1.おかえり、ここが君のいえ「あー…… っと、あらら、どこにしまってあるんだか……」
ひとつ、またひとつ引き出しを開けては、閉める。まだこの家の全てに慣れない自分がいて、同時にその不便をこんなにも楽しんでいる自分もいる。ぐらぐら具材の踊るスープは、ご近所を散歩がてら歩いたスーパーでつい目に止まりうっかり買ってしまった蕪が柔く煮え始めている。近所、と言ってもここは閑静な高級住宅街であり、おれの場違いなおんぼろ自転車が非常によく目立つほどの場所であるからして、おれが通い慣れたような地元密着型の激安スーパーなんて一つもない。無駄にシックでハイセンスな外見と、何気なく置かれている生鮮野菜がとんでもない値段をしているコンビニだとか、聞いたことのないブランドのスーパーがあるだけ。品揃えもなかなか興味深く、少しはしゃぎすぎたことは否めないだろう。何ひとつとっても、想像する一・五倍の値段がするのだ。その分、惣菜ひとつとっても、どうにも美味そうであるのが憎いところだが。牛蒡とにんじん、玉ねぎと白菜。蕪を手に取り、ここ最近急に冷え始めたから温かいスープなんか飲みたいな、と思うまではよかった。ただ、どうせなら具材がうんとはいって食べ応えがあるものがいい、せっかく買った圧力鍋に出番をやって、煮込まれた野菜の甘さや優しい食感を楽しみたいし、明日の朝には煮崩れた野菜でとろみのついたスープをパンにたっぷり浸して食べてもいい。ちょうどスーパーに併設されたベーカリーでは、なんともうまそうなバゲットがこれまた綺麗に並べられており、空腹を刺激する罪深い匂いで客を誘惑していて—— と、あれこれ欲望のままかごに野菜やらを詰め込んだのは、少し誤算だったかもしれない。まあでもほくほくと煮えた柔らかそうな根菜や、透き通った玉ねぎを見れば後悔はない。骨からとろける手羽先はベーコンよりあっさりした味の好きなあいつのために。どれもこれも圧力鍋様々である。味付けなんてコンソメのブロックがあれば決まってしまうし、味見すればするほど美味くなっている気がする。ついでに、買い込んでしまった野菜でごぼうのサラダと、浅漬けと、ちょっとしたトルティージャもどき——キッシュというか、オムレツというか、とにかくトマトと、じゃがいもがわりの蕪をたまごと焼いてみたもの、だ——なんかを用意して。まるでデパ地下みたいなガラスケースに入って量り売りされている惣菜の海老マヨも、ちょっと洒落た皿にレタスなんか千切って盛ってみたり。それも、おれがよく買っていたような海老チリとはわけが違う。ひとつ一つが大ぶりで、辛抱たまらずひとつ摘んだがプリッと締まった身の甘さや、衣の上品な油とサクサクした食感に、酸味のマイルドなマヨネーズソースの美味さときたら、そこらで食べるチェーン店の中華屋よりよほど美味いように思うレベルだった。バゲットを厚めに切って、ふんわりざっくり焼く準備もなんとか出来た。自炊は今までもやってきたが、やはり慣れないキッチンで格好つけるのは随分手間がかかってしまう。あいつが仕事でよかったとつくづく思う。まあ、一緒に並んでキッチンに立ったり…… なんてのも、悪くないだろうけど。たまの、ちょっとした記念日くらいは、手の込んだ飯を食うのもいい。ワインもあけて、ゆったり飲みながら。どうせお互い碌すっぽうに休みなんか取れないし合わないんだ。帰る時間も、出ていく時間も不規則で。方や忙しのない警察官で、方や世界を股にかける大企業の総取締役兼社長ときた。明日からはまた、あいつが懇意にしているハウスキーパーが来て、食事にはじまり、おれたちの家のあれこれを全部任せてくれるというのだし、今日一日くらいは、こういう手間も経験しておくべきだろう。
