この恋にのめり込むには世界に平和が足りない【オル相新刊サンプル】 相澤の元にその依頼書が届いたのは、十月の末のことだった。朝、事務所に着いて直ぐに郵便局員が速達を届けに来た。
机がひとつだけのがらんとした事務所は来客をもてなすだけの家具もない。前の借主が残していった壁にかけられたままのよくわからない絵が一枚、カーテンもない窓からの陽射しに負けて色褪せたまま飾り続けられている。興味がないから外さない、それだけで。
座面のスプリングが経年劣化でへたり軋んだ音を立てる昔ながらのグレーの事務椅子の背を引き、前屈みに腰を下ろすと相澤は封筒を再度裏返した。封筒の裏面の差出人は警視庁である。宛名がイレイザーヘッド様と記されている時点で、依頼書以外の何者でもない。違反通知ならば所轄の警察署から連絡が来ることになっている。
相澤は机の引き出しからカッターを取り出し封を切る。中にはA4の書面が一枚。
情報秘匿のために簡素化された文面から推測するに、中期又は長期の潜入捜査の依頼のようだった。
書面の最後に手書きの付箋が添えてある。
『申し訳ないが、受けてもらえると助かる』
右に風に吹かれたように流れる癖のある字の持ち主は自らの名前を塚内と記してあった。
相澤は説明会の日時を確認して書面を封筒に戻す。
今日手紙が着くことを想定しての、今日の午後の呼び出しだ。こちらが事務所にいないという可能性が思案の外なのか狙ったものかはわからないが。
塚内には色々と恩がある。勿論この街でヒーローをやる上で幾度と無く返したつもりもあるけれど、指名で助力を請われては話くらいは聞かねばなるまい。
この個性が役に立つかどうかは、話次第だが。
ドォン、と爆発音と共にビルが揺れた。窓ガラスが震えてガタガタと音を立てる。窓に駆け寄り、土煙の舞い上がる位置を確認して窓を開けた。捕縛布を掴んで伸ばし向かいのビルに飛び移る。
プロヒーローイレイザーヘッドの十月二十八日はこうして始まった。
「失礼します」
受付でヒーロー免許証の提示を済ませ、案内された会議室Cのドアをノックして開ける。
整然と長テーブルが三列に並んだ部屋の一番前、ホワイトボードの前に立つのは塚内だ。そしてもう一人、相澤の知らないヒョロ長い金髪の男が相澤に背を向けて、つまり塚内と向き合うように座っていた。
「イレイザー。すまない。よく来てくれたね」
相澤の入室に気付き、塚内が軽く手を挙げる。金髪の男も振り向き、相澤を見て微笑むと軽く会釈をした。やはり初対面でいいらしい。同じように頭を下げて相澤は塚内が示すまま、金髪の男の隣に座った。
長テーブルに椅子は二つずつ配置してあるから、隣とは十分に距離が保てているはずなのに妙に近い。頭の位置は座っても見上げなければならないから、相当身長が高そうだ、と不躾にならない程度の視線で探る。すると男はもう一度相澤を見つめてにこりと微笑んだ。
(……この程度でも視線には気付くってことか)
ここに呼ばれたということは、隣の男も関係した任務になるということで間違いあるまい。
相澤は手短な説明を求めて塚内を見上げた。
「イレイザーヘッド、まずは改めて。御足労願って申し訳なかった」
「いえ。で、内容は」
「子供を対象にした人身売買組織の潜入捜査を依頼したい」
「わかりました。概要を」
二つ返事で引き受ける相澤に塚内は苦笑して最後まで説明をしてからもう一度聞くよ、と告げた。彼自身の勿体ぶった言い回しが珍しく、僅かにこの案件の特殊さを感じたところで、先に紹介しておこうと塚内の手が隣の男に向けられた。
「こちら、八木俊典さん。オールマイト事務所の第二秘書室の方だ」
「……どうも。イレイザーヘッドです」
オールマイト事務所という名前と第二秘書室という単語は、判断に迷うところだ。
サイドキックと紹介されないということは、八木俊典とやらはヒーロー免許証を持っていない一般人、と受け取らざるを得ない。
名乗りながら相澤がもう一度頭を下げる。
「こんにちは。八木俊典と言います。宜しくね」
金色の髪と、後ろの長さと釣り合わない謎に長い二房の垂れた前髪。落ち窪んだ目の奥は澄み渡るようなあおい眼をしている。細身、というより元々がっしりとしていた体型だったのが病的なやつれ方をしたように見えた。
年齢は推測できない。少なくとも四十代ではあるだろう。五十代かもしれない。
「で、今回の任務は、同性同士で婚姻関係を結んだカップルだけが利用できる養子縁組制度を悪用した子供の人身売買の証拠押さえ、及び摘発なんだ」
「……同性の婚姻関係?」
同性婚は最早珍しいことではない。しかしながら生物の因果からは抜け出せないので同性同士での妊娠出産は不可能なままだ。男性同士、或いは女性同士で婚姻関係を結んだ場合でも希望すれば親のない子供を引き取ることができる。勿論、相当の審査が前提だ。差別はないと言いながらも男女ペアの場合より子供を授かる確率は低い。
「つまり」
ヒーローでもない男がここにいる理由。
相澤が塚内から視線を八木に移す。
既に説明されていたのか、特に驚くこともなく八木はどうかな?とはにかんで相澤に尋ねた。
(どうかな?もクソもあるか)
「当然正規のルートじゃないってことですよね」
八木の笑みを無視して相澤は塚内に眉を寄せて問いかける。
「ああ。合法組織の裏の顔だからね。高く売れそうな子供を高く買いそうなカップルに売りつけるのさ。芸を仕込んでね」
最後の一文を聞いた相澤の表情に侮蔑が浮かぶ。
「クソが」
「しかしながら、そういう組織なのでガードが固くてね。入籍して三ヶ月以上のカップルじゃないとそもそも土台にも乗せてもらえない」
「俺にこの人と結婚しろってことですか?」
「ああ。潜入捜査に適応のあるヒーローには皆断られてしまってね」
「入籍はわかりました。それは問題ありません」
相澤の返答に塚内は眼を丸くする。
「いいのかい。誰かご迷惑をかけてしまう方がいるのでは?」
