた声だが「目」とか「指」とか聞き取れたので、シンジの外見にやられたらしい。自慢する気持ちが顔に出そうになって、俺は咳払いのふりで口元を隠した。
     サイン会は順調に進んで終盤に入ってきた。夜の開催なので、閉店作業に影響が出ないようにしなくてはいけない。スケジュール通りに済みそうで安心しかけたところで、不意にいやな感覚が胸に湧いた。
     視界に入った列にいるその一人は、とこにでもいるモブのような認識だった。ほんの今までは。
     背が高くて体格もいい男だ。目つきが悪い。柄シャツの雰囲気が不穏だ。シンジのいる正面ではなく、少し斜めの俺をじっと見ている。ヤバい奴だったら、俺がシンジをを守らなくては。
     どこにでもいそう、という感覚から、どこかで見覚えがある、というものに変わり始めた。男の順番がやってきて、俺は名前が書かれた用紙を受け取りに近づく。すぐ側で顔を見て、ようやく気付く。
     こいつ……前に来たアシスタントだ。なんでわざわざここへ…。
     さっきまでと違い、男はチェックする俺に無関心のようだった。ひとまず危険物の様子は窺えない。俺はシンジの元に戻って、前の客を送り出す。次の相手が視界に入るとシンジの顔が輝いた。目の前に来たそいつに、シンジは俺が渡したメモも見ず親しげに呼びかけた。
    「言ってくれたら家で渡すのに、ミッキー」



     今夜はアイジャの新刊発売記念で神在月のサイン会が行われるということだった。新刊作業に加えてサイン会のための打ち合わせもあり、少し前まで神在月は普段以上にひいひい言いながら、どうにかスケジュールをこなしていた。
     三木もその間は集中的に神在月のサポートに入っていて、反動で直後はその埋め合わせの為のあちこちの仕事に追われていた。本当は今夜もオータム書店からマネージャー的役割で打診があった。担当のクワバラがつきっきりでいられないということだったが、既に三木は方々から泣きつかれた状態で、当日を空けられるかどうかはわからなかったので、断わってあった。
     ただ、仕事として約束はできない、というだけで、サイン会自体を逃したら後で激しく後悔するのはわかっていたから、三木は今日までの仕事をひたすら頑張った。頑張って時間を取って、サイン会の予定をねじ込んだ。
     そうして同じくアイジャ飯のファンであるマンションのお隣さんたち、吉田とクラージィも連れだって、都内の書店までやってきたのだ。クラージィが新横浜を出るのが心配なのか、なぜかノースディンまでついてきた。さすがにノースディンはサインは要らないとのことで、見物枠のどこかで待っている。
     会場で、離れたところから神在月の姿が目に入り、三木は少し頬を緩めた。神在月はたまに見る自前のジャケット姿だが、珍しく髪をおろしている。
     手続きをすませて三木を先頭にクラージィ、吉田と列に加わる。じわじわと進んでいく中、神在月の姿は列と重なって見えなくなった。神在月の傍らにいる黒スーツの男はかろうじて目に入る。知らない男だった。参加客から名前のメモを受け取るついでに、セキュリティチェックをしているようだ。あれは、本来なら三木に依頼された立ち位置なのかもしれない。臨時編集者、と三木は判断した。
     じっと見ていたせいか、あちらも三木に目を留めた。なにか、いやな感覚が胸に走った。だが不躾に見ていたのは三木が先なので、湧いた警戒は胸に納めたままにする。
     男に名前のメモを渡して、見られている間は何気なさを装う。前の参加客が机の前を去って、現れた神在月は三木の姿を認めて驚いたような笑顔になった。近付くと、その笑顔は安堵でふにゃっと崩れる。
    「言ってくれたら家で渡すのに、ミッキー」
     三木は一旦ファンとしてかしこまって応じてみせる。
    「サイン会でもらうのがいいんですよ、先生。新刊発売おめでとうございます」
    「ミッキーのヘルプ分も注がれた一冊です、って毎回か。えへへ、来てくれてありがと。あ、ミッキー宛てでいいんだね?」
    「ああ。残りもがんばれ」
     表紙を開いたところに神在月がサインをするのを見守る。今日は繰り返し同じサインを書き続けているはずだが、ペンの運びはとても丁寧だ。吸水紙を挟んで閉じて、神在月が両手でコミックを手渡す。
    「ありがとうございます」
     二人で礼の言葉が重なって、目を見交わして、三木はすぐその場を退いた。
