Longing for Hawaii「獅子神さん、お仕事中にすみません!お客様がいらっしゃってますが……」
仕事部屋の扉をノックした園田の声が聞こえる。来客の予定などなかった獅子神は、仕事部屋のパソコンに目を向けながら「来客?誰だ?」と声を返す。すると間髪入れずに扉がガチャと空き、見慣れた黒髪の男が立っていた。
「私だが」
……園田が扉の脇で慌てている。おそらくインターホンを押し、獅子神と用事があるなどと噓を吐き、玄関を開けた瞬間に勝手に中に入ってきてこの有様なのだろう。もうこの男の横暴ぶりにも嫌でも慣れたものだった。
「ったく、来るなら連絡くらい寄こせよ、村雨……それで、今日は何のご用事で?」
「往診だ。ありがたく思え」
とんだ押し売りな医者が居たものだと呆れかえるが、かの有名な黒ずくめの無免許医のように法外な治療費は請求されないだろう。今取り掛かっている作業を終えてから行くので、リビングで待っていてもらうように彼に伝えた。
「その後、左目の調子はどうだ」
「あー、まあ、まだちょっと霞むって感じだな」
リビングのソファーに並んで座り、目を診てもらいながら獅子神は答える。
彼の目はあれから不思議なものが時々見えるようになったが、それは所謂イメージやオーラが具現化して見えるようになったというもので、目の外傷が問題ではないということだった。充血も少しずつ治癒していっていることは村雨も知っているはずなので、往診という名目の遊びに来た(正確には食事をしに来た)だけなのだろうと、獅子神は思った。
「その……前回の戦いでは、いろいろ世話になった」
診療が終わり、持ってきていた道具を片付けている村雨に話しかける。思うことはいろいろあったが、獅子神にとって目覚ましい成長に繋がるきっかけは確かにあったし、あれからもこうして都度都度調子を診てもらっている。
「ほう、殊勝な心掛けだな。患者として好ましい」
「そういうのはいいって……はー、何か言えばすぐこうだ」
初めて会った時から考えれば、こんな軽口が言い交せるようになったのも大きな変化だろう。
「そんじゃ、飯作ってくるわ。どうせ食っていくんだろ」
「ステーキ」
「へいへい」
そうして獅子神はキッチンに向かい、村雨はリビングで持参していた本を読み始めた。
いつも通りステーキをおいしくペロリと平らげた村雨は、「ごちそうさま」と食器をシンクに置きにきた。洗い物は後で園田たちに任せるか、と、自身も片付けはそこそこにしてキッチンを離れた。
「ところであなた。今週金曜夜から、翌週水曜夜までは空いているだろうな」
「勝手に俺の予定を決めつけんな。そしてまた急で具体的な日取りだな……都合つけることはできるが、なんかあったか」
「よろしい。では空けておけ」
それでは、と言って村雨は荷物をまとめ、スタスタと唐突に帰っていった。
毎度のことながら静かに迫って大暴れしてスッと去っていく台風のような男だと、獅子神は思った。
数分後、『パスポートを忘れるな。 ESTAの申請は早めに行え。当日は成田空港に18時に来るように』とメッセージが届く。「ESTAってアメリカの入国で必要なやつだよな……」と、しばらくスマートフォンの画面を見て考えていた。
◆◇◆
「来たか」
「オレは『好ましい患者サマ』だからな、言われた通り来たぜ」
金曜日の十八時。成田空港の集合場所に行くと、いつもよりも多少ラフな恰好をした村雨が一人立っていた。スーツケースは獅子神のものよりも一回り小さいもので、よくそのサイズで四泊分の荷物が入るなと感心する。
「アイツらは?まだ来てねえのか?」
待ち合わせの時刻だというのに彼しかいないのを見て、獅子神は周りを見回した。真経津も叶も遅れそうなイメージはあるが、こういうときに天堂は早めに到着していそうなものだが。
獅子神のその姿を見て、村雨が首を傾げる。
「私が一言でも、彼らも共に来ると伝えたか」
「いやてっきりいつも通り一緒かと……ってことは、俺とお前の二人ってことかよ!?」
「なにか、問題があるか」
じとっとした湿った声で言われ、「問題はねぇけど……」と口ごもった。
パスポートを持ってこい。約一週間のスケジュールを空けろ。空港に集合しろ。
