那由多の砂浜「さっっっむ」
雨は降らない程度の曇天。風は冷たく、獅子神は羽織ったジャケットの胸元を掴んだ。傍の村雨は風に煽られて珍しく額があらわになっている。髪どころか身体も少しよろめいておりグラスコードがチリチリと忙しなく揺れている。
「ダハハ! 先生、手繋いでやろうか? 飛んでいっちまいそうだぜ」
「照れ隠しのジョークのつもりか? あなたにしては良い判断だな。さあ、手を繋いでもらおうか」
赤面して「飛んでいっちまえ」と返す。いつまでたっても獅子神は村雨に墓穴を掘る。手は繋いでもよかったのに。おい、わかってるならその顔をやめろ。
海水浴シーズンでもない季節。獅子神が幼い頃に夢見ていた南の島でなく、国内の少し寂れたなんの変哲もない砂浜。磯臭さとべたつく潮風。海は青というより黒に近く、尽きることなく白い波がうねり打ち寄せていた。
「ああ、あれだ。思いの外大きいな」
暫くすると目の先に何か見えてきた。“見えてきた”というのも、それがこちらへむかって“動いている”ためだ。帆のようなものが風に煽られるのにあわせて“それ”は歩いていた。たくさんの脚がカタカタと動いて自分で進んでいる。
テオ・ヤンセンによる動く巨大アート作品。砂浜の生命体『ストランド・ビースト』である。
◆◆
「獅子神、週末に◯◯浜へ行くぞ」
いつものように仕事帰りに獅子神宅へ上がり込んで当然のように用意されたステーキをぺろりと食らい尽くした村雨は出された食後のコーヒーを飲みながら言い放った。
「浜? 泳ぐ季節じゃねえけどなんかあるのか?」
予定が空いているかいないかなんて確認などしない、スピーディーな会話。
「これを見に行く」
村雨は折り畳まれた紙片を懐から取り出して差し出す。それには海と砂浜、そして奇怪な造形物の写真が掲載されたフライヤーだった。
「風を食べる…生命体?」
「勿論、本当に生物というわけではない。物理学計算に基づいて作られた動く芸術作品のことだ」
「つまり、屋外のアート鑑賞のデートってことでいいか先生」
「そういうことだ」
ふたりは恋人という関係になってから様々な所へ出掛けた。映画をみたり、動物園や植物園、水族館にも行った。クラシックのコンサートの時もあれば有名な画家の展覧会の時もある。スタンダードなデートコースはお互いそういった“普通”という行為に興味があったからだ。というより、ものは経験だと片っ端から色んなことをふたりでしたかったのだ。
とはいえ、アクティブに日帰りで景勝地を観光したり、泊まりで温泉に行ったりもした。たまにイレギュラーとして街おこしの一環のようなグルメフェアにふらりと乗り込んでB級のジャンクな味に文句を垂れたり、持ち込まれた地方の特産物に舌鼓を打ったりなど旅行ガイドブックのお手本のようなデートもする。
今回は屋外の芸術鑑賞らしい。絵画や彫刻といった古典的な展示ではなく、現代アートに近い。ストランド・ビーストというモノの存在すら獅子神は知らなかったが、村雨とであれば何だって面白いし、実際常に新たな発見があるだろう。
村雨の着眼点や感性はいつだって獅子神を驚かせ楽しませた。はじめのうちはギャンブルに強くなるため、村雨から何かを得ようと躍起になったりもしていたが早々にやめた。ただ、ふたりでいることの心地良さを楽しんだ。そうして獅子神はデートというものが好きになっていった。
ぱたぱたと風を取り込んで砂浜を歩く姿を眺める。歩行は節足動物特有の動きをしているが顔があるわけではなく、古代の多足生物のような奇妙なフォルムは大きさも相まって、なるほど“ビースト”と呼ばれるだけあると獅子神は思った。
「これどうやって動いてんの? 電池?」
脚の動きは無秩序に見えるが歯車で同じ動きを繰り返しているからくり細工のようでもある。ならばどこかに心臓といえる電池やらモーターがあるはずだと獅子神は思ったがどうやら違うようだ。
「風を食べる獣とあっただろう。動力は風だ」
「風車みたいな?」
「そうだな。だが風のエネルギーをそのまま利用して動いているわけではない。室内であれば空気をペットボトルに溜め、張り巡らされたチューブに圧縮された空気を送って脚を動かしている」
「わりと複雑」
「言葉にすると難解に思えるがペットボトルは胃袋でチューブは血管だ」
ああ、そういう。
大きな獣を歩かせるために演算されつくした設計。プラスチックの脚と脚を繋ぎあわせて滑らかに動く。顔もなければ目鼻や口がついているわけでもないのに獅子神はそれがちゃんと生き物に見えている。そう捉えていることに少し驚いた。
村雨と獅子神の他に数人がストランド・ビーストを見に訪れているようで、小学生にもあがっていないであろう2人の子どもがきゃらきゃらと声をあげて追いかけている。触ってはだめだよと保護者らしき男性が子どもをたしなめつつその後を追っていた。獣は子どもなどお構いなしで進んでいく。
ふたりはその様子を少し離れたところから眺めていた。ふと、村雨が口を開く。
