冬の訪れ、アイの苦患【独普】 最初は、ちょっとした言い合いだったと思う。
旧友との飲み会は想定よりも長引き、気づいたときには終電しか残っていなかった。慌てて飲み代を置いてその場を去ったが、時すでに遅し。最終便は無情にも俺の前から走り去ってしまった。歩いて帰るにはその道のりは長く、そして空気も冷えこんでいた。スマホのロック画面にはスクロールしても次々と出てくるのは同じ名前、そして同氏からの最後の着信は五分前だった。まだ起きているだろうが、それでもこの時間に電話をかけるのは緊張する。況してや、終電を逃したから迎えに来てくれ、なんてどれほどの裁きが下るか。それでも俺は電話をかけなければいけない。出かける前に泊まらないって言ったのだから。
「……あ、もしもしル」
『いつまでほっつき歩いているんだ!!!!』
キーンっと鼓膜の鳴る音をどこかで聞きながらもスマホから耳は離さない。それでも怒鳴り声が響かない程度の音量に調節しながら、反応を返す。
「悪ぃって。そんなに怒んないでくれよ」
『怒るな? はっ、どの口が言う。日付が変わる前には帰ると約束したのにあなたは……」
ちらりと時刻表示に目を遣ると午前二時十三分を指している。参った、日付が変わったばかりならばどうにか鎮められたかもしれないが、二時間も過ぎた今となってはもう、難しいかもしれない。
『で? こうして電話をかけてきたのには何かあるんだな?』
「あ、そうだ。えーと……お前、もう呑んでるか?」
『……まだ呑んではいない。あなたと一緒に呑むつもりだったからな』
不貞腐れたような声音が向こうから聞こえてくる。きっと眉間に皴を寄せて口を結び、不機嫌ここに極まれりみたいな面をしているのだろう。その顔を想像してしまえば、次に吐き出す言葉が喉に重く、溜まる。
「終電、逃しちまった。来れそうだったら迎え来てくれねえか。場所は隣町の……」
『断る』
ぴしゃりとはっきり、迷いのない拒否。薄々電話をかけた時点で予想はしていたのだろう。ちらりちらりと雪が降り始めて鼻先を擽りだす。
『迎えに来いと言うが、いつもの店で吞んでいたのだろ? あんたの足だったら歩いても二時間かからないくらいだ。酔い覚ましと反省の念も込めて歩いて帰ればいい』
「は……お前、外がどれくらいだと思っているんだ」
『まあ、寒いんじゃないか? 俺は全く分からないが』
「雪、降ってんだけど」
『ん? そうなのか。まあ大丈夫だろう。歩けば体も温まるし問題ない』
「……途中で倒れたりしたらどうすんだ」
『……』
「おい、なんか言えよ」
『別に、大丈夫だろ』
「は?」
『この程度でそうなるなら、それまでのことだ』
「……そうかよ」
『兄さん?』
「分かった、帰る」
ルートヴィッヒの返事も聞かずに操作するとツーツーと通知音が鳴り、通話終了を告げる。スマホから耳を離すと頬を冷たい何かが流れ落ちていく。雪か。きっと溶けてしまったんだ。ちらちらと舞うだけだった雪は道に白い跡を残すほどで、本格的に冷え込んできた。だというのに心臓はバクバクと鳴り響いていて、顔が熱くなってくる。どくりどくりと鼓動は煩いほどで、薄いジャケットに身を寄せながら仄暗い道を急いだ。
どれくらい動いたのだろう。大通りを歩いているはずなのに人も車もめっきり見かけなくなり、そこで宵の深さを痛感する。後ろを振り返れば足跡に薄く雪が被さり、息を吐けば白く曇った。寒さもそうだが、本格的な冬の到来をひしひしと感じられる。
酒を呑んだ後に激しく走ったせいだろうか、急にぐわりと視界が歪む。思わず膝をついて頭を抑えた。本来であれば店を出たあの時に出るはずだった症状。それが、ほんの少し感情が落ち着いた今になって現れた。
「……っは、大丈夫だ、まだ、あと、少しだから」
酷く、大きく、走り始めたときよりも速く、心臓が鳴る。拍を打つたび、熱い息が口から吐き出される。
熱い、熱いのだ。
それは走ったせい?
それは酒のせいか?
