【サンプル】砂糖菓子の罪と噓つきの罰【オル相】「おはよう相澤くん! いい朝だね!」
「おはようございますオールマイトさん。今日は曇りのち雨、降水確率は五〇パーセントです」
「傘なら持ってきた!」
鞄を掲げて折り畳み傘の存在をアピールして見せる。相澤はそうですかといつもの興味のなさそうな相槌を打ち、さかさかと小テストの採点を続ける。赤ペンが紙の上を走る音が心地良い。と思えば、リズミカルな丸が立ち消えてチェックばかりが記されるキュキュッという音と、少しの溜息。
(…………誰か聞かなくてもなんとなくわかるけど)
オールマイトは鞄を自席に置き、ノートパソコンを開くと電源ボタンを押した。椅子に腰を下ろして一息吐く。
(うん、大丈夫。ちゃんとやれる)
「相澤くん、昨日言われた書類のことなんだけど」
「テンプレート送ってます。入力して返してください。あとこれも作業お願いします」
こちらを見ずにがさりと突き出されたプリントの束はたった今相澤が採点していたA組二十人分のテストだ。
「オーケー。朝礼までにやっておくよ」
「点数入力は昼まででいいです。先に演習場の使用申請してください」
「わかった」
ログイン画面にパスワードを打ち込み、ブラウザを起動させて職員ポータルを開く。言われた通りの作業を行った。
「申請……、と」
入力事項の確認をしてから申請ボタンを押す。ちら、と視線を遣れば相澤の黒い頭がまだそこにいるのが見えた。
そわりと浮き立つ心を視線を逸らすことで何とか堪えようとする。
(落ち着け、私)
メンタルコントロールはどちらかと言えば不得手の方だ。未だに師であるグラントリノに諌められることもあるし、熱くなって周りが見えなくなることもしばしば。昔に比べればマシになったとは思うけれど、それでも深く心を動かされる出来事には引き摺られてしまう。
オールマイトは先日相澤消太に告白して振られた。
それが、客観的な事実である。
告白する前から脈がないのはわかっていたし、万が一なんて夢も見たけれど現実はあくまで現実だった。ある程度のことでは動じない相澤もオールマイトからの告白という事象には即対応が出来ず数拍固まっていたが、あー、とどう切り出したもんか、という低い間を持たすような声で気まずそうに相澤が後頭部の髪に手を突っ込んだ時、この恋が実らないことをオールマイトは悟った。
好意は嬉しいんですが、という此方を慮った語り口に今すぐその場を逃げ出したい恥ずかしさに駆られ、いいんだ伝えたいだけだったから此方こそ気を遣わせてごめんね、どうか今まで通りに接して欲しいと早口で相澤の言葉を遮ってしまった時、ぽかんとオールマイトを見上げた相澤が本当に申し訳なさそうに僅かに眉を寄せた仕草を見た。
泣いてしまいそうになった。
居た堪れない。
「ごめん。聞いてくれてありがとう」
その場を逃げ出して、なんで言ってしまったんだろうと激しく後悔しても口からこぼれてしまったのだからもうどうしようもない。
諦めなくては。相澤は返事をくれたのだ。この恋は実らないと。
だから、オールマイトは努めて昨日のまだ二人の関係に新しい振った振られたという肩書きが着く前のように振る舞った。
寧ろ相澤の方が全く何も変わらずにいてくれる。
(変えてくれるなって言ったのは私なのに、意識されてないって改めて突きつけられてるみたいで苦しいな……だめだだめだ、折角相澤くんがちゃんとしてくれているのに私がそれを崩してどうする!)
「オールマイトさん」
(しっかりしろオールマイト、相澤くんはただの同僚、ただの同僚!)
「オールマイトさん」
「――ッ! ごめん、何?」
内なる世界に入り込みすぎて相澤の呼びかけをしばらく無視してしまったらしい。呆れた視線が頬に刺さって痛い。
「もうチャイム鳴ります。行かないんですか」
とんとんと出席簿を指で挟み肩を叩く仕草にオールマイトは壁に掛かった時計を見上げてばびゅんと立ち上がる。勢いでキャスターのついた椅子が真後ろに吹っ飛び壁に当たって派手な音を立て跳ね返って暴れ回り、棚に激突してドサドサと積んでいた本が落ちた。
「アッ。だ、大丈夫! 自分で拾うから!」
「……先に行きます。片付けてからどうぞ」
「ご、ごめんね! すぐに行くから!」
まだ腕をつったまま片手で本を掴むと、寄って来たセメントスも拾い上げてくれる。ありがとうと言いながら受け取っているうちに相澤は有言実行すたすたと職員室を出て行ってしまった。
扉の向こうに消える後ろ姿すら愛おしくて、オールマイトは切り替えられない気持ちを頭を振って吹き飛ばした。
片手でも、簡単な料理はできるものだ。
元々、相澤のポイントを稼ぐための行為のつもりはなかった。振った相手からの手作り弁当は受け取る側からしてみれば気味が悪かろう。だが相澤の食生活はどうにかしたい。悩んだ末に自分がどう思われても構わないとオールマイトは四月から日課にしていた二人分の弁当作りを継続したいと相澤に申し出ることにした。
そもそも、今日も習慣で作ってしまった。一緒に仮眠室で食べる行動は慎むとしても、せめてこの栄養だけは相澤の腹に入れたい。
チャイムと共に机の引き出しに常備してあるゼリーパックを取り出そうとした相澤の前に弁当包みを滑り込ませ、周囲の目を確認してから耳元で囁く。
「お弁当だけは続けてもいいかな。君の栄養のことを考えて」
「……俺は構いませんが」
あなたはそれでいいんですか、と視線が問うてくる。
理由はどうあれ相澤の視界に自分が映るのは嬉しい。オールマイトは勿論さ! と拳で胸を打った。
「君の健康は生徒達の為になるしね」
大義名分はいくらでも作り出せる。生徒達の為、と言えば相澤はにべもなく否定せずに一考はしてくれるし、生理的嫌悪がクリアできれば利害は一致するはずだ。
「……そういうことなら、頂きます」
ぺこりと頭を下げ、引き出しに掛けていた手を外して相澤は弁当包みを掴んだ。にこにこしたまま動かないオールマイトを相澤が見遣る。
「行かないんですか?」
弁当を食べるということは仮眠室へ移動するのとイコールだった。昨日までは。
「今日は、ごめん」
学校とは言え二人きりになるのは避けた方がお互いに気まずくなくていいだろう。オールマイトの気の回し方は相澤の思うところではないのか、それとも本当に相澤はオールマイトに興味がないのか、そうですかと何の感情も読み取れない返事をした後、すたすたと職員室を出て行ってしまった。
オールマイトも席に戻り自分の弁当を掴んで息を吐く。