「生き物はなんらかの生命活動をしているわけだが、医者は生命活動に支障や困難がある場合にその原因を排除し機能回復を促すために手術や薬を処方する。故に我々は医学を学び、適切な治療を施すための技術を習得するわけだが――」
村雨先生の授業だ。獅子神はこの時間が好きだった。
「うん」
「この生き物ほど完成された患者はいまいな」
「んっふふ。そうだな」
「まず体が透けているのがいい。負傷した場合どこが患部か一目瞭然だ」
医者らしいといえば医者らしい着眼点なのかもしれない。
「脳があるわけではないから細かなバイタルチェック等が不要だ。身体構造が単純だからこそ患部の治療に集中できることは好ましい」
「村雨先生は開腹するのが好きなんだとばっかり思ってたぜ」
「それはヒトに限る。そもそもこれの腹はどこだ。腹がなければメスの入れようもない。そもそも風を食べるとはいうが、呼吸だけで生存しているのならばそれは消化器官ではなく肺機能ではないのか?いや、説明には胃と記されていた。度し難いな。だが医者の診断に文句をつけず、素直に従うであろう無口さはヒトと違って素晴らしいところだな。」
「だーっはっはっは!口ねえから喋らねえもんな!」
大口を開けて豪快に笑えば、隣の村雨も肩を震わせていた。最近少しずつだが彼特有のズレたジョーク(本人は面白いと思っている)が分かるようになってきてしまい、同じところでお互いが笑い合えるのは良いことではあるのだがなんとも微妙な心持ちであった。まあそれすらもふたりで同じ時間を過ごす証だと前向きに捉えているが。
「腹を裂いて中身を確かめずとも風しか食べないならクソ袋であることもないしな」
また声を上げて笑い合った。
この浜辺には2体同種のストランド・ビーストが展示されており、それぞれが風を受けて悠々と歩き回っていた。ストランド・ビースト自体はいくつかの種が存在するらしく、中には海を感知して波から引き返す進化をした個体もあるらしい。
プラスチックの体をせわしなく動かし、前進し、立ち止まり、また進む。急な方向転換はできないようで展示スタッフがたまに進行方向を調整している。仕組みを説明され、どのように動いているのか脳では理解しているのに感覚とは不思議なものでどうにも混乱する。己の脚で歩く。たったそれだけのことなのに、このプラスチックの塊を生き物として認識している特異性。頭も顔もないのに楽しそうだなんて印象を受けること。何がそう思わせるのかを理解したいと目を凝らせばどうにもぞわぞわと気持ち悪くなる。なのにどうしてか心臓もないあのSFじみた造形物を受け入れている。獅子神はしばらくぼんやりと眺め、頬にあたる風の冷たさを思い出す。
「……創造主であるテオ・ヤンセンは自分が死んだ後でもこの生き物が地上で生き残れることを目標としている。様々な進化を遂げて、やがてはこの世から人類、いや、生物が消滅しても存在し続けるようにと。いつかの未来に……彼らは誰もいなくなった浜辺を歩く」
想像してみる。遥かどこか遠く、ただ歩くだけの生き物たち。
「なんか……寂しい感じがするな」
「個々にコミュニケーションをとるための能力を持っていない彼らは永遠に孤高で孤独だ」
寂しい――。感情があるのかもわからないもの。勝手に擬人化して感情を代弁しようとする烏滸がましさが人間が人間であるがゆえの愛しさなのだと獅子神は気付いていない。そこが村雨は好きだった。
「あなた、本当に……」
あの獣を知って数分だというのに。もう愛着が湧いているのか。
「なんだよ」
「あなたが死んだら――」
いつだって村雨は唐突だ。それでよく面食らう。ツッコミたくなるのを我慢して獅子神は目線だけで先を促す。
「私はきっと悲しい。悲しいと思いながらも呼吸をし、あなたがつくったものではないものを食べ、ひとりで歩き、手を動かし、メスを握るだろう」
「うん」
あなたの、様々なものに対する愛着が、自分にどう向けられているのか。村雨はどうしてだか、気になってしまった。あんなものを見たからか。隣にいる獅子神が遠くに感じる。
「私が死んだら、あなたは――?」
「多分、あんな感じになる」
獅子神の視線の先には、砂浜を歩く無機物の生き物。
「おめーと同じだよ。きっと悲しい。でも息をして、メシ食って、歩いてる」
「傍から見たらオレが何を考えてて、誰を想っているかなんてわからねえだろうけど、ずっと歩き続けるだろうよ」
銀行の賭場で命を賭けて勝負している身だ。お互い明日など知れない。そんなことは百も承知で、それでも未来の話をさせてくれと、いつか殺し合うことになったとしても、今ここにある情動が村雨に獅子神の手をとらせる。ようやく自然に握り返されるようになってくれた手だ。
「今、おめーが考えてることくらいは……わかるようになったぜ」
ストランド・ビーストはもうかなり向こうまで歩いて行ってしまった。遠くの雲が割れて隙間からうっすらと光が落ちている。
「ああ、あなたも」
言いかけた言葉は重なる影に溶け、そこには波の音だけがあった。