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    ロマデ以降、イベスト「ナンバーエイト」以前の時間軸
    2月〜3月くらい?
    CP要素あり注意

    image song by 人間みたいね/キタニタツヤ

    #巽ひめ
    smallDriedSatsumi
    #巽ひめ(兄)
    himeTatsumi

    HUMANLIKE|巽ひめ❚❚ 6


    「実家の教会の裏にね、少しひらけた庭があったんです。だいたい六畳分くらいでしょうか、もう少し広かったかもしれません。とにかく、塀を建てたんじゃご近所さんに冷たい印象を与えてしまうからと、敷地をぐるりと囲むようにして生垣を作ろうということになって。母の提案で、夾竹桃を植えたそうです。育てやすいし、夏には鮮やかな花をつけるからと。それからしばらくは、母も近所の方々もその花が咲くのを喜んで眺めていたそうです。鮮やかなピンクや純白の花びらが、降り注ぐ陽光を一身に受けて輝いていたとか。ああ――すみません。どこか他人事のような話し方が気になりましたか? ご容赦ください。俺が物心ついたころにはもう、裏庭は更地になっていたもので」


    ▶ 1


     最近、風早巽がちょっと変だ。いや風早巽が変なのは今に始まったことではないが、平常時のおかしさを抜きにしたって明らかに、最近の風早巽は様子が変だった。
    「お待たせしました」
     まず、仕事の合間を縫って昼食を一緒に摂ろうと誘われた。今日はたまたまエステレで番組の収録があり、巽も同時刻に近くで別番組の収録があるからと半ば強制的に取り付けられた約束だったが、てっきりどこかでテイクアウトしたものを持ち寄って食べる程度のものだとばかり思っていた。
    「いや、別に待ってませんけど……」
    「お気遣いありがとうございます。少し収録が長引いてしまって……早速ですがお昼にしましょうか」
     巽が局の休憩スペースに広げ始めたのは、明らかに手作りと思われるハンバーグがぎっしり詰め込まれたタッパーだった。別の保冷バッグからは玄米ご飯のおにぎりとともにトマトとロメインレタスのミニサラダが現れ、栄養面も充分に考えられていることがよくわかった。これでは文句のつけようがない。
    「以前も同じものを作ったんですが、ジュンさんに美味しいと言っていただけたので……評判の自信作です。ふふ」
     何を企んでいるのだろう。突然昼食に誘ったかと思えば、まさか手作り弁当を持参したりして。巽の魂胆を訝しみながら、俺は玄米おにぎりに手を伸ばす。
    「ああ、いけません。HiMERUさん、野菜から摂ってください」
     言いながら、巽はよく冷えたミニサラダのタッパーを差し出した。無言で受け取り、トマトに箸の先端を突き刺す。手間がかかるだろうに、トマトの皮はきちんと湯剥きされていた。レタスにはシンプルなイタリアンドレッシングがかかっている。普通に美味い。
    「そういえば、忘れるところでした。ハーブティーも淹れてきたので飲んでくださいね。創さんによると、カモミールにはリラックスの効果があるそうです。午後からのお仕事もうまくいきますように」
     ほどよく硬い玄米を奥歯ですり潰し、勧められるがままに受け取ったハーブティーを喉の奥に流し込んだ。洒落たカフェレストランとかで出てくる料理みたいな後味だな。それからようやく、メインのハンバーグを箸で突いた。しかし、よく考えたら俺ばかり食べているような気がする。
    「……巽は、食べないんですか?」
     どうしてこんなに至れり尽くせりなのか。ハンバーグを口へ運ぶ前に、裏があるなら暴いておきたかった。さっきから巽は俺の食事をただじっと眺めているだけで、俺ばかりが出された品に箸をつけているというのも怪しい。
    「すみません。つい、見惚れてしまっていましたな。HiMERUさんが、あまりにも美味しそうに召し上がるので……」
    「聞いた俺が愚かだった」
     苛立ちのあまり、口調がおざなりになる。誤魔化すようにハンバーグを丸ごと口の中へ放り込んだ。甘くてコクのあるデミグラスソースが鼻に抜けて、とても美味しかった。
     これが先月の話。
     今月に入ってからは、巽の行動がさらにおかしくなっている。どこからか俺のオフの日を嗅ぎつけては食事に誘ってきたし、わざわざ水族館や映画のチケットまで用意して声を掛けてきたこともあった。いくら要と仲がよかったからといって、やりすぎているような気がしないでもない。最近はユニットメンバーにも「風早巽を懐柔している男」などと揶揄され始めていて、なんというか、まぁ控えめにいって死ぬほど不愉快だった。
     ALKALOIDでもさすがに巽の最近の不可解な行動は問題視されているに違いない。ちょうど、今度スイーツ会の集まりで春の味覚を使ったスイーツを食べ比べる話が出ていたような気がする。そのときに礼瀬へそれとなく尋ねてみることにした。