仮眠室は相澤が使うとして、ずっと昼をそこで過ごしていたから今更どこで弁当を食べていいのかわからない。勿論この席で食べたっていいが、相澤と別室で食べていたオールマイトがいきなりこの部屋で一人で食べ始めると変な噂になっても困る。自分はどう吹聴されても構わないが相澤に迷惑はかけたくない。そう思いながらそっと職員室を出て、人目がなく静かに弁当を広げられそうな場所を探して中庭の一角に辿り着いた時には既に昼休みも半分が過ぎていた頃だった。
(早く食べちゃおう)
ベンチに座って急いで弁当を開けたオールマイトの後ろ、背を完璧に隠す高さの緑の植え込みの向こうから女生徒の会話が聞こえる。
(私がここにいることに気付いてないな)
盗み聞きは趣味ではないが、耳に入ってくるものは仕方ない。
どのお菓子が美味しくてどの教科のテストが難しくて、移動教室で見かけた男の子がカッコいい。特徴からうちのクラスの生徒かな、などと推測するのも楽しい。会話の内容からヒーロー科ではなさそうだから、普通科だろうか、とご飯の梅干し色に染まった酸っぱい部分を食べる。
相澤が告げた午後から雨という予報の判定のために空を見上げた。雨の遠くなさそうな空の色と、肌を撫でる風の湿度。
「そういえば、イレ先さあ」
「イレ先? ヒーロー科の?」
「そうそう。あの黒くてもっさりしてる人」
(黒くてもっさり)
忖度のない形容にふふっと笑い、しかしながら耳は相澤の話題を聞き漏らすまいとしている。
「遠恋の彼女いるんだって?」
「へえ、意外。女に興味あるんだあの人」
「そりゃあるでしょ三十路の独り者なんて」
「仕事が恋人みたいなタイプじゃない?」
「それは言える。なんかどっかの先生らしいよ」
「職場恋愛!」
「雄英の人じゃないってば」
「しかしイレ先、毎日クマ凄いもんね。雄英ってめちゃくちゃブラック企業なんじゃない? 彼女に逢いに行けてるのかマジ謎」
「いくら給料高くてもねー」
「あっそれ何?」
「金平糖」
「なんでいきなり」
「なんか最近見かけて。キッチンカーとか出てるんだよ」
「へー。一個ちょうだい!」
「ん、そろそろチャイム鳴りそう。はあ。午後も頑張りますか」
「お腹いっぱいで寝そう。寝てたら起こして」
「やだよ」
きゃはは、と明るい笑い声を残して女生徒達は去って行く。足音と声色から判断できる人物は三人。
否、今処理しなければならない情報はそうではなく。
「……相澤くん、彼女いたのか」
教鞭を取っている遠距離恋愛の彼女。
カケラも気付かなかった。
間抜けなことをしたな、と思う。
恋人がいたのなら、想いを告げる勢いは多分つかなかった。相澤の幸せは、一毫たりとも邪魔をしたくない。もぐもぐと口の中で咀嚼していた食べ物を噛む力が徐々に遅くなる。
やがて完全に止まってしまった。滲む唾液とすり潰されたご飯が混ざり合うのに、どうしてかごくりと飲み下すことができない。
何かが詰まったわけでもないのに、一点を見つめたままオールマイトはしばらく動けなくなった。
体に合わせたように思考が止まっている。
ぽつ、と箸を持った手に雨粒が落ちる。
「……わ。濡れちゃうな」
動かなければと思うのに空を見上げ、頬にひとつ、またひとつと雨粒が落ちて流れるまま。
(私の代わりに空が泣いてくれているのかな)
自嘲気味に頬が動いて、固まっていた体はそれをきっかけに跳ね上がるように立ち上がった。
弁当箱に急いで蓋をして校舎まで走る。勝手口から中に入り、少し濡れてしまった服をハンカチで払うように拭ってから職員室に戻った。
「オールマイトさん?」
「ん?」
部屋の少し手前で後ろを歩いて来た相澤に呼び止められた。先程の動揺が残っているが生徒達が歩いているのが見えるので、冷静さを保っていられる。
「どうかした?」
「頭、濡れてますよ」
「……ああ。少し雨に降られてね」
服は拭いても髪のことは無頓着だった。窓の外の雨は本格的に降り始めている。
「仮眠室は明日からあんたが使ってください。俺が職員室にいます」
「だめだよ。そんなことをしたら」
「……したら、なんです?」
「なんて言い訳をするつもりだい」
毎日のように食事を共にしていた二人が突然別々に昼を取り出す行動なんて、特に聡いミッドナイト辺りが見かけようものなら嬉々として事情聴取されるに決まっている。主に相澤が。
「言い訳? 飯を食べる場所を変えることをいちいち他人に報告するする必要なんかないでしょう。大体あんた変な気を回し過ぎなんですよ。人に態度変えるなって言っておいて自分がそんな」
「……うん。そうだね。気をつけるよ」
「オールマイトさん」
「君には呆れられてばかりだ。しっかりしなくちゃね」
オールマイトは相澤に背を向け職員室のドアを勢い良く開けた。
「お疲れ様! 私が戻ってきた!」
ガヤガヤと人の中心に颯爽と戻っていくオールマイトを眺め、相澤は小さく舌打ちをする。それは誰にも聞きとめられることはなかったけれど、相澤の心には消化不良の澱を残した。
すぐに切り替えるのは無理だ。
そう悟ったものの、それでもオールマイトは態度を少しずつ告白する前の状態にもっていけるよう努力した。変に気負い過ぎず、かといって無意識に近づき過ぎず。ミッドナイトが時折二人の方を見透かすように眺めていたのには気が付いていたが敢えて触れずにいれば、ミッドナイトもまた口にも顔にも出すことなく流してくれた。
昼は一週間程別に取っていたが、文化祭が近くなるにつれ職員室の人の出入りが多くて相澤が仮眠がしづらいという理由で食後に仮眠室に移動してくるようになり、それならばもう全てのルーティンを元に戻して一緒に食べた方が打ち合わせも兼ねれるし良いだろうという結果に落ち着いて、結局のところ向かい合って弁当を食べている。
なるべく相澤を見ないように。意識しないように。
そう思えば思うほど相澤の方を向いている肌がぴりぴりと緊張しているのを感じる。
(恋を諦めるって、どうしたらいいんだろう)
オールマイトは人を愛している。世界の全てに笑顔があるように、悪事がなくなるようにと願う。
だから、こんな年齢になって突然降って湧いたこの不可思議な感情が恋だと自覚するまでしばらく時間を要した。芽吹いたのは多分春、雄英に赴任してすぐ。一目惚れだったのかもしれない。
したことがないからわからないけれど。
胸を焦がす感情、形容しがたいモヤつき、浮き沈みの激しくなる気分。それが相澤に対してのみ起こることから苦手意識の表れなのだと思っていた。グラントリノに感じる畏怖のような、指導的立場の者に対する潜在的な。
しかしあまりにも克服できず、状況は改善するばかりか気付かぬ坂道をぐんぐん下るように事態は悪化しているように思えた。