恐らくそのどちらも、だ。蹲り何度も息を吸って吐いて吸って吐いて。それでも体から顔から熱は引かず、それを紛らわせようとまた呼吸を急ぐ。すぅ、はぁ、という正常な音がひゅぅ、っぁ、と異常な笛声に変わる。
あ、これヤバいやつだ。
呼吸が落ち着かない。熱を逃がすためだったはずの呼吸が俺の体を苛む。直に落ち着くだろうと耐え忍ぶが、その気配もない。落ち着くどころか寧ろ激しさは増していき、喉からは血の味がしてきた。乾燥した空気が刃となり気管を傷つけたのだろう。
早く家に帰らないといけないのに、驚くほど足が動かない。いや、まずは立ち上がるところからだったか。あれ、俺、今どんな体勢だったっけ?
思考に没頭していた意識が周囲に回ると、そこはピントのずれた世界だった。いくら瞬きしたところで焦点は結ばれず、やがてがくりと体が頽れる。
雪に顔が埋まる。それでも呼吸は落ち着かず、鼻や口の周りは 熱を孕んだ呼気で溶けていく。それでも空からは新たに雪が舞い降り、静かに俺の体温を奪っていく。だと言うのに、体は熱を発していて、急いた呼吸は鎮まらない。ぐるぐると体内には熱が循環して留まり、それでも寒気は止まらず本能が温もりを求めている。起き上がらなければならないのに、指先にも、況してや瞼にも力が入らない。しかもダメだと分かっているはずなのに瞼がゆっくりと下がっていく。
「ル、ッツ……」
こういう時に思い浮かんだのは、愛しい愛しい弟のことだった。今頃どうしているだろうか。家で、一人寂しいリビングで俺の帰りを待っているのか、それとも見切りをつけてとっとと眠っているか。最後の電話を、俺が一方的に切ってしまったから怒りが治まらず、酒でも煽っているかもな。
ああ、だとしたら
「ごめん、な……約束、守れなくて……」
一言溢れるたびに白い息が雪を溶かしていく。もはや呼吸音は空を切るようにか細く、それでも意識の上では呼吸をしているのだから正常な状態に戻すことも自力では難しい。
ここまでか。
本当にちょっとしたことで、こんなにも呆気なく終わってしまうもんなんだな。
そう思うと、目頭から熱い何かが伝い流れた。それは雪と誤魔化すこともできず、また汗でもない、紛れもなく『涙』だった。瞬き一つするだけで玉となり落ちたそれは、この寒さの中で固まることもなくコンクリートを濡らすシミの一つと消えた。本当に、呆気なく、だ。知れず、ケセ、と笑いが零れた。
膜を張ったように揺らめく視界いっぱいに光が差すのを認め、俺の意識は深みへと落ちていった。
——誰だ? 俺を揺さぶっているのは。
意識が浮き上がったところで瞼は動かない、相も変わらず閉ざされた視界、そして思い出したかのように戻ってきた息苦しさ。先ほどまで失っていた体温が全身を巡り、燃えるようだった。開いたままだった口からはまた喉を焼く息が零れていく。もう終わりなのに期せずして続いてしまったこの時間。ただ強烈に意識を向けられる孤独感と体を苛む苦しさ、そして脳を蝕むほどの呼吸の辛さ。
————!
……なんなんだよ、どっか行けよ。
せっかく、もう終われると思ったのに。この苦しさを感じなくなると、楽になれると、思ったのに。
未だ暗闇に囚われたままの視界と音も拾えぬ聴覚、この体を揺さぶる手の、温もりすら分からない。
——!―――――!