    ❚❚ 7


    「ああ、いえいえ。別に、苦い記憶とかそういうのではないんですよ。俺にとってはね。ただ、父があまり当時のことを語りたがらないもので……とにかく、裏庭へ植えたのは夾竹桃だった、それがいけなかったようでした。俺もあとから知ったのですが、夾竹桃は花から根に至るまで、すべての部位に強い毒性を持っています。本当は、そういったリスクまできちんと調べた上で植えなければならないのでしょうが、当時の母は夾竹桃のあの鮮やかなピンクに魅せられていたらしく。まさか中毒症状が出るほどの毒性を持っているとは、夢にも思わなかったのでしょうな。まずはじめに、斜向かいのお宅の飼い犬が亡くなるという痛ましい事故、いや事件が起きました。うちの敷地周辺に落ちた夾竹桃の花や葉を食べたことによる中毒症状が直接の原因でしたが、それも後々にわかったことでした。当初は誰も原因がわからず、かなりお年を召していたということもあってか、飼い主さんさえも寿命かな、なんて仰っていました。地域に根ざした教会の努めだからと、俺も父も亡くなった犬のために毎日祈りを捧げたりもしていました。今思えば滑稽ですよね。まさかうちの夾竹桃の毒が死因だったなんて、夢にも思わなかったでしょうから」