「生憎人付き合いは少ない方なんで。惜しむ戸籍もありませんし。しかし塚内さん。この方、一般人ですよね」
「そうだよ」
「危険な任務になぜ一般人を巻き込むんです」
相澤の引っ掛かりが入籍そのものでは無く相手に向いたことに塚内はそうだなあ、と飄々と答える。
「まず、同性ヒーロー同士の結婚で子供を持ちたい、と考えるの実際問題なかなか希少過ぎて目立つ。二人とも一般人の潜入捜査では突発事由に対応が難しい。あとは、高く売れそうと思わせるためには、餌が必要なんだ」
「それが『オールマイト事務所』の肩書きですか?逆に怪しまれるのでは?」
「必要なのは源泉徴収票さ。社会的にきちんとした年収がある、ということを提示する必要がある」
「源泉徴収票には事業者名の印字があるでしょう」
「その点は問題ない。八木くんはオールマイト事務所で勤務をしているが、所属先は別会社なんだ」
「オールマイトは節税対策がご趣味で?」
相澤の口から思わず出た皮肉に八木と自己紹介した男はふは、と口元に手を当てながら笑った。
「そういうわけじゃないんだけど。まあ、こんな事態に対応できるってことでひとつ見逃してはくれないかい。オールマイトはきちんと納税の義務は果たしているよ」
「高級取りの一般人を駆り出さなきゃならんほどの任務ってことでしょう。あなた、それで良いんですか?下手すりゃ死ぬより酷い目に遭うかもしれないんですよ」
相澤の忠告に八木はいっかな怯む気配はない。当たり前のことだと言わんばかりにただ脅しにも似た言葉を真っ直ぐに聞き入れた。
「それも込みの高級取り、ってことさ」
「……ヒーロー免許がないだけのヒーロー気取りですか」
相澤が眉を顰めても八木は相澤をにこにこと見つめ返すだけで全く動じない。明らかに場数が違うのを感じてそれ以上の追求は無意味だと諦めた。
そもそも、塚内がここに連れて来ている時点でただの一般人であるはずがない。
「八木くんのことはこれからおいおい知っていってくれればいい。さっきも言った通り入籍してから三ヶ月の経過が条件なんだ。二人にはその間同居して貰うことになるから」
「は?」
脊髄反射の速さで聞き返した相澤に塚内はだから話は最後まで聞けと言ったろう、と嘯く。
「マンションは八木くんが用意してくれる。オールマイトのセーフハウスはあちこちにあるけれど、借主から足がついても困るからさ」
「百歩譲って入籍は構いませんが同居の必要はないのでは」
意を唱える声に塚内はゆっくり首を振る。
「イレイザー、そんな状態で腕を組んで子供の顔見せに参加できるとでも?」
「腕を組む必要がありますか?」
「仲睦まじくないカップルに敵が食いつくと思うかい。別に惚れろと言ってる訳じゃない。カップルを演じるために最低限の相互理解を、と言っているのさ。それに、裏取引に参加するためにはある程度の悪趣味が必要なんだ。まあそれは、違法にならない範囲で近くなったらレクチャー……独学でもいいんだがな」
言いたいことはわかった。わかったが。
相澤は根本的に受け入れ難い気持ちを残しながら八木を見る。しかし彼は元から全てを承知してここに居るのだろう。相澤を慈しむように細められた目は明らかな子供扱いで、反発心が口を滑らせた。
「わかりました。先と返事は変わりません。お受けしますよ、その依頼」
「ありがとう」
じゃあ早速、と塚内がテーブルの上の封筒から書類を取り出した。婚姻届と印字されたそれを見ても何の感慨も湧かない。
塚内は広げた紙をまず八木の前に置いた。八木はなんの躊躇いもなく背広のポケットからペンを取り出す。キャップを開けたそれは万年筆だった。
(……万年筆を普段遣いか)
やはり住む世界が違う高級取りは日常的なアイテムも違うな、と相澤は目の前のペン立てに放り込まれていた一本百円もしないような警察の備品の安ボールペンを手を伸ばして取る。
「はい、どうぞ」
隣から滑って来た婚姻届の夫の欄には八木の名前。空欄の妻の欄に無心で相澤消太と書き付けて相澤は書類を塚内に返した。
「じゃあこれ、証人の欄はこちらで埋めて、八木くんに提出して貰うから。イレイザーは八木くんのマンションに越して貰うけれど、今の賃貸契約は破棄しなくていい。三ヶ月分の家賃他はこちらで経費で見るから後で事務所に必要書類を送るよ」
「わかりました」
塚内は必要箇所を指差し確認しながら婚姻届を封筒に戻す。
「電気止めたりするなら引っ越し準備と手続きが必要だろう?私の方はいつから来てもらっても構わないけれど」
八木は慣れた口振りでまだ椅子に腰掛けたままで先に立ち上がる相澤を見上げた。
「荷物はほとんどありません。ガスと水道だけ元栓閉めに帰るだけですかね。手続きは電話で済みますし、今夜には行けますが」
「今夜」
驚いた目が見開かれる。少しは余裕を剥いでやれたかと観察していれば、それは良いと言わんばかりに両手をぽんと胸の前で叩いた。
「冷蔵庫の中身とか持って来る?ご飯作るよ」
「ご心配なく。自炊はしないので冷蔵庫に腐るものはありません」
「わお。ねえ塚内くん、この子結構変わってる?」
「コメントは控える。それは君自身でこれからゆっくり確認してくれよ、八木くん」
八木くん、と名前を強調して塚内は婚姻届の入った茶封筒を持って肩を叩いた。
「じゃあ、改めて宜しくね、相澤くん」
すっと八木が席を立つ。座っていた姿からも背が高いとは感じていたが、ぬっと上に伸びた長身は、平均身長以上の相澤が仰ぎ見なければならないほどだった。
差し出された手が握手を求めているのだと気付いたが、見下ろされる違和感にただ呆然と見上げることしかできない。
「これから籍を入れるのに苗字呼びはまずいだろ。慣れておかないとボロが出るぞ」
塚内のアドバイスに視線を遣り、それもそうかと八木は相澤に向き直る。
「じゃあ、もう一回ね。改めて宜しく、消太くん」
ずい、と目の前に大きな手が伸びる。
「……宜しくお願いします」
触れ合わせた手のひらはひんやりと冷たい。大人と子供とまではいかなくとも、明らかなパーツの大きさの差に目を奪われるばかりだ。