ひょっとしてこれは精神的な病かと首を傾げる頃、教室で生徒が読んでいた少女漫画が机から落ちて拾ってあげたことがある。今時の子はどんな漫画を読んでいるのか内容を見ようとぱらぱら数ページ捲ると、興味があると思われたらしく貸しますよと紙袋ごと手渡された。きらきらふわふわした絵に可愛らしい制服姿の少女とかっこいい同級生の男の子が出てくる漫画だ。
きっと、今までの自分ならストーリーをなぞって面白かったよと告げて返していただろう。だが、読み進めるうちにオールマイトを悩ませていた現象のヒントがそこかしこに散りばめられていることに目を見張った。
本を閉じて丁寧に紙袋にしまう。
漫画の通りならば、ひょっとしてこれは恋というものなのだろうかと思ったら胸が軽くなる気がした。
相澤に対する何もかもが解決などしていないのに、輪郭がつけば不安が減る。
(そうか。私は相澤くんが好きなのか)
形のない感情を縁取り、言葉でなぞれば思いは強くなる。
勿論、オールマイトは相澤を人として尊敬していた。赴任当初は嫌われているな、とは思ったけれどそれはオールマイトの教師としての出来が悪いせいだったし、思い返してみれば別に相澤はオールマイトを見下したり嫌っているわけでもなかった。
不必要な媚びも売らなかった。相澤は事務仕事のできないオールマイトに根気良くひとつずつ噛み砕いて丁寧にわかるまで仕事を教えたし、考え方が合わないところだけは本気でぶつかって来られたけれど、それ以外はぶっきらぼうで愛想がないだけで、それすらも人となりを知ればなくてはならない味に変わった。
(私じゃなくても私のように接してくれるであろう彼の真っ直ぐさを見習いたい)
芽生えて、自覚なく育ち、名前を付けて手のひらで包んで、それだけ。
いよいよ死を覚悟した時、頑張った自分に褒美をあげようと餌をぶら下げた。
(この戦いに終わって私がまだ立てていたら。彼に想いを告げよう)
そして、戦いが終わって。残り火も何もかも失ったこの体から情熱だけは消えなかった。
やっと二人で食事に行けたあの日、相澤がオールマイトに感謝を告げた。らしくないとは思わなかったが、酔っていると言い訳するところがまた可愛らしいと思った。
生徒に関すること以外の相澤の本心が聞けるのは貴重な機会だ。
礼を言われるようなことは何もしていないのに、とオールマイトは微笑する。生徒のため、全ては平和のため。生きる人々のため。
あとは、ほんのひとつまみの自分の欲のため。
だから口からこぼれた。
「君が好きだ」
あの瞬間の相澤の揺らいだ目を思い出せば、今でも胸が締め付けられる。結果がわかっていたとしても、迷惑になると知っていても、告げずにはいられなかった独りよがりな言葉だ。
ありがとうの代わりに聞いてもらいたかった言葉。
プライベートを知らないまま相澤に告げるべきではなかったという後悔は未だオールマイトの喉にべったりと張り付いている。
「お疲れ様。仮免試験どうだった?」
職員室で帰りを待っていると、ようやく引率組が戻って来た。ブラドキングは丁寧に土産の紙袋を休憩用のテーブルに出して食べやすいように箱を開けていた。
「二人不合格でした」
相澤はその様子を一瞥して一秒でも惜しいかのようにするりと椅子に腰掛けパソコンを立ち上げる。
「あー、そうか」
相澤の表情は変わらないようでいて、肌艶の悪さに疲労が良く見えた。
「再試験という形になると思います」
「カリキュラム組み直さなきゃ行けないか。補講は誰が担当するか決まってる?」
「いえまだ」
「なら私がやろうか」
「……人数分の講評、共有フォルダにアップしておきます。取り敢えずそれ見てから指摘事項まとめておいてもらえますか」
「ようイレイザー! 遠路はるばるお疲れちゃん!」
ガッと隣りからマイクが相澤の肩を抱く。触れられる距離感を許された親友という立ち位置を羨ましく思うと共に、オールマイトは会話の外に出るように身を引いた。
言われた通り、共有フォルダを開いて相澤の作業を待つ。
鬱陶しさを隠しもせずにしかめ面をする相澤のことなど意に介さず、マイクは無精髭の目立つ相澤の頬に指を突き立てる。
「愛しのジョークとは逢えたのか? ん?」
愛しのジョーク。
マイクの声が驚く程強く頭に突き刺さる。
相澤は心底迷惑そうに眉を寄せてマイクを振り払った。
「あいつの名前を出すな」
仮免試験で逢う。
(ああ。相澤くんの彼女って他校ヒーロー科の先生なのか)
「今回こそ受けたのかよプロポーズ」
「……プロポーズ?」
相澤に呆れられないよう、私情はなるべく挟まないよう仕事に打ち込めたつもりでも、矢継ぎ早に撃ち込まれた弾丸を防御無しで食らってオールマイトは思わず単語を繰り返してしまった。
独り言だったそれは耳のいいマイクに拾われ、そーうなんすよ! と賑やかな相槌で返される。
「こいつ、士傑高校のヒーロー科に馴染みの女がいて」
「やめろ」
「今回こそ婚姻届くらい持って来たのかあの子」
「マイク。冗談もいい加減にしろ。笑えない」
「ジョークだけに?」
「ぶっ飛ばすぞお前」
テンポの良いやりとりからオールマイトはフェードアウトした。
明確に、自分がショックを受けているのがわかった。相澤が結婚するかもしれない、その事実に自分でも驚く程打ちのめされている。
どんなに敵の攻撃を受けても揺るがず撓まず折れなかった心が、こんなにも簡単にくしゃりと潰れてしまうのかとオールマイトは動揺する自分を取り繕うために内線番号の一覧が敷いてあるデスクマットの緑を見た。
「……そっか。相澤くん結婚するのか」
言葉に出すと現実味が増す。
「やだイレイザー結婚するの? ジョークと? とうとう? 折れた? 折れたのね?」
「ミッドナイトさん!」
通りがかりか恋バナを聞きつけたのかどこからともなく現れたミッドナイトが相澤の後ろから肩に腕を伸ばして抱き締める。ふくよかな膨らみが肩から背に当たってむにゅりと変形しているのを見ても、オールマイトの頭は何も働かない。
「仕事したいんで離れて貰えますか」
「えー詳しく聞きたいわ、そのプロポーズの辺りとか」
「話す義理はありません」
「マイク、会場のスタンバイは?」
「三猿予約入れときまーす!」
「おい!」
「んもう、女を待たせるもんじゃないわよ。花の盛りは短いんだから」
つん、と相澤の鼻の頭をミッドナイトが人差し指で突いた。うっとおしげに顔を動かし相澤が呟く。
「じゃあミッドナイトさんはもう枯れてますね」
「なんですって⁈」
