プライオリティ【オル相】 最初に触れたのはどちらだったのか、今となってはもう思い出せない。きっと偶然だった。
隣に座ったのも。触れ合わせた手が、狭い場所に押し込められたような位置取りで誰からも見えなかったのも。
でも、それを離さなかったのは酔っていたからだ。
体勢を直すときに偶然触れた指先ごときを気色悪いと振り払うほど狭量ではない。触れたな、くらいの些事で終わるはずだった温もりが、妙に長いことずっとそこにあって。
次の飲み会でオールマイトの隣が空いていたのはマイクの策略で、その次の寮の宴会に巻き込まれたときにはいつでも逃げられるようにソファの端を狙ったら並び順がそうだっただけで。
流石に鈍感な俺でも、続くこれが本当に偶然なのだろうかと疑うくらいの頭はあった。人の視線を集めない位置に置いた釣り餌のような俺の手に、場所を確認することもなくさりげなく置かれるオールマイトの手。
それだけだ。
小指と小指の熱を僅かに移し合うだけの数分間。
俺はそのことについて、深く考えるのをやめた。
優先事項は山程ある。次から次へと懸念事項は積み上がるばかりで俺のプライベートの、名前もつけられないよくわからない感情に割いている暇は全く無い。オールマイトだってそうだろう。俺より大局を見ながら、感情ゆえに狭くなりがちな視野を必死に矯正してあの体で平和の象徴はまだ何かをやろうとしている。
それでも、息抜きのような時間のたびに熱を移し合うこの行為が忘れてしまうにはむず痒い。何を望んでいるのか聞いてみたい衝動に駆られた時もある。ヤりたいならそう言ってくれれば、一夜の相手くらいしてもいい。
行き詰まってそんなことも考えたりした。
例えば手を重ねたなら、一体どんな反応を返すのか試してみたくもあった。でもそのどれも実行に移すには、圧倒的に他にやることがありすぎた。
色やらにうつつを抜かしている暇は本当にない。
無駄なことに時間を使えない。
俺とオールマイトには多分同じ意識があった。だからこそそれ以上の進展を避けるように、今夜もまたほんの少し、熱を移して終わるんだ。
明日起きたら最後の戦いが始まる。
作戦に漏れはないか、考え得る可能性は潰したか。
「大丈夫だよ。おやすみ」
不安はあるだろうにそれを感じさせない声が安心を呼び起こす。根拠のない自信は死を招くと言うのに。
「オールマイトさん」
「ん?」
これが最後になるかもしれないなら、俺はこの熱に名前をつけてあなたに渡すべきなのだろうか。
一瞬感情的になった自分から、頭を振って弱気を追い出す。俺達に、そんな暇はない。
例え散ったとしても、告げない気持ちを後悔している時間なんかないに決まっている。
「いえ。明日、よろしくお願いします」
「ああ。終わったら一杯やろうな!」
飲めないくせに?って返す言葉は出なかった。
酔わせて、何もかもを吐き出させてやりたいと思って、優先事項の最下層にその気持ちを押し込んだ。
「で、卒業式は出られそうなんですか?」
「うーん、座ってるだけでも出席はしたいんだけど」
ベッドの上でオールマイトはベッドサイドに置かれたカレンダーを見つめながら言った。同室の緑谷は既に退院している。重症度合いはどっちもどっちだったが、身体の根幹部分をやられているこの人の方が年齢的なものもあり治りも遅い。
「なんとか頑張って出たいから、校長にも伝えておいて貰えるかな」
「わかりました」
「よろしくね」
用件は済んだ。長居しても仕方がないので椅子から立とうとしてカレンダーの印に気付く。
あれは震えているが緑谷の筆跡だ。
「来月誕生日でしたか」
「え?ああ……」
俺が何に気付いたのか悟ってオールマイトは目を細めた。綻んだ口元からは気恥ずかしさが見て取れる。
「そうだね。そうか。リハビリから帰ってきてから何かしてるなと思ったけど、これを書いていたのか……」