悪いな、聞こえてないんだ。さっきから呼吸も、キツいんだ。もう、そろそろ……止まってくれたら……楽なんだけど。
誰ともしれない、俺なんかのことを心配するその人に、どうすることもできない申し訳なさだけが込み上げてくる。声をかけようにも口は体のことなんか顧みない呼吸のせいで血の味が広がり、手を動かそうとしても力が入らないのだ。死にかけの体でもやれることが、ない。
再び、暖かな安寧が俺を攫おうとしてくる。抗う術を、そして理由のない俺はその波に流されて、今度こそ終わる。
その、はずだった。
温かい何かが口を塞いだ。しかし息を止めるのではなく、寧ろそれはこちらに息を吹き込んだのだ。吐き出すばかりだった呼吸を塞き止められることで、ただでさえ失われていくばかりであった空気が過剰に逃げなくなり、足りなかった分の空気が少しずつだが人口呼吸によって補充されていく。一瞬離れたその隙に呼吸を試みるが変わらず吐き出すだけの苦しさに、喉が引き攣る。噎せ上がり、血と痰の込み上げる嗚咽に背を擦る手が優しく、辛さを忘れてしまうほどであった。そしてまた、呼吸を補助するために唇を重ね合わせる。それが、蕩けそうになるほど悦いのだ。
ある程度酸素が回るようになったおかげでいくらか動かす力が戻ってきた。なんとかぐっ、ぐっと瞼を持ち上げると、涙腺に溜まっていた水分がいっぱいに広がって視界をふやけさせる。
その世界で殊更目を惹いたもの。
それは碧だった。
碧い目が、俺をずっと射貫いていた。
驚きのあまりに声が出そうになる。発声の振動すら乾ききった気管にとっては十分な負荷で、繋がっているのに咳き込んでしまう。相手もびっくりして口を離したが、そうすると度は俺の呼吸がまた乱れてしまう。そいつはさっきしたように俯き枯れた呻きを上げる俺の背中を擦る。同じように接するその優しさに、今度は目尻から雫が一つ、二つと流れ落ちる。
意識を失う直前に見た光景を想起させるようだが、今回は違った。その行方を見届ける間も無く、頤を上げさせられて今度は深く、息を吹き込まれる。ともにぬるりと舌が入り込み、唾液の分泌されていない口内を自前のそれで舐め湿らせる。ざらりという感覚にそれを噛み千切りそうになったが、反射による咬合の力よりも抵抗が勝ったためにその結果が発生することはなかった。
忍ばされたそれが一帯を舐め回したせいで、俺の口の中は他人の唾液でべとべとだ。本来であれば受け入れるのすら御免だが、相手が相手だからかその気も起きず、妙な甘さすら感じられる。
熱を失っていたはずの頬に色味が戻るのをどこか他人事のように俯瞰していると、突如絡められた舌にまた目を見開く。相手はその反応に薄く笑いながら結合を深める。こちとらつい先ほどまで死線を彷徨っていたというのに、どこにその余裕があるのか。いっぱいいっぱいになりながらその求めに応じるが、この時ばかりは相手のペースに流されるままであった。ぐちゅ、ねちゅ、と内から発せられる水音から逃れようと腕を押すが、それも呆気なく絡め捕られ、逃れようとしたのが気に食わなかったのかもう片方の手で後頭部を押されて更にその繋がりが深まる。
別の意味で息ができなくなりそうだ。人工呼吸の体を破り、こちらの口内を蹂躙されている今は捕食されているみたいで苦しい。
息継ぎのためか口を離され、その隙に呼吸を整えようとぜーはー吸って吐いてを繰り返す。間近でじっとそれを観察している相手の顔は、どこか柔らかい気がする。覚えている限り最後の瞬間は、烈火の如く怒り、口調も荒々しかったはずなのに。
「……落ち着いたか、兄さん」
「ルッツ……。どうしてここにいんだよ」
今度はバツが悪そうに目を逸らす弟。オイこら、お兄様が顔を反らすのは許さなかったのに自分は都合が悪ければやってもいいと思ってのか? 忘れていた興奮を取り戻し、沸々と再燃する腹立たしさ。そういえば最後は喧嘩したままだったんだっけ。力もかなり戻ってきて、緩い拘束から腕を取り払う、そして頬を挟み、無理やりにでも目を合わせる。
「に、にい」
「答えろよルッツ。どうしてここにいんだ? お前が一人で帰れっていうから一人で、歩いて帰っていたのに、なにこっちに来てんだよ!! てめえは言ったことも通せないのか、ああ」
間近で怒鳴り散らかせば眉尻を下げ今にも泣きそうな顔を見せる。ふざけんな、泣きたいのはどっちだと思ってんだ。