    ‎▶ 2


    「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
     昼下がり。我々『スイーツ会』は、喫茶COCHIの一角に集まっていた。事前に申請していた通り、飲み物は喫茶店のものを注文するという約束で、自分たちの持ち込んだスイーツを食べてもいいことになっている。
    「まずは私から。Scheduleの都合でSweetsを作る時間がなかったので、申し訳ありませんがTakeoutのものになりました。こちら、浅草の有名店・梅田屋の桜たい焼きなるものです」
     おお、と小さく歓声が上がる。ほのかに春めいた香りがした。
    「では次に私が……というか早めに出さないとクオリティが低くてがっかりされたらイヤなので! つまらないものをお持ちしてしまってすみませぇぇん!」
     言いながら、礼瀬が取り出したのはアルミホイルに包まれた四角い物体だった。二包ずつ手元に配布された手のひらサイズのそれを、ゆっくりと開けていく。どうやら手作りの桜餅のようだった。どうやらちゃんと桜の葉の塩漬けまで自家製らしい。かなり本格的だ。
    「あのぅ……椎名さんにレシピをお聞きして分量通りに作ったので、味は大丈夫だと思います……でもあの、お口に合わなかったら無理せず吐き出しちゃってくださいねぇ……!」
     再び上がった歓声を、礼瀬の積極的な泣き言が見事にかき消していく。俺と桜河が自分の持参したものを取り出したのはほぼ同時だった。
    「桜河からどうぞ」
    「ん、まぁわしも大したもんやないねんけどな」
     桜河が謙遜しながら取り出したのは京都の有名店のロゴが印字された化粧箱だった。冷凍の取寄せ品か何かだろうか。
    「桜味のスイーツとも迷ったんやけどな。被るんいややったから、わしはお抹茶の大福にしたわ」
     なんでもないような口振りの桜河が、実は少し前に音楽番組の控え室でスマートフォン片手にうんうん唸っていた姿を思い出す。坊はたぶん桜にちなんだもん持ってくるからなぁ、絶対被りたくないんよ、と言ってお取寄せスイーツを調べまくっていた桜河の丸まった背中。忘れたくても忘れられない記憶になった。
    「ではHiMERUも用意しますね」
     桜河が大福を小皿へ取り分けている間に、俺も持参したものをテーブルへ広げておく。旬の時期には少し遅いが、和三盆を使用した後味すっきりのスイーツだ。
    「前回は四角いシュークリームを持参したので、今回は同じブランドの和三盆プリンをお持ちしました。卵や生乳アレルギーの方はいませんね?」
     最終的に、礼瀬以外の全員が手作りではなくレディメイドのスイーツを持参するという結果になってしまった。手作りでなければならないというルールが明確に存在しているわけではなかったが、どこか暗黙の了解で手作りであることが好ましいような風潮があったのは確かだ。その空気感を四人中三人が破ったとなると、むしろ笑いがこみ上げてくる。
    「桜餅、とても美味しいですね」
    「ほんまやな。とても手作りとは思えんわ」
     俺の褒辞に桜河もすぐさま賛同する。その言葉に何の嘘も必要なかった。芋の甘みが強く感じられる、ほどよいしっとり感。コーヒーとの相性もよかったし、きっと紅茶にも合うだろうと思った。
    「もちろんどのSweetsも美味しかったですが……確かにこの桜餅は、基本に忠実でありながら奥深い味わいですね」
    「そうですね、HiMERUもそう思います。礼瀬、もしよければこのあとレシピをお伺いしても?」
    「え、ええ……構いませんけど……本当は不味くてあとで個別にクレームを入れたいとかではないですよね……?」
    「この人そこまで性格悪ないと思うけど……」
     例の件について探りを入れるため、それとなく礼瀬の予定を押さえておく。桜河にも怪しまれないよう、椎名に直接レシピを聞くのは遠慮してしまうから、などと適当に理由をつけておいた。
