天気予報は見ていた。それでもクラージィ宅の訪問を決めたのはノースディンで、部屋で過ごす他愛ない時間を引き伸ばしていたのはクラージィだった。夜明けが近くなってきている。
雨が降り始めたのは二人ともわかっていた。ノースディンは慌てる様子を見せたつもりはなかったが、クラージィは、窓外をさりげなく気にしつつ、新たな話の接ぎ穂を示して、帰宅を促すことはなかった。その仕草に、胸の内は穏やかなもので満ち、ノースディンは知らぬふりでクラージィとの時間に浸る。
唐突に、ざっ、と音がした。雨音だ。
思わず二人で窓に顔を向ける。どうどうという音の響きにクラージィが窓の外を見に行き、ノースディンも彼と並んで覗いてみた。
街が煙るほどの大雨だった。傘を差したとしても、非力な者なら上から打たれるその激しさに膝を折ってしまいそうだ。
「急だな…」
「ああ」
「飛ぶのは無理、だな?」
天から落ち続ける水の量に慄いて、クラージィは暗い空から目を離さないでいる。問われてノースディンは、見える範囲でぐるりと外を見渡した。雨の中を飛ぶのはごめんだ。まして、こんな豪雨の中など無理がすぎる。空を飛ばないなら、今夜は家まで帰れない。
「この中を飛びたくはないな。まあ、駅周りにホテルを取って、様子を見ながら徒歩で行くとしよう」
「……ここに泊まらないか」
小さな声でクラージィが問うた。ノースディンがクラージィを見ると、振り返った瞳と目が合った。怒ってるようにも見える厳めしい表情は、すぐに崩れて横に振られた。
「いや、うちには棺桶の用意がない。雨の様子を待った方が良いだろうな…お茶を淹れ直そう」
提案を自分からすぐに取り消して、クラージィは窓辺を離れた。ローテーブルに戻ってカップを取りまとめる。
ノースディンは、いつも棺桶で寝ている。実は棺桶でないと眠れない。クラージィにそれについてはっきり伝えたことはないが、クラージィは気付いているようだ。
……それでも一度は誘いをかけてきた。
台所に立ったクラージィに、ノースディンは後ろから声をかけた。
「世話になっていいか」
クラージィが振り返る。その驚いた表情に少し気まずくなって、ノースディンは軽くそっぽを向いた。
「雨を待つにも五分なのか一時間なのかもわからない。多少弱まったところで、傘が役に立たないくらいでは、歩くのも大変だからな」
そこでクラージィに向いて反応を見る。
「だから、もし頼めるなら」
「もちろんだ!」
ノースディンが改めて頼もうとする言葉を先取るように、クラージィは快諾した。もじゃもじゃ髪の下に笑顔が戻る。
「ぜひ泊まってほしい。あー…じゃあまだ時間はゆっくりできるな。私は支度をするのに席を外すが、お前は寛いでいてくれ」
淹れ直したお茶をテーブルに置いて、クラージィが目で誘う。ノースディンは素直にローテーブルに戻った。席を外す前にクラージィは真剣な表情で切り出した。
「誘う気持ちはもともとあったんだ。だから今夜もつい長く話してしまった。ただ、うちはなんの用意もしてないし断られると思っていて……、こんな大雨で選択肢が狭まるとは思わなかったんだ」
真摯な声音で説明するのは、結果的にノースディンに強制してしまったと捉えているからだろう。ノースディンは意識して表情を和らげた。
「申し出てくれて、ありがたかったよ」
「うむ…」
ノースディンが無理矢理応じたのではないと伝わったのか、クラージィは頷いてから微笑んだ。
クラージィと再会して、始めのうちはノースディンが新横浜に赴いて、外でだけ会っていた。
そのうち、ノースディンが屋敷に誘った。クラージィは移動方法が限られているので、距離のあるノースディンの屋敷まで来ると泊まることになる。今では定期的にやってきて泊まっている。一部屋をクラージィ専用にし、クラージィ用の着替えも置き、食器や洗面などもクラージィ用の物を置いている。ノースディンの生活に、クラージィを受け入れた。