     傍らの男が「ありがとうございました」と挨拶する目の前を、あえてそちらを見ずに軽く頭を下げながら三木は通り過ぎた。横顔に感じた視線は鋭かった。
     クワバラは来てないはずはない。挨拶がてらRineを送り、今会場にいることを伝えて相手の所在を尋ねる。返信はすぐに来て、壁の陰にいただけで、対面用のエリアのすぐ脇にいるとのことだった。
     サイン会を囲む見物人の輪の外で、そんなやりとりをしていると、一緒に並んでいたクラージィが順番を終えてやってきた。だがクラージィは真顔で三木をチラッと見てから通り過ぎると、すぐ先にいたノースディンに声をかけた。二人で小声のやりとりをしながら神在月を見て、頷いている。
     クラージィの後ろにいた吉田もやってきた。クラージィとノースディンも戻ってきて、全員が三木の元に集まると、クラージィが真剣な表情で口を開いた。
    「神在月先生、催眠カカッテマス」
     目を見張った三木に、クラージィは頷く。三木は会場に目をやった。見る先は神在月ではなく隣の男。
    「クラさん、シンジの隣にいる奴は吸血鬼ですか」
    「ハイ、デモ、誰ノ催眠カ…」
    「あいつだ」「あの人です」
     ノースディンと吉田の声が重なった。一拍間を置いてから、吉田が続ける。
    「神在月先生が、クラさんとも楽しそうに話したあと、僕の番の前であの人が先生を呼んだんです。二人で目を合わせて。そしたら、なんか神在月先生ぽわぽわしていて、僕のこと覚えてない感じでした。モブ力出ちゃったなくらいで受け流したんですけど、そういう事情ならあの時にもやってます」
    「クラージィは解こうとしたそうだ。近い友人が続いたことにもあいつは慌てたんだろう。おそらく人間関係誤認の能力だ」
     ノースディンの補足も得て、三木は歯ぎしりをする。
    「三木サン、処ス? 処ス?」
    「クラさん待って、退治人…いや、吸対、ここ都内管轄ですよね」
     三木の殺気に反応したクラージィを吉田が抑えてくれる。安全に確保するなら、通報が穏当か。あまりにも三木が睨んでいたせいか、人混みの向こうで相手に気付かれた。警戒を強められたに違いない。三木は視線を逸らして皆に告げた。
    「すぐ近くに担当のクワバラさんもいます。事情やりとりして、出版社として通報してもらった方が話が早い」
     三木が移動すると、みんなゾロゾロついてきた。見物の輪が途切れる端にクワバラを見つける。一緒に二人ほどいるのは、書店員のようだ。クワバラは三木に気付くと、二人に断って三木に近付いた。
    「クワバラさん、シンジの横にいるの誰ですか。どういう経緯であそこに?」
    「誰って、いっつも神ちゃんと一緒におるやんか。昔からの友達やから、今日みたいなイベントは神ちゃん緊張するし、一緒のんがええて手ぇ挙げてくれて。スタイリストもしてくれて、って髪おろしたただけやけど、神ちゃん今日えらいきまっとるやろ。…あれ、なんで三木くん知らんの…?」
     ずっと厳しい表情の三木にスラスラと話す様子で、クワバラも催眠にかかっているのは間違いない。ノースディンの予想通りに、対象や周囲に自分を親しいと思わせる能力のようだ。クワバラの話したとおりの男など、神在月の周囲に実在しない。いたら三木が知らない訳はない。クワバラは自分の発言の矛盾に気付いたので、そのまま自力で解けるかと思われたが、さすがにそこまでは至らなかった。
    「ノースディンさん」
    「…言っておくが、人のを解くのはかけるより何倍も難しいんだぞ」
     古き血の吸血鬼に呼びかければ、説明せずともノースディンが三木の隣に並ぶ。一歩クワバラに近付いて見つめ、
    「なるほど、これが闘志を失わぬ守り手の目…」
    「へ?」
     クワバラが気の抜けた声をあげ、ノースディンはふっと鼻で笑ったようだった。
    「少し圧をかけただけで弾けとんだ。こちらの魅了をかけてすらいない」
    「ありがとうございます」
     振り返って告げたノースディンへの礼もそこそこに、三木はクワバラに詰めよった。
    「で、あいつ誰なんですか」
    「ええと、最近入ったバイト君で、ん、なんであのポジションやねん」
     考え込んだのも一瞬で、クワバラの状況把握は早かった。シンヨコ馴染みが役に立つ。
    「わかった、吸対呼ぶわ」
