キスの日 俺はとある一部上場企業に勤めるしがないモブサラリーマンだ。
「あ、部長だ!」
女性社員が黄色い声を出して呼ぶ「部長」に該当するのは、この会社に四人ほどいる。興味はないが誰のことだろうと彼女たちの視線を追うと、グレーのスーツが視界に入った。
五条鶴丸、企画部の部長だ。そして俺の上司でもある。
顔が広く、知識も広く、頭の回転も早い。誰もが驚くような企画をポンポンと生み出し、それでいて予算人材などは適正範囲。社員全員どころか契約社員や協働者の顔と名前を覚えているという噂すらある化け物である。
事務作業がいやだという理由で長いこと管理職を断っていたが、大人の事情で最近昇進した。上も彼の時間を事務に取られるのはもったいないという判断で、二人の直属の部下が部長代行権限を与えた。そのため基本的には彼ら処理しており、相変わらず現場よりの人だった。
下のものにも優しく、古今東西どこを探してもこんな優れた人材はいないと思う。そんな鶴丸部長は役員に対してのみ当たりが厳しい。この会社の役員である天下の三条一族の人間に対して「これだから三条は」と言い捨て経営を否定したりする。若くして部長とはいえそんな権限はないだろうと思うのに、役員も一目置いてるのかすんなり意見が通ることが多い。
彼の下で働いて三年ほど経ったが憧れの人であり、とにかく尊敬していた。つい先日は俺の引き起こしたトラブルでクレームが上がりそうだったところ部長が相手先に動向してくれ、戻ってきた際にはなぜか大口の企画契約をもぎ取ってくれたりもした。会議という名の謝罪の場に俺もいたはずなのにどうしてそういう流れにできたのかサッパリわからない。ただ彼の話し方などに魅力があることはわかったので最近はノウハウを見て学ぼうと、暇さえあれば部長を観察することにしている。
最近はそんなことをしていた俺に、たった今死刑宣告とも呼べるメールが届いたのだ。差出人は社長秘書である小狐丸さん。
――本日十五時、一人で社長室に来てください。
「ヒィ!」
俺はつい悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。
「何やってんだよ、大丈夫か?」
声をかけてくれた同僚が俺の視線の先を追って、モニターを見た瞬間に凍り付いたのがわかった。
五条鶴丸の元で働いていると、たまにこういうことがある。キッカケがなんなのか全くわからないのだが、突然社長室に呼び出されてしまう同僚が何人もいた。そして呼び出されたあとは三パターンある。そのまま会社を辞めてしまうか、転勤になるか、出世コースか。
最後のパターンはあまりケースが多くなく、他部署の一期部長、鶯丸部長と言った数少ない人材がそれにあたる。モブとして生まれモブとして死んでいくつもりの俺はそんなケースに入れるわけもなく、おそらく任意退職を求められるか左遷だろう。
「お前何したんだよ……」
同僚の言葉に俺はただ首を横に振るだけだった。
逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが相手は俺のスケジュールをちゃんと確認して連絡してきたのか、会議など一切ない時間を指定されてしまっていて逃げ道がない。
入社時の面談くらいでしか通ったことのない管理職の階のエレベーターのボタンを押して、着いたらエレベーターホールにもう社長秘書が待ち構えていた。
「お待ちしておりました」
なんの感情もなく淡々と付いてくるように言われて、彼の後を追う。そのまま社長室にたどり着いたのだが、小狐丸さんはそこで立ち止まって振り向いた。部屋に通されるのかと思いきや、小狐丸さんは「ここから先はお静かに」と言って口元に指を一本添えて少しだけドアを開く。
「……?」
意図が分からず困惑した俺に、中を見るように促してくる。
ゆっくり、そっと。隙間から社長室の中を覗くと社長がこちらに背を向ける形で、誰かとキスをしているのが見えた。
「……っ!?」
理解はしたが意図は分からない。声を出せないまま小狐丸さんを見上げると、彼は無表情を崩して苦笑していた。
「んっ、三日月……」
社長とキスしているお相手が、社長である三条三日月の名を呼んだ。そこで初めて相手が誰なのかわかり、再度部屋の中に視線を向けた。
突然のキスシーンに驚いて思い至らなかったが、よく考えれば社長の向こう側でチラつくあんな綺麗な髪色は一人しかしらない。
「……なるほど!」
鶴丸部長が幹部である三条に気やすい理由がやっとわかった気がして、ついそんな言葉が口からでてしまう。横にいた小狐丸さんはそれがツボに入ってしまったのか、声をあげて笑い出してしまった。
「えっ、ちょっ、小狐丸さん!?」
小狐丸さんを見て、もう一度ドアの隙間をみると社長と部署が揃ってこちらを見ていた。
(小狐丸さんが声出すなって言ったのに!)
てっきり中のお二人に見つからないようにということだと思っていたのだが、小狐丸さんはゲラゲラ笑った後大きな声で言った。
「三日月、今回はシロじゃ!」
突然の社長室への呼び出しは、鶴丸部長に懸想しているのかどうかを判定するためのものだったらしい。発案者は鶴丸部署の恋人である三日月社長。巻き込まれているのが社長秘書である小狐丸さんで、全く知らずに呼び出されていたのが鶴丸部長ということだった。
「つまりなんだ!? きみたちは毎回こんなことを俺にやらせてたってことかい?」
鶴丸部長はイライラした口調でそう彼等を責めた。業務時間中にキスの誘いに乗ったことがバレてバツが悪いのか部長は俺の方は向かない。
「そうは言ってもほぼ的中しておったのだぞ。傷心して向こうから移動を願い出たりとかなぁ。俺も辞めさせるつもりではなく、鶴丸が俺のだと見せつけたかっただけだったんだが」
「もういい! もう仕事に戻るぜ」
鶴丸部長は三日月社長の言葉を切って俺を社長室から連れ出した。部屋からでるとすぐに巻き込んですまなかったな、と俺に頭を下げてくれた。
「大丈夫です! 憧れててずっと見ていたのは事実でしたし!」
あくまで業務的な意味ではあったが、誤解を招く行動だったということだ。今後はもう少し改めてモブらしく静かに仕事をこなしていこうと決意した。
その決意は部署に戻った瞬間、果たせなくなった。退職でも移動でもなかったということで昇進だ! と会社中を駆け巡る噂の人物となり、一瞬で決意と真逆の騒動に巻き込まれてしまった。