「すいませんが仮免不合格者の追試の用意があるので雑談はこれで終わってください」
真面目な仕事内容を出されると流石のミッドナイトも引く。雄英教師陣はやることはやる、少数精鋭を絵に描いたような集団だ。おふざけと真面目の線引きはできるし、それがわかっているからこそ相澤も一線を越えるまでは好きにさせているのだろう。
「定時の後は容赦しないわよ」
まるで悪役の退場時みたいな台詞を吐いてミッドナイトはブラドキングの土産をひとつ摘む。
「やだブラド、金平糖なんて似合わないものを買ったりしてどうしたの?」
「生徒に流行っていると聞いたのでな」
「敏感なのね。いいことだわ」
満足そうに呟いて自分の席へ戻って行った。
オールマイトは黙って何も変わらない共有フォルダの画面を眺める。
法を犯すことも道徳に悖ることもしたくない。他人の恋人に横恋慕することも、配偶者のいる者に恋心を抱くことも、あってはならないことという認識でいる。
ただ思うならば自由だ、本人に告げないで心の中で秘めているのなら。だが相澤は、オールマイトが相澤を好きだと知っているので。
(…………忘れてしまいたい、こんな気持ち)
自覚する前に戻れたら、良い担任と副担任でいられるだろう。生徒達の指導にも不純な気持ちを混ぜることなく集中できるだろう。
「オールマイトさん」
「……ああ、すまない。どうかした?」
「フォルダにデータを入れました」
「うん。ありがとう。すぐに見るよ」
どうしてもアナログの方がやりやすいこともあり、人数分の個別講評表を印刷ボタンを押してプリントアウトした。これに赤ペンで気がついたことをひとつずつ書き込んでいけば良い。
黙って作業を行うオールマイトを相澤が不規則に視線を上げて確認していることをオールマイトは気付いている。
結婚話が与えたダメージでも測っているのだろうかと少しだけ笑った。
相澤は気遣いのできる人だから、オールマイトに恋人がいることを黙っていたのを不誠実だと思っているのかもしれない。
やがてチャイムが鳴っても、相澤はキーボードを打ち続けたしオールマイトは紙の中のひとりひとりの当時の状況を想像しながら改善点を記していく。
「おいイレイザー、生贄の時間だぞ」
マイクが呼びに来た。生贄とは穏やかではないが、ミッドナイトの餌食になることを思えばその呼び名こそが相応しい。
「オールマイトも行きましょうよ」
マイクからの予期せぬ誘いにオールマイトは首を横に振った。
「私はこれを仕上げてしまうよ。君達だけで楽しんで来てくれ」
「えー、行かないんすか! イレイザーの惚気話絶対面白いっすよ!」
「惚気る原資がねえんだよ、俺に話を振るな」
(相澤くんの惚気た姿なんか見たら、私嫉妬に狂ってしまいそうだな)
我を失いそうできれば楽なのに、楽の先に未来はないからオールマイトはその選択肢を選べない。正気を保ったまま狂気に染まっていくのは慣れている。
相澤はオールマイトのものにはならない。
やがて他人のものになるのだから。
ぞわぞわと耳の後ろを黒い気持ちが這い回る。
手を伸ばせば届くなら、奪ってしまいたくなる。
「うん。行ってらっしゃい」
にこりと人当たりの良い笑顔を見せて書類に視線を落とし、それ以上の誘いを拒んだオールマイトを見てマイクは僅かに口を開き、すぐに閉じた。
「行くぞイレイザー」
「……行かないんですか、オールマイトさん」
首根っこを掴まれた相澤が小さく問い掛けた。
「うん。明日までにこれやっておくから」
視線を上げずに返された言葉に相澤がどんな顔をしたかオールマイトには見えない。
見てはいけない。
顔を上げたら、滲み出てしまいそうな嫉妬を抑えるのに必死だったから。焼く立場ですらないのに。
「おつかれーっす」
「お疲れ様です」
「お疲れ様。飲み過ぎないようにね」
からからと閉まる扉の音が聞こえるまでオールマイトは書面の同じ文字列を目でなぞり続けた。
とん、と扉が壁に当たる。
ようやく張り詰めていた息を緩めると、いつの間にか個人の机に配られていたブラドの土産の金平糖の包みが目に入った。手を伸ばして結び目を解く。中には色とりどりの綺麗な粒がさらりと入っていた。
頭を使う作業には甘味は有難い。
全く頭に入らない文章をリセットするために粒を摘んで口に含む。じわりと染みる優しい甘さを口の中で転がす。角の感覚を楽しんでいると、ある一点でほろりと塊が一気に溶けた。唾液に混ざってあっという間になくなってしまった。
(……こんな風に飲み込めてしまったら)
ジョーク。何度か耳にした彼女の名をオールマイトは知らない。西のヒーロー、そして教員メインとなればチームアップする機会もほとんどないからだ。
パソコンの検索窓に名前を打ち込もうして、エンターキーを押す指が途中で止まる。
(見たくない)
反射的にマウスを操作してブラウザを閉じた。
「…………だめだ、集中しないと」
オールマイトは頭を振って目の前の書類に向き合う。己の実らぬ恋心より大切にしなければならないものがそこにある。
相澤が研修で不在にした日、オールマイトは仮眠室ではなく以前見つけた中庭のベンチまで出向いていた。秋雨の続いていた天気がようやく晴れ、陽の光を浴びたくなったからだ。薄い青い空にうろこ雲が浮かぶのを眺めて弁当を食べる。
植え込みの向こうからはいつかの女生徒達の声が聞こえていた。きっと定位置なのだろう。だが、一人のその声は暗く沈んでいた。
「立ち直れない」
「どうしたの?」
「そっとしといてやんなよ。振られたんだって」
「エッ! あのバイト先のカッコいいって言ってた人⁈」
おや、彼女はヒーロー科の誰かにお熱だったのではなかったか。女心と秋の空かあなどとオールマイトが思っていると、話は思わぬ方向に転がっていく。
「忘れたい! もう全部! 好きだったこと!」
(わかるよ、名も知らぬ少女。君の気持ちは痛い程わかる。私も忘れてしまいたい)
喚く彼女を慰める術を持たない友人達はまあまあと声を掛けた後、そういえば、と小さく囁いた。
それは植え込みの裏のオールマイトにもぎりぎり聞こえるレベルの内緒話。
「金平糖のキッチンカーの話、前にしたの覚えてる?」
「うん」
「それ今関係ないじゃん~!」
鼻水を啜りながら悔しさを訴える振られた彼女をどうどうと諌め、訳知り声の少女が続けた。
「忘れさせてくれるらしいよ」
「は?」
「どうやって?」
「知らない。でも、そういう金平糖があるんだって」
「魔法か!」
「……個性じゃない?」
「忘れさせてくれる個性?」
「どこに出るの? SNSのアカウントとかある?」
「さあ……。でもこの前は駅前にいたみたい」
