そこには愛しかないですね【オル相】「……お前、恋人のプレゼントにいくらまで出せる」
マイクが耳馴染みのない密やかな声の質問に横を向けば、そこに座っていた親友の苦虫を噛み潰したような表情が目に入った。
恋人のプレゼントってそんな顔で選ぶもんじゃなくない?と返しかけたところで親友の苦悩の原因に気が付く。
「そうだなあ。何を欲しがってるかにもよるけどじゅうま……ん〜。時と場合によるな!」
幸いにもマイクはそんな高価なものをねだられた経験はないが、季節は冬でクリスマスの一連の流れを思い浮かべればプレゼントにディナーにホテル……と自分の想定の額を指折り加算してみた。一本ずつ折られていく様を見ていた相澤の顔がますます歪んで、マイクは途中で指を解いて白紙に戻すために手を振る。
「何?マイティにそんな高いモンねだ……られるわけねえか」
相澤の恋人のオールマイトは、世界一の金持ちと言っても間違いはないのでは?というレベルのスーパーセレブだ。身につけている服も奇抜なものではないから雄英の職員室の皆は気付いていないだろうがハイブランドの特注品で(勿論本人の高身長という理由もあるだろう)、相澤に値段の近似値の推定すら不可能だろうとマイクは思っている。
もとより服飾品に興味が皆無の男だ。クリスマスを前に恋人にプレゼントを贈ろうとして、何気なく調べたら 商品のゼロの数に青ざめたというところだろうか。
「逆だ」
「あー……」
相澤に、愛しの恋人への贈り物に関してリミットがなさそうなオールマイトの姿は想像に難くない。なんなら、マイクですら卒倒しそうなレベルのプレゼントがひとつやふたつやみっつくらい積み重なりそうな気すらしてくる。それを、オールマイトはとても無邪気に「相澤くんに似合うと思って」なんて無邪気さで差し出して来る仕草まで見たことがないのに見えてしまって、同じ方向を向いて椅子に座っていたマイクは相槌とも言えない微妙な声を出すので精一杯だった。
相澤は断じてケチではない。豪遊することに意味を見出さないだけで、必要なものは買うし恋人への贈り物だって勿論進んで買うだろう。
問題は、二人の金銭感覚がとんでもなくズレているということだけだ。オールマイトだって浪費家のようには見えないし、剰え倹約家ではないだろう。しかし金銭感覚のズレは甘く見てはいけない、破局の原因にもなり得る重大な事由だということをマイクは知っている。お互いに思い遣る二人が、そんな相手への愛から派生する行為ですれ違うなんて悲しいことは避けなくてはならない。
特に相澤は高いものを貰ったら喜ぶどころかお返しを考えたり、好意を返って負担に感じるだろう。だからこそクリスマスを前にこんなにも苦悩に満ちた表情を浮かべているのだと、親友の苦労を想像してマイクは労りのために軽く肩を叩いた。
「ま、頑張れよ」
「何をどうやって頑張れと言うんだ?」
「んー。まずサプライズは嫌いだってちゃんと言うところから始めて、プレゼントはお前が負担に思わない金額内に収めてもらえよ。もう具体的に五万以内にしてくれとか言っちゃっていいんじゃね?額は任せるけどよ。あとあげる方で困ってんならそれも素直に聞いた方喜ばれると思うぜ」
「……そうする」
アドバイスが悩める友人の役に立ったらしいとわかったのは、その日の夕方に自販機から買ってきた温かいコーヒーを差し出されたのを見た時だ。
「おっ?話したのか?」
「学校でするわけねえだろ。帰ったらな」
サンキュー、という去り際の小さな声。幸せになれよと咄嗟に出かけたお節介な言葉は無糖の黒と一緒に飲み込んだ。
そこまで言っちゃあ野暮ったい。
相澤が寮に戻るとエリが共用スペースのテーブルで絵を描いていた。画用紙とクレヨンがテーブルの上目一杯に広げられ、その様子を13号が見守っている。何の絵を描いているのか見ようと相澤が近寄ると、接近に気づいてハッと顔を上げたエリは慌ててテーブルの上の紙をひっくり返して隠した。
不意に足が止まる。瞬きは、ショックを和らげるための無意識の動作だ。
