2.見惚れる「ちゃんと片付けるからさ、ダメかな」
クザンがぎゅう、と抱えるそれを眺めながら、この男が何を今更遠慮などするのかとおれには理解できない彼なりの線引きに少し驚く。そんなことより、いくらベビーがうちをチリ一つ許さずピカピカに磨き上げてくれているとは言え素足でフローリングの上を歩くのはやめろと言いたい。万が一にでも何か尖ったものが落ちていたらどうするつもりか、この男は折角用意してやったにも関わらずルームシューズをすぐに脱ぎたがって困る。そんな困った男が抱えた——恐らく、ヨガマット的なものだろうそれを再び見下ろす。この男がヨガを。あまり想像はできない。瞑想、というより昼寝が似合う男の印象があるからだろうか。
「ここはもう、お前の家でもあるだろう。好きにすればいい」
少し、気持ちがいやにざわつくのはきっと、この男がする不必要な遠慮のせい、だろうか。クザンがおれに許可を求めるのは、ここがおれの所有する場所であるからで、それはクザンにとっておれを尊重したが故のことだろう。それも理解はできる。この男は、かつての記憶を有しながらそれでも〝今のおれ〟を理解する珍しいヤツだったから。だからこそ、だろうか。おれが生半可な気持ちでクザンにこのマンションのキーロックを解除できるようにしたわけじゃないと。まるで自分の居場所は他にあるのだと突きつけられているような気になるからだろうか。
「だが、知らなかったな。お前がヨガを?」
昼寝するならベッドかソファにしろ、と言いかけた言葉を飲み込んで。するとヤツまで少し意外そうに笑って、ヨガなんかやってたら寝ちまうよと言う。自覚があるようで何よりだが、では。
「いやあ、ほら。おれってば現場遠のいちゃったじゃない。優秀だから、出世しちゃってさ」
デスクワークって、身体が凝っちゃってしょうがねえのよ。そんな風に戯けて言うが、クザンは実際若くして警視長に上り詰めた実績がある。ガープが自慢げに言っていたからよく覚えている。昔から飄々と振る舞うくせに、妙に頭のキレるヤツだと思っていたから今更驚きはしないが。クザンのヨガマットは、そんなデスクワークで鈍った身体を動かすためのものだという。いくらものぐさとはいえ、この男もさすがにぐうたらばかりは飽きるらしい。だがものぐさゆえにジムへ行くのも、トレーニングマシンを買うのも性に合わない。それで、このヨガマットひとつあればできる筋トレと、散歩がてらのランニングが、たまにできればいいのだそうだ。クザンらしい割り切ったリフレッシュが妙にハマっていて、つい口角が緩む。さっきまでの、ささくれのような小さなむず痒さが今はもうない。この男と共にいるのは、そういう穏やかさがあった。
一応、この家にはゲストルームが一つあった。ローや麦わらの小僧が転がり込んできたり、ヴェルゴと徹夜で仕事をした時なんかに使っていたものだが、今はクザンの私室になっている。が、一番広いのはこのリビングで、さらにいうとクザンの私室はカーペットばりで、このリビングがフローリング。
「フローリングの方がいいんだよね」
そういうクザンが欲しがるのであれば、物置きにしてしまっている部屋をひとつ開けて、クザンが気にいる——そして彼が飽きて、また気まぐれにその気になる時のために——ようなトレーニングようの部屋に変えても良かったが、丁寧に断られた。リビングで適当にバラエティを流しながら、なんとなくやるトレーニングだけで十分だという。専用のトレーナー(ヴェルゴ)に、会社近くにあるジムの年会費を払っているおれからすれば信じられないほど適当で、そこがクザンの可愛いところだと言葉にはせず噛み締める。余談だが、元スペイン海軍に所属していたヴェルゴのトレーニングは信じられないほど厳しいし、普段の優しい紳士・ヴェルゴの顔をしたまま殺されそうなほど追い込んでくるのはなかなか刺激的な経験だ。ドフィならできるよ、なんてジムじゅうの人間を骨抜きにしそうな笑顔で笑って、あと一グラムで押しつぶされそうなおれを見下ろすヴェルゴはちょっと楽しそうにも見える。意外と、サディストなのだ。あの男は。