読みが甘い獅子神でも、これだけ要素がそろっていたら「ああ、海外旅行か」とは考えていたが、まさか野郎二人のハワイ旅行だとは。
確認をしたが銀行関連の興行でもないようだったし、完璧プライベートの謎の旅。事前に済ませたESTAの申請で行き先を察し、荷造りも仕事の手配もドタバタに済ませ、なんとか行きついた先がこの男とのハワイ旅行だとは……。
少々衝撃を受けながらも出国の手続きを済ませ、フライトまでの待ち時間をラウンジで過ごすことになった村雨と獅子神は、他愛ない話をしながら搭乗時刻まで待っていた。その間の短時間で、なんだかんだとこれからのバカンスにわくわくしている自分に気が付き、獅子神は自分の適応力の高さに思わず笑ってしまった。
空の旅はとても快適だった。
七時間を超えるフライトも、ファーストクラスの広々とした座席でゆっくりくつろいで眠ることができたし、目が覚めたら気になっていた映画を見て過ごすことができた。
専業投資家で食べている獅子神にとって、ネットがつながらない状況というのは日常生活ではほぼない。そのため、いつもよりも時間がゆっくりと流れているように感じた。
最近はネットがつながる飛行機も多いが、今回利用した航空会社ではまだ未導入であった。ただ、無理やりにでもネット環境から離れてこういう時間が作れたことを逆に良かったと、彼はふと思っていた。ネットだけではなく、家には常に誰かがいるし(友人たちが来ることも多いが、いない場合でも園田たちがいる)、そういえば最近は仕事から離れたり、一人の時間を過ごしたりをできていなかったと気づく。
個室のようなスペースで一人の時間を十分満喫していると、機内アナウンスでまもなく着陸態勢に入ることが告げられ、姿勢を正しつつ窓の外の景色を眺めていた。
◆◇◆
あのころ憧れた南国に、今、自分は立っている。
ライフ・イズ・オークショニアでの戦いで獅子神は、自らの過去を振り返る必要が何回もあった。
小学生の時に、部屋に貼っていた夢見たあの景色。大人になってからは目の前の仕事に追われ、ちっぽけな立ち位置に驕り、いつの間にか頭の片隅の方に追いやってしまっていた。 いつでも行けるチケットは持っていたのに、自分一人では行けずにいた場所だった。
日本とは違うカラッとした乾いた空気が、二人を出迎える。
「何をぼーっと立っている。行くぞ」
獅子神を抜いて村雨がずんずん進む。慣れた様子で入国手続きの方に足を進めていく後を、獅子神が追いかける。
彼も海外は初めてというわけではなかったが、目に映る物全てが色鮮やかに見え、足をつどつど止めてしまっていた。 そんな姿を見て村雨は「まだ我々はこの国に入国すらしていないが?」と言った。少し笑って見えたのは気のせいだろうか。
空港の一階には、レンタカーの店舗がいくつか軒を連ねている。そこにある一つの店に向かいながら村雨が、
「車は手配してある。あなたが運転をしろ」
と、獅子神を見て言った。
「はいはい、仰せのままにいたしますよ」
この男が命令口調なのはもはやいつものことだったので適当に返事をし、レンタカーの手続きを済ませる。
スタッフが案内した場所にすでに用意されていたのは白いオープンカーで、実に獅子神好みの車だった。内心「この車をここで運転できるのか」とわくわくした。
ただ、いざ車に乗り込もうとして左ハンドルということに気づき、ガバっと村雨のほうを向く。
「あー……村雨先生?オレは国際免許なんて持ってねえんだけど……」
「安心しろ。ハワイ州は日本の免許証で運転可能だ」
そうでなければ困るが、そうであってくれて助かった。「左ハンドルと右側走んのか~、いけっかな~」などと不安に思いながら、エンジンをかけて出発した。
まさに夢に見た「青い空、白い雲」の景色に、彼の心が躍る。肌を撫でる風は心地よく、好きな車で楽しく運転をし、幸せとはこういうことを指すんだろうな、などと感慨に浸っていた。空港からワイキキ方面の市街地に行く道沿いは海外らしい戸建ての住宅街や大型店が見えているものの、まだ海は見えない。ただ至る所にヤシの木が見え、ますますテンションが上がっていった。
「……この旅も、一つの治療だ」
そんな中唐突に、さっきまで景色を見ながら静かにしていた村雨が話し出す。
獅子神は少し水を差されたような気持ちになったが、ちら、と彼のほうを見て話の先を促した。