そんなこんなで、夕飯の準備はなんとか完成することができた。たまにしか料理をしないおれやアイツの代わりに、この家のキッチンを仕切ってくれるハウスメイドのベビー・ファイブに合わせたキッチンは、おれたちには少しだけ低い。僅かに凝り固まった腰を伸ばしながら、もう何度目かもわからない時計を見て、そわつく気持ちを押さえ込む。部屋中に、腹をくすぐる匂いが漂っている。もう帰るだろうか、連絡しちゃ煩くしちまうだろうか。なんてソファに投げたままのスマホを取りに歩き出したおれを、エントランスが解錠されたインターフォンの通知が引き止める。
ここはアイツが所有しているばかみたいにおしゃれなマンションの最上階の部屋だ。いわゆるペントハウスというやつで、上階専用のエレベーターがある。ドフラミンゴが日本に住まいを構えるにあたり、ファミリー総出でありとあらゆるマンションやら一軒家やら土地やらを探し出したが、結局既存の建築物ではピッタリの条件がなく、だったらもう建ててしまえと最上階をドフラミンゴの住まいに、以下は金持ち相手に貸し出せるようにマンションを建設しちまったらしい。なんというか、おれには想像もできないスケールである。おれだってけして薄給であるというわけではない——むしろ公務員の中じゃかなりの高給な方だろう——が、金持ちってのはその何百倍も凄まじい世界で生きているらしい。そんなおれたちが付き合って二年—— 忙しいおれたちが少ない時間を擦り合わせて会うことは、お互いの仕事を塵積的に逼迫していることは薄々感じていた。おれは事件が起きればそれが何時だろうと呼び出しをくらって、海を越えようが山を越えようが本部へ向かわねばならなかったし、ドフラミンゴはそも彼自身がたいへんなワーカーホリックであり、かつ常に仕事に追われる多忙でアクティブな社長である。すこしばかりやつれた顔の恋人が、それでも少しだけホッとしたように表情を綻ばせ〝会いたかった〟なんて素直に言うのを見ちまえば、嬉しいやら心配やら、恋人としては悩ましい状況が続いていたのは否めなかった。切り出したのはおれだったが、互いに新しい住まいを好条件で探すのはなかなか骨が折れた。そも時間がないから内見に行く時間もなく、引越し準備をする時間さえない。しかもドフラミンゴの住まいといえば彼のために建てられた現代の巨城がすでに存在しており、さらにいうとこれ以上悩むようならもう一つマンションがおっ建っちまいそうで。で、結局。——痺れを切らしたおれが、身一つでこの家に転がり込んだと言うわけだ。部屋なら有り余ってる。そう言ったドフラミンゴが、やたら無邪気に笑うから。この選択は間違っていなかったのだろう。
——はじめてここに来た日のことを今でも覚えてる。
エントランスでいきなり、おれの静脈と網膜と音声が、よくわからんがマンションに登録されて、混乱するおれの横でイタズラが成功したみたいに笑うアイツが〝これでお前、いつでも入れるから悪さするんじゃねえぞ〟なんて言うから。金持ちってのは合鍵の文化がない代わりに、こんなハイテクな口説き文句を持ってるんだなァとひどく感心したこと。そこから専用のエレベーターだとか、ワンフロアまるまるアイツの家だとか、そういう驚きに圧倒されたことも。今じゃ守衛のピーカともそれなりに仲良くなるくらいには、この家に馴染んできたはずだけど。それでも、今はまだこの家が新しい顔を自分に見せているような気がした。他人の家としての顔とは違う、ささやかな変化、のようなものだろうか。
ピピッ、と玄関ロックが解除される音がする。これじゃまるで主人を待つお利口なわんちゃんと変わらないなとおもいながら。
「おっかえンなさい」
「——あァ、ただいま」
ご飯にする? お風呂にする? なんておどけるおれに、アイツ——ドフラミンゴが、くしゃりと笑った。
——————美味そうでしょ、自信作だからね
——————うまい、が…… なんか、むかつく