     実際、椎名に直接料理を教わろうなんてユニットメンバーなら誰も思わない。一度だけ天城の提案で、『Crazy:B』全員参加のカレーパーティーを開催したことがあった。基本的には椎名の指示で野菜を切ったり鍋を準備したりしていたが、雰囲気を壊したくないのか俺と桜河への指摘は比較的やんわりとした口調に留まっていた。あーこはくちゃん、野菜を切るときは猫の手っすよ〜。あーあーHiMERUくん、今日持ってきたのは新じゃがなんでアルミホイルでゴシゴシすればいいだけっす。それに比べて、天城への指示は荒々しい語気が目立つ。燐音くんのバカ、なんで言っといたのに火止めておいてくんないんすか、もう何もしないで。だんだん疲れてきたのか、椎名以外の三人があまりにも自由に動くせいで制御が効かなくなり、ルーを鍋に投入する直前で椎名がフリーズしてしまった――という悲しい記憶を思い出した。だから我々は誰も椎名の料理に対し、味の感想以外に一切の口出しをしない。
    「あの……本当に私からレシピをお伝えしちゃっていいんでしょうか。今からでも椎名さんに許可を取った方が……私、電話してきましょうか?」
     二杯目のオリジナルブレンドを飲みながら、やんわりと首を横に振る。桜河たちを見送ったあと、席には俺と礼瀬だけが残っていた。
    「すみません。レシピの件はただの口実なんです。実は、折り入って礼瀬に確認したいことがありまして」
    「ヒィ」
     本題に入った瞬間、俺の視界から礼瀬が消えた。ALKALOIDも大変だな。
    「別に怒ってないので、さっさと天井から出てきてもらえますか。こっちも忙しいので、手短に話します。風早巽について、最近何か変わったことはありませんでしたか」
     自分と関係のない話題に移ると、礼瀬はゆっくりと頭上から姿を現した。ステージの上で見せる、流線形を想起させるような礼瀬特有のあの動き。
    「巽さんですか……? そ、そうですね……」
     礼瀬の言動は見ていて飽きない。冷や汗をだらだらとかきながら、泳ぎまくっている目をまばたきで制御しようと試みている。テーブルの斜向かいで、長い睫毛が何度も揺れた。綺麗な顔をしている。
    「そういえば、最近よく昔の話をしていますね。藍良さんなどが喜んで聞いているので、私もつい嬉しく……ああっすみません肝心の話の内容までは覚えていませんすみません藍良さんの愛らしい表情ならば目尻口角鼻孔の動きなど細部に至るまでよぉく記憶しているんですけど……!」
     余計な情報が付帯しているが、どうやら風早巽はユニット内でも昔の話をよくしているらしい。昔? 昔って、いつごろを指すのに適した言葉だろうか。
    「玲明学園の革命についてですか?」
    「あ、いえ……出来事そのものについてというよりは、思い出話に近いというか……色々、最近になって思い出したことが増えたそうなんです。やっぱり入院していたころは、足が痛むからとあえて思い出さないようにしていたらしくて……でも、最近はあなたと過ごしていた日々を思い返して、懐かしいような面映ゆいような、そんな気持ちになるそうですよ」
     なるほど。少しずつ、点と点が線で繋がってきたような気がする。デビューから一年が過ぎ、ユニットでの活動が安定してきた今、当時のことを思い出し――願わくば友人として、もう一度『HiMERU』と交友関係を持ちたい。風早巽の魂胆は、概ねそういったところか。残念だが、こちらとしてはすぐにでもお断りし接近禁止命令さえ出したい気持ちだった。またユニットを組もうだの革命を起こそうだの、妙な計画を企てられても対処に困ってしまう。それに、俺はそもそも要じゃない。
     そんなと悪いですとすみませんを繰り返し唱える軟体動物から追加伝票を奪い、会計を済ませてさっさと外に出る。思っていたより薄い情報ではあったが、有力かつ可能性としては非常に高かった。早い話が、忘れていたのだ。
     二人で話す機会など、今までに何度もあった。にも関わらず、あの日の講堂で起きたことについて具体的な内容には一切触れようとはしなかった。愛★スタの収録時に『俺』を追及しなかったことにも合点がいく。
     あのころ、おまえに心酔していた十条要の息遣いなどすっかり忘れておきながら――ALKALOIDとしての新しいアイドル人生を歩みはじめたおまえは、落ち着いてきて昔を懐かしむ余裕が出てきたに違いない。そして要を思い出した。そうだ、昔はあんなに自分に懐いてくれていたのに。今度はこちらから歩み寄ってもう一度仲良くしよう、今度はきっと過たぬように。
     自分の推理があまりにもおぞましかったので、渇いた笑いが小さく漏れた。なんというか、虫が良すぎる。気持ち悪い。反吐が出る。真実を教えたら、どんな顔をするだろう。決して要を見世物のように扱いたいわけではなかったが、それでも。自分の信じていたものが偽物だったとわかったとき、風早巽はどんな表情をするのだろう。要には悪いと思いながら、ひどく興味が湧いていた。