「荒療治だったが、あの時点ではああするのが最善だったと私は考えている。だが、自身では大丈夫だと思っていても、一度掘り起こしてしまった過去のトラウマや苦しい記憶を放置しておくことで、今後のあなたに悪影響を及ぼす可能性も十分考えられる。患者が完治したと勝手に考え、薬を飲まなくなったり通院を止めたりすることで、再発に繋がりやすいというわけだ。それに、病は根本から治療できるに越したことはないからな」
「へえ……それはどうも」
確かに、自分ではあの戦いの最中に過去のことを乗り越えたと思ってしまっていた。彼が言うには心療内科は専門外だそうだが、医者としての診察は間違っていないだろう。だが、 いくら友人とはいえ、治療のためにこんなところまで付いてくるのが村雨の言う『医者』なのだろうかという疑問が頭を過ぎったが、ここで言うのは野暮だと思い、口を噤んだ。
そんな話を交わして過ごしていると、三十分ほどでワイキキの中心部に到着した。
二人はとりあえず予約したホテルに向かい、荷物を預かってもらうことにした。時刻はまだ正午手前。チェックインは十五時からのため、どこか近場で食事を済ませておくかと車を置いて街に繰り出した。
初めて見るワイキキはどこを見ても賑わいに溢れていて、歩いているだけで楽しい街だった。市街地と海がとても近いようで、街中には海から帰ってきたであろう水着姿の観光客がが道端を歩いていた。
「なあ、あとで海も行っていいか」
「構わないが、とりあえず昼食にしよう」
「もちろん。機内で食べたばかりだが腹減ったな」
ネットで調べて評判の良さそうなところを見つけ、向かってみる。
ビーチ沿いを走る道をホテルから二十分弱歩いた先にある、海沿いの別のホテルの1階にあるそのイタリアンレストランは、日本人観光客にも現地の人々にも人気だということで並ぶことも承知の上だったが、運のいいことにちょうど入れ替わりの客が居て、海沿いのテラス席をすぐ案内してもらえた。日本語メニューがあるのもとてもありがたい。
「ほう、生ウニのクリームパスタが評判なのか。私はこれにするが、あなたは?」
「ん-、せっかくの旅行だし、オレもうまいもん食いたいな。カプレーゼとこのスズキのグリルにするわ」
近くを歩いていたウエイターに村雨が目線を送り、すぐ来てくれた彼に先ほどのメニューとおすすめのリストにあった赤ワインをグラスで二つ、英語で注文をする。獅子神が注文したのは魚料理だが、白ワインではなく赤ワインにしたのは、彼の体のことを考えたからだろうか。
一部始終見ているだけだった獅子神は「英語も話せるんだな……」なんて考えながらくるっと店内を見回した。その日は日本人観光客も何組か来ており、英語と日本語とどこの国かわからない別の言語が混ざるこの音の重なりを楽しく聞いていた。
テラス席のすぐ真横がワイキキビーチで、会話の隙間で波の音も聞こえる。潮の香りもほのかにして、改めてここにいることを噛みしめる。
そんな様子の獅子神の横顔をじっと見つめる村雨は、いつもよりも少し口角が上がっているようだった。
そうこうしていると先ほどのウエイターがワインを持ってきて、グラスに注ぐ。獅子神の視線は正面に戻り、村雨はいつもの表情に戻っていた。
「赤ワインは糖質が少なく、ポリフェノールも潤沢に含まれているので健康にも良いとされ……」
「待て待て、うんちくは今はいらねえから!とりあえず飲むぞ」
「「乾杯」」
二人はグラスを掲げ、言葉と視線を交わした。
◆◇◆
レストランの料理もワインもとても素晴らしいもので、満足した二人は十分なチップを置いて店を出た。
すぐ近くから浜辺に出られる小道があり、ワイキキビーチに向かう。ついに、あのポスターのような景色を自分の目で見られるのか……と思いに耽っていると、明るく幼い声が後ろから響いてきた。
子供たちが走って、歩く二人を追い抜いた。どうやら子供たちは姉弟のようで、後ろから両親らしき二人が追いかける。海水浴に来た幸せな四人家族の姿を見て、ちくりと胸のあたりが痛んだ。
(あー……普段なら特に何も思わねえのにな)
歩くスピードが無意識に遅くなり、視線も下に落ちてゆく。これが村雨の言っていた悪影響ってやつかと頭を過ぎったが、一度落ちてしまった心を容易に切り替えることができずにその場で立ち止まってしまった。