「じゃあ後は若い二人で仲良くやってくれ」
「何言ってんの塚内くん。君、私より若いだろ」
するりと手が解ける。
肌触りが妙に心地良くて、相澤はまだ絹が滑り落ちたような感触の残る自分の手のひらを見つめた。
「消太くん。連絡先の交換をしてもいい?」
「はい」
手を見るのを止めポケットから携帯端末を取り出しながら、電話番号も知らない相手と婚姻届を書いたのかと今更他人事のように思う。
任務のため。不幸に見舞われる子供たちを救うため。自分の苗字がいっときだけ相澤でなくなろうと、それは未来を守るためならどうでもいいことだ、と相澤は心の底から思った。
八木からのショートメールに記された住所を地図アプリに入れ電車を乗り継ぎ現地付近に辿り着いて、相澤はしばらくこれから自分が中に入る高層マンションを首の後ろが痛くなるまで見上げることしかできなかった。八木も背が高かったが住まいも漏れなく背が高いらしい。
几帳面に建物名まで記された文字列の後の数字が部屋番号を示すなら、何階建かぱっと見はわからないこの聳え立つ建物の上層階であることに間違いはないようだ。
「……行くか」
他人との同居など上手くやれる気もしないが、これも任務のため。ある程度の関係性を築く必要があるから仕方がない。自分にそう言い聞かせ、相澤は小脇に抱えた寝袋を抱え直しマンションのエントランスを潜った。
インターフォンを押すと、ちょっと待っててという返事がスピーカー越しに聞こえる。鍵と自動ドアを開けてくれれば部屋になど行けるだろうに、心配性なのか八木はわざわざ下まで降りてきて相澤を出迎えた。
「いらっしゃい消太くん!待ってたよ」
「……今日からお世話になります」
寝袋と紙袋をひとつ持っただけの相澤の背後を見遣り、八木が不思議そうな顔をする。
「荷物、それだけ?」
「はい」
「……持つよ、貸して」
自然に差し出された手のひら、指の長さを見つめてしまう。
「消太くん?」
「あ、いえ。自分で持ちます」
八木はそれ以上強制はせず、相澤の少し前に立ってこっちだよと案内を始めた。複数機あるエレベーターの前で立ち止まるとウチに行くのはこれ、と指差す。他のエレベーターと見比べる。書いてある数字は停まるフロアを示しているのだろう。この場のエレベーターのどれよりも大きな数字の記されたサインを前に相澤は八木に見えないように溜息を吐いた。
場違いな場所で暮らすのはストレスでしかない。
八木はずっと口元に笑みを湛えたまま見上げる相澤の視線に気付きにこりと微笑み返した。
「消太くんは私のことが信用できないようだね」
「塚内さんの知り合いなら少なくとも悪い人ではないでしょう」
「評価ありがとう。でも私達はこれから親密な関係を構築しなければならないのだから、いつまでも仲人の塚内くんを間に挟んで会話をするわけにはいかないだろ」
「あなたの言うことはもっともですが、いちいち言い回しが長いです。もっと端的にお願いします」
エレベーターに乗り込み八木の長い指がボタンに伸びる仕草を見る。一番右上の数字を押す指先の、第一関節から先が軽く反ったカーブ。
(最上階かよ)
「あ。高所恐怖症?」
「違います」
「良かった。夜景が綺麗なところにしたんだ」
「興味ないですね」
「ドライな子だなあ……」
「子ってなんです。仮にもパートナーを演じるのなら子供扱いやめてください。そもそもあなたいくつですか?」
むっと不快感を露わにする相澤に八木はごめんと謝罪した。
「そうだよね、こんなオジサンとパートナー組まされて嫌だよね」
「別に嫌がってるわけじゃありませんよ。それにあなたは善意の協力者であって、どちらかと言うと協力させられてる立場でしょう」
「私は自主的に協力しているんだけど」
「一般人は自主的な協力で戸籍を提供しませんよ」
「人身売買に少し思い入れがあるだけさ」
揺れも振動もほとんどないエレベーターは表示状の数字をぐんぐんと上げる。あっという間に目的階に着き、開いたドアをボタンでキープして八木がどうぞ、と相澤の一歩を促した。
無駄に広い廊下が伸びる。
「うちはこっち」
降りた場所で立ち止まる相澤の後ろを通り抜け八木が先を行く。
「覚えてね、明日から君が帰って来る家なんだから」
「……はあ」
他人と暮らすのは慣れなくとも同居を承認したのは、そもそも帰って来られるかどうか自体が不安定だからだ。
「俺はアングラヒーローなんで、会社員みたいに規則的な生活してませんよ」
八木がドアを開ける。だだっ広いエントランスには馬鹿でかいサイズの革靴が一足だけ揃えられて置いてあった。よく見れば今の八木の足元はお洒落なサンダルだ。後ろ向きに脱ぎ揃える手間を省きながら八木はブーツを脱ぐ相澤を待っている。
同じように靴の向きを揃え、靴下が汚れていないか一瞬気になったが今更どうにもできないのでそのままフローリングの床板を踏んだ。
「お帰り、消太くん」
「……結構楽しんでます?」
うきうきを隠さない八木に相澤は呆れながら問い掛けた。
「そうだね。誰かと暮らすなんて想像もしてなかったからさ。すごく楽しいことになりそう」
「あー。さっきも言いましたけど俺、朝も早いし夜も帰りませんし、家にいる時間ほとんどないんで」
「あっそれなら私もさ。負けない自信があるよ」
「……はあ」
オールマイトの秘書は確かに忙しそうだという印象はあるけれど、そんなにも?と相澤は疑問に思う。
「この家にあるものは好きに使っていいからね。間取りは、ここがトイレでここがお風呂。洗濯機は乾燥までやってくれるやつだよ。君のヒロスってウォッシャブル?」
「洗えますが、汚れやすいんで手でやります」
「そう?キッチンはこっちね。冷蔵庫の中身も好きにしていいよ、って君自炊しないんだっけ?」
「スキルもありませんね」
「一人暮らしなんだよね?」
そう言いながら八木はテキパキとキッチンでコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ始めた。お湯が滴ると部屋中にコーヒーの香りが広がる。
