春はくちづけ【オル相】 感情は温度のような伝わり方をした。
「昨夜のパトロール中敵との交戦で周囲の人間に感情が伝わる個性事故に遭いました。最長で一週間程度と聞いています。色々ご迷惑をおかけすると思いますが宜しくお願いします」
相澤くんが朝礼で平然とした顔でそんなことを言うもんだから、その場にいた誰もが本当に?と思っていたと思う。感情がダダ漏れになるなんて大事件なのに、彼の心の声のようなものは全く何も聞こえては来なかったから。
距離の問題かなと最前列にいたマイクくんにこっそり耳打ちして聞いてみる前に、彼から何にも聞こえねえぜマイフレンド?と声を挙げてくれたから助かった。
「声が漏れるわけじゃない。嬉しいとか悲しいとか、そういう強い感情が伝播するらしい。だから、なるべく冷静であるように努めます」
前半をマイクくんに、後半を全員に向けて言うと、ぺこりと頭を下げて相澤くんは定位置に戻る。
朝礼の伝達事項はそれで終わりだった。
「大丈夫かい?」
出席簿を持つ相澤くんに声を掛ける。
ちろりとこちらを見た目は心配を迷惑そうにしている。しかし心配しているのは事実だ。視線を逸らさず見つめ返すと、ふわ、と胸の真ん中に不思議な暖かさを感じた。違和感が表情に出ると、相澤くんは必要以上のしかめ面になってさっさと歩き出してしまった。
「先に行きます」
「あ、うん」
遠ざかる足音はいつもより大股で早い。職員室のドアを出て行く相澤くんの背を見送りながら、私はそっと胸に手を当てた。
一箇所だけがほんのりと、僅かばかり違う他人の体温に触れたような温もりを持っていたのにそれはもう何事も無かったかのように消え失せている。
手のひらの下にあるのは私のぼろぼろの体だけだ。
「……さっきのが相澤くんの感情、かな?」
チャイムが鳴る。
「わっ」
とりとめのない空想を蹴散らして、私も教科書を持って急いで相澤くんの後を追った。
それから相澤くんと会話をしてもあの時のような不思議なぬくみを感じることはなくて、個性事故と言ったけれど相澤くんはあまりにもいつもと変わりがない。心配しつつも面白がることもあるマイクくんやミッドナイトくんですら、何も伝わらないことが不満なのか、本当にかかってるのかしら?などと言い出す始末。
「俺は玩具じゃありませんよ」
ムスッと腕組みをしてミッドナイトくんの背後に立った相澤くんは、連絡用の書類を井戸端会議をしていた我々三人に突き付けて席に戻って行く。
「だってよぉ、感情が伝わるっていうからこう……」
「好きな人のそばで抑えきれない気持ちが爆発してこっちまで一緒にキュンキュンできるのかと思って今か今かと期待してるのよこっちは!」
ミッドナイトくんの力説をスルーするかと思いきや相澤くんはギッと強く眉を寄せて怖い顔を作る。だけど私はそれよりも今のさらりとした発言の方が気になって仕方がない。
「相澤くん、好きな人いるのかい?」
「いません!」
語気の荒さと共にカッと胸が熱くなる。
(あっこれ怒ってるって感情かな?)
ちらりと横に視線を遣ると、ミッドナイトくんもマイクくんもなんだかお風呂に入っているみたいな幸せそうなとろけ顔をしていた。
(なんで?)
相澤くんの怒りはそんな表情を誘発するものだろうか?
「ミッドナイトさんは余計なこと言わないでください」
「えー。良い機会じゃないの」
ぶうぶう文句を言いながらもミッドナイトくんはしっかりと矛を収めた。釘を刺したということは、相澤くんに好きな人がいるというのは、おそらく事実なのだろう。
「そうか。その人とうまく行くと良いね」
にこりと微笑みかける。相澤くんは一瞬虚を突かれた顔をしてふいと顔を背けた。
「あなたに関係ありません」
「……それはそうだけど」
途端に胸の中に寒々しい気持ちが広がる。北国の冬の、どこまでも澄んで冷え切った夜の果てに細く尖る氷のような、手を伸ばせない気配。
「……んん?」
相澤くんに好きな人がいるのは私に関係ない。
それは、そうなんだけど。
この寒さと物悲しさは、相澤くんの感情なのだろうか?