「もうなんでもいいから早く忘れたい! 放課後探しに行く! 付き合って!」
「はいはい」
(……忘れさせる、個性)
泣き止んだ彼女は黙々と弁当を食べ始めたらしい。そんだけ食べられるなら大丈夫だよと笑う友人にそれとこれとは別ですう! と強がる声をよそに、オールマイトは眉を寄せた。
(女子高生の噂話で終わるならいいけど、忘却の個性自体はあるんだよな。でも確か彼は今警察絡みの仕事をしていたはず。そもそも、程度によるけれど忘却自体は抹消ほどレアな個性でもない。ひとまず塚内くんに聞いてみようか……)
ポケットから取り出した端末で塚内に噂の内容を送るも、今のところ忘却の個性が無断使用されている事件の報告はないと返事が来た。
警察が押さえていないということは、噂か、或いはこれから事件になるかのどちらかだ。
「……食材の買い出しがてら、散歩してみようかな」
気分転換にもなるはずだ。
勤務時間を終え、すっかり日が暮れるのが早くなった空を眺めてオールマイトは雄英を出ると噂話に従って駅前へと足を運ぶ。身バレをしてしまってからというもの、取り囲まれるようなことはなかったけれどそれでも人が集まってきてしまうのは避けようがない。数人にファンサービスをしたところで、キッチンカーを探すどころではないなと買い物に頭を切り替える。
その時、視界に見慣れた姿が入った。
「あれ、オールマイト」
「やあ。買い物かい?」
芦戸と八百万と蛙吹が制服姿のまま駅前に続く商店街の入り口で何やらスマートフォンを見ながら話をしているようだった。
「うん。今日女子だけで映画見るからお菓子買いに来たの!」
「へえ、楽しそうだね」
「オールマイトも来る?」
「私は遠慮しておくよ。そうだ君達、金平糖のキッチンカーって知ってる?」
オールマイトの問いに蛙吹は首を傾げ八百万は存じ上げませんわと答えたが、芦戸だけはんー? と何かを思い出そうとしていた。
「なんかそれ最近誰かから聞いたなあ」
「金平糖ってキッチンカーで売るものですの?」
製法と販売方法が噛み合わないらしい八百万は考え込むように口元に手を当てたが、キッチンというより車での移動販売じゃないかしら、という蛙吹の推察に成程と手を打った。
「オールマイト金平糖食べたいの? 流行ってるもんね」
「やっぱりそうなのかい? この前職員室でもお土産で貰ったんだ」
「お菓子屋さん行くからあったら買って帰るね!」
「あ、そうじゃないんだ」
「どういうこと?」
まだ事件にもなっていないものを生徒を巻き込んで勝手に動けば、相澤に怒られる。さりとて派手に動けない自分よりは生徒達の方が街に根付かせた行動範囲は広いだろう。
「訳あって、そのキッチンカーの金平糖屋さんを探してるんだ。もし見かけたら教えてもらっていいかな。噂とかでもいいから」
「誰かSNSに上げてないのかな?」
オールマイトが目を見張る速さで芦戸はスマートフォンで検索を始める。人差し指で画面を何度もスクロールしながら、思惑外れの声を漏らした。
「ん。アカウントはなさそうだけど、キッチンカー自体の画像を上げてる人はいた。こんな感じ?」
そう言って画面を見せてくれる。それ自体はなんの変哲もないよくあるキッチンカーだった。派手すぎない装飾、目を引く特徴のないペイント。都会のオフィスビルの狭間でカレーを売っていると言われても納得できそうだ。
「目立たないね……」
「それでもこの辺だとあんまり見ないから、いれば気がつくと思うけど」
「そうか。ありがとう。買い物ついでにもう少し探してから帰ることにするよ」
「……僭越ながら。食材の買い出しでしたらご一緒しましょうか」
八百万の申し出にオールマイトがきょとんとする。荷物持ちなどさせるわけにいかないのに、何のための申し出かと思えば、そろそろ移動しなければ皆様のご迷惑になりますわ、と言う八百万の表情に周囲を眺める。
いつの間にか四人を取り囲むようにできた野次馬の壁に、隠密行動ができなくなった自分を改めて悟って、オールマイトは苦笑した。
「あっオールマイト、よかった、探してたんだ」
放課後、自主練のために解放していた運動場の鍵を閉めて校舎に戻る途中のオールマイトに息急き切って走ってきたのは芦戸だった。遠くから声をかけられ、立ち止まって待つと芦戸は全力疾走で駆け寄って来た。
「どうしたの?」
膝に手を付き片手をかざしてちょっと待っての仕草で全身で息をしている。その呼吸が整う前に、がさりとオールマイトの前に小さな紙袋が二つ差し出された。
「ん?」
「これ。例のキッチンカーが出てたって言うから急いで買いに行ってきた!」
「えっ。すまない、ありがとう。どこに?」
「今日は西公園の広場だった。お店の人に出店スケジュールとかも聞いたけど秘密が売りなんだって」
オールマイトは紙袋を受け取る。クラフト紙に模様も何もないそれを開いて中から覗き込むと真っ白な金平糖が何粒も透明な袋に包まれて入っている。内容量は卵ひとつぶんくらいだろう。
「お店の写真撮ろうとしたらそれもNGって言われたから、こっそり撮っちゃおうかと思ったけど結構見られてて出来なかったんだ。ごめんね。でもこの前検索した画像と車違ってたよ」
口コミだけで売ろうとしているスタイルが商売として成立しないわけではない。ただ、余計に広がるのを抑えるためと思えば合点もいく。
「その、お店の旗とか何かキャッチコピーみたいなものとか書いてた?」
「ううん。何屋さんか近づかないとわからない感じだったよ。雄英の子も何人かいたなあ。見たことない感じだったから先輩か他の科の人だと思うけど」
「そうか。ありがとう。いくらだった?」
「二つで千円」
「法外な値段というわけでもないね」
ポケットから財布を出して、オールマイトは千円札を一枚芦戸に手渡した。
「どうもありがとう。自分の分は買った?」
「ううん。今月ちょっとピンチだから見送っちゃった。美味しかったら次買うから教えてね!」
ばいばーい、と手を振って芦戸が走っていく。手を挙げてそれに応えていると、突然背後に人の気配を感じた。
「あんた何やってんですか」
「あ、相澤くん」
小さなコンビニの袋をぶら下げた相澤は胡散臭いものを見る目でオールマイトを睨みつけた。
「生徒と金銭のやり取りとかやめてください」
「ご、ごめん。噂になってる謎のお店で私の代わりに買い物してくれたから、その代金だよ」
「……女子高生が好きそうなものが好きなんですか?」
そういうわけじゃないけれど、まだ事件にもなっていないものをどう説明していいかわからないままオールマイトは曖昧に笑ってその場を切り抜ける。
