「ご乗車ー、ありがとうございます。このバスは、水上岬、行きです。」
プシュー、と音を鳴らしてバスの扉が閉まる。
和泉一織と七瀬陸は、乗客の少ないこのバスの、1番後ろの座席に並んで座った。
「バスが発車します。お立ちのお客様はつり革におつかまりください。」
車内アナウンスと共に、バスがゆっくりと進み始める。
「どこで降りるんでしたっけ?」
「えっとね、飴色海岸って停留所だよ。ここから7つくらい先。」
今日は2人でオフの日。陸の希望で、海が見えるハンモックカフェでデートだ。
「お店は予約してあるんですよね?」
「うん、サイトで予約したー。」
各ユニット新曲シングルの販促と重なり、プロデュース業で忙しくしている一織の代わりに今回は陸が予約をしてくれた。
バスは海岸沿いを走っていく。海側から差し込む光が暖かに優しく、まどろみに溶け込んでしまいそうだ。隣に居るのが心を許した恋人であるのも、バスにまばらに年配客しかいないのも、気を緩ませる。
いけない、本当に寝てしまいそうだ。昨日も遅くまでマネージャーと販促イベントのグッズについて討議をしていて、少し寝不足で。既に各シングルは予約が始まっており、昨日聞いた話だと売れ行きも良さそうだ。そういえばそろそろ販促イベントのセトリを考えたい。明日マネージャーとメンバーに相談を……。
***
「次は、小倉浜ー、小倉浜に泊まります。お降りの方はボタンを押して、お知らせください。」
いけない、本当に眠ってしまっていたらしい。あと何駅くらいだろうか。一織が顔を上げて窓に貼ってある路線図を確認すると、さっと血の気が引いた。
……乗り過ごした。
隣の恋人を見ると、一織の肩に頭を預けて寝息を立てている。普段なら一織が必ず起きていて、目的地に着いたら起こしてくれる。いつもだったら絶対に寝過ごさないのだ。
「七瀬さん、七瀬さん。」
周りの客に配慮して声は優しいものの、一織はベシベシと陸の膝を激しく叩いて起こす。
「ん……おはよ、一織。どうしたの。変な顔……。」
陸は寝ぼけまなこを擦りながらふわふわとした笑顔を見せる。かわ……いいけれども今はそれどころではない。
「どうしたのも変な顔もないですよ。私たち、乗り過ごしてます。」
「えっ?」
乗り過ごし、という言葉に陸も流石に目を覚ます。
「……えっと、とりあえず次で降りる?」
***
「ここ、どこだろう~。」
「小倉浜って書いてありますね。飴色海岸は10駅は前みたいです。……2人共寝てしまうなんて、はぁ。」
一織は停留所の案内を見て答えつつ、大きなため息をつく。
「予約時間もすぎちゃってるけど、カフェ間に合うかなぁ。」
「バスで戻るにしても、あと15分は来ないみたいですよ。」
2人で道を渡り、反対側の停留所の時刻表を確認する。
「歩いた方が早いかもしれませんが、日差しも強いですし距離もありますし、はあ、どうすれば……。」
なんだか焦っているような一織の様子に、陸は一織の顔色を伺う。
「一織、怒ってる?」
「は? 怒ってませんけど。」
一織は少し声を荒げた。
「……怒ってる、イライラしてる。じゃあいいよ。もうハンモックカフェ行くのやめようよ。」
「私のせいみたいに言わないでくださいよ! あなたも寝てたじゃないですか!」
「それは悪いと思ってるよ。でも一織だって寝てたじゃん。」
陸に指摘されて、一織はしゅんとする。
「……っ、すみません……。」
「あのね、一織。」
陸は一織の両頬を掴んで、自分の方を向ける。
「一織、最近マネージャーと打ち合わせとかしてて毎日遅かったでしょ。だからオレ、今日は一織が休めるようにって思って、ハンモックカフェに連れて行ってあげたかっただけなんだ。」
「七瀬さん……。」
一織は陸の気遣いに目頭が熱くなる。ハンモックカフェで寝るわけではないので、休めるかどうかは怪しいが。