     クワバラが電話をかけはじめたところで、会場がざわめいて拍手が起こった。サイン会が終了したのだ。
     衆人環視の中だから出来なかったこともあるはずだ。三木の存在がバレてる今は、人目の届かないところに移動されるのは危ない。
    「楽屋、どこですか」
     説明中のクワバラに小声で尋ねて、指のジェスチャーが示した方向へ進む。だが明らかにスタッフオンリーの区域まで入り込んで、店員に止められてしまった。クワバラがついてきてないので仕方ない。警備員もやって来る。
    「お客様、困ります」
     腕に物を言わせるわけにもいかないが、時間が惜しい。
    「ノー…」
    「ノースディンさんダメですぅ」
     三木が再び吹雪の吸血鬼を呼ぼうとして、後ろで吉田の止める声がした。争わずにここを突破する方法として、全員同じ事——ノースディンの魅了を思いついたようだ。ただ、忘れがちだが、警戒対象の上位にリストアップされてるだろうノースディンが、不法侵入のために何人もに能力を奮えば、確実に面倒なことになる。
     諦めて、害意がないことを示しながら、三木はクワバラが来てくれることを念じる。そこへ一人の店員が台車を押しながらやってきた。台車に乗っているのはサイン会で渡された差し入れの数々だ。三木たちが穏便に済ませたいのを表すためにスッと壁際によけると、困惑しながらそそそっと脇を通り抜ける。
     店員は近くのドア前ですぐ止まり、ノックをしてから少し待ち、もう一度ノックしてから少しだけドアを開いて中を覗いた。
     すぐに顔を出して、通路で三木たちを留めている面々を見渡す。
    「あの、神在月先生まだ戻っていらっしゃいませんか?」
     その場に落ちたきょとんとした空白に、三木は部屋のドアに飛びつきガッと全開にした。
    「ひっ」
    「あ、こら!」
     台車の店員の怯えた悲鳴も警備員の制止も耳に入らない。
     それほど広くない部屋だった。誰もいない。目隠しの衝立があったが、その向こうにも人の気配はない。
    「ここが楽屋?」
    「は、はい」
     店員の返事を得て三木はすぐに飛びだした。警備員をかわし、会場へと逆走する。会場を出たばかりの位置に、非常階段を見つけて扉を開けた。ゴウン、と下の方で扉がしまったような音が聞こえ、即座に駆け降りる。
     正確な位置はわからなかったが、思い切って地下まで降りて階段室を出ると、そこは駐車場だった。
     二人が、いた。
     神在月が腕を取られて連れられて、車に乗せられそうになっている。
    「シンジ!」
     三木が大声で呼べば、二人が振り返った。ほっとしたような神在月の表情が、後ろにぶれる。三木は弾かれたように走り出した。
    「俺を見て!」
     前方でそんな叫び声があがった。黒スーツの吸血鬼が車の開いたドアから後部座席に神在月を押し倒し、顔を覗き込むようにのしかかっている。
     三木は後ろから羽交い絞めにして、吸血鬼を神在月から引きはがす。引きずって車からも離し、ふくらはぎを上から蹴り下ろして、膝をつかせた。まず右、そして左。
     したたかに膝を打ち付けて、吸血鬼が声をあげる。動きに隙ができたので、三木は背中側で相手の腕を極め直し、完全に封じたところで神在月を呼んだ。
    「シンジ! シンジ、無事か!」
     神在月がふらふらしながら車から出てきた。吸血鬼が顔を上げようとしたので、三木は頭を押さえて下げさせる。神在月は戸惑ったように三木たちを見た。
    「なんで二人、喧嘩してるの?」
     神在月の表現に、三木のこめかみがぴくりとした。まだ催眠が切れてない。首を傾げた拍子に神在月のおろした髪がはらりと垂れて、三木の神経を逆撫でする。
    「シンジ、髪ゴム持ってたら髪まとめて」
    「え?」
    「早く」
    「あ、うん」
     神在月は、ぱたぱたとポケットを叩き、中をさぐり、髪ゴムを見つけた。手櫛でざかざかとといて、髪を後ろで一つにまとめる。
     三木の腕の下で、吸血鬼がハッと笑った声がした。神在月が男を見る。困惑の表情は先程とは違っていた。
    「あれ? えっと、その人」
     神在月に変化が表れて、三木はやや我を取り戻した。だがまだ冷静とは言えなかった。
    「お前、友達いないだろ」
