首例えばここに、“首”が一つあるとしよう。
首。
例えばここに、“首”が一つあるとしよう。
柔い髪は金のたてがみ。
目蓋の奥には、濃い琥珀。
それはそれは、美しい雄の獣である。
けれど、今は目蓋は堅く閉じられていて開かれる事がない。
なぜなら、獣は首だけだからだ。
しなやかで強靭だった肢体はもう、首の荷重を支える事はない。
たった一つで転がる首は、首だけであるのに、残虐なまでに美しい。それはまるで完成された一つの芸術品のように。
かつて怒りと言う暴力で孤独を背負った獣が、再び怒りを剥き出しにする事はもう、ない。
獣自身が望んだ静けさを讃え、言葉を語る事もなく、握った拳を振るう事もなく、ただひっそりと朽ちる事を待っている。
金のたてがみは黄金を失い、白く萎びて行くだろう。
張りのあった白い肌はいつしか黒ずんで、しわを作る。頬はこけ、目蓋は窪み、歯茎は剥きで、その形を変えて行くのだ。
それは腐敗と言う。
腐臭に誘われいつしか蟲が湧き、最後の肉片を喰い散らかして行く事になれば、獣はとうとう“丸裸”となる訳だ。
きっと、その丸裸で転がる姿さえ、美しいのだろう。
かつて怒れる獣であった時も、物言わぬ芸術品になった時もそうだったように。
朽ちていく、その過程さえも美しい。
ああ、なんて、素晴らしいんだろう。
その一部始終を眺めて、屁理屈ばかりをこねる口は、そう、感嘆を漏らすかも知れない。
ああ、これでやっと君を愛せる。
ねじ曲がった心は、そう、思うかも知れない。
そうなるかも知れないと思うのも、昔、自分の手の内で踊る事を獣は酷く嫌悪して、激しく拒んだ事があったからだ。
毎日毎日飽きもせず、ひたすらに怒り狂い、そして自分を否定する。
そんな事は初めてであったし、有り得ないと思った。人間であるのなら、絶対に有り得てはいけない。そう思った。
しかしながら、それは現実に有り得てしまったのだ。
許されない事だった。
自分が人間を愛するのだから、愛される人間もまた自分の事を愛さなければいけない。
自分の思った通りの働きをして、自分の思った通りの言葉を発し、自分の思った通りの表情を浮かべてこその人間。
だから、愛する。それは愛おしいからだ。
けれど、それはつまらないと言う事と同意。自分の思考を抜きん出る事のない日常は退屈の他ない。
その中で予想外の働きをするものがあれば必然的に目を掛けるのは摂理と言えよう。
自分のための潤いと言える人物に敬意を払うのは礼儀だ。
それは一重に人間であるからこそ払う敬意。
人間は愛すべきだ。そして自分も愛すべきだろう。
ギブとテイク。当然の成り立ち。
しかし、獣はその成り立ちを蹴散らした。
獣は「愛」の全てを打ち砕く。
形があったのかも分からないほど、粉々に。
足元に散らばる無数の愛の破片を踏み締めて思うのはやはり、有り得ない、の一言だった。
愛を受け入れないこれは自分が一途に愛する人間ではない。
人型をした、“怪物”だ。
そう、心の中で決め付ける。
自分の中で決着を付けるために。自分が人間を愛する事が出来ないなんて、有り得ないのだから。
自分にそこまでさせた獣が今、自分の手元に納まった。
獣は不本意だろうか。腹を立てているだろうか。
その真意は知らない。
けれど、確かに獣は静かに自分の手の内で転がっている。
優越だった。愉快だった。ざまあないと思った。
そして何よりも、これで君をきちんと愛して上げられると言う、喜び。
かつて自分の思考を歪めた君は立派な人間になった。
暴力も暴言もない。
全て、自分の範疇に納まる君は愛すべき人間になった。
乳白色の首を抱き上げる。
愛おしいと思う。
けれど、つまらないと思った。
なぜなら、獣は首だけだからだ。
暴力も暴言もない。獣の望んだとても平和な空間。
ああ、なんて、反吐が出るんだろう。
さて、いきなりではあるけれど、不愉快になって来たので例えばここに、“首”が一つあるとしただけの話はやめようと思う。
所詮は例え話だ。
手元に生き続ける“首”があるものだから、つい、下らない事を考えてみただけ。
獣は今頃、煙草でもふかしている事だろう。
実に憎らしい事だ。
なんで、あれは生きているのだろう。さっさと死ねばいいのに。そんな事を思う傍ら、世の中に一つくらい嫌いなものがあってもいいかと思うのは、嫌いなものの方が、嫌な事全部なすり付けられるから便利だと言うだけで、他に理由なんてない。
やっぱり、早く死ねばいいと思う。
“怪物”である獣が愛すべき人間になるのだとしたら、なんて実に下らない話だった。
ただの人間に成り下がった獣に興味なんかないので。