模範解答【オル相】「しばらく部屋にいます。入って来ないでください」
これ以上の口論は無意味だと俺は目の前でむくれている俊典さんにそう言って背を向けた。
追ってくる気配があれば回し蹴りのひとつでも入れてやろうと思ったが、生憎俺の間合いに気配はない。
ドアを開けて乱雑に閉める、その音がいつもよりは大きかったが怒りの吐き出しどころがなくて物に当たったように聞こえたかは迷うところだ。俺はパソコンが乗った机の椅子を引き、そこにどっかりと腰を下ろして不機嫌に歪んだ顔で何も映らないモニターを睨む。ノングレアの液晶には俺の顔はぼやけて、どんなに凶悪な表情かは自分では見れなかった。
「…………ハァ」
口を吐いて出るのは溜息だけだ。
別にあの人への悪態がのべつ幕無しに溢れ出るわけじゃない。俺達はウマが合わない、それは最初からわかっていたことだ。わかっていたのに好きになった。独りよがりの愛のうちは合わなかろうがそれで済んでいたのに、何故か想いは通じ合ってしまった。上手くいくわけがない。あらゆる角がぶつかり合う。それでも俺達は、互いを傷付けたくて我を張っているわけじゃないということだけは知っていたから、ぶつかるたびに角を丸めて、触れ合っても傷付け合わないようになんとか調整して、交際を続けた結果生涯の伴侶となることを誓って今ひとつ屋根の下で暮らしている。
だからって、もうぶつかり合わないわけでもない。
俺と俊典さんの間には絶対に埋まらない意見の相違というものがあり、回数は減ったし内容もそこまで深刻な物ではなくともさっきのように、忘れた頃に届くネット通販みたいな頻度で事件は起きるのだ。
ムカムカする気持ちを抑えるために俺はパソコンの電源を入れた。こういう時は作業に没頭するに限る。幸いにも仕事は持ち帰ってやるに事欠かない。
まだ日の高い部屋が徐々に薄暗くなっていく。
窓の外はいい天気で、晴れたら散歩でもしようなんて今朝飯を食いながら言っていたのに。
カタカタ、カチカチ。
繰り返されるタイピングとマウスのクリック音と怒りがそれ以外の雑念を追い払って嫌になる程集中して作業が進んだ。上書き保存を確認してファイルを閉じる。
パソコンの右下の時計は想定以上に進んでいた。
夕暮れに近い空に、薄暗くなった手元のキーボードの文字の認識が危うい。電気を点けるか迷いながら凝り固まった体を上に目一杯伸ばすと、ドアをノックする音がした。
「……はい」
「ご飯、できたけど」
「……行きます」
まだヘソを曲げている声色だった。
それでも、俊典さんはルーティンを欠かさない。
喧嘩しているんだから放っておけば良いのに、わざわざ俺の分まで飯を作る。食べてる間も一言も交わさないくせに、飯は一緒に食う。腹が立つなら俺の味噌汁にだけ塩でも辛子でも入れれば良いのに、絶対にそんなことはしない。
ドアを開けて廊下に出れば、魚が焼けた良い匂いがして腹が鳴る。感情を置き去りにして空腹を訴える体に勝てず、俺はリビングの定位置の椅子に腰を下ろした。
(多すぎんだろ)
テーブルの上に隙間がない。
いつもならメインに副菜が二つくらいと汁物なのに、今日はハンバーグに唐揚げ、茄子の味噌炒めに野菜たっぷりポテトサラダ、ほうれん草のおひたし、白和え、汁物はどでかい器に具沢山の豚汁、茶碗には炊き込みご飯で、メインはこれですと言わんばかりのデカすぎて乗せられる皿がなく三分の一が皿からはみ出した特大ホッケがど真ん中に鎮座している。
嫌がらせか?と一瞬頭を過ったが、俊典さんは食べ物を人質にするような人ではない。
無表情を装っているが、明らかに顔には「やりすぎた」と書いてある。つまりこれは不可抗力だ。
俺が怒りをキーボードにぶつけて昇華したように、俊典さんはまな板と包丁と食材で怒りを昇華させた。その結果生み出された副産物が、これだ。
「……いただきます」
手を合わせて箸と茶碗を持つ。
出されたものを残すような躾はされていない。
黙々と食事を続け、三十分もしないうちに綺麗さっぱりなくなった料理を嚥下し終え、手を合わせてごちそうさまでしたと言った俺に、俊典さんは驚きを隠しもせずお粗末さまでした、と小さく呟いた。
とはいえ、流石に食い過ぎた。部屋に帰りたかったが、怠惰な気持ちに負けて近場のソファに倒れ込む。
「大丈夫かい?」
勿論俊典さんも責任の一端を感じて一生懸命食べてはいたが、速度と量なら俺の方が勝る。
「……美味かったんで」
喧嘩してる相手に、美味い飯を出すなよ。
何度思っただろうか。
でもこの人は昔からどんなに口論しようが「相澤くんお弁当」「相澤くんご飯」って不機嫌を隠さない顔で俺に飯を押し付けて、なのにどれひとつとして不味かったことなんてないんだ。
「ちょっと、休みます」
消化を優先すると言ってソファにもたれて目を閉じる。満腹感はすんなりと眠気を連れて来た。次に目を開ける寸前、隣にいる誰かが俺に寄りかかっている。体重のかけられ方で寝ているとわかったから、俺は目を開けただけで体は動かさずにいた。
テレビでは俺の知らない映画が流れている。映画を見ながら寝るなんてこの人にしちゃ珍しいこともあるんだな、と思いながら、肩に乗った重みを愛おしいと感じた。
あんなにも腹を立てていたことが、どうでもいいとは言わないが時間経過で落ち着いて、落とし所をどこにしようかぼんやりと画面を見ながら考える。
ソファの上に投げ出された手に手を重ね、指を絡めて握り締めた。起きる気配のない俊典さんに俺はもう一度目を閉じることにした。
こんなところで本格的に寝てしまったら、明日全身が軋んで泣きを見るのは明らかだ。でもまだ二度寝に戻れるこの曖昧な感覚を優先してもいい。
起きてと声を掛けたなら、きっとベッドに連れて行かれて仲直りのあれそれを求められる可能性が高いがこの状態で正直準備はしたくない。それなら、寝た子を起こさず隣で添い寝をし続けるのが今夜の模範解答だろう。
そうして俺の肩に乗る俊典さんの頭に俺も頭を預けてさっさと寝た。
真っ暗な視界と時間経過のわからない中、浮上した意識には額に唇が触れた感覚があり、軽々と持ち上げられてどこかに運ばれているのがわかった。
「……ごめんね」
起きてる時に言えばいいのに、それとも俺がうっすら起きているのを察してわざと発している声なのかは知らない。しかし殊勝にも今回は俊典さんから折れたことが妙に嬉しくて微妙ににやりと唇が動いてしまったのを見られただろうか。
抱き付きたい衝動を披露するか、このまま睡魔に降伏するかを選べないうちに優しくベッドに下ろされる。
俺もすみません、と動かそうとした口から出たふにやふにゃとした音が意味のある言葉となって届いたかどうか知らないが、仲直りのキスが唇に触れた感触は覚えている。