「……俺は、」
「いい。何も聞きたくねえ。くたばるならそれまでだと言っておいて、ほんとに……」
「兄さん……」
「なにが……してえんだよ……」
怒りに歪んだ顔のまま、視界がまた潤む。だめだ、今日はどうしてか涙腺が緩い。手遅れかもしれないが顔を伏せ、今の表情を見られないよう努める。声に詰まり、嗚咽ばかり漏らす口を塞ぐが、代わりに肩が跳ね上がる。熱くなった頬にぴとりと触れたそれはじわりと溶けていった。まだ雪が降っていたのか。不感気味だった細かな感覚は戻ってきているのに、この息苦しさだけが残っている。興奮しながら声を荒げてしまったことによるしゃっくり。一度は安定していた呼吸も乱れ、鎮めようと息を止めようと口を閉ざしたが、ひっくと思わず声が、息が漏れてしまった。両手で口を覆っても止まらない。
こんなかっこ悪い姿、ルッツには見せたくないってのに、今日はとことん上手くいかない。
ぼろぼろと涙が零れ落ちてしまうのも止められず、ずるずる体が下がっていき蹲ってしまう。
くたばっちまえば、もう少し早く消え果せていれば、こんな無様、見られなかったのだろうか。
「っく、もう、っやだ。っあっく……意味ねえのにお前にあた、っちまうし、……んなとこ、見せちまうし……」
「兄さん……」
ふわりと肩にコートがかけられる。厚手のそれはクローゼットの中で活躍の場を待っていた代物で、その上からルートヴィッヒがぎゅっと抱き締める。自身のものとは別に俺の、揃いで買ったそれを持ってきた事実にまた胸が締め付けられ、息苦しさがぶり返しそうになる。ムキムキでふわふわな胸板に顔を埋めさせられ、頭へ手を添えられる。そのまま髪を梳くように、不安を取り除くような優しい手つきが余計に心と体を追い詰める。あと少しで、世界から己という戦争の残滓が消えて愛しい弟に平和な世界を託せたことへの恨み言。仲直りができなかったまま永遠の離別になったかもしれないという、ちょっとした可能性。ルートヴィッヒと生きていたいのに、ルートヴィッヒの傍にいたいのに、それでも置いて逝くことで悲しませてしまうのなら、目の届かないどこかで、生死も分からいようこの地に溶けてしまいたい願望が、もしかしたら叶っていたかもしれない。そんなこと、いきなり聞かされても困るだろうに、口が止まらない。
「あのまま……雪に、っ溶けていれば、っんぅあ……」
いつもなら弟だけには絶対に見せなかった声。強くて、尊敬する兄の理想が崩れぬように内に仕舞いこんだものをぶつけようとする口はしかし、ルートヴィッヒによって塞がれた。
流石に二度目ともなれば多少の驚きこそすれど、慌てはしない。閉じられた歯列を開けてほしそうにノックする舌は無視するに限る、のだが、横隔膜が急速に収縮して胸腔の内圧が下がったために不覚にも空気を求めて、口が開いた。その一瞬をルートヴィッヒは見逃さなかった。その隙間から舌を押し込み、今度は容赦なく口内を荒らし回る。こんなにも様相が違うのは端から人工呼吸ではなく、口接に目的があるからだろう。水に揺らぐ視界に入るのはルートヴィッヒの持つ彩だけで、どんな顔をしているのかは定かではない。それでもその荒々しく自己本位でこちらのことなんか考えない舌遣いは、ルートヴィッヒの激情が出ているようで、余計に混乱させられる。空気を求める吃逆すら抑え込み、逆に呼吸を止めさせるようなそれは長く続き、頭がくらくらしてきた。
「ふっ、ぅ、っん……ぁう、ル、ツ……ぁん、で」
「ふっ、は……。なんで、だって? そんなの今の自分を顧みたら分かることだろう?」
「は……?」
「しゃっくり。幾らか対処法はあるが……効いただろう?」
言われて気づいた。驚きこそしなかったが、息を抑えられたことでいつの間にか止まっていた。
「いや、でも息を止めるなら他にも方法が……」
「そんなの、あなたに腹が立ったからに決まっている」
むすっとした顔を浮かべるルートヴィッヒ。瞼の裏で描いたそれとは違って、ほんのり頬を赤らめている。勝手に唇を合わせたくせに、なに恥ずかしがってるんだよ。そんな顔見せられては、先程まで感じていた怒りもどこかへ散っていく。
「……っは、そんな顔すんなよ。……ありがとな」
「礼はいい。それよりも……」
俯いていた顔を上げさせて、目を、今度は反らさせないように頬を固定される。未だ顔は朱いが、それでもまっすぐこちらを見つめてくる眼差しからは逃れようとも思えなかった。