    ❚❚ 8


    「決定的になったのは犬の事件があった翌年のことです。再び花をつけた夾竹桃が原因で、近所に住む子供が救急搬送されました。腹痛と嘔吐の症状を訴えており、直前にツツジの花の蜜を吸ったと言っていたそうです。ええ、あなたのご想像通り、その子が吸ったのはツツジの蜜ではありませんでした。葉っぱや花の形を見れば別の植物であることは一目瞭然ですが、子供の知識では見分けがつかなかったのでしょう。もちろん責任問題になり、うちの教会にも相応の対策が求められました。被害者が出た以上は夾竹桃の撤去が望ましいと町内会から正式に通達が出たんですな。母はもちろん反対したそうですが、父は有無を言わさず裏庭を更地にしてしまったそうです。うちはただ自分の家の庭に好きな植物を植えていただけなのに、なぜ勝手に敷地内へ侵入して生垣を荒らした人たちのために庭を破壊しなければならないのか。母の言い分はもっともでしたが、父は正論よりも世間体を優先した――有毒植物の栽培について地域住民の理解を得るよりも、原因を根絶してしまったほうが早いと考えたのでしょう。あの気難しい父のことですから、大いに想像がつきます。ああ、体調を崩していた近所の子供ですか? 数日ほど検査のために入院したのち、また元気に家の前を走り回っていたそうですよ。大事に至らなくて本当に良かった。まぁ、どれもこれも俺が生まれる前のお話であって、父や母から又聞きした情報を繋ぎ合わせたに過ぎないんですけど」


    ‎▶ 3


    「おや、HiMERUさん。奇遇」
    「ではありませんよね。出待ちしてたんですから」
     午後六時過ぎ。エステレ、関係者通用口。色紙やカメラを準備しながら目当ての人物が出てくるのを待っているアイドルファンの中に、風早巽が紛れ込んでいた。
    「あは」
    「鬱陶しいので笑わないでください。騒ぎになる前にさっさと離れましょう」
     バケットハットにサングラスというあからさまな出で立ちで俺を待っていた風早巽が、そっと黒マスクをずらす。露わになった口元からは、満面の笑みがこぼれていた。というか、そんな格好でよく周りにバレなかったな。
    「ふふ。案外気がつかないものなんですな。俺のアクリルキーホルダーを持っている子もいましたよ。ドキドキしました。癖になりそうです」
    「やめろ。こっちの心臓がもたなくなる」
     駅に向かって歩きながら、他愛ない会話を繰り返す。生憎だが、今回に限っては誘いを断る正当な理由があった。
    「ところで、夕食は」
    「すみませんが、今日は行くところがあるのでご一緒出来ません」
    「おや、そうなんですか」
     まったく残念そうに聞こえなかった。俺と一緒に食事したいのかしたくないのかどっちなんだ。別に残念がって欲しかったわけではなかったが。
    「ええ。少し、病院へ用事があって」
     つい、うっかり。巽のリアクションが予想とは違っていたせいで、ついうっかり口を滑らせてしまった。隣を歩く巽の様子を盗み見る。特に表情の変化は見られない。俺がどこへ行こうが何をしようが、あまり興味を示していないようにも見えた。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、巽は何か思い出したような顔で口を開く。
    「……そういえば。前にも、病院へ行っていましたよね」
    「そう、でしたか。前って、いつのことですか」
     これ以上言及されることを恐れてついとぼけてしまったが、俺はたぶん思い出せる。以前、これに似た会話を巽と交わしたのは確か、今年の一月頃だった。
     風早巽の様子がちょっと変になる、その少し前。ちょうど『COMP』企画の会議が煮詰まってきたころだったか。要の着替えを持って現場入りしたあと、そのまま病院まで直行した日があった。あの日も巽は俺にやたらと話しかけてきていて、鬱陶しかったのをよく覚えている。そんなにたくさん荷物を持って、旅行にでも行くんですか、とかなんとか。
    「あの……HiMERUさん、どこか具合が悪いんですか? 顔色があまりよくありませんよ」
     あの日の俺もまた、言わなくていいことまで衝動的に口走っていた。そしてそれをひどく後悔していた、ような気がする。旅行になんて行きませんよ。病院へ行くんです。そう言ってやったら巽は鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、病院? 病院って、HiMERUさん大丈夫ですか? どこか具合が? って、馬鹿のひとつ覚えみたいにそればかり繰り返していた。
     ああ、あのとき否定なんてしなければ、巽は永遠に勘違いし続けていたはずなのに。そうですユニットのみんなと旅行に行くんです楽しみですお土産でも買ってきてあげましょうか? そう言って、適当に笑っていればよかったのに。そうすれば、風早巽、おまえは何も知らない癖に、と――何も知らせないまま、何も教えないまま、ずっと心の中で罵倒し続けていられたのに。
    「確かに、言われてみれば顔色があまりよくありませんな。定期的に通っておられるようですが、薬は身体に合ったものを処方されていますか? HiMERUさん、いつ見ても急に倒れてしまいそうなので心配です」
     顔色がよくない? すっとぼけたような質問に、俺はただひたすら苛立ちを隠せずにいた。いつもそうだった。風早巽はいつだって、人のことをイライラさせる天才だった。あれほど要に感情的になるなと言っておきながら、自分がこうなのだから世話がない。はぁ、本当に具合が悪くなってきたような気がする。
    「…………ご心配、ありがとうございます。でもHiMERUは大丈夫です。なので、」
    「俺も病院まで付き添いましょうか」
     こいつ。
    「心配なので」
     出た。口を開けばすぐ心配、心配、おまえはいつ心配教の教徒になった? というか、おまえは何なんだ? 俺の母親か何かか? そもそもおまえに心配される筋合いはないし、出待ちなんかして勝手についてきたのはおまえだろ。胸ぐらを掴んで、一気に捲し立ててやりたい。ここが外で、道端でさえなければ。誰の目も届かないような路地裏だったなら。俺は今、間違いなくこの男を絞め殺していたに違いなかった。
    「巽」
    「はい?」
     しかし――まぁ、別にこのまま隠しておく必要もない。キリストが生まれる以前の古代ギリシャにおいてソクラテスは、無知とは罪であると説いた。要のことを知ったからといって、今の巽が無闇に世間へ十条要の現在を知らしめるようなことをするはずもないだろう。すべては、巽が要の現在を知らないという原罪から始まっているのだ。
    「巽は、俺が心配ですか?」
     首を絞めて殺すのは諦めた。代わりに、人差し指と親指で頬を掴む。
    「はい。心配です、俺は、すごく、HiMERUさんが」
     発音は完全に「でしゅ」やら「しゅごく」などとなっていたが、取り立てて可愛いわけではなかったので無視しておく。形のいい唇が無様に変形していていい気味だった。
    「じゃあ病院まで付き添ってもらいますけど、後悔しないでくださいね」
    「えっ、いいんですか?」
     どっちなんだ。来るのか来ないのかはっきりしろ。
    「来ないんですか?」
    「い、行きます。行かせてください」
     ざまあみろ。絶対に後悔させてやる。