それを尻目に八木はこっちだよ、と廊下の奥まで相澤を置き去りに進んで行く。
「消太くーん?」
「今行きます」
八木は人の話を聞いているようで聞いていない。マイペースの気が強いな、と判断しながら声の主を追った。
「ここ、君の部屋」
「……何故?」
君の部屋、と開けられたドアの向こうには八畳程の空間にベッドと机が置いてあった。他に作り付けのクローゼット以外家具のない簡素な部屋だ。腰高の大きな窓には紺色のカーテンが引いてあった。
「何故って。居るだろ?」
「あなたの寝室は?」
「向かい」
廊下を挟んだ向かいにもうひとつドアがある。ネームプレートなどは掛けられていない。八木はそのドアを開ける仕草をするつもりはないらしい。
「俺が今夜から来るとわかったのは昼間なのに、なんでベッドや部屋まで用意できるんです?」
単純な疑問をぶつけられ、八木は相澤の懐疑的な視線に納得したらしい。
「ああ。ここは元々ゲストルームさ。と言ってもお客さんなんか呼んだことないけど」
「……そうですか。せっかく用意していただきありがたいですが、俺は寝袋派なので」
相澤がずっと小脇に抱えた筒状の荷物の正体を教えられ、八木は今度こそ驚いた。
「えっ?寝袋?持参したの?」
「廊下で雑魚寝できればそれで良かったので」
「いやいやいや。床で寝ても疲れ取れないよ。誰が使う予定ないんだから、君に使って欲しい。ね、足りないものがあればなんでも言って。用意するからさ」
「……必要なものは自分で買います。お気遣いなく」
とはいえ、用意された部屋自体は有難く使わせてもらうことにする。紙袋と寝袋をベッド脇に置き、八木は相澤を連れてリビングへと戻った。
三人はゆったり座れそうな長いソファに壁にかけられた巨大なテレビ。ハイソサエティのモデルハウスじみた極端に家具の少ない生活感の薄い部屋を見回す相澤に八木がコーヒーの入ったマグカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「ブラックで良かった?好みがあれば教えて欲しいな」
「ブラック派です」
「そう。私は……」
八木の手元のマグカップは牛乳がたっぷり入ったカフェオレの色をしている。
「ご覧のとおり、ミルクたっぷり派さ」
そこでウインクをしてくる理屈がわからない。
「ひとつだけ約束をして欲しいのだけれど、私の部屋にだけは入らないでくれるかな」
「わかりました」
「あと君、忙しいって言ってたけど、私も多分君に負けないくらい忙しいからお互いそこは気を遣わないで行こう」
その瞬間、どこからともなくオールマイトの着信ボイスが響き渡った。八木が顔色を変えてソファの上に置かれていたらしい携帯端末を掴んだ。
(オールマイト事務所は主人の着ボイスが必須なのか?)
悪趣味だな、と喉元まで出かかった声を発しなかったのは、八木の表情から笑顔が消えていたからだ。
「というわけで呼び出しだ。今夜は帰れるかわからないから先に寝ていてくれ。折角君との初めての夜なのにな」
「なんですかその言い回し。オッサンですね」
「事実さ」
「……偽装結婚ですよ」
まさか夫婦の営みまで任務に含まれているとか言い出さないだろうなと困惑する相澤の肩にポンと手を置き、八木は既に相澤など眼中にないかのように大股で玄関に向かっている。
「出かけるなら鍵はテーブルの上、あ、それは君にあげる合鍵だからそのまま持っててくれて構わない。冷蔵庫の中に温めるだけにしてあるおかずがいくつかある。冷凍庫にはご飯もパンもある。好きに食べて」
革靴に足を突っ込み乱雑に爪先を床のタイルに打ち付ける所作を後ろから見ていた。
「……行ってらっしゃい、俊典さん」
何か気の利いたことを言うべきかと考えて、なんのひねりもない言葉しか声にならなかった。
ドアノブに手を掛けた八木がびくりと動きを止め、ぎこちなく振り返る。
「どうかしましたか」
「いや。名前で呼ばれるなんて久しぶり過ぎて新鮮な感覚だな、って」
「……名前で呼べと、指示が出ていますから」
「そうだったね。行ってくるよ、消太くん」
消えたはずの八木の笑みがまた戻っている。
「君も気をつけて。ちゃんと休むんだよ」
そう言いながら出て行く八木の後ろ姿がドアに隔たれ見えなくなる。
「……なんか調子狂うな」
やはり他人と暮らすのは落ち着かない。
玄関からキッチンに戻り冷蔵庫を開ける。小分けにされた中の見える入れ物が几帳面に積み重なった光景を眺め、側面に貼られたテープの上に書いた日付の一番古いものを取り出した。蓋を開けて確認する。茄子の煮浸しらしきものと、冷凍庫に入っていたこちらも一膳分にラップに包まれたご飯をレンジで温めて有難く頂く。
手持ち無沙汰にスクロールした携帯の画面では、オールマイトが都内の凶悪犯立て篭もり現場に突入したというニュースが流れていた。
きっと八木はこの案件の事務処理に呼ばれたに違いない。
「オールマイトに合わせて出勤してたら体もたねえんじゃないのか、あの人」
顔を見る限りあの肉の削げ方はダイエットとかそんな生半可なものではない気がしている。
敢えて聞くことでも忠告することでもないとは言え。
「美味い」
上品な和食というよりは素朴な家庭料理の味のする茄子は、噛むたびに汁をひたひたと含んだ実からご飯が進む味がじゅわりと滲み出た。
皿を洗って水切り籠に置く。用意された自室に戻り、紙袋の中から旅行用の歯ブラシセットを持って洗面所へ向かう。風呂との境は大きなガラスで区切られていて、湯船が丸見えだった。一人暮らしならいいとしても家族、しかも年頃の娘などには全力で罵られそうなデザインだな、と眺めながら歯を磨く。洗面台の横にぶら下げられた真っ白なタオルは高級ホテルのもののようにふかふかと柔らかく厚い。濡れた指先を軽く拭いて、歯ブラシをポーチにしまい部屋へ戻る。