「君はどこかへ出掛けていたの?」
「……ちょっと見回りしてただけです」
成程、ビニール袋の中身は猫の餌か。猫好きだと触れ込んだことは一切無いのに生徒達の間では相澤が猫好きだというのは周知の事実だった。オールマイトも最初それを生徒から聞いた時には意外だな、と思ったものの、見回りに行くと言い残し時折職員室から姿を消した相澤が敷地内に迷い込んだ野良猫を保護したり餌をあげたりする光景を何度か目撃したことがある。
(ストーカーじゃないよ、ちょっと気になって後はつけたこともあるけどスパイかと疑いかけたのは最初だけだし)
「……そうだ」
自分から傷口を抉る趣味はない。だが、後々の回復力のことを考えればどんなに痛くても綺麗に焼き切った方がいい。だからオールマイトは相澤に告げた。
「相澤くん、結婚するんでしょ」
結婚という単語を聞いた途端にやや上機嫌だった相澤の顔が一気に歪んだ。
「ごめん、怒らせるつもりはなかったんだけど」
「……その話なら」
「結婚式、する?」
「は?」
「相澤くんあんまりそういうの好きそうじゃないからお写真だけかな」
「オールマイトさん、あのですね」
「彼女さんと幸せそうな君を見ないと、私多分諦められそうにないんだ」
あの日振った相手にまだしつこく思われていると認知させることはしたくなかったけれど、完膚無きまでに叩きのめされないとこの諦め方を知らない体は納得してくれないだろう。
相澤が言葉を失っている。
当たり前だ。しつこい男は嫌われる。
「ごめんね。お式の日取り決まったら教えて。お祝い、すごいのするから」
そう言い残してオールマイトは踵を返した。相澤の返事は聞かなかった。
振り返れない情けない顔をしているのを絶対に見られたくなくて、早足でそそくさと歩く。石畳の横の紅葉した街路樹からはらはらと葉が落ちる。相澤が追ってくる足音はない。オールマイトはそのまま正門を出ると、街へ降りてタクシーを拾った。塚内がいる警察署の前で停まった車から降りて咎められることなく署内へと進む。
勤務交代の時間か、人の多い署内を挨拶を繰り返しながら歩くと向こうから玉川が歩いて来た。
「こんにちはオールマイト。塚内に御用ですか」
「うん。ちょっと調べ物をお願いしたくて」
「ではこちらへどうぞ」
案内された小部屋で椅子に腰掛けて塚内を待つ。一度離れた玉川はお盆に缶コーヒーを乗せて戻って来た。ぺこりと頭を下げて受け取る。そのタイミングで早足の足音が聞こえ、次いでドアが開いた。
「すまない、待たせたかな」
「いや。今コーヒーを頂いたところだよ」
向かい合って腰を下ろし、挨拶と近況報告もそこそこにオールマイトは紙袋をテーブルの上に乗せた。
「これ、忘却個性使用の形跡があるか調べて貰っても良い?」
単刀直入の用件に、塚内は先日のオールマイトのメールを思い出していた。
「この前の個性無断使用の事件の問い合わせと関係が?」
「関係があるかどうかはわからない。噂だと証明できれば安心するだけさ」
「わかった。検査機関に回しておくよ」
塚内は紙袋を掴んで手元に引き寄せた。
「そう言えばイレイザーは元気か?」
突然出された名前にオールマイトは先程のシーンを思い出してしまった。強張った笑いに塚内が訝しむ。
「何かあったのか?」
「いや。何もない。提出忘れの書類を思い出して勝手に肝を冷やしただけだよ」
「世界広しと言えど、天下のオールマイトの肝を冷やせるのはイレイザーくらいのものだな」
「……そうだね」
(相澤くんだけが、私の知らない私を呼び覚ます)
「じゃあ、後で結果を知らせてね」
「わかった」
警察署の外に出る頃にはすっかりと日も落ちている。寮のエントランスには今日は誰もいないようで、静かに部屋へ戻ることができた。階段を登っていると上からマイクが降りて来た。スーツも脱ぎ髪を軽く結い上げラフな格好だ。
「おっ、お疲れっすオールマイト」
「お疲れ様」
「見ましたよ、轟と爆豪の再試験指導書」
「気がついたことがあったら何でも言って欲しいな」
「いやいやいや、俺が指摘するようなことは特になかったですよ。めちゃんこ考えられてたんで」
「君にそう言ってもらえると頑張りの成果が出たと思えるよ、ありがとう。……っと、そう言えば」
オールマイトは仔細を伏せてマイクに金平糖のキッチンカーの話を尋ねてみた。ラジオDJという面も持っているマイクは、オールマイトとは違った世界の情報網を持っている。
「コンビニとかでも見かけるし金平糖が流行ってんのは知ってますけど、キッチンカーねえ。んー、ちょっとアンテナ張ってみますけど」
「あっ、他言無用で頼むよ。まだ確定でもなんでもないんだ。変に騒ぎにしたくないから」
「りょーかいッ!」
ぴっと敬礼のポーズを真似てマイクは下へ降りていく。辿り着いた自室で、オールマイトはベッドに腰掛けてポケットにしまい込んだもう一袋の金平糖を取り出した。
くしゃくしゃになった袋を伸ばしながらもう一度ゆっくりと観察する。袋の外側底面に賞味期限を書いたシールが貼ってあるだけで、販売製造者の類の表記が一切無かった。
(……そもそも法律違反、かな)
袋を開けて中を取り出す。小袋に入った金平糖は何の飾り気もない真っ白なものだった。この前職員室で食べた時はピンクや水色、黄色など見た目も華やかだったが、敢えてこの色で売っているのだろうか。もう少し観察しようかとオールマイトが袋を持ち上げる。すると、金平糖で隠れて見えなかった位置に小さな紙がついていたらしい。ひらりと舞い落ちた紙片を拾い上げて目を通す。
「色が変わったら食べ頃です。少しずつお召し上がりください。……色が変わったら?」
温度で色が変化する塗料があるのは知っているが、食品用も開発されたのだろうか? お口で溶けて手で溶けないなんて惹句のチョコレートがあったくらいだから融点の操作は簡単だとしても。
オールマイトは特許のニュースの記憶を辿りながら人よりも大きな自分の掌に袋ごと真っ白な金平糖を乗せて繁々と眺める。
息を吐いた瞬間脳裏に蘇る相澤の姿と、同時に締め付けられる胸。連鎖する記憶は幸福な感情を失恋の痛みで上書きして、相澤の隣に顔も知らない女性を想像させる。
忘れたくても忘れられないそれが、ふっと掻き消えた。
「…………ん?」
体に残るのはざわつきだけ。
(今何か)
ふと気がつけば白い金平糖は、黒く染まっていた。漆黒ではなくグレーに近い黒、その中に不規則な細い線で差し込まれた色は黄色、そして斑点のようにぽつりぽつりと浮き出る赤。
「……わあ。本当に色が変わってる。どういう仕組みだろう? すごいな」