     押さえつけた相手に、思わずそんな言葉を吐く。ハッともう一度、今度は明らかに嘲笑が返る。
    「なにが友達だよ。友達とか誤魔化して、お前らデキてんだろ」
    「…ああ?」
    「だったら空いた椅子、俺にくれてもいいじゃんか」
     三木の目が細まる。静かに腕に力が篭もる。折れてもいいと思った。
    「あああああっ!」
     苦痛の絶叫と同時に、駐車場にバタバタと人が来た。三木は即座に力を抜いた。苦鳴が止まって、ぜいぜいとした呼吸が残る。すすり泣きの声もする。じっくり締め上げたせいで、ミシミシとした感触はあったが、折るところまではいかなかった。
     やってきたのは吸血鬼対策課の隊員二人だった。三木を含めて警戒し、距離を置きながら、三木に「そいつが吸血鬼か」と訊いてきた。返事をする間もなく、サイレンが近づいてきた。何台か吸対のパトカーが乗り込んで、次々に隊員が降りてくる。階段からも現れて、三木たちの包囲は厚くなった。
    「あの、黒服が吸血鬼、押さえとる方は退治人、新横浜の」
     隊員たちと一緒に来たらしい、クワバラの声がした。通報者の一言はありがたい。
     新横浜と聞いて、一同にどよめきが走った。これは悪名の部類か。だがおかげでやりやすくなった。
    「催眠系能力による誘拐未遂です。そちらの彼は被害者。保護してください。こいつの目は見ないでください。何か目隠しするものをお願いします」
     三木は周囲に向けてそう言ったものの、痛めつけたせいなのか、既に吸血鬼は抵抗する気力を削がれているようだった。俯いたあたりの地面に、口か鼻か目か、何かわからぬ汁で小さな水たまりができている。目隠しがされ、手錠をかけられたところで、ようやく三木は吸血鬼から離れた。
    「お怪我はないですか」
     近くの隊員に声をかけられ、大丈夫と身振りで応じて、三木は神在月の元に向かう。神在月は三人の隊員に囲まれながら、なにか抵抗しているようだった。隊員たちは救急に送りたいようなのだが、神在月はじりじりと吸血鬼に近づこうとしていて、当然止められている。
    「おい」
     三木も止めるつもりで神在月に声をかけたのだが、すがる目で返されて、受け入れざるをえなかった。深く溜息をついてから、神在月を守っている隊員たちに渋々頼む。
    「いったん通してやってもらえますか」
     新横浜の威光か、隊員たちは三木の言葉であっさりひいてくれた。
     吸血鬼は打ちつけた膝が痛むようで、腕を引かれて立たされているが中腰のような姿勢だし、歩くのもなかなか進まない様子だ。
     両脇を固める連行役の隊員に、三木は合図をして止まってもらい、吸血鬼の前に立った。神在月と直接向かい合わせたくない。三木が背中に半身で庇う後ろから、神在月が吸血鬼に話しかける。
    「三木とは親友やめてないよ、今日もずっと」
     項垂れていた顔が神在月の声で跳ね起きた。目隠しされた目元が神在月を向いている。
    「両方とも三木がいいの、俺が」
     神在月が続けると、吸血鬼の口元が震えた。再び項垂れ、体の力も抜けたようで、引っ張られてよたよたしながら連行されていく。
     残った三木たちに、隊員が声をかけた。
    「お話を伺いたいので、ご同行願えますか。そちらの方は、まず催眠の診察を受けていただきたい」
     三木と神在月、それぞれ頷いて、また囲まれた神在月は案内される方へついていく。ここで三木までついて行っても、向こうでは別々になるだろう。三木は追わずに、自分を待っている様子の隊員に話しかけた。
    「行く前に、連れに先に帰るよう伝えてきていいですか」
     三木が視線を向けた方向に、吉田とクラージィとノースディンがいた。了解を得て三人と互いに歩み寄る。
    「これから事情説明に行くんですが、けっこう大事になったし、時間が読めないので、皆さんは先に帰ってください」
     うんうん、と心得たお隣さんたちが頷く。
    「三木さんも神在月先生も怪我してませんか?」
    「はい、あいつも特に痛がってないし、たぶん」
    「三木サン、三木サンノ、バッグデス」
    「あっ…、ありがとうございます」
     楽屋を開けてからの手荷物の記憶がなかった。そこに放り出していったらしい。礼を述べてクラージィからバッグを受け取ると、視線を合わせないままノースディンが小声で訊ねてきた。