携帯端末の充電器を壁面のコンセントに差し込んでもう一度先程の事件の進捗を確認すれば、ちょうどオールマイトが人質を窓から救出しだところだった。
「……この人もいつ休んでんだろうな」
答えのない独り言が胸の片隅に残る。
寝袋を広げ、ちらとベッドと見比べた。
使って欲しいと言っていた八木の顔を思い出す。仕方なく布団を捲ると相澤はゆっくりと沈み込むマットレスの慣れない感触に眉を寄せながら他人の匂いのしない寝具に横たわり目を閉じた。
チン、と壁の向こうから微かに音が聞こえる。
はっと目を開け、見慣れぬ風景に一瞬何処にいるのかわからなくなった。
「……っ、あ、そうか」
昨日相澤は潜入捜査のためにオールマイト事務所で秘書を務めている八木俊典と結婚した。親密な関係偽装のため同居を余儀なくされ、八木の家に転がり込まされた、というところまでを再度整理して心を落ち着ける。
ひとまずベッドから降りた。
体に疲労は残っておらず、目覚めも悪くない。自室のドアを開けると香ばしいパンの焼けた匂いに混ざってコーヒーの匂いも漂っていた。
裸足で廊下を進む。寝起きに時計を見るのを忘れたが、差し込む陽の加減で七時頃だと推測する。匂いと音は紛れもなくキッチンが発信源で、そこには昨夜急な呼び出しで出て行った八木が眠気も見せず朝食を作っている姿があった。
「あ、おはよう消太くん」
爽やかな笑顔に陽の光を受けた明るい髪色は、八木に朝が似合うことを相澤に教える。
「ハムエッグ食べられる?アレルギーとかない?」
「……俺のことは構わなくていいですよ」
「君のそれは遠慮?それとも立入禁止のサイン?」
朗らかな顔をして一直線に切り込む八木に相澤は頬を引き攣らせまだ半覚醒の意識を叩き起こす。
「私達はチームアップしてるんだから、目的達成のために相互理解を深めたいなあ」
「……ハムエッグ食べます。トースト二枚」
「承知した!」
正論を出されれば否とは言えない。
「消太くんは塩胡椒派?醤油?ソース?ケチャップ?」
「塩胡椒で」
「私と同じだね!」
喜ぶことか?と思いつつ、塩と胡椒をミルでフライパンの上に振りかけながら楽しそうにしている八木を見れば毒気を抜かれるようだった。
キッチンカウンターの上に置かれたトースターからチンという音と共に焼かれた食パンが跳ね上がる。
「あ、消太くんそのパンお皿に乗せてくれる?」
「はい」
隣に用意されていた白く平たい皿にパンを二枚取り出して重ねる。テーブルの真ん中には昨夜なかったマーガリンとジャムの瓶が置いてある。
「使うなら塗ってていいよ。冷めるとマーガリン溶けないし」
「わかりました」
ハムエッグの火加減を見ているのか、八木はフライパンの蓋を開けては閉めて相澤に視線を送らないまま指示を出した。椅子に腰掛けまだ熱いトーストに隙間無くマーガリンを塗る。先に焼けたらしいトーストが一枚、何も塗らずに別の皿で置かれていた。
「俊典さん、このパンには何も塗らなくて良いんですか」
「あ、私のはそのままで」
では、このマーガリンとジャムは使うかどうかもわからない相澤のために用意されたものなのだ。
「……他に何か手伝うことありますか」
「んー?じゃあハムエッグ持ってってくれる?」
「はい」
キッチンの内側に回る。差し出された二枚の皿のハムエッグの量が明らかに違った。片方はたまごがひとつ、ハムが二枚。もう片方はたまごがふたつ、ハムが四枚。見比べる相澤に皿を渡し終えた後、こっちが君のね、と八木は量の多い方を指差した。
「少食なんですね」
素直な感想を漏らす。八木は少し複雑な表情を浮かべて曖昧に笑った。それは何かを誤魔化すようでもあり、触れられたくない部分を濁す仕草でもあった。
「少し前に怪我をしてね。胃は取っちゃったし肺も半分イカれてるんだ」
なんでもないことのようにさらりと告げた内容が、そのまま流せるものでもない。は、と視線でだけ事の重大さを問い返す相澤に、八木はそれ以上の介入を、さあご飯を食べようという腹から出した声で打ち切った。
「昨夜、いつ帰ってきたんですか」
「ん?さっき」
「……寝てないんですか?」
「三十分くらい仮眠したよ」
「仮眠ですよね」
「心配ありがとう。事務所にはベッドもある」
「また出るんですか?」
「うん」
胃を取って、という言葉を頭に置いてみれば八木の食事風景に納得がいく。一口が小さく、意図的に咀嚼回数を増やしている。相澤の方が量が多いのに圧倒的に食べるスピードが早かった。
長身の割に不自然に細く見えるのも、病的と思えた眼窩の窪みや頬のこけ方も全てその怪我に起因するものか。
言いたがらないことを無理に暴くつもりもなく、相澤は納得しつつも、八木の勤務形態には首を傾げる。お前が言うな、と言われる可能性は頭から抜けていた。
「なら、帰って来なくてもそのまま事務所にいた方が」
「君と朝ご飯食べたかったんだ」
「……理解できません。有難いとは思いますが、俺は一人で何もできない子供じゃありませんよ」
相澤の反論にもっともだと頷き返して八木はただ笑う。よく笑う人だ。
千切ったパンを持つ手の甲に浮き出た血管を眺める。関節と関節の間が見慣れないほど長い指は、パンを口に運ぶ、そんな所作でさえ印象的だった。
「だって折角夫婦になったのに、何もかもが別なんてそんなのさみしいじゃないか」
「さみしいと感じる意味がわかりません。相互理解は必須であっても感情移入は不要です」
相澤はハムに崩した黄身をソースがわりに付けて食べた。黒胡椒の粒が沈む。
黄身の表面が白く膜を張る半熟の加減が好みだった。
「私は君と仲良くなりたいよ」
「……カップルに見える程度で構わないんです」
「今ならきっと、私だけがベタ惚れしてる年の差カップルに見えるだろうね」
「お幾つなんですか?」
「ヒミツ」
ぱちんと星が飛びそうなウインクを寄越したが、相澤はそれを白けた顔で眺めている。
「消太くんは二十五歳だったっけ?」
「ええ」
「雄英卒でそのままヒーローに?」
「そうですね」
「塚内くんが君のこととっても褒めてたよ」