(別に、オレに家族がいなかったわけじゃない)
(ただ、貧しい家庭だったというだけだ。日本全国で考えたら、どこにでもあるようなごくありふれた貧困家庭なだけだ)
(もうあと一分歩けば、あの景色が見られるのに、その数十歩が、鉛のように足が重くて進まない)
(いざ本物の景色を自分の目で見てしまったら、がっかりしてしまうんじゃないかとも思ってきてしまった。はるばるここまで来たのに……)
急に鬱々と悪い方面に内省し始めてしまっている獅子神のその姿に気づき、村雨も合わせて立ち止まった。
「……時間も頃合いなので、ホテルに戻るか?」
顔を覗き込み、医者として彼は声をかけた。
「ん……ちょっと、ここで」
「わかった。あなたがそう望むのであれば」
今ここで引き返してしまったら、たぶんこの旅でもう浜辺には来れないのだろうと、獅子神は直観めいたものを感じていた。物理的にではなく、心理的に。
そうして10分ほど休んでいる最中、二人に会話はなかった。獅子神がしゃがんでじっと考え事をしていると、とんとん、と手で肩を叩かれた。
顔を上げると、先ほどの幸せそうな四人家族の弟の方が顔を覗き込んでいた。ブロンドの髪のその男の子は、英語で何かを話しかけてくる。
「体調が悪そうだ、大丈夫かと言っている」
村雨が気を効かせて通訳してそう言った。
男の子は、しゃがんでいる獅子神の手を取って海のほうに連れて行こうとする。獅子神は先ほどまでの暗い考えを霧散させ、迷子の可能性もあると考え、「行こう」と村雨とともその場を動いた。
幸いにも、その子の家族はすぐに見つかった。ビーチで名前を大声で呼ぶ姿が、すぐに視界に入ったからだ。両親の元へ連れていくと、深い礼を伝えられた。
男の子はキョトンとした顔で自分が迷子だったとは気づいていないようで、「またね」なんて言って手を振って別れた。
一家から離れてふと無意識に前を見たときに、獅子神は息を飲んだ。
幼いころに見たあのポスターと寸分たがわぬ、いや、もっと鮮やかで美しい景色が目に飛び込んできた。
青い空、青い海、白い砂浜、白い雲。そびえ立つヤシの木に、照りつける太陽。
先ほどまで鬱々としていた頭の中と心の中が、すぅっと澄んでいく感じがした。
もちろん、あのポスターのように無人の景色ではなかったが、人がいるからこその生きた景色であることに、彼は心をより揺すぶられていた。
「ああ、夢みたいだ」
ぽつ、と言葉を零す。その言葉とともに、頬を雫が一筋伝う。
「見ただけで、あのころの惨めな自分が救われることもあんだな……」
振り返ると、村雨は静かに「そうだな」と微笑んだ。チェックインの時間まではまだしばらく余裕がある。二人はそこでしばらく海を眺めて過ごした。
あの小道から無理やりにでも手を引いて荒療治に動かしてくれたあの子に、感謝をしながら。
◆◇◆
シャワーを浴びた獅子神はバルコニーの椅子に座り、一息つく。目を閉じて夜風が頬を撫でるのを心地よく感じた。
日中しばらく海で過ごした二人だったが、ホテルに戻ってチェックインをしてから飛行機の中での疲れもあり、夕食もそこそこに済ませてその日は部屋にこもることにしていた。
(半ば無理やり来たような旅だったが、本当に……来ることができてよかったな)
などと考えながらしばらくそうしていると、窓のほうからコツコツとノックの音が鳴り、
「湯冷めするぞ。早く中に入れ」
と村雨が声をかけた。
あっという間に時間が経っていたようだったが、確かに夜は多少冷える。声かけへの礼を言い、室内に入った。
部屋はツインルームで、それぞれのベッドに腰掛けながら二人は話す。
「なあ、今回の旅行の具体的な予定って決めてんのか?」
「特段決めていないが」
「そっか。せっかくハワイに来たんだし、サーフィンしてみたいなと思ってな。お前はしないだろ?」
「は?勝手に私の行動を決めるな。やったことはないが理論さえわかれば私にもできるはずだ」
「はは、どーだか。なら、今からでも申し込める初心者向けのレッスンを探してやるよ」
それは患者と医者ではなく、友としての語らいだった。
まだあと4日もここで過ごせることに喜びを感じながら、初日の夜は過ぎていった。