    「術の解除に私も同行するか?」
    「……いえ、もし吸対で解けなかったら、帰ってから改めてお願いに伺います。その時はお願いします」
     隊員が近くにいるので三木も小声で返すと、ノースディンは頷いて、隣でクラージィが微笑んだ。
     術を軽いと見たノースディンの判断を、三木は信じることにした。古き血基準でないことを祈っておく。
     では、と挨拶して別れ、三木は待たせていた隊員に案内を頼んだ。

     車で移動する間も、吸対の庁舎に到着してからも、神在月とは別々だった。クワバラもいるはずだが会っていない。
     念のために三木も催眠の検査を受けたが、もちろんかかっておらず、簡単に済んだ。その後は、会議室のような一室の隅で、一人の隊員に話を聞かれることになった。
     身元を伝える際に、新横浜ギルドでハンター登録をしていることを告げると、隊員は改めてそわそわ反応した。
    「うちのギルドマスターに一報入れさせてもらっていいですか」
    「ああ、どうぞどうぞ」
     断ってから目の前で電話をかけさせてもらう。
    「あ、三木です。おつかれさまです……都内で野良で出くわしまして、……どこかに依頼がかかってたものではないんですが、高等吸血鬼で、えー、確保に協力しまして」
     わざわざ連絡したことから判断したのだろう。それだけの説明で、マスターから『無茶しましたね?』と言われてしまう。この『無茶』は、相手にという意味だ。
    「あー、まあ、ギリギリ…………はい、……はい。ではそちらからよろしくお願いします。……失礼します」
     どこの所属だろうと、巻き込まれた吸血鬼トラブルに自力で対応するのは退治人の基本だが、地元ギルドに話を通すに越したことはない。私怨で処理した自覚は嫌なほどある。根回しのやりとりをマスターに任せて、三木はひとまずほっとした。
     改めて聞き取りが始まって、三木は経緯を説明した。神在月とクワバラの催眠に気付いたくだりでは、クラージィとノースディンが果たした役割に触れずにおく。細かな確認に答えながら一通り伝えると、三木にはあの吸血鬼の情報はほとんどないので、話すこともなくなった。
     一方で、隊員は新横浜の退治人に対する好奇心が湧いたようで、新横浜についても訊ねてきた。都内はもちろん吸血鬼は多いが、もともと人間も含めての人口が多いのだ。危険度が高いと分類される事件は新横浜が群を抜いて多いので、その真偽を知りたがっている。当たり障りなく、つまり日々のポンチ事件のポンチたる部分を省いて答えていると、それなりの様子に受け止められたようだ。
     隊員が「ロナルドウォー戦記のままだ…!」と小声で洩らしたので、オータムに貢献してしまったかなと、三木は胸の内でひっそり思った。
     そこへ隊員がもう一人やってきた。あの吸血鬼の取り調べが進んでいるとのことだった。
     すっかりおとなしくしているらしい。あちこちで職を転々とするときに、面接を通りやすくする程度で、能力を使っていたという。オータムでもそれでバイトに来た。しかし初めからサイン会のスタッフを狙っていたのではなく、オータムで神在月を見かけてから計画し、社員たちへの催眠をかけなおしたそうだ。前科はなかった。
     取り調べの内容を三木がここで聞いていいのかと思うが、能力とおおよその経緯については、そのうち神奈川にも情報が回ってくるだろう。今後の処遇は知らないが、三木としてはもう縁がないことを願うだけだ。
     その話題を機に、三木は帰らせてもらうことにした。
     最後に三木から隊員に尋ね、庁舎内には処置室もあり、神在月は他には移動していないことを確認した。
     催眠解除と事情聴取も三木よりずっと時間がかかる。まだ終わってないだろう。待つのはいいが、煙草を吸おうにも、内も外も禁煙エリアだった。ただ待つにしては中でいられるような場所はなく、入口を出たところでぼんやりすることになった。怪しまれても、中の人たちにはすぐ説明が付くだろう。
     やがて、時間はかかったが覚悟したよりはずっと早く、スマホが震えた。
    『ミッキーどこ?』
     オロオロしたヤギのスタンプとともにメッセージが入る。
    「正面玄関出たところ」
    『すぐいく』
     返信のあと、すぐに神在月がやってきた。かなりくたびれた様子だ。