「お、おかえりなさい、先生」
愛想笑いで誤魔化された。
手の中のクレヨンすら握り込んで隠す仕草に相澤がちらりと13号を見る。エリから見えない位置のその苦笑は、先輩に見られたくないものなんですよと暗に教えてくれているしそれはエリの所作からもとても良くわかった。
「ただいま。ご飯は食べたかい」
「はい。カレーライスを食べました」
「おかわりもしたんだよね」
「えっと、りんごがいっぱい入ってるって教えてくれたから……」
13号の声に、たくさん食べたことを恥ずかしそうにするので相澤はエリの隠した絵には触れず、たくさん食べたことを褒めて頭を撫でた。
「ちゃんと歯磨きして寝るんだよ」
「はい……!」
この状況では長居は無用だという自覚があるので相澤は素早くその場を離れた。見つからなくてよかったというエリのほっとしたような独り言が聞こえて来て、一体何を描いているのか気にはなったが13号が付いているなら変なものではあるまい。
女子には女子の何かがあるのかもしれないし、教える気がないのなら無理に暴くのは良くない。
相澤は部屋に戻る途中、それでもエリに面と向かって隠し事をされたという幾分憂鬱な気分と、そのショックで一瞬頭から消えていた気苦労の多い案件を思い出しオールマイトの部屋のドアを叩いた。先触れはしてある。はあい、という呑気な応えの後にドアが開く。
「お疲れ様」
迎え入れるオールマイトは相澤を視界に認めるとふわりと笑って部屋の中へ導こうとする。その誘いを断って相澤は玄関に立ったままオールマイトを見上げた。
「ん?すぐ済む話?」
「ええまあ。ちなみにまだクリスマスプレゼントって買ってませんよね?」
相澤の口から出た単語にオールマイトが予想していなかった展開だと呆けた顔をする。
「うん。候補はいくつかあるけど、何か欲しいものができたの?」
あるなら教えて欲しいなということを素直に真正面から言えるこの姿勢が妙にこそばゆくて相澤は僅かに唇を尖らせた。拗ねる理由はどこにもないのに。
「いえ。そうではなく。希望を……プレゼントに対する姿勢についての希望を伝えにきました」
「……ん?」
相澤の言葉にオールマイトが首を傾げた。
「高価なものを贈られるのは気分が良くないです。せめて五万以内にしてください」
「ごまんえん」
「俺はブランドとかわからないし興味もないです。装飾品とかも希望しません。島とか星の権利書とか船とか本気でやめてください。不動産も。そんなもん贈られたら別れます」
「エッ」
オールマイトの反応を見るに、プレゼントの候補に相澤が例に挙げたどれかが入っていたに違いない。言いに来て良かったと相澤は心の底から思った。
「ど、どうしたの?何かあったの?」
突然の宣告に驚くのはオールマイトばかり。贈り物を拒む人種は今まで彼の周囲にいなかったのかと相澤は不思議に思う。
「特に何もないです。クリスマスを楽しみにしている気持ちはわかりますし、俺だって一緒に過ごす時間は嬉しいです。でも、俺がストレスになるようなものを貰っても嬉しくないんで先にお伝えしておこうと思いまして」
フォローになるかわからないことを言えば、オールマイトはおろおろとした態度を幾分落ち着かせ、相澤の手を取って胸の高さできゅっと握り締める。その温もりは肌に馴染んで心地良かった。
「……欲しいもの、ある?」
「ありません」
「んん……」
「あんたは何かありますか」
相澤の質問にオールマイトは少し考える。
「私?そうだな。お揃いのパジャマとかどう?」
「マンションで使う用ですか?」
「ここで使っていいの?」
「嫌ですね」
「即答かあ」
「マンションでなら良いですよ。でもパジャマなんて着ないでしょう」
あの部屋では服を着ている時間の方が少ないだろうと相澤が事実を告げる。オールマイトは一気に顔色を赤くして腕の間に頭を下げてしまった。
「き、着る時間を増やすよ……」
「俺は脱ぐ時間を増やしたいですが」
「ここでそういうこと言うの?!」
