迷い子の手を握って「盲目的な愛はいつか身を滅ぼす。そうは思わないかい?」
コーヒーカップをそっと持ち上げながら、教授を気取った小説家は言った。
「……僕にはちょっと分からないですね」
「本当にかい?君の新作私も読んだかあれには盲目的な愛を感じたんだがねぇ……」
そう言って 足を組み珈琲をひと口含むと喉の奥へと流し込んでいく。あぁ苦手だな、この苦めの珈琲も目の前にいるあの人も。来なければ良かったかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていた。
目の前にいるのは僕と同じ出版社でお世話になってるジョーさん。ジョーというのはペンネームであり、本名は岸 和希さん。僕よりもずっとこの界隈が長い人ではあるが、独特の内容でマニアックな人々に熱烈に支持されている人物ではある。
そんな彼がなぜか僕に興味が湧いた様で、編集者さんを通じてコンタクトを取ってきた。別に嫌いでは無いし会うのを断る理由も見つからなかった。1冊新しく書き下ろしたし、ネタを仕入れる為にも話してみるのはいいかもしれない。そんな気まぐれで招待を受け向かったのは、ジョーさんがお気に入りだという温室。お洒落なガーデンテーブルにイス、珈琲カップが2つとケーキスタンドが自然に溢れたこの場所でひっそりと佇んでいた。
「ジョーさんはまだ来てないのかな……」
そんな独り言を零しながら、辺りを見回す。そこには豊かな自然が人間の手によって丁寧に育てられた植物が揺らり揺らりと揺れるだけで他に何も無い。
「静かな場所だな……。綺麗なのに人がいないなが勿体ないくらい」
「それなら、人払いは必要無かったかな?」
その声に驚き、振り返れば僕をここに招待した張本人がいつの間にかカップを片手に椅子に座り珈琲を飲んでいた。
「あ……えっと。初めまして草薙 友です」
「やぁ、初めまして。ジョーこと、岸 和希です。会えて嬉しいよ、友くん」
英国紳士のような文言と手をそっと差し出し握手を求めてきた。名前こそ日本人だが、確かに見た目も振る舞いも日本人というよりも外国人だった。ブロンドの髪にキリッとした瞳には青が宿っていた。
「……あのつかぬ事をお聞きするのですが」
「ん?なんだい?」
「岸さんは、クオーターの方なんですか?」
「ふふっ、面白い質問だね。僕は両親ともに日本人さ。まぁ祖先を辿れば海外の血が混ざってるかもしれないけどね」
「そうなんですね」
「君には僕が海外の血が混ざっている……そう見えたのかい?」
「……そうですね。本名の方は担当者さんに教えて貰っていたので、容姿と名前がうまく結びつかなくて……」
「よく言われるよ、立ち居振る舞いも本場と遜色ないともね。さっ、立ち話はこれくらいにして君も座って。お話をしようじゃないか」
「あ、えっと……失礼します」
そう言って椅子に座われば鉄製の椅子独特の冷たさが身体にゆっくりと伝わる。テーブルマナーというものは、かなり昔に教えられたがいざできるかと言われれば出来る気がせずそわそわとしているとジョーさんがにこりと笑う。
「マナーは気にせず食べてくれて構わないよ。今日は2人きりだからね」
「あっ…えっとすいません。では遠慮なく頂いていきます」
そう言って1番下の皿からそっとサンドイッチを取る。ジョーさんはにこにことした表情は崩さず珈琲を啜るばかり。触れば消えてしまいそうな独特の雰囲気…。嫌な空気感では無いけれど、空気感に飲み込まれそうで怖い。
「さて…友くん。君を今回呼んだのは他でもない。君の新作読んだよ」
「ありがとうございます、ジョーさんに読んでもらえるなんて光栄です」
「光栄だなんて。ずっと私は君の作品を読んでたよ。元々ご両親の作品も好きでね……君も作家としてデビューした時は驚いたよ。ご両親とは違う作風で、温かさと寂しさが共存してるような素敵な作品だ」
「ありがとうございます。でも失礼ながら自分は読んでいなくて……」
「私の作品は構わないさ。好き嫌いが別れるし、君の作風にいい影響はないだろうからね」
そう自嘲ぎみに言ってまた珈琲を口に含む。
「まぁ話したいことは山ほどあるが今日呼んだのはそんな話をしたいわけじゃない。今日僕が君を呼んだのは新しい作品の話で少し気になる所があってね。それを直接尋ねたくてわざわざ呼び出したという訳さ」
「そうなんですね。気になる所とはどこでしょうか…?」
「まず前提として私は先程伝えた通り君の作品が好きだ。夏の空よりも青い春と触れたら壊れてしまいそうな硝子細工のような心を写した心情描写が特にね」
「ありがとうございます」
「だが、今回の作品は違ったね」
上機嫌に話していた声が冷たくなる。優しくこちらを見ていた瞳は、鋭く鋭利な刃物のようになる。青い瞳には怒りを宿し、僕を捕らえて離さない。
「今回の作品は、リアルだったね。君の中に何か変化があったのかな?」
「……リアルですか」
「あぁ。これまではきっと君の過ごしたかった青い春と君の優しすぎる心が創り出したユートピアが本になっていた。だけど、今回のものは随分とかけ離れたもののように感じたね。消してしまいたいけれど、消せない……いや消えないもの。君にとってのディストピアを生々しく写したように感じたね」
「……そうですか」
そう興味なさげに答えるとジョーさんの瞳は怒りの色を濃くして続ける。