    「おつかれ」
     ねぎらうと、神在月は力なく微笑んだ。
    「検査が多くて、それだけで疲れちゃったから、事情聴取は改めてって感じだった」
     三木は神在月の目を覗き込む。さっきはまるで異変に気付かなかった、いつもと同じ金の瞳。
     神在月は目を逸らさずに受け止める。
    「解けてるよ、ここに来る前にほとんど解けてた。……思考の記憶は残ってるから、まだ変な感じはあるかな」
     三木が思わず苦虫を噛みつぶしたような顔になると、神在月は軽く笑った。
    「どんどん朧になってる。んでさ、誰かに成り代わってるってのも感じなかったな。いろいろ思い出たどってみてたから、さっきからずっとミッキーのことばっかり思い出してた」
     神在月の言葉に胸がいっぱいになり、なんと答えていいか言葉が見つからず、三木は黙って拳で神在月の胸の上あたりに触れた。
    「行くか」
     なんとなく駅の方へ足を向ける。電車はまだある時間だ。だが、それより——三木が提案で口を開こうとして、突如前方に現れた虚無を感じる存在に、二人して驚いた。
    「うわっ」
    「ひわっ」
     いつの間にそこにいたのか、オータム書店のフクマが立っていた。
    「クワバラがまだ事情聴取を受けてますので、私が代わりに参りました」
     そこでフクマは頭を下げる。
    「この度は危険な目に遭わせてしまい、申しわけありませんでした。後日改めて編集長からお詫びに伺います。編集長も催眠の疑いがあるということでしたので、本日は叶わず申し訳ございません」
    「あ、あ、いえ、お客さんには何事もなくサイン会は出来ましたので、…ありがとうございました」
     虚無の正体に胸を撫で下ろして、神在月はフクマにむしろ礼まで述べた。フクマが頭をあげる。パカッと口が開いた動かぬ微笑みだ。
    「本日はお送りするよう仰せつかってます」
     ふおん、とフクマの背後に漆黒の空間が開いた。神在月が両手を上げてブンブンと横に振る。
    「あの、本当にお構いなく、今日はええと、こっちで泊まるつもりなので」
     三木が提案しようとしていたことを、神在月も考えていたようだ。神在月の返答に、フクマは頷いた。
    「でしたらホテルをご用意します。三木さんの分も、もちろんこちらで。先生は付き添いが必要な状態と判断します」
    「いえ、あの、これは、プライベートな判断なので」
     三木は神在月を見た。
     微笑みのままのフクマの短い沈黙。
    「そうですか。後からでも変わりましたら、領収書お送りください。それでは失礼致します。お大事になさってください」
     互いに軽く頭を下げて、背後で開いたままだった空間に、フクマが後ろ向きで飲み込まれる。ふっと空間が閉じ、何事もなかったように街並みが目に映る。
     三木は隣の神在月に向き直った。
    「…お前の分は出してもらえばいいんじゃないか」
    「ラブホ代はさすがに請求できないなって」
     さらっときた返事に、三木は言葉に詰まった。三木の反応に、神在月は微笑む。
    「お風呂広い方がいいと思ったんだ。…一緒に泊まってくれるよね?」
     三木はうつむき、目も軽く伏せる。
    「今日は顔出しでサイン会して、誰かに見られたら」
    「会場から出たらただのしょぼくれたおじさんだよ。それに別にいいじゃん、知ってる人が見かけたとして、まあ、ちょっと気恥ずかしいくらいで」
     そこでバトンを三木に渡して、あとは黙って誘いの返事を待っている。
     三木は目だけ上げて一度神在月を見てから、スマホを取り出し画面に目を落とす。
    「ホテル探したら、ドラッグストア寄ってこう。せっかくだがらアメニティもなんか買って…俺にお前の世話させてくれ」
     顔も見ないでそう言うと、
    「うん!」
     弾んだ声で返事をして、神在月は三木の隣に並んで一緒に画面を覗き込んだ。

    「ここ?」
    「こっちもよさそう」
    「ちょっと距離あるな。歩ける?」
     やりとりしながら決めていくと、三木の耳元に、不意に神在月が唇を寄せた。
    「ホテル入ったら、この髪、ミッキーがほどいてね」
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