焦らすばかりの相澤に、良い加減反応を面白がられて揶揄われているのだと気付いたオールマイトがぐいと手を引き相澤の体を腕の中に閉じ込めた。
「週末まで待てないよ……」
ぐりぐりと側頭に頬を擦り付けられ、相澤は懐いた大型犬をあやすようにその背に手を回し緩く撫でた。それは、触れ合いを禁じた学校敷地内でのルールにぎりぎり寄り添えるくらいの情を込めたもので、しかし恋人との触れ合いに飢えているらしい恋人には効果覿面で。
「……だめ?」
ここは個室で、ドアは閉まっている。室内に監視カメラはない。プライバシーは保たれているが、ここまで来たらそれはもうただの本人の気持ちの問題でしかない。相澤の無言を逡巡と捉えているのか、オールマイトがそっと相澤の顎の下に指を添えた。持ち上げれば自然に瞼が下りるのは、この仕草の先にあるのがくちづけだと知っているから。
だからこそ相澤は、いつもの動作で近づくオールマイトと自分の唇の間に素早く手のひらを差し込んだ。
「んむ」
手のひらの真ん中にオールマイトの唇が触れる。
「だ、め、で、す」
「そういうのなんて言うか知ってる?!」
「生殺しでしょ。週末まで良い子にしててください」
地団駄を踏みそうなオールマイトの腕の中から名残惜しさを気づかせずに離れ、相澤はドアノブに手を掛けた。
「お揃いのパジャマ買っときます。あと俺サプライズとか嫌いなんで一応それもお伝えしときますよ」
「プレゼントって大体サプライズじゃないかぁ」
泣きっ面に蜂とはまさにこのこと、というオールマイトの表情に相澤は少しだけ笑ってしまった。
「何を贈るかまでオープンにする必要はないです。サプライズだと語弊があるかな。そうですね……ドッキリが嫌いです」
「人を巻き込んで君の反応を面白がるような?」
「野球場でクソデカビジョンに映し出されて公開プロポーズを断れないようなアレですよ」
「ああ……ロマンティックじゃない?あれ」
「やっぱあんたとは合わねえな」
「君が嫌がっていることは理解した」
「では実行しないようにしてください。おやすみなさい」
「……だめかい?」
しょんぼりと肩を落としたオールマイトはおそらく恋人に突然上げて落とされた気分なのだろう。上げたつもりはないが落とした自覚はあって、それは自分のわがままでもあるから申し訳ない気持ちが立つ。
「……今日だけですよ」
まるでその為にあるような前髪を掴む。痛くないわけがないのに、なるべく力を入れずに命綱代わりに自分の体を引き上げると共にその長身を折る役割を持たせる。爪先立ちだけでは届かない唇はそこまでしてやっと相澤のものになる。
くちづける寸前、その口の端が上がっているのが見えた。そぼ降る雨に濡れている子犬を装い騙したのだとしても、したいと思った時点でこちらの負けだ。
クリスマスの肩の荷がひとつ降りた、その労いとする。
「……君に相談があるんだけど」
仮眠室での昼食の後、オールマイトがあまりにも真剣な面持ちで話を切り出すので何事かと思ったが、どうぞと促した相澤は数秒前の自分の判断を後悔した。
「予算額の増枠は認めてもらえないだろうか?」
「校内でそういう話はやめて欲しいんですが?」
「ごめん!」
ぱしんと両手を合わせこの通りだと頭を下げられればあと数分くらいは捻出してもいい。壁掛け時計に目を遣った相澤は軽く溜息を吐いた。
「あまり高いものを貰いたくないんですが。何をお考えで?」
「指輪」
即答したオールマイトに迷いはない。相澤を真っ直ぐに見つめる眼差しには譲りたくない意志が見えた。
「……装飾品は好まないと言いましたよ」
「付けてくれとは言わないよ。付けてくれたら嬉しいけど」
「じゃあ何の為に贈るんですか」
金に困ったら換金しろとでも言うのかと相澤が眉を顰めるとオールマイトは微かに目を伏せた。
「そうだな。……私の覚悟、のようなものかな」
「覚悟?」
「君が待っていてくれると思えば何があったって絶対に生きて帰ろうと奮い立つだろ。指輪という名の命綱だな!」