「でも、暑い中歩いたり日陰もないここでバスを待たないといけないなら、一織が休めないからだめ。無理にハンモックカフェに行かなくても、ここの近くにもカフェはあるみたいだし。」
そう言って陸は周りのお店を指す。
「でも、予約……してるって。」
「一織が元気になるならキャンセル料くらいはいくらだってオレが払うよ。このへんでお茶して、後でバスでお店に戻ってキャンセル料払って帰ろう。どう?」
陸は本気で一織の事を心配してくれているらしい。そんなことを言われてしまっては、頷くしかない。
「わかりました。すみません、ありがとうございます……。」
「うん! じゃ、先にキャンセルの電話しちゃうね。」
陸はポケットからスマホを取り出し、カフェに電話をかけた。
「もしもし、今日2人で予約してた七瀬ですけど……。」
陸の言葉に一織はわずかに頬を染める。来店していれば店員に2人セットで「七瀬様」と呼ばれていたかもしれないと思うと。こんな小さなことで舞い上がるなんて、陸には気づかれたくないけれど。
「え、予約入ってませんか? あれ、公式サイトで予約したのに……。」
陸の電話口での発言に一織はぎょっとする。
「……ええっ! ちょうど来週になってるんですか~!?」
それを聞いて、一織は吹き出しそうになる。予約していたのが明日だったみたいなミスを想定していたのに、まさか1週間も間違えているとは予想もできない。
「あ~、カレンダーで日付クリックして予約したから1行ズレたのかも……。」
電話口で自分のミスを懇切丁寧に説明する陸。
予約確定の前に出てくる確認画面が何のためにあるのか、彼はご存知だろうか。
「ごめんなさい、来週その日はオフじゃないので、キャンセルできますか……? キャンセル料は……え、いいんですか? あ、当日だけかかるんですね!」
席のみの予約なら1週間も前からキャンセル料を取るカフェはそうそうないだろう。
「はい、ありがとうございます。今度また2人で行きますね!」
早くも次のデートの予定が決まりそうだ。一織の心が小さく跳ねる。
「一織、キャンセル料いらないって!」
通話を切って、陸は眩しい笑顔を一織に向ける。
「……聞こえてましたよ。全部あなたが喋ってました。」
「え、喋ってた? うーん、喋ってたかも~。」
陸の呑気な返事に一織の眉が下がる。同じ要領で天や一織との関係も漏らしてしまったりしてないだろうか、不安でたまらない。
「まあいいや、どこでお茶する?」
陸はこてんと首を傾げて尋ねる。
「……どこでも、いいですか?」
一織は小さな声で尋ねた。
「すっごい変なところじゃなければ?」
陸の返事に、一織の遠慮が顔を出してしまう。
「……じゃあ、いいです。」
「え、すっごい変なカフェなの?」
「そうじゃ、ないですけど。」
「どこ?」
「……笑いませんか?」
「笑うかも。」
「じゃあいいです。」
「いやいやもう言ってよ。笑うかもしれないけど、多分それは一織がかわいくてだから。」
陸はにっと笑った。恥ずかしげもなくこの人は。
「かっ……、かわいくないです。」
「はいはい。で、どこ?」
小さな抵抗も適当に流されてしまった。
「あちらの……。」
一織はおずおずと右手を上げ、バス停から2件隣のカフェを差した。
「あっ! あざらしカフェ! まあるいアイスクリームにあざらしの顔を書いてくれるんだ! かわいい~! 一織あそこ行きたいの?」
「べ、別に行きたいという訳では……。」
「いーや、一織はあざらしカフェに行きたいんだよ。」
「え……」
「多分そう! オレの勘がそう言ってる!」
陸の強引さに一織は思わず笑ってしまった。
「多分って……。わかりました、そういうことにしておきます。」
「よし、じゃあ行こう!あざらしカフェ楽しみだね~!」
そうして2人はあざらしカフェの方へ歩を進めた。