クラージィが泊まりに来るようになったのと同じ時期に、ノースディンからもクラージィの部屋を訪れるようにもなった。部屋でごく短い時間を過ごす。クラージィが家族のように親しくしている隣人たちとの食事に誘われることもある。ただ今のところ、あらかじめ約束をしているとき以外は断っている。
顔見せや挨拶程度に、ほんのひとときお茶を共にするだけの、クラージィとの二人きりの時間。
今夜は新たな変化を見せた。
クラージィは何の用意もないと言っていたが、渡された下着と寝間着は新しいものだった。風呂を借りたあと、寝る支度を済ませると、ノースディンは寝室に入った。シングルベッド。積み重ねられた衣装ケース。ハンガーラック。部屋の角に細身の背の高い書棚。
まだ夜明けには早いが、雨のせいなのかクラージィが眠そうにしていたので、付き合うことにする。クラージィは既にベッドに入っていて、ノースディンが来たのを見ると、狭いベッドの片側に寄って、空いている側をポンポン叩く。誘われるまま、ノースディンはベッドに入った。
クラージィが泊まりに来るときは、寝るのは別々だ。就寝でベッドを共にするのは初めてとなる。肩が触れる近さで並んで横たわり、おやすみ、と挨拶して目を閉じた。
寝付きがどうとか言う前に、ノースディンはまだ眠気が来ていない。クラージィに気を使わせないよう、寝たふりをする。だがその必要はなかった。クラージィはあっという間に眠りに落ちたようで、静かで安定した気配を感じる。
ノースディンは目を開けて、すぐ横にいるクラージィを見た。
共寝はこれまでなくとも、ノースディンの家でクラージィが眠っている姿は見たことがある。初めて見たときは恐ろしかった。起こしたくなるのを必死にこらえ、ノースディンは棺桶に籠もった。だが自分は眠ることはできず、何度も棺桶を出入りして、クラージィの姿を確かめにいった。
今は、クラージィが目覚めることを知っているので、そこまでせずともよくなった。そしてこうして近くにいれば、生きている気配を感じる。安らぎすら得られるのを初めて知った。
部屋の外からはまだ大雨の微かな響きが聞こえていた。なにも気負わず眠っている姿を見ていると、ノースディンの心が凪いでくる。眠れないのは承知で再び目を閉じた。
この頃は平和な生活を送っていたので、こうして眠れないのも久しぶりのことだった。思考に耽ろうが手放そうが眠れないことに変わりはない。数々の経験から得た教訓に従って、特に制限を付けず頭に思い浮かんで来るままのテーマを追う。初めのうちは日常のあれこれの確認ばかりでどうということもない。
まとまったテーマを一通り済ませてしまって、だんだん考えがあちこちに転がり始めた。ノースディンは目を開けて、クラージィの横顔を見つめ、また目を閉じる。
今夜は眠れないことに焦りや苛立ちは感じない。ただ眠れないだけだ。ぼんやりと浮かんだ思考を順に捕まえ捏ねては投げる。次第に飽きて、目を開けてクラージィを見つめ、目を閉じる。また思考を捏ねては投げる繰り返し。
いつしか雨は弱まっていた。かわりに、どことなく気配がする。朝型の人間たちが活動し始める時間らしい。どこからか足音が聞こえた時は、わずかに身を固くした。クラージィの平和な横顔を見つめ、目を閉じる。ノースディンの目を開ける頻度が上がってきた。
それでも十回まではまるで余裕だった。家の外では朝の忙しない時間帯は過ぎ去ったらしい。雨もかなり弱まっているようで気配を探らないとわからない。静寂の時間だ。それでも定期的に目を開ける。二十回めでノースディンは開き直った。