ハハハ、といつものようにオールマイトは笑うけれど、そんな理由を聞かせられてやっぱり嫌ですなどと言える胆力は相澤にはなかった。
「……あまり高くないのにしてください。俺が値段を聞いても卒倒しないやつで」
「君、私が高い買い物したって無駄遣いだって怒り散らすだけで卒倒なんかしたことないだろ」
「俺は無駄遣いを怒ってるだけで買い物を否定してるわけじゃありませんよ」
「必要だから買ってるのに」
「あんたの部屋に俺の知らない俺のものを増やすのをやめてくれと言ってるんですが?」
「来たら使うだろ」
こうしてまた言い包められる。
この事象の名前を相澤は知っている。惚れた弱みと言うのだ。
チャイムが鳴る前に一人先に仮眠室を出た相澤は、道すがら窓に映る自分の顔がいつも通りかを確認してから職員室へ戻った。
クリスマスの当日、オールマイトはパーティー会場にはいなかった。別件の打ち合わせで都内に行き、当日帰らないのは元からわかっていたことなので、それについて相澤は特に何も思わない。
「残念ねえ、クリスマスの夜に恋人に会えないなんて」
本当に残念がっているようには見えないミッドナイトのすれ違いざまのありがたい慰めの言葉に生返事をした。窓の外は雪がちらつき始め、それに気付いた生徒達が雪合戦しようぜと薄着のまま飛び出して行こうとしている。
その様子をケーキを食べていたエリがついていけずぽかんと眺めていた。
「まだ遊べるほど積もってないだろう。やるなら明日にしろ。エリちゃんも明日積もっていたら雪だるまでも作ってみると良い」
「……はい」
エリはまだ、窓の外を舞う白いものと雪が頭の中で結び付いていないのだろう。何が起きているのかわからない様子で窓に寄り、息で白くなったガラスに指先でりんごの絵を描いた。
「あ」
実を縁取ってから最後にヘタの部分をぴょんと伸ばした後、エリは何かを思い出したように踵を返すと自分の座っていた席の横に置いてあった鞄から大きめのカードを取り出した。見守っていた相澤に、どうぞと両手で差し出して来る。遠くから13号が熱い視線をこちらに送っていて、不意に先日のエリが隠したお絵描きのシーンが思い出された。
「これは……」
リボンで巻かれた二つ折りのカードを開く。そこには黒づくめの相澤とサンタの絵が描いてある。
「ありがとう、って、ちゃんと言いたくて」
「こっちこそありがとう」
相澤はしゃがみ込み、視線の高さを合わせてエリの頭を撫でた。緊張していた面持ちが途端にふわふわと崩れていく様がなんとも可愛らしい。
「みんなにも描きました。渡して来ます、っと」
鞄の中からエリはもうひとつ、今度は名刺くらいの大きさの紙を出して相澤に差し出した。
「先生には、これも」
手のひらの中ですぐにでもくしゃりと折れてしまいそうなそれから相澤は視線を離せない。
「いつでも言ってください」
「そのうち頼むよ」
エリは鞄を大事そうに持って馬鹿騒ぎしている生徒達の方へとことこと歩いて行く。ひとりに差し出せば皆が寄って来る。きっと全部違う絵だ。顔と名前を確認しながら一枚ずつ特製カードが披露されるたびに歓声が高まって行った。
その熱狂の渦から外れ、喧騒から一番遠い壁に凭れて相澤は手の中の紙切れをひらめかせ話し掛ける。
「お前の入れ知恵か?」
「違いますよ!エリちゃんが自分で作ってみたいって言ったんです!」
13号は僕が唆したわけじゃないですよ、と繰り返す。
「それに僕も貰ったんです。ふふ」
自慢げに見せてくれるその紙には、かたたたきけん、と赤いクレヨンで大きな文字が書いてあった。相澤のは黒いクレヨンだった。バリエーションがあるらしい。
「使う順番どうしましょうか。大切に取っておいてもエリちゃんの優しさが逆に悲しみに変わりますしね」
「使って貰いたそうなタイミング見計らってお前からやって貰え」
「あとで皆にも聞いておきます」
あの様子ならきっとエリは教師陣全員に同じ紙を配るのだ。そちらの舵取りは13号に任せて、相澤は生まれて初めて貰った肩たたき券をそっと財布の中にしまった。
