夢一夜【オル相】 こんな夢を見た。
胡座を掻いて座っていると、裸の相澤くんが私の前にやって来て静かな声で持ち上げてください、と言う。相澤くんは黒い長い髪を耳にかけ、顔の半分を隠している。鈴のついた黒い首輪をしていた。何も身につけていないのに、二の腕までの長い黒い革手袋と、黒いハイヒールを履いていた。持ち上げるのは簡単だけれどどうすれば良いのかとぼんやりしていると、相澤くんは片足を上げて私の肩に乗せた。なるほど、と思って太腿を下から支えると、もう片方の足も器用に乗せて来た。
こちらを見つめる猫でも乗り移ったような相澤くんの黒眼の広沢を眺めて、あまりの軽さに風船でも持ち上げているのかと思った。ところでどうして持ち上げられたかったんだい、と聞くと、相澤くんは黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、持ち上げられたかったんで、と言った。
埒が明かないやり取りに、私は黙って相澤くんを見上げる。重くないから良いのだけれど。ぷらぷらと脱げかけのハイヒールが揺れて、悪戯に私の背中に不規則に当たる。
しばらくしてから相澤くんがまたこう言った。
「食べ終わったら、抱いてください。台所にほったらかしのぬか床じゃなくていいから、適当な調味液に漬けたりした、一本まるまんまのきゅうりを」
「きゅうり」
突然現れた単語に目を見張る私の前で裸の相澤くんは何もないところから緑鮮やかなきゅうりを一本取り出してあんぐりと口を開けて咥えた。気怠い雰囲気は特に食べたくて食べている様子もなく、そこで私ははたと気が付いた。
(冷蔵庫にきゅうり入れっぱなしじゃなかったっけ)
まとめ買いが安くてカゴに入れたはいいけれど、半端に手をつけて野菜室にそのまま放置した先週の特売品の。
急激に意識が覚醒して行く。
はっと目を開ければそこは見慣れた天井だった。隣には夏用の薄手の布団に顔の半分まで埋まった相澤くんが体を丸めてくうくうと眠っていて、私の手には寝しなに読んでいた文庫本が握られたままで。
(……これのせいか、変な夢を見たのは)
私は開きぐせのついた本を閉じてサイドチェストに置き、起きるにはまだ早い時間なのをデジタル表記の置き時計で確認してそっと相澤くんを起こさないようにベッドから抜け出てキッチンへ向かった。
恐る恐る冷蔵庫の前に立ち野菜室のドアを開ける。そこには、特売用の袋に入ったままのきゅうりが三本残っていた。
「……思い出させてくれてありがとう」
食材を無駄にするのは気が引ける。夢の中の相澤くんのお望み通り、一本まるまんまで食べようかとボウルに氷水を張り、その中に洗ったきゅうりを入れて冷やした。浅漬けよりは味噌とマヨネーズで食べる方が多分相澤くんの好みだろうと思って。
朝食の時間には食べ頃だろう、と私はベッドに戻ることにした。
すると、眠っていたはずの相澤くんの手が布団の下から自分の方へ伸びて来た。ちょうど胸の辺りまで来て止まったと思うと、のそりと揺らぐ頭が持ち上がり、小首を傾げて私を見上げた相澤くんの唇が、ふっくらと僅かに開いた。昨夜愛し合って流した汗が鼻の先で頭に響くほど匂った。そこへ眠気が襲ったので、相澤くんは夢現の真ん中でふらふらと揺れた。私は首を前に出してあわいを彷徨う、相澤くんの唇に接吻した。私が相澤くんから唇を離す拍子に、視線を落としたら、首の黒い帯に金の鈴がたったひとつ輝いていた。
不可思議を受け止めきれない私に、相澤くんが接吻のお代わりを強請って腕を伸ばす。夢の中の彼の言葉を思い出す。「食べ終わったら抱いていいんだ」とこの時初めて気がついた。
鈴が鳴る。ちりん。