「盲目的な愛はいつか身を滅ぼす。そうは思わないかい?」
「……僕にはちょっと分からないですね」
「本当にかい?君の新作私も読んだかあれには盲目的な愛を感じたんだがねぇ……」
そう言って僕を静かに見つめ答えを待っていた。
あぁそうか……ここに来た時点で、きっと僕は彼に取り込まれていたんだ。ここでは彼が主導権を握ってる。僕に答えないという選択肢を与えないために。
それに気づいた。いや、気づいてしまったのが彼にも伝わったのか目が合うとニコリと微笑んでいた。
「盲目的……確かにそうかも知れませんね。僕は貴方や読んでくれている人が想像する以上に卑怯な人間です。大事に想ってくれている人がいるのに、そちらを向こうともせず思い出の中にしかいない人を見ているんです。まぁ、僕の手に入ることはなかったんですけどね。素敵な人を見つけて深い関係になってました。最初から最期まで一方通行なんですよ」
「それだけかい?」
「……狡いですね。全部聞き出す気ですか?」
「話したくない部分は伏せてもらって構わないさ。だけど、それだけであの本1冊分にもなるのものには思えくてね」
「……ただ僕は僕を見てくれて想ってくれている人を不幸にしたくないんです。僕は人と仲良くするのが苦手です。どう接したらいいか分かりません。過去に仲良くして貰ってお付き合いさせて貰ったことはあります。だけど、みんな離れていきました。僕が悪かったのは分かってます。どう接したらいいか分からず今までと変わらずいたから、本当に大切にされてるのか分からなくなったんだと思います。ただそれを示せる程僕は大人ではないんです。今も昔も……きっとこれからも」
「なら1つ君にアドバイスをしよう」
そう言ってジョーさんはそっと角砂糖を僕のカップに入れる。
「角砂糖、何で入れたんですか?」
「今の君に必要なものだからさ」
そう言っているジョーさんはきっと本気で言っているのは分かっている。だけど、意図が分からず混乱していた。
「私の友人にね、死神と呼ばれていた男の子がいたよ」
「死神……ですか」
「あぁ、彼の大切な人は彼の目の前でいなくなる。彼は母子家庭で育って居たんだが、ある日再婚して再婚相手との間に子が出来た。可愛い女の子だ。義父とはちゃんとその子もちゃんと見て、家族として仲良くしていた。だけど……ある日母親は大病を患い亡くなった。目の前で警鐘を鳴らす心電図に驚き、咄嗟にナースコールが押せなかった。彼が小学生のときだったそうだよ。義父は2人で遊びに行った日に事故で亡くなった。義父は彼を庇って突き飛ばしたから、亡くなった」
「……それで死神ですか?」
「いいや、彼の不運はまだ序章に過ぎなかった。その頃の彼を見ては皆が、可哀想だと言っていた。だが本人は可哀想だなんて思って欲しくなかった。自分がただ悪かっただけ。可哀想なんて言葉かけて欲しくなかったんだろうね。だけど、それは口に出来ずどうしたらいいか分からずグレてしまった。その結果立派な不良になっていた。だが親友はいた。彼の親友は不良とはかけ離れた存在だった。その親友も、自殺をしたそうだ。彼の目の前で」
「……自殺」
「あぁ、死神と呼ばれた彼も自殺をしたかったそうだ。だけど未遂を終わり1人残された。いつも1人で誰かの命の終わりを見届ける……怖いくらいピッタリなあだ名だろ?」
「えぇ……本当に。だけど、僕に関係ありますか?」
「あぁ、彼もね想い人がいたんだよ。ずっとずっと大事に想っていた想い人が。だけど、そんなあだ名を付けられてるような奴だ。彼も君と同じように過去を見たまま今を見ていなかった。自分が大切に想っている人をまた喪うかもしれない。少なくとも過去3回も体験をしていると、有り得ないような話でも恐ろしい程に現実味を帯びる。だから手を出すことを諦めていたが……今はそんな彼も現実と向き合ってるよ」
「そうなんですか……?」
「あぁ。だからこそ、僕は気になってね尋ねたよ。何か変わったことがあったのかい?って。そうすれば彼は地獄に土産話をしないと行けない人ができたんで。そう言ってたよ」
「……それだけですか?」
「あぁ、それだけだ。待たせている人が誰かは私は知らないが、仮に彼の目の前で自殺をした親友が叱咤激励をしたのなら?何となく辻褄が合う気がしないかい?」
「まぁ……確かに。でも僕はその人のようになれません」
そんな言葉を口にした瞬間視界がじんわりと滲む。恥ずかしくて、咄嗟に下を向く。
「迷いなさい。君はまだ若い、僕や話した彼は君ほど若くない。若いうちに沢山のものを切り捨てた。まぁ彼は大事なものを今拾い集めれるくらいの場所にいる。だが……私はもう集めることなどできないから。迷わずきたはずなのに、戻るのが恐ろしくて進むしかない様な道に君は来ては行けない。茨と有刺鉄線に塗れた世界だけではない。君が走り切れる世界に塗り替えなさい。苦すぎる珈琲には砂糖やミルクを入れるようにね」
そう言ってジョーさんは僕の頭をそっと撫でた。彼の大きな手は優しいあたたさで、心地よくてずっと撫でていて欲しいくらいだった。
「じゃあ……そろそろ私は行くね。君と話せてよかった。君が私の道をなぞる人にならないことを願ってるよ」
スタスタと歩く音が少しずつ遠のいていく。その音は迷うことなく真っ直ぐ出口へと向かう。
まだ食べきれていないケーキ、少しだけ甘くなった冷めた珈琲と僕だけがぽつんと取り残されていた。