シュレーディンガーの黒猫は三匹いる【オル相】 居酒屋の入り口で靴を脱ぎ、店員の案内に従って建物の奥へと進む。こちらへどうぞーと示されて相澤は後ろを歩くオールマイトに上座を譲った。そういうところ気にするんだ律儀だなあと思いながら、壁を背にした四人掛けのテーブルの奥まった位置の座布団に腰を下ろすと、相澤はすっとオールマイトの隣に並ぶ。
必然的にその後ろを歩いていたマイクとミッドナイトが残された席である、テーブルを挟んで向かい側にに座った。
一年差とは言えミッドナイトは相澤とマイクの先輩である。ビジネスマナーに則ればオールマイトの隣はミッドナイトになるはずで、相澤に席を示されてすんなりと座ったオールマイトはあれ、ただの歩いてた順だっただけでそういう配慮じゃなかったのかな? と勘違いした自分を少し恥ずかしく思いながら出されたおしぼりで早速手を拭いた。ひんやりとした布が今はとても頼もしい。
オールマイトはウーロン茶、他の三人は中ジョッキ。今日は職員室を出る際に退勤時間がたまたま被ったマイクとミッドナイトからたまには飯でも行きましょうと誘われたのだ。予定もなかったし一人の食事は味気無いと思っていたところだったから二つ返事でオーケーすると、何故か巻き添えを食らった相澤がミッドナイトに首根っこを掴まれて引き摺られて来たので、店員に人数を聞かれて差し出した指は四本だった。
相澤は頼んだものが来ないうちからぐびぐびとビールを胃袋に流し込んでいる。
「相澤くん、空きっ腹にお酒は酔っちゃうよ」
「酔うために飲んでるのにアルコールの吸収悪くしてどうするんですか」
予想もしなかった答えが返ってきて返答に困るオールマイトを見てマイクが笑う。
「オールマイトさん、こいつ酒癖めちゃくちゃ悪いから気をつけてくださいね!」
「あら可愛いじゃない。私は酔った相澤くん好きよ。面白いし無防備なんだもの、汚したくなるわ」
酒癖が悪いのに面白くて無防備とは。
想像できず頭に疑問符を浮かべていると、夕食として入店したはずなのに店員が次々とテーブルに並べていくのはどう見ても酒のつまみである。
適当に頼むんでそれつまんで食べたらいいっすよ! と言うマイクの言葉を信じてオールマイトが注文したご飯とお味噌汁セットが主菜を見つけられず湯気を立てていた。
相澤は三杯目のジョッキに無言で口をつけながら、枝豆とたこわさとエイヒレの中に埋もれる厚焼き玉子と漬物の皿をオールマイトの近くに引き寄せる。
「ホッケも頼みました。焼くのに時間がかかっているだけでしょう」
「あ、ありがとう」
頂きますと手を合わせてオールマイトが箸で少量ずつ口に運ぶのを相澤は時折横目で窺っていた。
おしぼりを包んでいたビニール袋が店内の空気を攪拌するサーキュレーターの向きで変わった風の流れに乗ってふわりとテーブルから落ちる。胡座を掻いている相澤の足元に飛んだので、オールマイトが拾おうと手を伸ばして視線を遣った。
(……あれ?)