卓上カレンダーの小さいマスからはみ出ているが、日付の数字を囲むような花丸とハッピーバースデーの文字に「祝える」ことへの喜びが俺の胸にも仄かに湧き上がった。
「……何か欲しいものはありますか」
するりと口を出たのは紛れもない本音だ。
オールマイトは無言で驚き俺を見つめる。
「物流も復活したとは言えませんし、あなたが望むものならそっちの伝手の方が入手は早いでしょうが」
言い訳めいた言葉を並べる。深く捉えないで欲しい。まだ最下層に沈めたままのあやふやなものを浮かび上がらせる暇はない。
「なんでもいいの?」
声のトーンにどきりとした。
白い清潔な生地の上に視線を落としていたから、声に釣られてオールマイトの顔を見た。笑ってもいない、怒ってもいない、俺の知っているオールマイトの中でおそらく一番稚い表情に息が止まる。
俺は何かを間違えたか。
「俺が、あげられるものなら」
平静を取り繕って吐き出した声はきちんとしていただろうか。同僚としての範囲を逸脱していなかったろうか。
布団の上に置かれたオールマイトの手が、ベッドサイドの見舞い用の椅子に腰掛けたままの俺の方へ伸びる。何か取って欲しいのかと思おうとしたけれど、その手が目指して触れたものに動くことができない。
「……生きるって決めた割に、本当に生きて終われるかなんてわからなかったから自己満足にでも言うつもりもなかったんだけどさ」
オールマイトは俺の左手を取って、恭しく小指を撫でた。そっと擦り付けられる感触に俺は堪らず目を閉じる。
何を言おうとしているのか、何を望んでいるのか。
俺があの時先送りしたように、この人もそうした。
まだやることはたくさんある。自分を優先している暇はどこにもない。
「もういいかな」
約束すら交わしていない、俺とオールマイトの間に互いの意思すら確認せずに推測で敷かれたそれ以上は踏み込まないルール。
「そんな暇、ないでしょう」
往生際の悪い発言をした俺にオールマイトは笑う。
「これから作るんだろ?皆で。ヒーローが暇を持て余すの世の中ってやつをさ」
「……そうですね」
「だから、私は君が欲しい」
迷いなく清々しく言い切られ、俺は言葉を見つけられずに黙り込んだ。
「君が私のことなんか考えている暇がないことは知ってるよ。いいんだそれで。いつか君が私に、そろそろいいかって思えるくらいに暇な時ができたらで」
「そんなん待ってたら、あなたはきっと爺さんです」
「いいよそれでも。私は君に伝えることができたから。諦めることもできず、今じゃないってずっと誤魔化してしてきた自分の気持ちを顧みることができたから」
ああスッキリした、とオールマイトは独りごちて起こしたベッドに上半身を預けてひとり爽やかな表情を浮かべている。
手は解けて元の場所に戻ってしまった。
俺が直視を避けていたものにオールマイトが名前を付けた。もうきっとこれは沈まない。
共に生きていくと言う覚悟なら、既にあるんだ。
「……わかりました」
腹なら括った。
何が?と言いたげな顔に顔を寄せて唇を重ねる。ぱち、と瞬きした睫毛の長さとその奥の目の色に見惚れて、もう一度触れたままの乾いた唇を食む仕草で押し付けて離した。
病院独特のアルコールの匂いがする。
「後回しはやめて、同時進行にします」
「ふえ?」
「あなたも出来るでしょう?」
ここまでお膳立てしたくせにできないとは言わせない。
「……君、切り替え早過ぎない?」
「迷っている時間が惜しいんでね」
じゃあまた来ますと告げて今度こそ席を立つ。
赤い顔のオールマイトが咳払いをして手を振った。会釈をしてドアを閉じる。
人混みに紛れながら無意識に緩んだ口元を隠すのに捕縛布を引き上げた。忙しいのにわくわくしてるなんて二ヶ月前の俺が知ったら、きっと怪訝な顔をするだろう。