    ❚❚ 9


    「そういう様々なことが積み重なった結果、父と母はあまりたくさん言葉を交わすような夫婦ではなくなりました。俺が物心ついたころの話ですし、俺という子供が生まれている以上は、二人の間にも何らかのコミュニケーションはあったのだとは思いますけど。何にせよ、ひと通り自分のことが自分で出来るようになったころから、俺は自然と父の仕事を手伝うようになりました。今はこんなですが、当時は老若男女問わず地域の人気者だったんですよ。日曜の炊き出しが始まれば『炊き出しのお手伝いをしている子』なんて呼ばれてお菓子をもらったり、小さい子の面倒をみていれば『教会のお世話係の子』なんて子供たちから慕われたり――なんだかそれって、アイドルみたいですよね。曲や衣装で表情が変わる。ときには別人にもなりきって、人々に神の愛を届ける仕事。あれ? 何の話でしたっけ? ……あぁ、そうそう。つまり、例の事件というか事故というか――あのことがあってから。いや、生まれたときからずっと。近所の人たちにとって、俺は。俺という人間は『あの夾竹桃の家の子』であって、『風早巽』ではなかったんです。ただ、それだけ」


    ▶ 4


     病室は、もぬけの殻だった。
     一瞬、思考が止まって空白になる。だって、この間お見舞いに来たときにも要は正気を取り戻してなんていなかったのに。これが普通の怪我や病気が原因で発生した入院だったら、きっと看護師に連れられて庭で散歩でもしているに違いないとか、屋上でジュースでも飲んでいるに違いないとか、そういう和やかな心配で心を満たすことが出来た。でも、現実はそうじゃない。弟は他人の悪意によって、身も心もばらばらに切り刻まれている。だから、この個室を飛び出して一人でふらふらとどこかへ行く、なんてことは絶対にありえなかった。
    「……さん、HiMERUさん。おーい、聞こえてます?」
     数十メートル先から名前を呼ばれているのかと思ったら、耳元で風早巽が笑っていた。軟骨の凹凸部分が生あたたかい息を拾って、丁寧に鳥肌を立てていく。そもそもその名前で呼ばれたって、今この場所に限っては無意識下で自分のことだと理解出来ていなかったのかも知れない。名前にだってTPOというものがあった。俺は病院に来れば自動的に『お兄ちゃん』になり、風早巽は有無を言わさず『部外者』になる。
    「……ええと、何か間違っていたことを言っていたら訂正してください。普通、診察を受けるなら窓口に診察券を出すはずです。でも、HiMERUさんはまっすぐに面会受付のカウンターへ行きました」
     ざわついた心が落ち着くまで、拙い推理に耳を傾けてみる。ベッドの上にはどうせ、皺になったシーツしかいないのだから。
    「それから、面会票には俺の知らない名前を書いて窓口に渡し、ここへ来ました。つまり、HiMERUさんの本名は俺の知っている『十条要』ではないこと――それから、目的は通院ではなく面会だった、ということがわかります」
    「ええ。それから?」
    「それから? ……それからなんてありません。今の俺にわかることは、それが精一杯です」
     目の前にある空白のベッドも、少し前に俺が犯した失言も、見えていないわけがないのに。風早巽は、想像や一元的な思想だけで物事を断定したくないらしい。なぜなら、推理とは想像や一元的な思想だけで物事を断定していく作業そのものを指しているからだ。
    「巽。推理をしてみましょう。この病室には本来、俺が尋ねてきた相手がいるはずでした。それはなぜですか?」
    「入院している人がいて、HiMERUさんはその人に面会するためにここへ来たから、でしょうか……?」
    「正解です。では次に、俺の尋ねるはずだった相手はここにいませんでした。なぜだと思いますか?」
     核心に、触れないよう気をつける。焦らす愛撫のように。
    「ええと……HiMERUさんが来るのを、知らなかった、とか……?」
    「正解、かも知れません。しかし、あるいは不正解かも知れません。もしかしたらその反対で、俺が来るのを知ったからこそ、あえて姿を消したという可能性もあります」
    「そうなんですか?」
    「わかりません」
     巽は苦虫を噛み潰したような顔で俺を見ている。ずるい受け答えをしている自覚はあった。でも仕方ない。こっちだって何が起きているのかわからないのだから、勝手についてきただけの部外者がそんな顔して許されると思うな。
    「じゃあ次。風早巽は、なぜここ最近俺にネチネチと付きまとって媚びるような真似をしていたのでしょう?」
    「うっ……」
    「仮病はやめてください」
     本来ならシンキングタイムを設けるべきところだが、今はそんなことをしている場合ではない。ここはクイズ番組のスタジオではなく、十条要が入院しているはずの病室なのだから。
    「バレましたか。HiMERUさんは何でもお見通し、なんですな」
     何でもはお見通せていない。そんな神通力を持っていたら、巽が何を企んでいるのかも要がいったい今どこにいるのかも、すべて丸ごとお見通せているはずだった。でも、今の俺には何もわからない。巽がなぜ俺にすり寄り、媚びているのか。明らかに他者へ向けるそれとは違う、熱のこもった感情をダイレクトにぶつけてきているのか。どうして要は忽然と姿を消してしまったのか。そこに相関関係はあるのか、ないのか。何も、何もわからない。
    「……『HiMERU』の、推理はこれで終わりです」
     あの日。要の着替えや消耗品などの詰まったキャリーケースを抱える俺には、確かにどこかへふらっと旅にでも出そうな雰囲気があったのだろう。そんな俺を見て「旅行にでも行くんですか」などと尋ねた巽にも、別段不審な点は見当たらなかった。どこにも疑念を抱く余地すらない、まるで普通の会話。そのはずだった。
     なら、なおのこと俺は巽の勘違いを否定する必要はなかったし、疑惑の穴を無駄に拡げる必要もなかった。にも関わらず否定せざるを得なかったのは、俺が巽を恐れていたからだ。
    「ここまで話してみて、何か――気がついたことはありますか。巽」
     本当は、真実に到達しているんじゃないか? なんとなく察しているんじゃないか? ES所属となる以前に一度だけ、俺たちは顔を合わせたことがある。遠巻きにではあったが一瞬だけ。あの日、第三講堂で。その面影をようやく記憶の中から掘り起こして、今の俺に重ねているのかも知れない。そして何も覚えていないふりをして、真実を推し量ろうとしているのかも知れない。
     すべてを承知の上で旅行云々言っていたのだとしたら、巽の発言ひとつひとつが俺を試しているようにも聞こえて恐ろしくなった。何も知らないくせにと心の中で毒づいたこともあったのに、馬鹿にされているのは俺のほうじゃないか。そう、感じてしまったのだ。