「素直になれよイレイザー」
「うるせえ」
マイクくんの揶揄に威嚇で返す相澤くんの気安い関係が羨ましくないかと言われるとそうではない。
「いいなあ。私ももっと相澤くんと仲良くなりたいなあ」
勝手に口から溢れた独り言にびくりと反応したのはマイクくんの胸倉に向かって伸ばされていた相澤くんの左手だ。
「……は?」
何を言っているのかこいつは、と書いてある顔が私を見た。
「え?私、君に嫌われてる自覚はあるし合わないのも知ってるけど、君と仲良くなりたい気持ちはずっとあって……」
ぶわ、と冬の夜を春の風が吹き飛ばして行く。ほんのりとした熱は一番最初に感じたものに似ていた。
「キャッ」
視界の外でミッドナイトくんの浮かれた短い悲鳴が聞こえる。
相澤くんは、呆然と私を見ていた。
その表情からは何の感情も読み取れない。私にわかるのは、彼が混乱の只中に居ることと、この春のような、決して不快ではない、逆に踊り出したくなるような高揚感に満ちた暖かさがきっと彼から発せられるものだということくらいだ。
「……校長に呼ばれていたので失礼します」
二度ほど他の人の椅子の脚につんのめりながら相澤くんはよたよたと部屋を出ていく。
どういうことだろうかと振り返れば、ミッドナイトくんとマイクくんは黄金色の饅頭を前にした悪代官の顔をして、相澤くんが消えたドアと私の顔を交互に見てほくそ笑んだ。
首を傾げる私に、ミッドナイトくんはうっとりと胸を押さえて陶酔する。
「ああ……ッ!甘美!たまんない!一日一回浴びたい!徹夜しても肌艶にいい!絶対!」
「思ったよりドカンと来たぜ……」
マイクくんはサングラスを外し眉間を指で揉み始めた。ひと仕事終えた職人のような佇まいをしている。
「あっ二人も感じたの?あれ、やっぱり相澤くんの感情?すごくふわふわして今にも蕾が開きそうな春の気配だったよね」
「明日もお願いしますオールマイト」
ミッドナイトくんは感激しながらすっとこちらに手を伸べた。それはどんな意味を込めた握手なのだろうか。
「明日も?何を?」
「相澤くんをキュン死させて。それで生き存える私の美貌があるから」
「どういうこと?」
「自覚あり見てるだけで良い派と無自覚煽り派の会話からしか得られない栄養素があるのよ」
「何の話?」
「宜しくね!」
鼻歌よりも本格的な歌を歌いながらミッドナイトくんがひらひらと蝶のように去って行く。
「ねえマイクくん、今の何の話だったのかな。きゅんしって何?」
勢いだけが駆け抜けて、大事な情報を根こそぎ持って行ってしまった。残ったのはもう消えてしまいそうな春の気配だけ。
「んー、取り敢えず、キスしとけばオールオッケーじゃないすかね」
「……なんで?」
「それがわかる頃には、きっと恥ずかしくてできなくなってるからです」
「ええ?」
ますますわからなくて困っているとガラリとドアが開いて相澤くんが戻って来た。だけど、私とマイクくんが話しているのを見つけたらしい。
胸が暖かくなる。勝手に頬が緩む。
だけど相澤くんはすぐさまドアを閉めてどこかへ行ってしまう。
温もりは消えて、戻っただけのはずなのに何故か喪失感があって。しょんぼりした私にマイクくんは言う。
「仲良くしてやってください、あいつと」
今の仄かな熱が伝播したものではなく、そして殊更に意味深に強調されたナカヨクという四文字にすら当時の私は気付けずにいた。
小説で言うなら、まだ書き出しですらなかった。