相澤を思わせるカラーリングにオールマイトは苦笑する。
(私は本当に相澤くんが……)
その先の言葉が出てこない。するりと滲み出て来たくせに、行き止まりのように道がない。
「相澤くんが……?」
今、何を思って自嘲しようとしたのか。
靄のかかった頭の中を進めずにいたオールマイトの耳に届いたノック音。
「あ、はーい! 今開けるね!」
金平糖をポケットに突っ込みオールマイトはベッドから立ち上がった。ドアノブを回して開ければそこに相澤が立っていた。
「遅くにすみません。話があります」
「うん」
オールマイトは朗らかに笑って相澤を室内へ招く仕草を見せた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
相澤は浮かない顔をしてオールマイトの後ろをついてくる。座布団もソファもない部屋で、オールマイトはパソコンデスクの椅子を引っ張り出して腰を下ろすと相澤にはベッドを薦めた。
「それで話って何?」
「夕方のことです」
「夕方?」
聞き返すオールマイトに相澤はとぼけるなと言いたげに眉を寄せ大きな息を吐いた。
「結婚の話ですよ」
「えっ? 相澤くん結婚するの?」
オールマイトの返事に相澤が信じられないものを見る目で見返して来る。だがオールマイトにはその表情の意味がわからない。
「そっか! 恋人がいるなんて全然知らなかったな! 相澤くんプライベート全然話さないもんね。で? お式はいつ? お相手の方は? 写真ない? お顔見てみたいな! わあわあ、とっても楽しみだな! お祝い何がいい? 島?」
「あんたそれ本気で言ってます?」
怒りにも似た感情が滲んでいる。今の発言が何か相澤の逆鱗に触れたろうかとオールマイトは椅子から立ち上がらんばかりに盛り上がった気持ちを落ち着かせた。
(流石に結婚祝いに島は行き過ぎだったかな)
反省しつつ祝う気持ちは本物だと伝えようとする。
「島はもらっても困っちゃうか」
「そうじゃなくて」
空気を引き裂くようにオールマイトのスマートフォンの着信音が部屋に響く。画面に表示された名前につと手を伸ばした。
「ごめん、ちょっと出るね」
相澤も、垣間見えた名前の重要度に吐き出しかけた言葉を飲み込みひとまず頷く。
「はい」
耳に当てた回線の向こうからは塚内の声が聞こえて来た。相澤に表情を気取られぬよう背を向ける。
『オールマイト、今いいか?』
「うん」
『先程預かった品物の鑑定結果なんだが、忘却の気配はないそうだ』
「そう……じゃあ私の杞憂だね」
警察には『個性を把握する個性』を持つ者がいる。危険物等の診断が任務だから、こういう不確かな物を見てもらうにはうってつけだった。
袋にポケットの上から無意識に触れ、オールマイトは事件性の無さに安堵した。
『それがな』
「ん?」
塚内の電話は終わらなかった。
『忘却はないが、吸着があると』
「吸着? くっついて離れないってこと?」
『話を最後まで聞いてくれ。吸着の他にあともうひとつ、精神的に作用する力を感じると』
「精神的……?」
『つまり、対象者から何かを吸い上げて金平糖の中に定着させる仕掛けがしてあるってことだ』
「何かって?」
『それはわからん。だが、忘却の噂が出ている以上吸い上げられるのは記憶なんだろう。オールマイト、君それ迂闊に触ったりしてないよな?』
「……うん」
『その沈黙に嫌な予感しかしないんだが』
「色変わっちゃった」
『…………もう少しこちらで調べてみる。食べたり捨てたりするなよ』
「わかった。すまないね」
電話を切ったのに全くだ、という塚内のぼやきが聞こえた気がする。回線が切れたことを画面を見て再確認し、スマートフォンをポケットにしまった。
「ごめんお待たせ。えっと、なんだっけ。結婚祝いの話だよね?」
「オールマイトさん、またなんか事件に首突っ込んでます?」
相澤がオールマイトの誤魔化しを許さない目で睨みつけて来る。
「突っ込んでないよ」
「オールマイトは嘘をつかないんだろ」
「嘘はついてない」
「本当のことも言ってない」
「君にまだオープンにできる程情報が揃ってないんだ」
「事故かはともかく個性絡みでしょう。しかも明らかに被弾してる。今の塚内さんの電話だってその確認ですよね?」
オールマイトは観察眼の鋭い相澤を真正面から受け止めてはぐらかす。それができるだけの面の皮と胆力がある。最終的にどうあがいても覆せない実力差が。
「どうしてそう思うの?」
「……あんた、記憶に障害が出てるだろ」
最短で核心を突いてきた相澤にオールマイトは素直に感心した。部屋に来てからたった五分やそこらで自分の不調を見抜かれ、老いたなと思う。
「どうも、そうらしい、ってところだよまだ。私自身も何を忘れたのか把握できてないのさ」
両手を広げて肩をすくめて見せるオールマイトの前で、相澤が泣きそうに目を細めた理由がわからない。
「……君はわかるのかい。私が何を忘れたのか」
相澤の反応に、一筋の光明を見た。
泣かせたくないと咄嗟に伸ばしかけた手を見下ろす。何故そんなふうに自分の体が動いたのか、心が命じたのかわからない。
(これが、忘れると言うこと)
反射的な行為への違和感。不明な理由。
ぽっかりと白く塗り潰された、がらんどうの心の真ん中。
「相澤くん、知っているなら教えてくれ。不具合はなるべく最小にしたいんだ」
相澤は広げた足の上で手を組んでいる。自身の混乱を鎮めるように黙り込んでしまった相澤の表情は髪で隠れて見えない。
「本当に、忘れちまったんですね」
「……すまない、君に何か不自由があるなら」
「言っても信じて貰えませんよ」
「そんなことないよ。なんだい?」
はあ、と溜息が聞こえる。意を決したように上げた顔の黒い瞳は揺るがずにオールマイトを見据えた。
その真剣さにオールマイトも居住まいを正す。
「俺とあんたは、付き合ってました」
「…………私と君が?」
「はい」
「恋人?」
「……はい」
念を押すようにオールマイトが繰り返すたび、相澤は居た堪れないようにまた上げた顔を花が萎れるように俯かせる。だがよく見ればその肌は薄く赤く色付いていて、先程感じた手を伸ばしたい、つまり触れたいという欲が芽生えたのだ、と客観的に自分の心の動きを理解した。
「……なるほど」
だから、結婚の話を無邪気に喜んだ自分に相澤は怒ったのだ。自分という恋人がありながら、他人と結婚するという話はよく考えなくても失礼だし、怒られて然るべきだし、とても傷付く。
「ごめんね相澤くん。私はそんな大事なことを忘れてしまっていたんだね。すまない」
