割れ鍋に綴じ蓋 久しぶりに璃月に立ち寄ることになり、親しい人々はどうしているだろうかと誰かに連絡を取ろうと思った。折角だから美味しいご飯でも一緒に食べてはどうかというのは、到着前から璃月料理の数々を思い出して涎を垂らしているパイモンの言葉だった。パイモンの提案を却下する理由もなく、さて誰がいいだろうかと考える。パイモンと二人であれこれ頭を悩ませたところ、やはり今一番どうしているのか気になる人物がいいのではないかという結論になり、その条件で二人が挙げた名前はやはりというべきか鍾離であった。
往生堂を訪ねると元気そうな鍾離の姿があった。その日は立て込んでいるというので、翌日の昼食を共にすることになった。どこに行きたいかと問われ、璃月を思い出すというのなら万民堂ではないかということになった。かくして当初の目的通り、親しい人との食事の約束を取り付けた。
璃月港で宿を二泊分とり、その日は屋台で腹を満たして眠りについた。翌日は朝から起き出して璃月港を歩いて回った。岩王帝君亡き後の璃月は、一時のどんよりとした空気は一掃され賑わいを取り戻していた。先の一件で意図せず顔が売れている空は、街の人々に声をかけられることがあった。それは、「例の旅人!」という挨拶のようなものから、「噂の旅人さんにお願いが」という依頼まであった。可能な限り依頼をこなしながら、万民堂に辿り着いたのは約束の時間丁度だった。
空の顔を覚えていたらしい卯師匠と言葉を交わしていると、少し遅れて鍾離が現れた。
「あれ、先生?」
鍾離が遅れてきたということよりも、彼の髪と服装が少し乱れていることが気になった。鍾離は凡人を勉強中のため、モラを忘れることは多々あるが、いつも身なりはきちんとしていた。契約、ひいては約束を重んずる彼が寝坊をしたとも思えない。
「なんかボロボロだけど、どうしたんだ? 鍾離」
同じ疑問を抱いたらしいパイモンが、思い留まった空と違いストレートに問いかける。他人に聞かせられないような理由があるとは思ってもいないのだろう。折角の再会が気まずい雰囲気で始まることを危惧したが、空の心配をよそに鍾離はからりと笑った。
「なに、少し予定外の事態があっただけだ。追って話そう。それよりも腹が空いているんじゃないのか?」
空はパイモンと顔を見合わせてひとつ頷くと、カウンター席に座った。鍾離も隣に並ぶ。
三人それぞれ注文をし、卯師匠が厨房へ向かうのを見送り、次いで鍾離へと視線を向ける。視線を受けた鍾離は手で軽く髪を整えていた。
「何かあったの?」
重ねて問いかけると、鍾離は服を軽く手で撫でた。服についていた埃は宙に舞うことなく元素に分解されて大気に溶けて消えていく。凡人の所作ではないが敢えて見ぬふりをしていると、服の汚れをすべて取りきった鍾離は満足した様子で湯呑を手にとった。
「時間より少し早く来るつもりだったが、途中でモラを忘れたことに気付いてな。否、気付かされたという方が正確か」
「……なんとなく続きが想像できたぞ」
「俺も」
パイモンの言葉に頷くと、鍾離はむっと唸る。
「露天で気に入ったものを見つけたけどモラを持ってなかったんでしょ?」
鍾離はからからと笑った。正解だったらしい。
露天で見つけたのは年代物の花器だったそうだ。珍しいものではないが保存状態がよく、更には品に見合わない安価がつけられていた。これを逃す手はないと店主に『その花器を貰おう』と言って懐に手を入れて、モラを持っていないことに気付いた。よくあることだ。鍾離は焦らなかったが店主は焦った。そこへ通りがかったのがタルタリヤだった。
仕事が終わって北国銀行へ顔を出そうとした彼は、見慣れた姿が見慣れた事態に陥っていることに気付き、親切にも声をかけてきた。
『先生またモラ持ってないの?』
呆れるような、それでいておかしそうな様子だったという。もしかしたら兄気質の強いタルタリヤのことだから、金も持たず買い物しようとする鍾離が弟の困った姿に重なったのかもしれない。
『俺が払おうか』
