予想『昔』の殺し方に、僕は気付いたのかもしれない。いや、ずっとずっと前から知っていたのかもしれない。
ひとつは、忘れてしまうこと。
もうひとつは、思い出すこと。
思い出すことで思い出は死に、口に出し文字に認め言葉にすれば物語になってしまう。
それは記憶よりもっと深い場所で憶えているそれとは、どうしてもずれてしまう。再生すればする程に音は映像は歪み擦り切れ、終いには取り返しのつかない程に乖離してしまう。
だからこそ東京さんが思い出す『昔』は、少し揺らいでいるのだろうか。
だとしたら今回の世界では、自分に数多の(そしてたったひとつの)『昔』があることを打ち明けたことの裏には、どれだけの深い想いがあったことか。
思い出してしまえば『昔』は死んでしまうのに。言葉にすれば美しく、楽しく、賑やかで混沌としていた記憶は、削られ磨かれ整えられた、全く別のモノになってしまうのに。
「話し相手が欲しかったのかも」と言うのはきっと、嘘ではない。嘘ではないが、それすらも言葉である以上、きっと何かが足りない。或いは、何かが余剰なのだろう。
東京さんがこれに気付いていない訳がない。幾度も反芻し歪になってしまったものであったとしても生きていて欲しい『昔』のことは、もしかしたら神奈川さんにも明確に話してはいないのではないだろうか。事細かに話せば話す程、それは愛しい過去を歪め殺すことになってしまうのだから。
ならば打ち明けると言うことは、きっと、大事にしてきたものを切り捨てる覚悟をしていた、と言うことだろう。少なくとも、あの時点の彼は。
今は解らない。
2022/07/09