そういうわけで、この家にはクザンが使う筋トレ用のヨガマットがある。クザンに〝その気〟が訪れていないだけ、というわけではないらしく自分が不在の間にそれは何度か使用されているらしい。らしい、というのは例えばヨガマットの巻いたそれが移動している、といった様子さえ見た事がない——マットはクザンが、リビングの景観を損ねるという理由で自室に仕舞っている——代わりに、プロテイン・シェイカーが食器カゴに干されているから、おれの予想でしかない。リビングという共有スペースであることをクザンが配慮してくれているのはすぐにわかった。なんだかんだ、あいつはおれに甘い。見たことがなかった。今の、今まで。
「あ」
おかえり、と。それを言う合間に漏れる荒い息に、胸の内側が擽ったくなる。そんなわけ、と疑う自分と、認めてしまえ、と諦める自分が頭の中でやかましく言い合っている。おれは、ちゃんといつもみたいにただいまを言えただろうか。家の中はいつもこんなに暑かっただろうか。コートを脱ぐ手が、なんだか妙に痺れて感じた。そんな馬鹿な、と疑う自分が荒れ狂う。無意識に、唾を飲んでいた。
「先、風呂入っちまいなよ」
おれはまだかかりそうだから。そう言って、床に落ちていたタオルで雑に汗を拭う仕草に目が、離せなかった。心臓が暴れ回っている。耳の奥で、血がざあざあと騒がしく駆け巡っている音が聞こえる気がした。じわり。マフラーを握った手に汗が滲んだ。クザンがこうも息を荒げた姿を、かつてでさえ見た事はなかったはずだ。普段、ゆったりとした——正しく表現するなら〝だるっとした〟が正しいが——格好に隠された、クザンの身体はこんなにも、妙な色気のようなものを感じさせただろうか。セックスの時でさえ、こんなに激しく息を乱し、汗を滲ませた姿を見たことはなかったはずだ。ともすれば食い入るように盗み見てしまいそうな自分を律し、自分の内側に燻る騒がしい感覚を掻き消すように意識を逸らそうと努力はするが、うまく行く気がまるでしなかった。さらに何が悔しいって、そんなクザンから目を逸らすことが惜しいと思ってしまう自分がいることだ。
「——エッチ」
だから、そんなふうにおどけるクザンに、おれが何を言い返せただろう。この、珍しく漲る姿を見せるクザンに、おれはどうしようもない劣情を感じていたのだから。
「うっせー……」
「あら、珍しい」
ドキドキしてくれるなら毎日しちゃおうかな。そう言うクザンに反論もできない。この男の、珍しい姿に取り乱す自分を冷静に取り繕うことさえできない。こんなにも、他人に対して疼くような感覚を覚えたのは久しぶり——いや、初めてのような気がする。勿論、体を許していいと思える程にはクザンを愛しているし、この男はかつてからそうであったようにだらしなく見えるが見目も良く、華のある男だ。少しアンニュイな印象だがそこが色気を感じさせるし、低い声は魅力的で、警察官らしく引き締まった身体は健康的で、男女問わず美しく感じる男だろう。今でこそ、自分はそういった欲とは無縁の暮らしをしているが、かつてであればある程度女の相手はしてきた。無論、時代が時代であるだけに気を許せない張り詰めた中での行為ではあったが。女相手に殺されるようなヘマこそするつもりはなかったが、ヴァイオレットや、シュガーのように非力ながら厄介な能力者がごろごろといる世界で、無防備に肌を晒しあう寝台の上において女は男よりアドバンテージを持つこともあり得る。トレーボルたちが選び抜いた商売女だが、どこに敵のスパイが紛れているともわからない。ヴァイオレットといる時でさえ、ひりつく緊張を感じていた。ことが済み殺して仕舞えばそれでいい。だが最中に厄介ごとを起こされるようなヘマはできない。女遊びは、王としての執務の中でも気乗りしない、面倒な作業でしかなかった。
それが、どうして今。クザンの、見慣れぬ姿におれは、自分でも飲み込んだことのない疼きを覚えている。これじゃあ、まるで恋に夢をみるデリンジャーやベビーと変わらないじゃないか。そう自覚すればもう、じわじわと顔に熱が集まるのを止められない。
「一緒に風呂、入る?」
まるで見せつけるように、いつもより汗でしっとりとしたウェービーな髪を掻き上げながらクザンが言う。おれは、逃げるようにバスルームへ駆け出し閉じこもることしかできなかった。