クラージィの体に腕を回し、肩の辺りに頭をもたれかける。クラージィは全く反応がなく眠り続けている。
その体勢で目を閉じると、さっきまでより落ち着く気がした。ノースディンは少しばかりうとうととしてくる。もう昼にはなってるのだろうか。期待よりまるで進んでないことはある。時間のことは忘れるようにした。
何度かぼんやりとした不安に目を開けて、腕の中の体が生きている温度であることを確かめては、また夢現の中に彷徨った。
次に目を開けた時には、体が夜を告げていた。意識が途切れていた自覚はあった。時間単位で眠れた気がする。
クラージィの体に敷かれた腕が痺れている。腕はそのままで指をわきわきと動かしていたら、クラージィが目を覚ました。抱き着かれていることに、すぐに気付く。
「…おはよう、ノースディン」
「うむ…」
クラージィは自分の二の腕辺りに寄り添った顔を見ると、眉を下げた。
「ああ、やはり眠れてないな」
起き抜けでもひんやりとしている手が、ノースディンの目元を覆う。ノースディンは目を閉じてその心地良さを受け取った。今になって急に眠くなってくる。ノースディンは宛がわれたクラージィの手を取って外した。
「ありがとう。…おはよう」
日暮れの挨拶を受け取って、クラージィはようやく今日最初の微笑みを見せた。弛んだ腕から抜け出して体を起こすと、ベッドの周りを見てから横たわったままのノースディンを見つめた。
「ここにも棺桶を買おう」
ノースディンは軽く顔を顰めた。
「棺桶をどこに置くかは、プライベートな話題だと教えなかったか?」
「それは、」
「分かっていて、お前の寝室に私の棺桶を置こうという申し出を?」
わざと意地悪な訊ね方をしながら、すぐそばにあるクラージィの手に自分の手を重ねて、指で撫でる。クラージィは避けなかったが、堪えるように唇を尖らせた。
「私は、ただもっと気楽に泊まってもらえればと思って…、あちらの部屋は人の出入りがあるのだから、ならばここしかないだろう」
もじもじとしながら拗ねたように説明するのを、ノースディンは苦笑で応えた。名残惜しく指の動きを止めて、体を起こし、重ねていた手に軽く力を込める。
「ベッドとタンスで占められてるのに、ここに棺桶を並べたら足の踏み場がなくなる。気持ちだけ受け取らせてもらおう」
目を見て真面目に返事をすると、まだ納得していない様子だったが、恥じらいの色と共にクラージィは頷いた。
二人で起き出して、身支度を整える。クラージィはこれから出勤だ。
動きの止まったクラージィを見ると、なにやら真面目な表情をして見つめ返される。
「さっきの話だが、気持ちとしては間違っていない」
ノースディンは戸惑って、少し首を傾けた。クラージィは表情を崩さず続ける。
「私の寝室にお前の棺桶を置きたい」
思わぬまっすぐな言葉に目を見張った。咄嗟に何か返すこともできない。言い切ってから、クラージィはやや弱気を見せる。
「確かにあの部屋に棺桶を置くのは狭い。だから実際に置くのは目的に合わない」
「目的?」
「私はお前の家で二十四時間寛げているから、お前にもうちで寛いでもらいたいのだ」
ノースディンは黙って部屋を見回した。
家具などは少ないなりに、最近は物が増えてきている。よくわからないキャラクター、ぬいぐるみ、写真立て。収められた写真は誰にもらったのか、昼や夕方の風景もある。そして仲の良い隣人たちのものが数枚。クラージィも一緒に写っている。どれもまだ慣れずに力を込めた顔が写っている。
台所は、隣家で食事することも多いのもあって綺麗にしてあるが、スポンジや洗剤に生活感を感じる。
借りた風呂は狭かった。寒がりのクラージィはきちんと温まれているのだろうか。
