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    BTT2022開催おめでとうございます。
    藍平

    untruth. 郊外でぽつんと佇む喫茶店に、私以外の客は見当たらなかった。カウンターの奥でカップを拭いているのは店主の一人息子だ。私がよく利用する夜間帯――この喫茶店は夜十時まで営業している――は、いつも店主に代わって彼が店を開けている。一人息子とはいえ、間もなく不惑を迎えようかという年頃の男である。本人の口からは、浮いた話などひとつも聞いたことがなかった。
     やがて陽が沈むであろう、秋の終わりの午後五時過ぎ。この時間なら店主はおそらく、裏の勝手口で煙草を吸っている。つい先日還暦を迎えたばかりの店主はこのところ、世帯を持つ気のなさそうな一人息子に店を譲るべきかどうか、同年代の常連客に相談してばかりだった。
     私はこの喫茶店が存外、気に入っている。都会から少し電車に揺られる必要はあるけれど、そのぶん時間はゆっくり流れている。そんな気がするからだ。
     カウンター席の、入り口から最も遠い位置。そこは私の好きな席だった。少ない労力でフロア全体を見渡すことが出来るし、店員がカウンターの内側でせかせかと働いている様子を眺めることも出来る。隣の空席に掛けてあったコートのポケットからライターを取り出せば、何も言わずとも目の前には灰皿が配膳された。
     すかすかのフィルターに、安物の百円ライターで火を点ける。ひと口深呼吸を済ませたところで、扉の上部にぶらさがった小さなカウベルがころんと鳴った。
    「遅なった」
     現状を説明することで詫びたつもりになっているらしいその男は、頭を軽く下げながら片手で空を切っていた。そのわりには急ぐ様子もなく、カウンターの前の通路を静かに闊歩している。カウンター席の最奥まで歩を進めた彼は、私の隣に腰掛けているチェスターコートを睨み、それから諦めたようにその隣の席へと座った。細長い足を器用に折りたたみ、ぺらぺらの背中をまるく曲げて小さく縮こまっている彼の姿は、私の知っている彼とは大きく異なっていた。
     十年前。
     私と彼が共に時間を過ごしたのは、十年前のことだった。当時、大学に入学したばかりだった私を、ジャズ研究会などという斜陽サークルへ半ば強制的に勧誘したのは彼である。
     活動実態のないわりに地道な声掛けが功を奏したのか、そのサークルは彼の卒業まで解体されず生き残った。とはいっても、彼の学年は私より三つも上である。私と彼が同時期にジャズ研へ在籍していたのは、僅か一年間のことだった。
    「おんなしの貰うわ。ふたつ」
     当たり前のように、彼はふたりぶんの飲み物を注文した。空になってしばらく経つ私のカップを一瞥し、頬杖をつきながら、至極つまらなさそうにカウンターの木目をなぞる。
     注文を受けた店主の息子は、拭いていたカップをガラス張りの吊り戸棚へと戻し、また別の棚から取り出した焙煎済みのコーヒー豆を、古ぼけた電動ミルの中へと注いだ。ジリジリとサイレンのような粉砕音を聞くたびに、そういえばこの店は挽きたてのコーヒーが売りであったことを思い出す。
    「お元気そうで何よりです」
    「お前もや、惣右介」
     十年という長い月日を感じさせないほど、それは澱みのない「惣右介」だった。思えば、あのころの彼もそんなふうに私の名を呼んでいたように思う。あのころ――私とあなたは大学生で、あなたはもっと髪を長く伸ばしていて、そして今よりもずっと迂闊だった。
     寝癖や、糸が切れた袖口のボタン、それから交友関係。何でもそつなくこなしているように見えてその実、彼の処理能力には限界があった。私は知っている。本当は面倒臭がりの癖に、人一倍自分の容姿に気をつかっていることを。私は知っている。彼が仕切っていたころから既に、ジャズ研究会では大麻の喫煙が横行していたことを。
     かたん、と陶器の触れる音がした。シンプルな装飾のカップと銀色のスプーンが、派手な模様のソーサーの上へ居心地悪そうに座っている。
    「痩せたんちゃう?」
     顎のあたりで短く切り揃えられた髪をそっとすくい、耳にかける。そうでしょうか、などと曖昧に相槌を打ちながら、私はそうっとカップを持ち上げた。口をつけながら、なんとなく抱いていた違和感に気がつく。どうやらソーサーとカップの組み合わせが、彼のコーヒーと真逆になっているらしかった。
    「……まァ、十年やもんなァ。さすがのオマエも痩せるわな」
     忘れられていた灯火が、今はもう白い蚯蚓の亡骸となって灰皿の中に横たわっている。私は過ぎ去った月日について、特に何の感慨も抱くことはしなかった。


