ワンライ没「そんなに笑うことないじゃないっすかー! HiMERUくんが可哀想っすよ、もー」
椎名が天城をたしなめている間、俺はずっと楽屋の隅でレジ袋を抱えていた。天城はそんな俺を見てまた舌を出しながら大笑いし、涙まで流している。
「いやマジで笑い死ぬって! 舞台で吐くとか最高すぎっしょ、さすがメルメル。メルメルさすが」
薄い壁の向こうからバイオリンの生演奏が聞こえてきた。俺たちの出番中に袖で待機していた、二人組アイドルの新曲だろうか。
舞台上での失態が暗転直後で助かった。イントロから気分は最悪で、サビは必死に吐き気を堪え、最後のポーズで限界がきて、赤いレーザーライトが絞られる直前に少し吐いた。幸い、観客に気取られることはなかった。次の出番への影響はなかったが、手袋と衣装が少し汚れてしまった。
ESの主催する年越しカウントダウンライブも、早いものでもう三度目になる。初めてこのステージに立った日のことは、今でも記憶に新しい。少しずつ休憩を挟みながらも会場を盛り上げる先輩らの背中を見て、アイドルとはどこまでいっても体力仕事なのだと痛感させられた。
今年はいくつかの会場に分かれて開催しており、コズプロが振り分けられていたのはBホールだった。なんでも、ステージの収容人数には各ホールごとに限りがあるとかで、自分たちの出番が終わったらメイン会場であるAホールへ移動しなければならないのだという。
桜河は別ユニットのメンバーと合流するため、ひと足先に会場を出たらしい。それを聞いて、少しほっとした自分がいた。HiMERUのこんな姿など、一秒たりとも見せたくない。
「ていうか、HiMERUくんほんと大丈夫っすか? そろそろ行かなきゃ間に合わなそうっすよ」
大晦日は過去になり、今はもう新たな年に突入している。それなのに俺はまだ喉の奥の異物感にうんざりしたまま、身動きひとつ取れずにいた。
嘔吐の原因について、特に思い当たる節はなかった。強いていうなら先日、年末特番の収録後に打ち上げで牡蠣を食べた記憶はあるが、あれにあたったのだろうか――むしろ、今思えばそれしか考えられない。
「見ればわかるでしょう? HiMERUはこの通り大丈夫なのです。ぴんぴんしています。心配ご無用です」
「燐音くーん。HiMERUくんが顔面真っ青虫の息でなんか言ってるっす」
そう言って、椎名はわざとらしく肩をすくめた。こういうときに椎名が優しい言葉をかけてくれるというのは、少し意外だったかもしれない。
「なんならフィナーレの舞台ド真ん中で盛大に吐き散らかしちまえよ、SNSのトレンドもネットニュースもメルメルの放送事故で埋め尽くされるんだ――ぎゃははっ、新年早々初笑いで縁起がいいねェ♪」
天城がひときわ大きな声で笑った瞬間、楽屋のドアが音もなく開いた。嫌な予感がして、俺は咄嗟にレジ袋で顔を隠した。
「あのー、何度かノックしたんですけど反応がなかったので。お取り込み中すみません」
予想通りの声。半透明のビニール越しに、青磁色の頭が揺れた。スタプロは隣のホールだったはずなのに。
「HiMERUさんが倒れたとお聞きしましたので、移動がてら寄り道してお声掛けに来ました。それと、」
巽を出迎えるために立ち上がった椎名と目が合う。俺が無言で首を横に振ると、椎名は困ったような顔をして巽に頭を下げた。
「あ、えっと……僕たち、あとで――」
「――お兄ちゃん?」
椎名の言葉を遮るように、俺を呼ぶ懐かしい声がした。
「……要?」
急に頭を上げたから、視界がちかちかする。飛び交う銀色の羽虫を避けた先、巽の後ろに隠れるようにして、その子はいた。不思議そうな表情で、ぼんやりした俺の顔を覗き込んでいる。
「お兄ちゃん、顔色やばいですよ? 大丈夫ですか? あの、これ持ってきたので飲んでください。あと本当だったら舞台に立つなと言いたいところですけど、少しだけ無理してください。お兄ちゃんを待っているファンの方も多いので」