訪れるたびの定位置は、ローテーブルと座布団。床の上の行動が当たり前になってるようだ。
正直なところ、まったくノースディンの好みではない。だがここでクラージィは暮らしていて、それだけでこの空間はノースディンにとって大切なものとなっている。
ノースディンは再びクラージィと目を合わせた。
「さっきも言ったが、棺桶は気持ちだけもらっておくから気にするな」
返答にクラージィは少し淋しげに目を伏せた。ノースディンは、密に気合を入れて続けて口を開く。
「…だが、たまには泊まってもいいか」
伏せられた目が、ぱっと上がった。
「もちろんだ!」
「その、雨ではなくても」
「いつでも構わない」
食い気味の返事に励まされる気持ちで、ノースディンはもう一度気合を入れた。
「それで、棺桶の代わりに頼みたいのだが」
内容を聞かずに頷いてくるので、ノースディンはそのまま続ける。
「…ベッドに天蓋を付けてほしい。後付けのものがあるはずだ。部屋に傷は付けない。豪華なものではなくていい」
「わかった。店を探して一緒に決めよう」
「なければ、オーダーメイドで頼みたい。私の為のものだ。金は出す」
「む…あまり私が意地を張って、お前の望みに応えられなくては意味がないな。それは後で決めよう」
「…次に来るときに、着替えを持ち込んでもいいか。そう多くはない」
クラージィが返した微笑みは、とても優しく温かなものだった。
「私は仕事前に夕飯だが、お前はどうする」
面映ゆい時間を終えて、クラージィが腹を押さえている。予定だからという前に、純粋に腹が減ってるらしい。
「吉田さんにに連絡しておこう」
「連絡?」
隣人の名前が出てきて、ノースディンは聞き返した。
「吉田さんの家で夕飯の予定だが、お前が泊まったのが伝わってないからな。あちらで一緒に食べるにせよ別にせよ、先に吉田さんに確認せねば」
「ああ…」
これもクラージィの日常だ。夕飯を隣人宅で食べるのが基本になっている。身内と言っていい付き合いは、ノースディンとの関係よりも近い。
「…いや、いい。今夜はもう帰るから」
「そうか?」
少し考えてから、クラージィは続けた。
「今後こういう機会にお前を誘っていいか、聞いておいていいか」
「…ああ。うん。そうだな、頼む。自分の分は用意する」
彼らが快く受け入れてくれることは予想できる。きっと今夜も、突然の訪問でも迎えてくれるだろう。だが今夜はまだだと判断した。
自分の領域が大切だった。そこにクラージィを積極的に招き入れたのは、ノースディンにとって一大事だった。変わることなど恐れている場合ではなく、引き入れねばならない気持ちでいっぱいだった。
だが相手の領域に入るのは、別の話だ。緊張する。
今朝は、クラージィの家に泊まるという関門をクリアしたばかりだ。それも枕を並べて一昼過ごすという状況で。更にベッドという制限で。そしてまた泊まるための約束をした。
ノースディンの世界が、少し変わった。
「また来る」
ノースディンの胸の内はわかっていないだろう。ただクラージィは穏やかに微笑んで頷いた。
「私もまた行く。使い魔によろしく」
「うむ。では、またな」
クラージィはこの後隣家に行くようだ。ノースディンは挨拶をすると、先に玄関を出て、クラージィ宅を辞した。歩いてマンションを出て、しばらく徒歩で行く。空は雲が立ち込めているが、幸いにも雨は降っていない。
ノースディンが血を分け与えた同族。
唯一の存在と、吸血鬼生の一部を分かち合いたい欲に気付いたのは、再会してすぐだった。
なりふり構わない覚悟でいたが、相手が主軸となると想像以上に勇気が要る。
昨夜は大きく一歩近づいた。きっとこの先は、ご近所付き合いにまた一歩。
分かち合うこれからを思い描いて、ノースディンは重たい空気を突き抜けるように、宙に飛んだ。