     特徴のない女だった。黒髪に地味な顔立ち、中肉中背の凡庸な女。それはおそらく平凡な家に生まれ、特に問題もなく育ち、衝突も困難も経験することなく過ごしてきた女なのだと一目でわかった。
     彼の率いるサークルはほとんど活動実績もなく、謂わば彼が履歴書で「代表を務めていた」と記載するためだけに存在するような集まりなのだ。だからこそ、音楽――とりわけジャズになど毛ほども興味を示さないようなその女がサークルへ在籍しているのは、彼目当てであるということは誰の目から見ても明らかなことだった。そう、誰の目から見ても――ただ一人を除いては。
     彼は誰に対しても優しく接する人間だった。優しさとは無関心である。対峙する相手に興味がないから、どの個体に対しても平等に優しく接してしまう。彼にとって優しさとは呼吸のように普遍的なもので、無差別かつ全方位に向けて行われるものであったが、それは一部の人間に特別な感情を抱かせるに足る代物となってしまった。
     私と同学年だったその女は、あろうことか私へ相談を持ちかけるようになった。くだらない話ばかりだったが、見方を変えれば、この女から無尽蔵に湧き出る得体の知れない感情を何かに利用することは出来ないだろうかと考えはじめた。
     特徴のない女は、特徴のない女としての人生を歩み続けていればよかったのだ。何の変哲もない男と何の面白みもない恋愛をし、先人らの敷いた普通の人生という名のレールを往けばよかったのだ。そうすれば、不幸になることなどなかったのに――幸福になれるかどうかはともかくとして。
     サークルのメンバーはほとんど無作為的に寄せ集められていて、中には私のような男もいれば彼女のような女もいた。つまりは、真っ当な人間ばかりが集められたわけではなかったということだ。学内で大麻が流行しはじめた当初、容姿も相俟ってか彼は特に目をつけられていたように思う。ピラミッド・スキームじみた方法で集められた烏合の衆を率いている彼こそ、そういうものから最も遠い存在であるなんて誰も思わなかったのだろう。
     人生に意味などない。意味などない時間を過ごすには、百年という月日は長すぎる。だからこそ愚者は落下する。女は、何の変哲もない人生という名のレールから転がり落ちた。乾燥させた葉の詰まった、数センチ四方のジッパー付き保存袋。女は、泣きながら私に懺悔した。社会学の授業で、隣に座った男とたまたま目が合ったのだ、と。紙端が折れ曲がったルーズリーフに、簡素な筆箱、それから百円ライター。それらと共に講義机の上へ置かれた乾燥葉が、なぜかそのときだけは無性に心惹かれる存在に見えたのだという。
     教授が出席票を回収し終えたタイミングで、学生たちはぞろぞろと教室をあとにする。女が席を立ったときには、男は姿を消していた。手荷物をまとめながら、男が座っていた場所をぼんやりと眺めてみる。テーブルの下、固定された椅子の陰。視界の端に何かを捉えた。ジッパー付きの保存袋――導かれるように女はそれを拾い上げ、辺りを見回してから袖の内側へと隠した。
     私はその瞬間を見逃さなかった。


    「十年は、長かったやろ」
    「そうですか? 中では散々言われましたが――短すぎる、と」
    「実際どうやった?」
    「妥当……、なのでは?」
    「質問に質問で返してくんな、アホ」


     女の行動の一部始終を観察していた私は、単純にそのことだけを女に告げた。それから、その袖の中に隠し持っているものが、所持しているだけで罪に問われるものだということ。そして退学に追い込まれれば、サークルに所属し続けることはおろか彼に近寄ることさえ困難になるということ。女が泣きながら零した懺悔には続きがあった。違うんです、本当は――嗚咽まじりの声だった。
     本当は、あなたのことが。
     奇妙な事実を明かされたとき、私が覚えた感情は不思議なものだった。嫌悪感とも、背徳感とも言いがたい、何か得体の知れないもの。ぞわぞわと皮膚をなぞり這い回るそれに、私はどこか興奮を覚えていた。
     私は、女の袖に何が入っているかを知っている。私がその気になりさえすれば、この女の人生を潰すことも容易いということだ。
     私がその気になりさえすれば、この女はきっと私のものになるだろうし、私が指示さえすれば、女は誰にでも股を開いてくれるだろう。彼がその気になりさえすればこの女とも行為に及ぶことだろう。つまり順番さえ誤らなければ、私は彼の人生を壊すことさえ可能になる。
     私にはその事実が愉快であったし、全ての起点を手中におさめたのだという実感は私の気分を高揚させるに足るものだった。
     女を懐柔し身体を訐くまでの経過とは、普通それ自体がひとつの駆け引きとなりうるものだが、今回の場合はそうではなかった。凡庸な生を受けた女は、自ら道を踏み外すことでそのレールから飛び出すことに成功した。それが正しいことであるかどうかはさておき、私にとっては非常に都合がよかった。
     女は私との行為を気に入ったらしく、以前に比べて従順な態度を取るようになった。従順というよりはひどく隷属的で、女は凡庸さの象徴であった黒髪をあっさりと捨ててしまった。美容院で色を抜いたのだというそのロングヘアーは、たしかに私の隣で佇む人間の髪として相応しいと思った。惣右介くんが喜ぶと思って――などと称してはいたが、本当のところはどうか知らない。沈黙のうちに求めているものを、この女は見透かすことが出来たとでもいうのだろうか。
     女の部屋に上がり、目についた英和辞典を手に取る。受験生のころから使用していたであろうそれは、随分年季が入っていてちょうどよかった。聞けば、幼いころに母親から譲り受けたものなのだという。どうでもいい。適当なページを一枚、指で押さえてゆっくり破る。乾燥葉を巻いて火を点せば、立派なジョイントの完成だった。
     すごい、本物のたばこみたい。女は子供のように笑って、先端に唇をつけた。吸いかたさえ知らないらしく、はじめの数回は息をするたびに噎せていたが、二本目三本目ともなれば慣れたもので、そのうち上機嫌になって鼻歌までうたいはじめた。
     カーペットの上は埃と抜け毛だらけで、とても寛ぐ気にはなれなかった。しかし女はご機嫌な様子で、所在なげに立っている私にそこへ横になれと言う。仕方なく言う通り身体を横たえてやれば、女は暑い暑いと言って服を脱ぎながら私の上へ跨り、それからゆっくりと腰を振りはじめた。なんともばかばかしい視界の中で、ゆらゆらと宙を揺蕩う金色の髪だけが唯一、私の精神を焦がし続けている。
     あの人のことを思っているんでしょう。女はせせら笑うように言った。そんなことあるはずがないのに、自分の頭の中が見透かされているようで、気味が悪いと感じた。こういう生き物は早く殺しておくべきなのだ。
     女は保存袋の中が空になるまでそれを吸い、辞書は二十ページ以上が犠牲になってしまった。床に転がっている英和辞典はすかすかに間引かれていて、どこか薄ら寒そうにこちらを見つめている。残念なことだけれど、君の役目はもうここで終わりなんだ。
     我ながら、自分はなんて悍ましい人間なのだろう、と感動さえ覚える。抑止することのかなわない何かは確かにあって、私はその衝動を決して否定しない。ただし、細胞のずっと奥にはまた別の冷静な思考が存在しており、私の中の野生的な部分を、ただ何もせずぼんやり眺めているような感覚があった。