「……警察の犬になったつもりはありません」
「あ、誤解してるな。純粋に人としてってことさ」
「評価は有難く頂戴しますよ。アングラは人のツテが何より重要になるんでね」
食べ終わった相澤にコーヒーできてるよ、と八木が言う。席を立ち、冷蔵庫の牛乳を確認してキッチンの中で見よう見真似で昨夜のカフェオレを再現してみる。昨夜コーヒーの好みで言い澱んだのは、怪我に話題を及ばせなくなかっただったのかもしれない。
ことん、と相澤が八木の右手元にカフェオレのマグを置く。表面の薄茶の液体を数秒見つめてから八木が立ち止まったままの相澤を見上げた。
まんまるのあおい目に見下ろす自分が映っている。
「……お好きなんですよね?カフェオレ」
何も言わない八木に意表を突かれつつ理由を述べれば、サービスを受けると思っていなかった側の顔が綻んだ。
「ありがとう」
「……いえ」
仕事柄、感謝されたり礼を言われることもある。そのどれもが危機を救ってくれたことに対する本音の言葉だ。礼を言われるためにやっているわけではないけれど、心からの声は心に沁みる。
だが、今の八木の声に出さない驚きからひっそりと歓喜に色変わった笑みへの表情の変遷は、相澤の胸に色濃く焼き付いた。
マグカップを両手に持ちあからさまに上機嫌になった八木にわかりやすい人だなと相澤は対面ですブラックコーヒーをちびちび啜る。
「昨夜みたいに私は基本、二十四時間勤務のようなものでね。バタバタうるさくすることもあると思う。でも、できるだけ君との時間は作りたいと思うんだ。仲睦まじくないと土俵にも乗れないみたいだし」
敵組織の狙いは金持ちの同性カップルに子供を高く売りつけること。
「そういや塚内さんが言ってましたね。悪趣味な芸とかなんとか」
「ああ。今すぐにでも根城に踏み込んで全員の首根っこを引っ掴んでタルタロスに収監してやりたいね」
「それはヒーローがやることです」
「……そうだけど。心意気ってことさ」
「捕まえようって気概で行ったらバレますよ。俺達の役割は証拠集めです。ヒーローの真似事はやめてください。あなたは一般人でしょう。現地では俺はあなたのボディーガードも兼ねることになります」
「私は一人でなんとかなるから、子供達を頼むよ」
相澤の作ったカフェオレを飲み干し八木はテキパキと食器を重ねて立ち上がる。
「それじゃ私は出勤するから。君も気を付けて」
「皿、洗っときます」
「いいのかい?すまないね」
そう言いながらすたすたと玄関に向かう八木の後ろをなんとなく追って相澤も廊下を進む。昨夜と同じ所作で皮靴を履き、今日は八木は茶色の書類が入っていそうな鞄を手に持ってドアノブを掴む。
そして振り返り、相澤に向けて挨拶をした。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「……昨夜も思ったけど、なんか新婚さんみたいで照れるね」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと行ってください」
「ふふ。ありがとう消太くん」
じゃあね、と手を挙げ軽く指を動かした笑顔の八木がドアの向こうへ消える。
「……なんで照れてんだ、俺まで」
新婚さんごっこなんか幼稚園でもやったことがないのに大人になったら随分とリアリティのある演技を要求されるとは。相澤は汗ばんだ手のひらを服に擦り付ける。自らも身支度して事務所へ出かけなければならない。
潜入捜査にかかりきりと言うわけにもいかないのだ。
「お疲れ消ちゃん!元気してるゥ?」
事務所のドアをノックもせずに開け、プレゼントマイクは手土産のどら焼きの紙袋を人差し指と中指の二本で摘んで、キーボードを打つ相澤のノートパソコンの隣にそれを置いた。
「何しにきた」
顔も見ずに用件を尋ねる。
マイクはそのまま机に腰を預け、長い足を惜しげもなく投げ出した。
「近所まで来たから。あとお前家帰ってないみたいだったからまたここに泊まり込んでんだなーって思っ……」
がらんとした事務所にはひと組の事務机と椅子があるだけだ。宿泊用の荷物は何もない。
「あれ?寝袋は?」
「今、夜間は潜入捜査の下準備やってる。家には三ヶ月くらい帰らんぞ」
「マジかよ。お前のゲリラ誕生日パーティーやろうと思ってたのに。わ。カレンダー十月のままかよ。捲れよ」
「パーティーなんかいらん。帰れ。さっさとラジオの収録でもしろ」
プロヒーローでありながら現役のラジオDJでもあるマイクは、この秋から新番組を持っている。滑り出しが上々なのかそうではないのかリスナーではない相澤にはわかりかねた。
貰ったどら焼きの袋に手を突っ込み申請書のページをスクロールして確定ボタンを押す。
入籍にまつわる諸々の手続きは塚内がまとめてくれると言っていた。本人のサインが必要なもの以外は極力事務ごとを引き受けてくれると言ってくれたのは救いでもある。
相澤の苗字が八木に変わったとしても、ヒーローの申請のあれこれはすべてヒーローネームで通すことができるのも有り難かった。
「次はシュークリームがいい」
「贅沢だなお前!たまにはお前が持って来いよ」
「担当エリアが違うのにわざわざ出向きたくない」
そこまで言ってから、マイクのエリアと八木のマンションが重ならずとも遠からずだということに気がついた。
だからなんだということもないが。
「……」
相澤はじっとマイクの顔を見つめた。
「なんだよ。なんかついてるか?」
「……いや」
潜入捜査についての情報漏洩は許されない。それが例え親友であろうとも、どこから何がヒントに繋がるかわからないからだ。
(……結婚したことは黙っとくか)
あっそ、で済ましてくれる友ではない。
根掘り葉掘り聞かれ、うざったく思う未来が想像できて相澤は一瞬話そうか迷ったことを思い直した。
「そっか潜入捜査かー。じゃあこっちの依頼はやめとくか」
やはり何の用もなしに来るやつではなかった。
「話だけなら聞く。スケジュールにもよる。無理なら他を当たれ」