    ❚❚ 10


    「それだけの話か、って?」


    ▶ 5


    「ええと。では、HiMERUさん」薄い唇の上を、舌が這っている。「俺からも、いくつか質問していいでしょうか」
     病室にいるはずの弟がいない。必死に手繰り寄せていた一本の蜘蛛の糸が、ぷっつりと途切れてしまったような気持ちだった。カンダタもあのときばかりはこんな気持ちだったのだろうか。
    「ええ。構いませんよ」
     適当に相槌を打つ。実際、巽が何と言ったのかまったく聞いていなかった。頭が全然回らない。要の姿が見えないというのは、それだけで紛うことなき緊急事態だった。なのに俺はさっきからずっと、その真っ赤な舌に視線を縫い留められてしまっている。唇の隙間をのろのろと蠢いている、巽のそれ。まるで意思を持った生き物のように、こちらをじっとりと見つめているような気さえした。
    「要さんは昔、とても迂闊な感じだったと記憶していますが――HiMERUさんもそうですか?」
     処女の未発達な小陰唇を思わせる、薄桃色に色づいた唇。その内側から現れた舌先は、俺が知っている中で一番赤い色を発していた。思考が、うまく働かない。高熱に浮かされた夜の夢の中みたいに、ぼんやりと薄く靄がかっている。
    「いや……そんなはずはない、HiMERUはいつでも完璧で――」
    「そうですか。では、このベッドに横たわっているはずだったのは誰ですか?」
     言っている意味がよくわからない。異国語を列挙しているようにしか聞こえず、俺の舌は口の中で何度ももつれながら曖昧な返事を繰り返していた。
    「あぁ……えっと、すみません。俺が本当に聞きたいのは、そういう直接的なことではなくて……いや、今はそっちのほうが大切なんでしょうけど。でも俺は、この病室に本来いなければならない人が誰なのか、知りませんから」
     巽の顔、が、視界いっぱいに広がっている。そこで俺はようやく、自分が今にも倒れてしまいそうなこと、巽が俺の肩を掴んでくれているから今の体勢が保てていることを知った。
    「俺がなぜ、ずっと君に、その……付きまとうような真似をしていたのか、お話しします。HiMERUさん、俺はずっと、君から――君の口から、真実を聞きたかった」
     声色は切実だった。吐息が甘い匂いを放っている。巽の言葉は断片的に思考回路を通過していった。深く理解することは出来なかったが、虫の息も同然の脳細胞がなんとか咀嚼しようと頑張っている。
    「あのころの君は、馬鹿な俺に寄り添ってくれた。俺の思想に殉じたいと言ってくれた。胸の内に溜めこんでいた思いを、すっかり吐き出してぶつけてくれた。だったら、もう一度同じようになりたいと思いました。もう一度俺が、今の君にとっての大切な存在になれたら。そうすればHiMERUさんはきっと、今の本当の気持ちをお話ししてくださるのではないか。そう思いました」
     あの舌が自分のそれに絡まったら、きっと気持ちがいいのだろうなと思う。本当は今までに何度も頭の中をよぎっていた感情で、しかし表面上それが発露することはなかった。たぶん、理性と苛立ちで固く密閉されていたからに違いない。
    「しかし今は昔とは違います。俺と君はもう学校もユニットも別々ですし――っ、ん?」
     想像していたよりも、風早巽の唇は柔らかくて冷たかった。まるで死体の肌に直接口付けているみたいだ。気持ち悪くて、吐き気すらしているのに、離したくない。要のいない病室で、俺はとうとう頭がおかしくなってしまったのだろうか。
    「っめる、さ……」
     誰でもない名前を呼ぶその声が、吐息になってじわじわ溶ける。開いた上顎の粘膜から伝わる巽の体温は、なんというか、柔らかかった。ひび割れた爬虫類の下腹部を想起させるような、そういう生ぬるい温度。
    「……んっ、ん…………」
     見開かれたままになっていたまぶたが、観念したかのようにゆっくりと閉じていく。俺にもまだ得体が知れないこの衝動を、この男は受け入れると決めたのだろうか。
     ぎこちなく突き出された唇を、自分のそれで吸ったり舐めたりしている。時折挟まれる息継ぎのほうがむしろ、他の何よりも熱を持っているような気さえした。下着の中がだんだんと窮屈になっていくのを感じながら、俺は今になって僅かな焦燥を思い出す。
     俺の口から真実が聞きたかった、と巽は言った。俺が要のことを自ずと話したくなるようにと、巽は自分を信用させるために致死量の好意をぶつけてきた。俺はそれに乗せられただけで、それ以上も以下もない。言い訳にさえならないかも知れないが、『HiMERU』が暗示にかかりやすいことは既に二月に証明している。
     個室だからといって、内鍵の掛からない要の病室で最後までするわけにはいかない。だからジャケットの内側へ侵入しようとしている巽の指先を、今すぐにでも制止する必要があった。
    「……巽」
     離した唇の間に、涎の糸が引いた。見つめ合って笑うほどの甘い雰囲気など俺たちの間には存在しない。なんというか、若干の気まずさがある。
    「はい?」
     憎むべきともいえる相手の顔がずっと至近距離に存在しているせいで、頭が冴えてきたのかも知れない。行動こそ短絡的だったくせに、今の自分がひどく滑稽に思えてならなかった。
    「すみません」
    「どうして君が謝るんですか?」
     殺したい。いや、一連の行動を振り返れば明らかに俺が異常なのは百も承知だった。しかしそれでも俺は、風早巽を殺したい。俺のこれまでの常軌を逸した行動は、同様に常軌を逸した思想でなければ塗り替えることが出来ないからだ。
    「……あぁ、キスのことですか? 確かに、突然唇を奪われてびっくりはしましたけど……少なくとも、俺は嬉しかったので謝る必要はありませんよ?」
     やっぱり殺したい。しかし今ここで巽を殺せば、すべての状況証拠が要を犯人に仕立て上げてしまう。
    「おまえ、俺から情報を聞き出すためならなんでもするのか」
     思ったより声が震えた。久しぶりに取り込んだ空気があまりに清潔で、肺が驚いているのかも知れない。
    「なんでもは、しませんよ」
     本当のことを話して欲しかった。だから常に付きまとって、好意的なふりをしていた。大切な存在になら本当のことを話すんじゃないかと思ったから、自分が相手にとっての大切な存在になるために。これが気違いじゃなければ何が気違いになる。
    「すべて、俺がやりたくてやったことです」
    「要のことを聞き出すためにか?」
    「あの、違います。それは」
    「違わないだろ」
     沈黙。露骨に俺から目を逸らした巽は、消毒液の匂いがする病室の空気に視線を泳がせ、反駁のための言葉を探していた。
    「性的な接触に応じるのは、礼儀じゃないからな」
    「それはわかってます。だから俺は嬉しかったと言いました」
     唇のまわりが涎でベタベタしている。喋るたびに不愉快だった。
    「おまえは真実を知るためだったら身体も差し出せるのか」
    「だから、それは普通に嫌です」
    「だったらさっきのは」
    「俺も君と同じ気持ちだったからに決まってるでしょう?」
     再び、沈黙。今度は俺が言葉を探す番になった。なんだこいつ。やっぱり様子が変だ。風早巽が変なせいで、俺までおかしくなっている。
    「……あの、すみません。このままだと話が永遠に進まない気がするので、」
     口を開いたのは巽だった。
    「少し、昔の話をしてもいいですか」