「なぜ、あんなことを言ったんだ」
「あんな、こと?」
いまいち要領を得ない問いだった。あんなこととはどんなことだろうか。呼吸も思考も落ち着いた今となっては何を口走ったか分からない。
「え、俺……なんて言ってた?」
「……溶けていれば」
「は?」
「雪に解けていれば。続きは聞かなかった、聞きたくもなかった」
「……それは」
「ああ、分かってはいた。あなたは俺を愛している、それ故に全部を捧げて、俺の中へ消え逝くことを望んでいると」
「ルッツ……」
「だが俺は、それを望んでいない」
キッと鋭く、双つの碧が煌めいた。硬くて強い意志を持って貫くその眼差しが意識を縫い留める。
俺はこの目を、以前にも見たことがある。
例えば、俺の下で教えを乞う時。例えば、壁の向こうから此方へ走り出したその時。例えば、統一の祝宴の後に立ち去ろうとする俺を呼び止めた時。例えば、長年の想いに耐えかねたルートヴィッヒが俺を押し倒して逃がしてくれなかった時。例えば、例えば……。
「……聞いているか、兄さん」
「お、おう! もちろん聞いているぜ?」
そうか、とほほ笑みながらその顔を肩へと埋める。一連の出来事を経てぼさぼさにほつれた金糸を手で梳いていると籠った、そしてどこか安心している穏やかな声音で続きの言が紡がれる。
「……迎えの件は、すまなかった。せっかく早く帰れたというのに家にはあなたがいない、日付が変わる前には帰ってきてくれると約束したのに一向に報せもなかったから、不安で、焦って、つい苛立ってしまった」
「……いや、あれは俺にも非があっただろ」
「だとしても、どんなに腹が立っていたとしても、あの発言だけは、言ってはならなかった」
そうだな、と返してぎゅうぎゅうに抱き締めてくるその大きな体躯をこちらからも抱き締め返しながら彼の懺悔を促す。「大丈夫なわけ……くたばってもいいと思っているわけ、ないじゃないか! 俺個人が苛ついていたからといって、そんな思ってもいないこと、口に出すべきではなかった」
「……ああ」
「あなたに電話を切られてようやく、頭が冷えた。事の重大さを理解した。慌てて車を出してあなたを探した。帰り道を辿ればすぐ見つかると思ったのに、なかなか、見つかんなくて……。ようやく見つけたときには、冷たい雪の中で眠りに堕ちるところだった。荒く息を吐くばかりでちっとも空気を吸ってくれない、顔色は徐々に青くなるくせに息だけが熱を持っている。揺すっても反応はなくて、それで……」
俺からは何も言わず、だんだん濡れていく後悔をただ受け取る。傍から見たらそんなことになっていたのか、俺は。あの瞬間、視界を埋め尽くしたのはルートヴィッヒが駆け付けたその刹那だったというわけだ。ということは、あの遺言じみた発言は聞かれていない、よな?
「お前の話はよく、わかった」
「……」
「おれさ、あの時、お前にどう謝ったらいいか考えてた。怒らせちまったなーって、迎えにきてくんないのも仕方ないよなって思ってたら急に、息が苦しくなってさ。いよいよ力入んなくなってもうだめだって思ったら、お前の顔が浮かんだ。喧嘩してたのに、それを後悔していた。……でもよ、お前が、迎えに来て、俺に息を吹き込んでくれたから、今こうして、抱き合えるんじゃないか?」
「……兄さん」
「それによ、よく言うじゃねえか? キス一回でモルヒネ十回分の効果がある、ってよ」
お前のキス、最っ高に気持ちよかったぜ?
露になっている耳殻にそっと囁けば、忽ちのうちに染まっていく。がばりと上げた顔はぷるぷると震え、紅潮した頬、そして涙を湛えた瞳は大きく見開かれて今にもその粒が零れ落ちそうであった。ひどい顔だ、きっとさっきまで似たり寄ったりだった俺も同じようなもんだけど。それでも精一杯、笑顔を浮かべて腕の中の大切でかわいくて愛しくて仕方のない弟を抱き締め、温もりを分かち合う。
尚も雪は降り続ける。もう冬だ、温もりがほしくなる。
腕の中で「へっ…くしゅっ!」と鼻を鳴らされる。いつまでも寒い外にはいられない。
「さあ、帰ろうか」
離れがたくはあったが、これ以上体調を悪化させるのはよくない。取った腕は抵抗せず、身を任せるように重みを傾けてきた。
「……ああ、一緒にな」
シチュ:「呼吸困難(または過呼吸)に陥る普」
セリフ:「(知ってるか)キス一回でモルヒネ10回分の効果がある(んだってよ)」