月夜に猫を見送る話 月のきれいな夜だった。虫も眠るような真夜中だ。安アパートの住民は全員寝静まり、寝返りの音すらきこえない。静寂の中、一人眠れない私は、白湯を手に窓辺に寄りかかっていた。最上階の角部屋からは、空がよく見えた。空の真ん中に陣取るのは、まん丸の、よく太った月だった。
月を眺めてぼんやりしていると、窓の外、狭いベランダに小さな訪問者が現れた。ととっと軽い足音を立て上がってきたのは、スモーク柄の猫だ。赤い首輪から、飼い猫であることがわかる。お月様みたいな金色の目で私を真っ直ぐ見ると、猫は言った。
「約束だ」
猫が話していても、私は不思議だなんてちっとも思わなかった。寧ろ、ああそうか、と納得した。いや、思い出した。彼との約束を。
「約束だったね」
うなずいて、私はベランダへ出た。夜気はひやりとしていたけれど、上着は必要ない。ベランダの柵を乗り越えると、私は猫のような軽やかさでアパートの二階から飛び降りた。そして、猫のようにしなやかに地面に足をつける。痛みはない。音も立てなかった。
ベランダに残る猫は、私を見下ろし満足げに目を細めた。柵の間からするりと抜け出ると、自分も飛び降り、爪の音すら立てず着地した。
「行くぞ」
「行こうか」
うなずき合い、アスファルトの地面を歩き出した。
てくてくと、とことこと、歩いて駅へ向かう。アパートの近くに駅はない。普通の駅ならば、ない。だが夜には夜の世界がある。
夜中に動く、夜の生き物だけを運ぶ電車。その電車を受け入れるのは、夜の駅だけ。夜の駅は、真夜中の一番影が深い場所で口を開けている。
最寄り駅は、アパート近くの公園の、一番大きな遊具の影にあった。黄色い歯を覗かせた駅の口をひょいとくぐり、私と猫は駅に入った。改札前でひっそり佇むのは駅員だ。暗い構内では向こうの顔も見えないが、すり切れ古びた制服だけは、なぜかやたらとはっきり見えた。
古びた駅員に、猫が行き先を告げる。
「海まで」
「そう、海まで」
どちらかが先に寿命を向かえるときは、見送る約束だった。私は先に寿命を向かえ、彼に見送られた。今度は私が彼を見送る番だった。
駅員からすり切れた切符を渡された。それが示すホームへ行き、私と猫は電車を待った。ホームはベンチも時計もなく、月明かりがうら寂しくコンクリートを照らすだけだった。
寂しいホームへ、音もなく電車が滑り込んできた。車体は窓すらも黒く、しかしどこか青みを帯びていて、窓といわず車体といわず、そこかしこで微かに星が瞬いていた。
電車の中も、似たようなものだった。心地よい暗闇と、わずかな光。お陰で誰がそばにいるかもわからない。微かに感じる呼吸の気配と、時折触れる柔らかな毛の感触。彼が隣に座っているのか、それとも違う誰かが隣にいるのか。柔らかな毛を持つ誰かを想像し、私は暗闇でふふと笑った。
がたごとと音を立て、電車が揺れる。窓の外は星が瞬く以外は真っ暗闇。「宇宙にいるみたいだね」と私が言うと、隣にいたらしい猫は、くしゃみみたいな鼻息で笑った。
「夜も宇宙もおんなじだろうに」
それもそうかと私は恥じ入り、あとは黙って、自分たちすら映らない窓の向こうを眺めていた。
「次は、夜の海。次は、夜の海」
ため息のようなアナウンスが、私たちが降りる駅を告げた。猫が「行くぞ」と招く声を頼りに、真っ暗闇の車内で乗客をかき分け、どうにか駅へ下りる。触れた乗客は、時折ぬるりとしていたり、もふもふしていたり、ざらざらしていたり、およそまともな感触の持ち主はいなかったけれど、その姿は終ぞ拝むことができなかった。
ホームを抜け、改札前で佇む駅員に切符を見せる。切符を受け取った駅員は、古い帽子を軽く持ち上げ、ため息のような声で「いってらっしゃい」と見送りの言葉をかけてくれた。
駅を出ると、欠け一つ見当たらない月が私たちを出迎えた。月に照らされ、私たちはアスファルトを歩く。少し行くとアスファルトは砂に覆われていって、私たちはゆっくり、砂浜へ足を踏み入れた。
さくさくと、砂を踏みしめる音がする。とすとすと、砂を踏みしめる音がする。軽い足音を立てる彼は、もう寿命を迎える。なのに老いを感じさせない、軽やかな足取りだ。
「まだ、もう少し」
私はつい、彼を思いとどまらせようとしてしまった。
「もう少し、いいんじゃないの。足だってしっかりしてるし、頭もぼんやりしてないみたいじゃない」
「寿命ってのは、そういうもんだろう」
彼の言うとおりだ。年老いて、何もできなくなったから死ぬわけではない。寿命を迎えるから死ぬのだ。
口を噤む私を見上げもせず、彼は淡々と話す。
「海に還るんだ」
「うん」
「悲しくない」
「うん」
「寂しくもない」
「うん」
「また会えるんだ。泣くな」
目からは涙、鼻からは鼻水。なんてみっともない。けれど止めようと思ったって止まる涙や鼻水ではない。止めどなく流れる涙と鼻水を拭いながら、改めて自分が人に生まれたことを意識した。人として生まれて以来、どうも私は感情というものに引っ張られている。猫の頃はもっと、今の彼のようにドライだったのに。
ずびずびと泣いていると、彼がよじ登ってきた。私が屈まなくとも、器用に足から背中、肩まで軽々登る。そうだ、彼は昔から、私以上に身軽だった。
頬にざらりとした感触が走る。老いてなおこれだけざらざらしている彼は、生前の私をよくからかった。
「お前のその舌じゃあ、毛繕いが下手なのもうなずけるよ」
彼のざらついた舌の感触も、あの嫌みでありながら親しみ溢れる口調も、今日でお別れ。この頬の痛みを感じることは二度とないのだと思うと、また涙が溢れた。
彼を肩に載せたまま、私は歩いた。彼も私の肩に乗ったまま、潮風を感じていた。
「高い目線は気分がいい」
のどを鳴らし、彼は言う。
「お前より高い目線を持てることを祈るよ」
私は感情がのどを塞いでしまっているものだから、何も言えず、首に巻きつく彼の尻尾の感触だけに集中した。
波打ち際に来て、彼はようやく肩から下りた。とすとすと歩く後ろ姿は堂々としていて、振り向く様子もない。しかし彼は振り向いた。波の中に一歩前足を踏み入れて、そのまま私をじっと見た。
「またな」
そう言って、私の返事も待たず、彼は月夜の海を進み、沈んでいった。私は「待って」と追いかけたくなるのを堪え、見送った。そういう約束だった。
彼が尻尾の先までとぷんと沈んで、海は静かになった。彼を迎え入れ、満足したような静けさだ。
声もなく泣きながら、私は波打ち際にしゃがみ込んだ。涙も鼻水も拭わず、彼の堂々とした後ろ姿を忘れまいと、顔を覆って今し方乃光景を脳に焼き付けた。
気の済むまで泣いて、私は鼻をすすって立ち上がった。夜の電車が動くのは、夜だけ。宵の口と夜明けの合間だけ。友を見送ったのだから、私は人として、昼の時間へ帰らなくては。
駅が閉まってはかなわない、と私は砂を踏みしめ急ぎ歩いた。
隣で聞こえていたとすとす軽い足音は、もう聞こえなかった。