訳がわからないなりに謝罪を繰り返すオールマイトを手で制す。
「別に、いいです」
「良くない。恋人に忘れられたなんて私ならショックで死んでしまうかもしれない」
「あんたは死にませんよ」
「相澤くん。面倒かもしれないけれど、私の記憶が戻るまでどうかもう一度君のことを教えてくれないか。君の基本的なプロフィールの記憶に抜けはなさそうだから、そう、恋人のところを特に」
オールマイトは椅子から立ち上がり、相澤の前に膝を突いて手を恭しく取った。節くれだった大人の男性の手だ。だが、恋人なのだと思えば途端にその手すらとても愛おしく見える。
こんなにもすんなりと受け入れられるのだから、相澤が自分の恋人だというのは疑う余地がない。
驚いた顔も泣きそうな目元も想いを封じ込めてつぐんだ唇も何もかもが可愛らしい。
(……間違いない)
自分は相澤を好いていた。
「どうか私に君を愛することをやり直させてほしい」
そっと指先に唇で触れる。
しかしリアクションがない。不安になってそっと上目遣いで見上げれば、あ、とか、う、とか文にならないひらがなを単語で吐き出し相澤は何かを言いかけた口を目と同じくぎゅっと引き結んだ。
「……相澤くん?」
「いえ。なんでも、ありません。部屋に戻ります」
「待って、そもそも君、何の話をしに来たんだっけ? 夕方に出ていた結婚話って」
立ち上がり、オールマイトの話を遮るように相澤はそそくさと部屋を出ようとする。簡潔に要点をまとめながらあっという間に玄関に辿り着いてしまった。
「知り合いの女ヒーローと俺が結婚するってマイクやミッドナイトさんが決めつけていたのをあんたが間に受けて人の話聞いてくれないんで、それを訂正しに来たんですよ」
「それは、すまない」
「……いえ。俺も言葉が足りませんでしたから」
おやすみなさい、と相澤が小さく呟いて頭を下げた。そのままドアを開けて出て行こうとする相澤の肩を掴んで引き留めた。
相澤がはっとオールマイトを見上げる。オールマイトは、引き留めた自分の手を、理由がわからない顔で眺めている。
沈黙の中視線だけが絡み合う。
「……っと、ごめん」
「い、え」
「えっと。触れても、いいかな?」
オールマイトの問いかけに相澤は明らかに動揺した。
(きっといつもと接し方が違うから、相澤くんも混乱してるんだな。なるべく彼の心を乱さないようにしないと)
触れた手を離した方が良いとわかっていても、手のひらから伝わる相澤の温もりがこんなにも離れがたいものだと思わなかった。離れるには強い意志がいる。
「君の嫌なことはしたくない。恋人という位置を許されていたようだけれど、今の私には、君が何を許してくれていたのかもわからない。だからひとつずつ確認させて欲しい。君にしてみたらもどかしかったり面倒なことばかりかもしれない。でも」
「……あんたにされて嫌なことは、多分ありません。お好きにどうぞ」
「なにそれ殺し文句が過ぎない?」
オールマイトの口調に相澤は一瞬苛立ちを見せるも、すぐに頭を左右に緩く振った。
「本心、です」
「…………私、なんで君のような素敵な人とお付き合いしていること忘れてしまったんだろう」
「原因は、塚内さんがご存知なのでは」
「いや、事象の大筋は掴んでるんだ。私が気にしているのは、失われた記憶が何故君との交際に関わる部分だったのか、ってことさ」
「それは…………あんたが忘れたかったから、じゃないですか」
掠れた声にオールマイトは相澤の二の腕を掴みその体を抱き寄せた。許可を得なければ触れないと言った舌の根も乾かぬうちに。
でも、今抱き締めなければ相澤の傷は癒せないと勝手に腕が伸びていた。相澤は僅かに体をこわばらせたが、黙ってオールマイトの腕の中で身を寄せている。
「私は君が好きだよ。それはわかる。だってお付き合いしているという事実をさっき聞いたばかりなのに、君に触れたくて仕方がない。君への感情のベクトルがすんなりと自分の中に落とし込める。違和感がない。こんなに君を好きだったことが感覚でわかるのに、君を忘れたいと私が願うのかな」
「あんたの頭ん中なんか俺はわかりません」
相澤はそっとオールマイトの胸に手を添え、抱擁から抜け出ようと押した。
「それこそ、俺の結婚話にあんたがショック受けてた……いやそれもわかりません。俺の自惚れかもしれませんし」
「恋人が他人と結婚するって聞いてショック受けない人いる?」
オールマイトが首を傾げて相澤の顔を覗き込めば、跳ね返すだけの説得力を持つ言葉を吐き出せなくなった相澤が視線を逸らした。
「……それは、まあ」
「明日、皆に事情を説明して他にも抜け落ちてる記憶がないか確認しないとなあ」
「あの」
「ん?」
「交際のことは、誰も知りません。誰にも言わないでください」
自分の体を抱くように片方の手で反対の二の腕を握った相澤を見てオールマイトは頷いた。性格上、他人に囃し立てられるのが嫌いなタイプなのはわかっている。さっきの結婚話もマイクとミッドナイトの名前が出ていたし、自分達の交際を知らないならば相澤が誰か別の女と結婚する噂を信じる可能性は大いにある。
「わかった」
「じゃ、また明日」
もう一度おやすみなさいと呟いて相澤がドアノブに触れた。オールマイトは半ば無意識に手を伸ばす。閉じ込めるように肩から腕を回して捕まえると相澤は心底鬱陶しそうに唸る。
「ねえ、帰したくないよ。君、戻ってから部屋で一人で泣いたりしない?」
「泣いて何か事態が好転しますか?」
「うーん、そういうところもそうなんだな君」
「は?」
「いや。迷惑をかけてごめん」
おやすみ、と束縛を解いてオールマイトは相澤の前髪を持ち上げ額にくちづける。
「……ッ」
「おや。私、おやすみのキスの習慣はなかった?」
目を丸くした相澤の、一番前に出てきた驚きと真っ直ぐにオールマイトを見つめた眼差しが愛おしい。
「もう寝ます」
問いには答えず、相澤はこれ以上オールマイトに捕まってたまるかと言わんばかりに逃げるようにそそくさと部屋を出て行った。
可愛らしい反応に湧き上がる笑みを堪え切れず頬をにやつかせオールマイトはポケットから出した金平糖の袋を小皿に乗せて冷蔵庫に入れた。季節は寒くなるだけだから室温で溶けたりはしないだろうが用心に越したことはない。
そのままベッドに戻らず机に向かう。
不自然に前後の抜け落ちた記憶を手繰ろうとしたけれど、全ては流れるように辻褄が合うように補完されているのだろう。
自分では齟齬に気付けない。
明日、根津校長に事情を説明してリカバリーガールに相談しよう、と決めた。