     最後のひと口を吸い終えた女が、私の隣で静かに寝息を立てている。生活感と甘い匂いが充満した1DKの片隅で、私たちはひっそりと社会から切り離されているつもりになっていた。
     それからしばらくして、女が突然、がたがたと全身を強く震わせながら嘔吐していることに気がついた。顔色も悪く、体温は異常に下がっていた。私の腕を掴んだ指先が死人のように冷たかったことは、今になっても鮮明に思い出すことが出来る。
     女は吐瀉物で喉を詰まらせていた。暗転する視界の中で、女は最後に私の腕を掴んだのだ。
     私は咄嗟にその手を振りほどき、そのまま命の灯火が消える瞬間を見届けた。生きようともがく必死の焚焼なのだから、邪魔立てすべきではないと思ってのことだった。
     ところで、窒息による死者は年間におよそ四千人近く発生している。たかが四千分の一がそばで発生したからといって、私という一個人が何か策を講じる必要などあるのだろうか。
     女の命が消失した瞬間も、皮膚の色が変わりはじめたそのあとも、私の中に後悔や反省といった普通の思考が生じることは一切なかった。認識出来るのは、その女が金色の髪のまま死んでいったという事実、ただそれだけのことだった。私は女の硬直が終わるのを待って、それから一度だけ死体になった女を抱いた。生前の女と同じく、従順で隷属的だった。行為を終えた私は、いつもよりずっと満足していた。
     私はきっと、この先もこうして誰かの人生を壊して生きていくのだろうし、そうしなければ生きていくことが出来ないのだろうと思う。だからこそ、私は司法に判断を委ねることにした。直接手を下さなかった人間が受ける最大の報いとは何なのか、彼に訊ねてみたいと思ったからだ。
     本当は、もう彼に会うことはないと思っていた。しかし今、私はここにいる。私の中にあったはずの奇妙な感覚は、どこにあるのかわからない。
     私は初めて訪れた場所の歴史を想像することが好きだった。
     カウンターの中で手際よくコーヒーを淹れている男が何者なのか、実際のところはよく知らない。本当に店主の息子かも知れないし、早期退職をしてようやく店をはじめたところなのかも知れない。すべて私が頭の中で作り上げた空想であり、目で見てわかる事象から推測した幻にすぎない。事実として、この喫茶店は彼が指定してきた場所であり、私にとってはじめて訪れる場所だった。
     かつて、私は自分のことをなんて悍ましい人間なのだろうと感じたことがあった。抑止することのかなわない、得体の知れない何か。あの日否定することの出来なかったその衝動が、私の細胞をふたたび躍らせる。
     奥にあったはずの冷静な思考は未だに息をひそめているらしいが、本当にそこに存在しているのだろうか。姿のないものは、あるかどうかさえもわからない。
    「俺は帰ってきてくれて嬉しいで」
     平等に配布される好意などに価値はない。そんなものはただの対話手段であって、特別な感情に起因するものではないから。
    「そうですか」
     適当に相槌を打っておく。価値のない感情に興味はなかった。私はただ、彼の特別を欲していただけなのかも知れない。
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