「ということがありましてね」
週末、寮には戻らず真っ直ぐマンションに帰宅したオールマイトの後を追うように相澤は恋人の家の玄関を潜った。雪はあの夜だけで、寒さも幾分和らいだとはいえ風は冷たい。着込んだ上着を脱ぎながら、相澤はオールマイトが不在の間の出来事を時系列でまとめて語って聞かせた。
「そっか!とっても楽しそうで良かった」
オールマイトはキッチンでコーヒーを淹れている。ダイニングテーブルの上には艶消しの高そうな紙袋がひとつだけ置かれていて、否が応でも相澤の視線を惹きつけた。これは何ですかと問おうものなら一気にムードが高まってあれよあれよという間に相澤の左手にするりと輪が通るに違いない。
(いや、俺は付けるとは言ってない)
普段ならば何も持たずに来る相澤も、今日はリクエストに沿って買った、揃いのパジャマを入れた大きめの紙袋を持参していて、なんとなくその高級そうな小さな袋の隣に並べて置いた。
トレイにマグカップを二つ乗せたオールマイトがキッチンから戻って来る。恋人達より仲良く並んだそれを見て幸せそうに口元を緩めたので、相澤はやはり文句を言うことができない。
オールマイトはコーヒーを飲みつつ、ちらちらと紙袋を見てしまう相澤の目の前にそれを引っ張って中身を出した。小さな箱の開け口をこちらに向けて、さあどうぞと饒舌な視線が微笑む。
「……」
手を伸ばして箱を開けた。同じデザインの指輪が二つ並んで同じ窪みに差し込まれている。
「つけてもいい?」
「……部屋の中にいる時なら」
渋々妥協する相澤の表情に苦笑しながら、サイズを測ったわけでもないのにぴたりとフィットするシンプルな指輪をオールマイトは恭しく相澤の薬指に嵌めた。それに満足した様子なのが面白くなく、相澤はひとつ残った指輪をオールマイトの左手を取り薬指に通す。その所作を見つめるオールマイトの嬉しそうな表情と言ったらなかった。
見ているこっちが恥ずかしくて胸焼けしそうになるほど愛おしさに溢れたそれを素直に受け取れない。受け取るには、自分のキャパシティは小さ過ぎる自覚がある。それでも今は、雰囲気を壊してはならないことくらい理解している。テレビと市民の前ではあんなに大仰に高らかに声を上げて笑うオールマイトが、こんなにも些細なことにはにかんで目を細め、密やかに幸せを享受しているなんてことを相澤以外に知る者はいない。
その、愉悦たるや。
「ありがとう、相澤くん」
オールマイトは愛おしさが振り切れたのか相澤の左手を揉み始めた。視線の先にあり続ける指輪に妬けて、その直前の間に割り込んだ。
「顔見て言ってくださいそういうの」
「ふふ。そうだね。ありがとう。相澤くん大好きだよ」
顔を見ろと言ったのに、オールマイトはさっさと唇を触れ合わせて来る。文句を言ったのに相澤とて近づく顔に黙って目を閉じた。こうなることがわかっていたから。
何度か押し付け、啄み、深くなる前に名残惜しさにもやつきながら離れる。二人の間にはテーブルとコーヒーが半分以上入ったマグカップともうひとつの紙袋があった。相澤は自分が買って来たプレゼントをオールマイトに袋ごと差し出す。いそいそと封を切って包みから出て来たのはモスグリーンとネイビーのパジャマだった。
「ありがとう。早速今夜から使おうね」
「着ます?」
「すぐ脱がせるとしてもそう言っとくものでしょ」
オールマイトも今夜に期待していることがわかって相澤は僅かに肩を揺らした。そして、紙袋を畳もうとしたオールマイトの手からそれを受け取り、中に入れていた小さなカードをテーブルの上に置いた。
無意識に、角に挟んだ指を抜く。
ぱち、とコシのある紙が天板を打った。
「……これは?」
「指輪とパジャマじゃ釣り合わないんで。おまけです」
オールマイトが怪訝そうな顔でカードを拾う。指が滑って紙辺に爪を立てる仕草すらおっかなびっくりにようやく持ち上げたそれに書かれた文字を読めないわけではあるまい。
「なんでもお願いひとつ聞く券」
