Dear My Life「エマちゃん、もう帰ってもいいみたいよ~」
ハンナさんの明るい声がすっと耳に入る。部屋に置かれた時計を見ると時刻は定時を少し過ぎた頃だった。いつもパソコンと向き合い人と会わず同じ画面と向き合っているせいか、時間の感覚というものが狂っている。こうやって声をかけてもらわなければきっとハッカーの時と同じ様に、気づけば深夜になっていたか、ノアからの電話がきてまだ仕事中なのかと聞かれることになっていた。
パソコンをシャットダウンして、一息つく。課内に設置された個人部屋には、シイラから貰ったインスタントコーヒーや紅茶のパックやノアが誕生日に貰ったお揃いのマグカップ。そして、キアヌと一緒に写っている写真が目に付く。クラッカーとして働いていた時と置いているものは変わらないのに、なぜか今の方が明るく見えるのは、ここの空気がそうさせるのだろうか。そんなことを考えながら、PCU本部に顔を出す。
「お先に失礼します、お疲れ様です」
「おう、お疲れ」
疲れきった顔でブラックは私が先ほどまで見つめ合っていたパソコンと向き合っていた。その隣には彼の傍で手伝いをしているのであろうホワイトさんとも目が合う。きっと捜査の顛末に関する報告書を一緒に作成しているのだろう。上司は大変だ、とは思うが私たち一介の捜査員には関係がない。ホワイトさんが手伝ってくれるなら、ブラックも早々に帰れるだろう、そんなことを思いながらリュックを背負ってシイラの店へと向かう。
街中にあるちょっとお洒落な雰囲気があるカフェベロニカ。コーヒーや紅茶の他に季節のハーブティー、手作りのクッキーやケーキ等王道を行くカフェ。夜になっても柔らかい照明を使っているおかげか、何時間でも居れる私の一番のお気に入りスポット。
カランという心地いいベルの音と共に入店すれば、くすんだ緑色のエプソンに身を包んだシイラがこちらに振り向く。
「いらっしゃいませ……ってエマちゃん!仕事帰りだよね、お疲れ様!」
「うん。もうすぐ閉店の時間なのに来てごめんね」
「ううん!!全然いいよ!来てくれてうれしい!」
ふわふわとしたオーラを纏い、ルンという効果音が聞こえてきそうなステップを踏みながら厨房へと向かう。店が休みでない限りは、彼女が淹れるコーヒーを仕事終わりに飲むのがPCUに入ってからのルーティンのひとつになっている。
「エマちゃん、お待たせ。いつものコーヒーね」
「うん、ありがとう」
渡された白い陶器を口をつける。ふわふわと立ち昇る湯気と共に柑橘系の香りを運んでくれる。一口飲みほっと一息つくと、シイラが可愛らしいドーナツを持ってこちらにやってくる。
「これね、試作なんだけど……レモンを混ぜてみたの。よかったら食べてくれないかな?」
「いいの?」
「うん!エマちゃんに食べて欲しいから!」
にっこりと太陽のような笑顔でこちらに向けてくれる。この笑顔を見ると、この子と私が友達でいいのだろうかと思ってしまう。まぁ、本人としては仲のいい友達の一人に過ぎないのかもしれないが……。
「私、厨房の方片付けてくるね」
「うん、わかった」
そんな返事をしたのも束の間、カランカランという音が耳に届く。時刻を見ればもう閉店時間を過ぎているのに、入ってきた。閉店時間なのに入ってくるなんて、常識外れは誰だと思い振り返れば見慣れた顔がドアからこちらを覗いている。
「お、やっぱりエマじゃん。やっほー」
「あんたねぇ……。シイラの店だからって閉店時間に入ってきちゃダメでしょ」
「えーエマもいるのに??」
「私はちゃんと閉店前に来てたし、いつも来てるから」
「それが許されちゃダメでしょ」
「シイラがいいって言ってるからいいの」
「ずるいだろ!それは!!」
「あ、キアヌくん!久しぶり!エマちゃんを迎えに来たの?」
「あーいや、たまたま通りかかったらエマがいただけです」
キアヌは持ち前の爽やかな笑顔で、はっきりとそう言った。別に家族贔屓が入っていないとは言えないが、キアヌは顔がいい上に人当たりがいい。勿論、気の置けない仲の人にはズバズバと毒を吐くのは恐らく親の遺伝だろう。
「ほら、私も飲み終わったから帰るよ」
「ほーい。じゃあシイラさん、また来ます」
「コーヒーもドーナツも美味しかった。ありがとう、ごちそうさま」
「うん!いつも来てくれてありがとう。次は二人で一緒に来てね」
シイラはそう言って私たちを見送り、閉店作業の続きをする為に店に戻った。私たちはと言えば、一人暮らしの私と実家暮らしのキアヌ。何かあった時にすぐに駆け付けれるようにと、比較的に実家から近い家を選ぶことを条件に選んだのも今や懐かしい。
歩きなれた道を一緒の歩幅で歩く。小さいときは私が合わせて歩いていたのに、気が付けば私の歩幅にキアヌが合わせて歩く様になっていることに時の流れを感じる。
「エマ、今日はなんか面白いことなかったの?」
「面白いこと?別に……あっ」
「何?」
「新人がきた。しかも、あんたより年下」
「え、俺より若い子ってなれるの??」
「まぁ特例だとは思うけど、実際今日現場には行ってたわよ」
「へぇ……すごい有能なんだろうね」
「まぁそうじゃなきゃ、特例なんてないでしょ」
「まぁ確かに……ってここで分かれ道か」
「そうね、じゃあまた」
「うん、また」
そう言ってお互い軽く手を振って帰路に着く。夜の暗い道、街灯も少ないから少し危ないなぁなんて思いながら歩いているとポッケに入れたスマホが震えた。画面を見てみると、ノア ガルシアの文字があった。
「もしもし、ノア?どうしたの?」
「あ、いや……もう家着いたかなって思って」
「あーもうすぐ着くよ。何か用事あったの?」
「いや、今日一緒に帰れるかなと思ってPCUのとこ覗いたんだけどいなかったから。シイラさんとこに寄ってるならもう帰ってる頃かなって思ってさ」
「そうだったんだ。シイラのとこには寄ってたけど、飲んでたらキアヌも来たの。だから途中まで一緒に帰ってたの」
「そっか、ってことは今ひとり?夜道危なくない?今車だから迎えに行こうか?」
「いいよ、もう着くし。ノアも疲れてるだろうから早く帰って寝てね」
「……うんわかった。おやすみエマ、愛してるよ」
「うん、私もだよ。おやすみ」
そう言って電話を切ると同時に、自宅に着く。今日は、なんだか退屈しない日だった。新人がやってきて、変な事象に巻き込まれて……。画面越しにでも背筋が冷える様な思いだった。現場にいたみんなはきっと、もっと怖い思いをしたのだろう。そう思うと心が少し痛む。こんなことシイラやキアヌは勿論、ノアには言えないけれど……。そんなことを考えながら、夜支度をしてベットに入る。明日は、誰も何も怖い思いなんてしない平和な日を願いながら。