    ❚❚ 11


    「……ふふ、はい。お恥ずかしいですが、それだけの話、です。だって、生まれて初めて俺を『風早巽』として尊重してくれたのは要さんだったから。仕事の出来る『特待生』でもなく、学園の体制に刃向かう『革命児』でもなく、期待に応えてくれる便利な『アイドル』でもなく、風早神社の『息子さん』でもなく、ただの『風早巽』として。もちろん部分的にはすべてを内包していた感情かも知れません。それでも、俺を個人として愛してくれるってすごいことだと思うんです。だからこそ、俺も早くその特別な愛に報いたかった。でも、出来なかった。あのあとすぐに俺たちは引き離されて、それからは別々の病院に入院していましたし。だから、旧星奏館で再会したあの日が俺にとっての思い出だったんです。純粋に、嬉しかった。ユニットは離れ離れになってしまったけれど、チャンスがあればまた同じステージに立つこともあるかも知れないと期待していました。仕事で近くにいることがわかればすぐ応援に駆けつけましたし、君のために出来ることは何でもすると決めていました。入院生活のせいで発生した一年間の溝を、一秒でも早く埋めてしまいたかったから。でも実際には、君は彼とは別人だった――あぁ、どうして最初に昔話をしたのか気になりますか? ふふ。構いませんよ。実は、俺の家の裏庭は今もまだ更地なんです。でももう、父も母もあまり気にしていないようで。結局、そういうものなのかなとも思いました。後ろ指をさされる原因を作ったのも、その原因を取り除くと決めたのも両親ですし。これまでの俺は、ただ大人の決めたことに従って生きていただけでした。きっと、だからこそ俺は俺としてじゃなく、何か別のレッテルを貼られていたんです。それを教えてくれた要さんにお礼が言いたくて――あ、あれ? もしかして、君は――」


    ▶ 12


    「お兄ちゃん……と、巽先輩?」
     ノックもなく開いたドアの向こうにいたのは、十条要だった。
    「おぉ。要さん、お久しぶりですな」
    「巽先輩、髪切りました?」
     平日の昼を彷彿とさせるフレーズで近況を確認し合いながら、華奢な身体で院内着をずるずると引きずり歩いている。
    「はぁ。今日のリハビリも疲れました」
    「リハビリ? それは大変でしたな。お疲れ様です」
     要は巽との薄っぺらい会話を続けながら病室の中ほどまで歩を進めたあと、持っていた財布や書類をベッドの枕元へ投げ置いた。それからも横になる気配はなく、点滴台に体重を預けたまま立っている。いや待て、立っている?
    「要、もう歩けるのか?」
    「何ですか? 人をクララか何かみたいに……普通に歩けますし、お風呂も介助なしで入れるようになりましたよ。えっへん」
     要はへなへなの身体でガッツポーズをして見せ、骨の浮き出た力こぶを自慢してきた。いや、だから一月に面会したときはまだ昏睡状態だったはずのおまえが、なんで今自由に動き回れてるんだ。理解が追いつかず、言葉が上手く繋がらない。俺はただ首を傾げることしか出来なかった。
    「あ、もしかしてお兄ちゃん知らなかった系ですか? ぼくが目を覚ましたこと」
     知らなかった系? あぁ、知らなかった系だ。この世に存在する系統が知っていた系と知らなかった系の二種類なのだとしたら、俺は間違いなく知らなかった系に所属するタイプのお兄ちゃんだった。
    「あれー? お医者さん、親族の方にはこちらから連絡しておきますって言ってましたけど」
     父だな。絶対に殺してやる。
    「知らなかったお兄ちゃんのために、簡単に説明してあげます。二月の初旬にすっかり目を覚ましたぼくは、 毎日厳しいリハビリを頑張って、ようやく少しずつですが一人で歩けるようになり、身の回りのことも出来るようになってきて、そろそろ家族の方をお呼びして退院の日程を調整しましょうかという段階にまで到達した次第です。ところで、どうして巽先輩までここに? 怪我はありませんでしたか? というか、前に会ったときよりお兄ちゃんのぼく度が上がってますね?」
     こんなに口数の多い浦島太郎が他にいるだろうか。ややこしいのが一人から二人に増えたせいで、誰を相手にどこから説明すればいいのか判断がつかない。というか、ぼく度ってなんだ。今の俺の容姿のことか。
    「問題ありませんよ。ええと、お兄ちゃんさん」
     お兄ちゃんさん。
    「現状を鑑みるに、大体の予想はつきました。俺の知らないところで、たくさん頑張ったのでしょうな。要さんも、君も」
     だから、どうして俺が慰められてる。全部終わって、もう何も隠さなくてよくなって、今から全部が始まるからか。
    「巽先輩。ぼくが入院している間に何があったのか、あとでこっそり教えてもらえますか?」
     どう考えたって、ずっと仲間外れにされていたのは他でもない巽自身のくせに、なんでこの状況で一番落ち着いていられるんだ。理解出来ない。今はおまえが一番、狼狽えてていいはずだろうに。
    「ええ、構いません。でも先に、君のお兄さんをいっぱい労ってからにしましょうか」
     巽の昔話は、今の俺に与えられた価値とよく似ている気がした。俺は、生まれたときから兄だったわけじゃない。要が俺を兄にした。要がいたから、俺は兄になった。それだけ。それだけの話。
    「わかりました! 約束ですよ。お兄ちゃん、ええと、たくさんお見舞いに来てくれてありがとうございました」
     もう笑えばいいのか泣けばいいのか怒ればいいのかわからなくなって、俺はとりあえずジャケットの袖で口を拭った。
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