読み上げた字面の、もう少しマシな日本語はなかったのかという今更の反省と、エリの肩たたき券の絵が相澤の脳内で交差する。
「これは……使えないなあ」
「有効期限ありますからね」
「ええ?」
裏を見ろと示せば、走り書きで来年のクリスマスまで、とポールペンで書き添えてある。
パジャマと指輪が釣り合わないことに関する自分だけが抱えるモヤモヤはやはり拭い切れるものではなかった。そんな時、エリから貰った善意の塊を手にしてふと興味が湧いたのだ。
オールマイトは自分に一体何を願うのかと。
だから、職員室の印刷室の隅にあった余った少し厚い紙を一枚貰い、遊び半分実験半分のつもりで作ったカードだった。
オールマイトは口元を手のひらで覆い、僅かに困惑を滲ませながらも決して嫌悪ではない、寧ろ未来に期待を抑えきれない顔をしてじっとカードを見つめている。
「なんでもいいの?」
「俺のできる範囲のことなら」
「じゃあ、使ってもいい?」
その申し出に目を丸くしたのは相澤の方だ。そんなにすんなり出て来るほど普段から何か要望を秘めていたというのか。
「いい、ですけど」
オールマイトはカードの向きを相澤に読めるように変え、すっとテーブルの上に置いた。
「実はディナーを予約してあるんだ。一緒に、いいかい」
「…………はあ」
てっきり夕食はここで食べるものだと思い込んできたからオールマイトの申し出は意外ではあったけれどわざわざこの券を使うほどのことでもないだろうと見つめ返す。
「え、だって君、外で二人でご飯食べるの好きじゃないって言ってたからさ。でも、折角の夜だし」
もにょもにょと重ねる言い訳が全く頭に入って来ない。
相澤はカードの上に指を置き滑らせるようにしてオールマイトに押し返した。
「飯くらい行きますよ。そんなことで使わなくていいです、勿体無い。もっと違うことにしてください」
「え」
違うこと、かあ。
ディナーOKの返事に目を輝かせつつ、オールマイトはそう呟いて突き返されたカードを大事そうに両手で包んだ。
「じゃあまた何かお願いがあったら使うね。大切にするよ」
そう言ってオールマイトはカードをリビングの小物入れにすっと差し込む。
目立ちたくないからオールマイトと外で食事をするのは控えたい。それは確かに自分が言ったことではあるけれど、それを優先されて、恋人の思い描く楽しみの可能性を潰すこともしたくない。
オールマイトは相澤に優しいから、些細なことまで全部覚えていて──都合のいい時だけ忘れたふりもするけれど──自分の想いを押し殺してまで、だって相澤くんが好きだから嫌いだから、と言う。
今夜だって相澤が嫌だと言えばそっと予約を断り冷蔵庫の中の食材で、さも最初からそうだったと思わせるような豪華な料理を振る舞ったに違いない。
ならば、好きなだけ願わせれば良い。
オールマイトの申し出の全ての願いは券を使うまでもないと刷り込みたい。
もっと、一緒にいるために。
「出かける支度してくるね!」
オールマイトが着替えようと席を立つ。
「ドレスコードあるんですか」
「ないない。そんなお堅い店じゃないよ。あ、でも君はそのままで十分素敵だけど、着替えるなら服は用意してあるよ。どうする?」
返答に詰まった相澤からオールマイトがチラリと視線をカードの入った小物入れに動かす。切り札を出さなければ着替えてもくれないと思われるのも癪で相澤はオールマイトが何かを言う前に立ち上がる。
「いいですよ。今日はとことん付き合いましょう」
「本当!!え、どうしちゃったの相澤くん」
「文句言うならやめますが」
「ううん。嬉しい!お洋服こっちだよ」
そうして、揃って着替えた二人はオールマイトの用意した店の紛れ込む人もない奥まった個室でディナーに舌鼓を打った。取るのを忘れた指輪を嵌めたままだったのをフォークを持った手を見下ろした時に気が付いたけれど、テーブルの向かい側で相澤の食べる様子を目を細めて眺めるオールマイトがあまりにも幸せそうだったからそのままにして。
結局新しいパジャマはその夜、出番がなかった。