ピュウ、と口笛を鳴らしてマイクがそうこなくっちゃな、とにんまりと笑った。
(こいつがこんな顔をするときは大体ろくなことがない)
しかし、困ってここに来ているのも事実。
爾して相澤は、マイクが持ち込んだ事件の概要を聞くことになった。
事の発端は、クラブで起きたらしい。
マイクのプロヒーロー以外の顔はラジオDJだが、夜のクラブで皿回し、こちらもDJと呼ばれる仕事で(ブースの中で機械をいじったりレコードやCDをチョイスしてフロアのバイブスを上げる仕事だ)、たまにそれ系の引き合いもある。相澤にはクラブそのものが魔の巣窟にしか思えないのだが、大抵は暗くてうるさい音楽がガンガンにかかった狭い建物の中で酒を飲んで踊り狂った男女が気の合う相手を見つけて夜の街に消えていくための場所であり、良く言えば音と酒に酔える場所、と言い換えることもできる。
過分に偏見を含んでいる気はするが、概ね事実でもあろう。
怪しく見えるがほとんどが健全な場所だ。酒を飲みすぎて羽目を外すのはクラブでなくてもあることだし、血気盛んな若者が酒の力を借りて暴力に訴えるのも同じこと。
問題は、その暗さと酒と秘密が似合う空間を利用して非合法の薬物や無許可個性使用が行われているということ。そしてそれは残念ながら珍しいことでもない。
だからマイクの話は良くあるそういう事件のひとつだと受け取る。
VIPルームでの乱交と聞いても、同意の上のただの乱痴気騒ぎであれば非難される謂れもない。
そこに、同意がないから事件なのだ。
「まだ日程の裏取り出来てないんだけど。VIPルームかどこかに主犯格で強制発情的な個性の持ち主がいると踏んでる」
「……ドラッグじゃなく?」
「被害者からは残留物が出てねえんだわ。部屋に入ってから何かを飲んだかって質問にも回答はまちまちで、飲んでなくても体がアツくなっちまったって話だし、フロアで酒に混ぜてる可能性多分薄いだろうな。注射痕も勿論ナシ」
「そうか」
部屋に入った特定の人間だけ対象にするなら、部屋そのものに仕掛けを施すか、見たり声をかけたり何らかの発動条件のもとに発情させているかのどちらかだろう。
「俺の潜入捜査の本番は少なくとも年明けだ。それまでは準備期間だから、何もなければ参加する」
マイクは相澤の返答にサンキューと礼を言いつつもやはり気になるらしい。
「で?言える範囲で教えろよ。随分と入念な準備が必要だな?」
ニヤニヤと笑うマイクに結婚したと告げたらきっと腰を抜かすだろう。滑稽だろうから見てみたくもあったが、相澤はにべもなくその質問を撥ねつけた。
「ペラペラ言えるか馬鹿」
「そらそうだ。気をつけろよ」
「……ああ」
じゃあな、と手を挙げマイクは自分の分のどら焼きをひとつ掴むとさっさと事務所を出て行った。
壁に掛かったカレンダーはマイクの言う通り十月のままだ。
相澤は仕方なく席を立ち、カレンダーの金具を押さえて一枚剥ぐ。厚い用紙の端が指を切った。
痛みより不快感が強い白い傷が走る。血も滲まず薄皮で留まったらしい傷を一瞥し、紙を丸めてゴミ箱に捨てた。
残り二枚になった軽い紙が左右に揺れる。
八木と結婚して、一週間が経っていた。
日付が変わる少し前、八木のマンションの一階のエントランスを潜る。オートロックを解除して静寂の中で自動ドアの開く音を聞きながら足を踏み出すと、背後からとたとたと駆け寄る足音が聞こえた。ドアが開いているうちに一緒に通るつもりかと相澤が一歩分右に避けて通路幅を広げれば、相手は追い越すでもなくぴたりと隣に付けた。少しだけ乱れた息に見上げることなく声を発する。
並ぶ寸前漂う香りで誰かは気付いた。
「お帰りなさい」
「君も。良かった、会えて」
見上げれば、必ず八木も見下ろして微笑みかけてくれる。こういう挨拶には仏頂面で返しているつもりだったが、昨日は笑ってくれたと喜ばれたので無理に畏まる必要もないかと自然に任せることにした。
「……そうですね」
八木のこのリップサービスは意図的なものかと思っていたが、暮らしてみてわかったことがある。どうも天然の人誑しの証らしい、ということだ。
なんでも、八木はアメリカにいた頃にオールマイトと面識を得て秘書をするに至ったと説明した。歯の浮くような日本人離れした言い回しはその時に習得したものなのだろう。
「ご飯食べた?何か作ろうか」
「パトロール前にゼリーで済ませました。食べようと思えば食えます。付き合いますよ」
「またゼリーかい?時短時短って、ちゃんと固形物を食べないとおじいちゃんになる前に歯が抜けちゃうぜ」
「爺さんまで生きてられるかわかりませんし」
「三十路で抜けたらどうするのさ。なら咀嚼力強化のために今日はお肉を焼こう。ちょうど昨日スポンサーさんから貰っ……て事務所で配られたお肉があるのさ」
八木の冷蔵庫にいつも食べきれないほどの食材が入っている理由がわかった。オールマイトがCMキャラクターに起用されている企業からの贈り物だけで相当なものになるだろう。全てを受け取っているのかと呆れもするが、なまものは断りづらいんだよね、と八木が独りごちたので全てを受け取っているわけでもなさそうだ。裏取引だ利益供与だと言い出されかねない世の中で、オールマイトは清廉潔白を貫けているのだろうか。
言葉途中の含みは謎のままだが、大方何かを思い出したりしたのだろう。例えば他の食材の賞味期限とか。
エレベーターのボタンを押す。
ブゥンと微かに箱が動き始める音がする。遥か上にある箱がするすると見えないところで地上に近づいている途中で相澤のスマートフォンが震えた。
着信ではなくメッセージアプリの通知用の振動だ。
ポケットから取り出して、ちょうど目の前でドアが開く。八木が先に乗り込み開ボタンを押して相澤が乗り込むのを待った。方向を変え、閉じたドアに向かって立ちながらアプリを立ち上げる。
モーション付きの絵文字が踊った。
「……」
「お友達?」
「あー、はい」
「えっ、恋人……?」
相澤のリアクションに八木が悲しげに呟く。
