〇〇〇れてあげないよ【オル相】「ちょっとトイレ」
相澤は二時間アルコールを摂取した赤ら顔で席を立った。居酒屋の個室のドアを開ければ外からは酔客の喧騒が流れて来る。左右を見てトイレの表示を確認する相澤に山田はテーブルに肘をついてビールジョッキを揺らしながら左の突き当たり、と声を掛けた。
「ん」
がらりと引き戸が閉まる。喧騒が一段階遠退く。
汗を掻いた烏龍茶のグラスを口に当て喉を潤す八木に、こちらも適度に酔っ払った山田は何か言いたそうな感慨深げな表情を浮かべていた。
友人がいては言い難いことかと察し、八木はどうしたのと尋ねる。相澤が戻ってくるまでの時間は長くはなさそうだ。彼の耳に入れないための会話なら早めに、と促せば、山田はいやァね、と普段は饒舌な人間にしては珍しく言い淀みながら切り出した。
「正直、あいつとマイティが、ここまで長く続くと思ってなかったんで」
「……そう?」
思っても見ない方向からの言葉だったので八木はちょっとだけパンチを食らって椅子の上で心だけよろける。
「いや、誤解しないで欲しいんス。別れて欲しいとかじゃなくてね。あいつ、二人が付き合ってんのも俺に言いたがらなかったんで酔わせて理由聞いたことあったんですよ。水臭えじゃねえかって。そしたら、どうせすぐ別れるだろうから言いたくなかったって」
「……」
八木と相澤の交際はそろそろ十年を数える。確かに順風満帆な船出ではなかったけれど、破局の危機的なものは一度もなかったと八木は密かに自負していたので、この山田からの密告にそれなりにダメージを受けた。
数週間前には親しい友人だけを招いての結婚パーティーをもしたし、今日は一番尽力してくれた山田への慰労会のつもりで誘った食事だったのに、ここに来てとんでもない爆弾が落とされている。
「いやだから本当に誤解しないで欲しいんですけどねェ!」
全てが顔に出ていた八木に山田は慌てて声を張り上げた。
「今のあいつはそんなこと微塵も思ってませんよ。多少なりとも思ってたらいくら親しい知り合いだけとはいえ、あの相澤が。あの!相澤が!結婚パーティーなんかしませんて」
「そ、う、かな?」
「そうっすよ。あいつがどれだけ頑固なんてかマイティが一番知ってるでしょ?でも付き合い始めの頃のあいつはよくマイティの気の迷いだ、目が覚めたらどうせ別れたがる、もっといい人がいるに決まってる、そしたら俺はさっさと身を引くって酔うたびに愚痴ってたんすよ。俺はそれ聞くたびに「何言ってんだ」ってバシバシ背中叩いてましたけど、多分あいつなりの防御行動だったんすよねェ。マイティのこと愛してるけど別れることになったら耐えられなくて、でも後腐れのない相手を演じるつもりで、普段から自分に言い聞かせてないと不安でしょうがなかったんだろうなと」
「……私は彼にそんな風に思わせる不誠実な態度を取っていたんだろうか」
「そうだったマイティも頑固モンだった」
山田が大袈裟に頭を抱えた。
「だーかーらァ!ちげーーーんですよ。俺が言いたかったのはそんな後ろ向き百万パーセントだった相澤が今じゃマイティの正妻は俺だが?ってツラでマイティの横に立ってるってのがほんっとーに感慨深くて!酒が美味くて!たまんねー!って話をしたかったんす!よ!」
ゴン、と山田が宣言してテーブルに突っ伏しながらジョッキを置くと同時にスパァンと小気味良い音がして個室の引き戸が全開になった。
振り返れば鬼の形相の相澤が立っている。
「ご自慢のクソデカボイスが外まで聞こえてんぞゴルァ?!」
「だってホントのことだろぉ!」
間髪入れず反論する山田を睨みつけながら相澤は八木の隣に腰を下ろす。
「またこいつに適当な嘘吹き込まれたんでしょう。何言われたか知りませんが本気にせんでください」
その反応を見るに、聞こえていたのは後半の一部だろうと推測し八木は軽く笑って全てを飲み込んだ。
「君が私のことをとても好きでいてくれてるって第三者からの貴重な話を聞かせてくれていたところさ」
「……そうですか」
「ほら!その顔!拗ねたフリしながら満更でもねえっていう顔!どこで覚えたんだよお前!俺は教えてねえぞ!すっかり大きくなっちまってよォ!」
「落ち着け。俺もお前も不惑超えてんだぞ。何言ってんだ?」
「ッカーーッ!!人妻の余裕!」
「八木さんはお前にやらんぞ」
「欲しがってませんーーッ!!」
終わりなく繰り広げられる親友同士の気の置けない空気に安堵し、八木はそっと席を立つ。廊下に出て会計を済ませるつもりで店員を呼び止めると、先程髪の黒い男性がお支払いになりましたよと言われ拍子抜けして部屋に戻った。
「マイクくん歩いて来たの?送るよ」
「いんや、適当に飲み直すんで大丈夫っす」
遠慮なのは見て取れたが、山田は店を出ると二人を置いて駅とは反対方向に歩いて行ってしまった。空調が効いていても、籠もった空気から外に出れば夜風が心地良い。駐車場まで歩く最中、相澤は八木の態度がどことなく余所余所しいことに気付いていた。
「俊典さん」
「ああ。ごめん、払ってくれたんだよね。私が行くべきだったのに」
「いつもあなたが俺に注ぎ込んでる額に比べたら微々たるモンです」
「ご馳走様」
「どういたしまして」
八木は年上の恋人の自覚があるので基本的に相澤に支払いをさせることは一切無いが、相澤が払いたいと主張した時にそれを遮ることもしない。今夜も素直に礼を言って一歩引いた。だから、相澤が今感じる八木の方から流れてくる微妙な空気は、相澤が不在の間に山田が言っていたであろう余計なことが原因に違いないとあたりをつける。
「……何を吹き込まれたんです」
「ん?私と付き合い始めた当初、君がいつでも別れる心の準備をしていたらしいって話」
「そんなこともありましたね」
思った以上に相澤がさらりと流す。付き合いが十年にもなれば、それが本当か嘘かくらいは判別が付く。相澤は本当に言葉以上の感情を込めていない。
自分が知らないうちにしていたであろう不誠実な態度が思い当たらず、それさえも不誠実だと考え込んでいた八木は数回瞬きをして、簡単に風に吹かれて飛んでいった悩みを見送る。
「なんです」
「今は違うんだよね?」
か細い声は自信のなさの表れ。
互いを伴侶と認め合って他人の前で宣誓をしたくせに、過去の話ひとつでこんなに揺らぐほど自分が相澤を愛していることを八木は改めて思い知る。
歩みを止めて縋るように眉尻を下げて問い掛けた八木に、数歩先を歩いていた相澤が不意に振り返った。
「一生別れてなんかやりませんが?」
対向車のヘッドライトがポケットに手を入れて照れ隠しに戯けた仕草で先を急ぐ相澤を背後から照らす。
してやったりとにんまり笑う姿に。
見惚れる。何度でも恋に落ちる。
まだ、衝動は生きている。
八木は無意識のうちに駆けて酒臭い最愛の人に後ろから抱き付いた。
「私も!!私も相澤くんだーいすき!一生別れない!!」
路上で騒ぐただのバカップルのいちゃつきに、通りすがりのスナックの外にいた見知らぬ女たちが、慣れた声色で、お幸せにィ、と囃し立てた。