『いや、この後、旅人と食事の約束がある。どの道取りに戻らなければ』
『買わないの?』
『買うが』
鍾離が財布を取りに戻ってまで購入しようとする花器に、店主も何やらピンと来たらしく、今すぐ金を払わないのなら値を上げると言い出した。元々が安値だったので、鍾離はそれで構わなかった。頷こうとしたら慌てた様子のタルタリヤに止められた。
『ちょっと待ってよ、先生。足元見られてるよ?』
『商人は商機を逃すべきではない。元より財布を忘れた俺が悪いからな』
仮に花器に法外な値がつけられていたとしても、仕方がないと鍾離は思っていた。しかし、どうしたことかタルタリヤはわなわなと震えたかと思うと、店主に向き直った。殺気を向けられた店主が怯えるのも気にかけず、「幾ら?」と問いかける。店主が値段を告げるとあっさりと払ってしまった。目を白黒させてモラを数える店主に、花器を往生堂まで届けるよう依頼して更にモラを追加する。その様は嵐のようだったと、鍾離は語った。
『それで、旅人との食事のお金がないんだよね』
『そうだな』
『なら取引しよう、先生。その花器の代金と旅人との食事の代金は俺が払う。代わりに――俺と戦ってよ』
鍾離は躊躇した。タルタリヤの力は知っているから、熱くなりすぎて殺してしまうかもしれない。戦いに集中して空との約束に遅れる心配もある。しかし、契約前とはいえ、タルタリヤは既に対価の半分を支払っている。
『承知した。舞台はこちらで用意しよう』
今から戦っていてはいつ終わるか分からない。その上、執行官たるタルタリヤに本気で暴れられては璃月に甚大な被害が及ぶ可能性もある。そのため、塵歌壺と同じ原理で鍾離が管理する洞天へ移動し、そこでタルタリヤの望みを叶えた。洞天とこちらの世界で時間がずれるように設定していたため、戦闘を終えて戻っても、先の店主はまだタルタリヤから受け取ったモラを数えていた。
時間は歪めたが、洞天の中で起きたことはすべて現実だ。もしも洞天で受けた傷がきれいに治りでもしたら、タルタリヤはそれを気に入って何度も戦いをせがんできたことだろう。死んだって生き返る。つまり死ぬまで戦える。それを喜々として受け入れるのがタルタリヤという男だと、彼と直接手合わせしたことにより鍾離は改めて感じた。
「それで、公子は?」
「北国銀行に連れて行き、事情を説明して預けてきた」
それが鍾離の予想外の出来事だったらしい。まさかタルタリヤが死ぬ一歩手前まで力を引き出して戦ってくるとは思っていなかったようだ。
「まぁ、公子だからね」
空は彼の闘争へ対する執着と情熱は身を以って理解している。鍾離からの視線がどことなくなまぬるく感じるのは同情されているのだろうか。あれから、空もタルタリヤとは何度か会っている。敵対したのはあの時だけで、以後は協力することが多かったが、いつも気が抜けなかった。彼は黄金屋での再戦を望んでいる。隙を見せたらつけ込まれて、なし崩しに死闘に発展しかねない。
「根は悪い人じゃないんだろうけど、あの気質は困るよ」
「まったくだ」
鍾離は笑っていた。しかしそれは苦笑などではなく、愉悦に染まった笑みだったから、空はひっそりため息を吐く。
空は戦いを楽しいと感じたことはない。何かを得るため、何かを守るため、いつもそれは必要だからしてきたことだ。タルタリヤのようにそれを主目的にしたことはない。鍾離もそうだと思っていた。タルタリヤよりは空の方に考え方が近い人だと。けれど彼の表情を見る限りそうではないのだろう。
先の話を聞く限り、鍾離は相変わらず凡人初心者で、神としての感覚が抜けきれていない。かつては数多の魔神と戦った強大な力を持っていた鍾離だ。強者との戦いで思うところがあってもおかしくはない。
それに何より、戦いを好まない者が戦いの話をしてこんな風に笑うわけがない。
「割れ鍋に綴じ蓋ってこういうのを言うのかな」
「それは誤用だろう」
そうでもないと思うよ、という言葉は飲み込んで、卯師匠が運んできた熱々の黒背スズキの唐辛子煮込みを受け取った。