「違いますよ」
感謝の意を文字にして返信し相澤はポケットにスマートフォンを戻した。
「日付変わって今日誕生日なんで。腐れ縁だからマメにメッセージ送ってくるだけです」
「……誕生日?」
きょとんとした声が上から聞こえる。
相澤はそこでようやく八木を見上げた。軽く傾げられた首の、相澤を真っ直ぐに見つめる目がぱちぱちと何度も瞬きをしていた。
「えっと。誰の?」
「俺のですけど」
「消太くんの誕生日?」
「……はあ。二十六になります」
「何でそんなこともっと早く言わないの!!」
突然声を張り上げた八木に驚くが、そんな相澤の様子などお構いなしに八木は一人慌ただしく独り言を始めた。
「ケーキも予約してないしプレゼントも何も用意してない!」
「あの、何もいりません」
「そんなこと言わないで。折角パートナーになれたのに何も贈らないなんて私のプライドが許さない」
「そんなプライド捨ててください。俺は物を持ちたくないんです。だからこいつもそれをわかっててメッセージしか寄越さないんですよ」
エレベーターが目的階に到着する。
開いたドアの向こう側の景色を揃って眺める一瞬だけ沈黙が訪れる。八木が大股で箱を降りて玄関の鍵を開けた。
「……君はどうして物を持ちたくないの?」
「必要最低限で良いんです。後処理、面倒でしょう」
後処理という単語が何を指すのか悟って、八木は黙って目を眇めた。寄せられた眉の皺の深さに不快感を見る。
「君はもう少し、生きることに執着した方がいい」
「別に死にたいと思ってヒーローやってるわけじゃないです。でもこの仕事はいつ何があるかわからない。だから日頃から備えているだけですよ」
「君のその考えは頂けないな。大切にしているものはないの?」
「大事なものは全部頭ん中にあります。失いたくないもの、忘れたくないこと。モノってのは、記憶保持のための補助具に過ぎません」
「……なるほど」
議論の矛を収め、八木は上着を脱いでダイニングテーブルの背もたれに二つ折りになるように掛ける。
「記憶保持のための補助具、か」
「祝ってくださるのなら、言葉と気持ちだけで」
「なら」
八木は相澤の左手を取った。長い指が相澤の指一本一本の側面をマッサージする様に這う。
「パートナーになったというのに、忘れていたよ。君に指輪を贈らせて欲しい」
「要り」
「必要だろう?対外的に、アピールしなくては」
相澤の断り文句に被せるように強い言葉が降る。逆らう気力を押し潰す圧に相澤は怪訝そうな顔をして八木を見つめた。
素人が出せる気配ではない。
「……潜入捜査の時になら、付けます」
「それでいいよ。普段なら捕縛布の操作に邪魔だろ」
必要と認められる妥協点を口にすれば、八木はそれ以上の理解を示しあっさりと引き下がった。
それにしても、首に巻いたあれを咄嗟に武器だと把握できる人間は少ない。塚内が説明したか、それとも八木が自分で気付いたのか。どちらにせよ、繊細な操作の上で指輪ひとつも障害になることを即座に言い切れるだけの洞察力があるのは確かだ。
「今度買いに行こうね」
「適当で」
「駄目だよ」
綺麗な笑顔は拒否を認めない。
「きちんとしたものを、贈らせて」
「……」
ここで嫌だと突っ撥ねれば議論はまた平行線に逆戻り。指輪は、パートナーだとわかりやすくアピールするには重要なアイテムだということは納得できる。だからと言って、きちんとしたものである必要があるのか?という疑問は残る。
黙り込んだ相澤に八木は困ったように笑った。
「ねえ消太くん。パートナーにきちんとしたものを贈っている関係ってのは外から見て信用に値するだろう?」
「……そうですね」
「納得してないなその顔」
「いえ。納得しましたよ。大丈夫です」
「なら明日昼間、時間取れるかい?」
「はあ。良いですけど」
「仕事、中抜けできるようになったら連絡するからジュエリーショップで待ち合わせしよう」
自分の人生に一番馴染みのない単語と言っても差し支えない店名に今度こそ相澤は全力で拒否の姿勢を取る。
「嫌です」
「今いいって言ったじゃない?」
「俺がジュエリーショップとか有り得ません」
「お仕事だよイレイザーヘッド」
その言葉の組み合わせにぐっと言葉を飲み込んだ相澤に八木はお決まりのウインクをする。腹立たしいのに様になっているものだから怒りと感心とがごちゃ混ぜになってどの感情を表に出せばいいのかわからなくなった。
「事務所の経費で落とすので折半してください。領収書も」
「おっとそう来たか」
「仕事なんでしょう、オールマイト事務所の八木俊典さん」
どうにかして一矢報いたくてがむしゃらに放った攻撃を面白そうに受け止めて、八木はいけしゃあしゃあと言い放つ。
「どうせならそのままデートもしようか。予行練習だもの、付き合ってくれるだろう?」
「なんでそうなるんです」
「どこから見ても立派なカップルにならないと作戦が失敗しちゃうからさ!」
「遠慮します」
「つれないな消太くん」
「装備品を揃いで買う件については了承しました。それ以上は認めません」
ちぇー、などと言いながら残念な表情を浮かべてみせるが、それもどこまでが本気なのかいまいちわからない。
肉焼かないんですかと強めの口調のまま全く違うことを言えば、八木はそうだったそうだったとキッチンの中へ入っていく。
部屋に戻ってヒーロースーツを脱ぎ部屋着に着替えて戻って来た頃に用意されて始めた料理をテーブルに並べるのを手伝う。ついでにとどこからか出してきたワインボトルを手渡された。
「私飲めないんだけど、君はいける口なんだろ?捨てるのも勿体無いから飲んで欲しいな。勿論羽目を外さない程度にだぜ。パーティーもデートもダメならせめて乾杯くらいさせておくれよ」
八木の譲歩に相澤は仕方なく歩み寄る。
ワインは肉に合う赤だった。秀逸な喩えもできなかったが大層美味で、満腹とアルコールで見事にテーブルに寝落ちた相澤は自分を抱き上げる力強い腕と厚い胸板を夢現の中で感じた気がした。