黒いスニーカーソックスが覆わない相澤の左足の肌色の内側のくるぶしの上に何か付いている。
「相澤くん、それ汚れ?」
おしぼりの袋を拾ったオールマイトに指を差されて相澤が何のことかとそちらに目を向けた。
「ああ。刺青です。猫の」
「ねこ」
よく見るとそれは確かに汚れではなく横を向いた黒猫の姿に見える。百円玉くらいの小さなものだったけれど、オールマイトは相澤にそういう趣味があるとは全く知らなかったので失礼とは思いながらもまじまじとその猫ちゃんを見つめてしまった。
「相澤くん、タトゥーとか好きなんだ?」
「いえ。痛いのは嫌いです」
「……じゃあ思い出の猫ちゃんなの?」
「違います。あー。これはなんていうか、ドッグタグみたいなもんで」
マイクとミッドナイトは昨夜のテレビドラマの話で盛り上がっている。
「ドッグタグって認識票のこと?」
「そうです」
「……なんで?」
刺青とドッグタグが全く結びつかない顔をしているオールマイトに相澤は説明の手間と無意味を天秤に掛ける。アルコールが背中を押して秘密の明け渡しが選ばれた。
「捕縛布つけてると操作の邪魔なのでアクセサリーの類が装備できません。指輪とか、それこそドッグタグとか」
「ああ……」
繊細な操作が要求される武器ならば確かにそうだろう。納得して頷くオールマイトの耳に次に入ったのは、淡々と事実と可能性を告げる無表情な相澤の現実主義者の一面だった。
「アングラで活動して失敗すれば殺されるんですけど。死体って誰かわからないように顔潰されたり首飛ばされたりされるんで、そうなった時のために俺ってわかりやすくしとく必要があります」
「……」
「バラバラにされても判別すぐ付くようにここと、あと二箇所に同じ猫入れてます」
「……そう」
「食事時にする話でもなかったですね。すみません」
「ああ、いや、そうじゃなくて……」
グロい話を連想させたことを謝る相澤にオールマイトは上手く言葉を紡げない。
ヒーローは常に危険と隣り合わせ。それは間違いない。理不尽に奪われる平和を守るために命を懸ける場面も当然あるだろう。
オールマイト自身も、もう駄目かもしれないと思う時は何度もあった、あったのだが。
自分の死をこんなにも突き放して考えている相澤にどう声を掛けていいのかわからなくなってしまった。
相澤とて死にたがりの特攻を生業としている訳ではない。あくまで可能性のひとつの、自分が死んだ後の周りの手間を減らすためだけに猫を刻んでいると言ったのだ。相澤の合理的な考え方のひとつであると言われれば異論があるはずもなく、それもまたヒーローとしての覚悟であることに間違いはない。
運ばれてきた大きな半身の焼きホッケはテーブルの真ん中に置かれた。
背骨を外してめいめいが小皿に取り分ける中、箸を伸ばさないオールマイトを相澤が見上げる。
「食べないんですか、オールマイトさん」
「え? あ、うん。食べるよ」
脂がのってて美味しいわねとミッドナイトが感想を言う。ぱくぱくと何度もミッドナイトの箸が皿とホッケを往復する間も、オールマイトは何かを考え込むように箸を握った手をテーブルの上に置いたままだった。
明日も平日だからと遅くなることもなく店の前で解散すれば、家の方向が同じだからと相澤はオールマイトと並んで歩き出した。
結局ジョッキで五杯くらい飲んだ相澤は千鳥足とは行かないまでもやっと真っ直ぐ歩けるといった程度で、送っていってあげた方が良いだろうかと半歩前を行く相澤を斜め後ろからオールマイトは心配そうに見遣る。
捕縛布と全身を覆う黒いヒーロースーツの下に相澤が隠している秘密の切れ端だけを晒されて、どうにも心が落ち着かない。
「オールマイトさん、全然食べてませんでしたけど腹減ってないですか」
「ご飯とお味噌汁と君が寄せてくれた玉子焼きを食べたよ」
「ホッケ食ってなかったです。美味かったのに」
「なんかお腹いっぱいになっちゃって」
「俺のコレ見て呆れたからですか?」
くいっと相澤が左足を上げて内側のくるぶしをオールマイトに示す。
「呆れるなんてとんでもない。ただ、君の覚悟に私は随分と甘ちゃんなんだなと思ってただけさ」
「単なる適材適所でしょ」
「君らしい言い回しだ」
「ヒーローっていう原資は限られてるんで」
じゃあ俺こっちなんで、と相澤が交差点でオールマイトとの進行方向とは別の道を指した。
「……ねえ相澤くん」
それはほんの、興味本位の一言だった。
「君のその黒猫ちゃんあと二箇所に入ってるって言ったけど、それって誰が知ってるの」
だって認識票ならば、名前と所属が書いてある。猫の刺青のある首無し遺体には名前も所属も書かれていない。それが相澤だと判別できるのは、刺青の位置を知る人だけだ。
「……俺の裸に興味あるんですか?」
問い返されて、オールマイトはさっきの質問がそういう意味に捉えられるとやっと気付いて真っ赤になる。
「そ、そういうわけじゃなくて!」
「オールマイトさんのえっち」
にやりと笑って相澤は青信号を渡って行ってしまった。
酒癖が悪くて面白くて無防備なんてとんでもない。
「えっ……違う! 相澤くん違うよ!」
裸が見たいとかそういうヨコシマな意味では決してなく、さりとて相澤の裸を見たものが複数人いるかもしれないという事実にもやつく胸を見過ごすこともできず、オールマイトは遠ざかる相澤の背を見つめながら胸に巣食った理解不能の感情を握り締めて立ち尽くした。