邪も避けて通る 春節は準備もそれなりに忙しいが、主たる宗主の仕事はむしろ明けてからで、門弟や家僕など身内への振る舞いにはじまり関係各所への挨拶回りなど息つく暇も無い。
数年前になんとなくそういう関係になった藍曦臣もまた姑蘇藍氏の主であり、状況は似たり寄ったりか加えて藍氏らしく細々とした儀式だとかに追われるのだろう。
親しい関係になったからといって仕事より優先されるものはないから、顔をあわせての新年の挨拶は早くとも月も変わった頃ぐらいになるだろうか。
そのような具合であるので、普段は筆マメな御仁だが年始が近づくにつれて届く文も目に見えて減る。……とはいっても筆無精からしてみれば、それでも結構な頻度であるが。
今年も進物に添えられた姑蘇藍氏の紋入りの挨拶状とは別に、月白色の料紙に金と黒の流麗な筆致で一年の平穏を祈る詩と干支が描かれた書も届いた。
次の干支は兎だ。やわらかく描かれたつがいらしい二羽は雲深不知処の裏山で元気に跳ね回る白い毛玉たちを思いださせて、これではかえって久しぶりに顔を見たい気持ちが募ってしまう。
「藍氏はいつも早いよね。何これ……沢蕪君から?」
雲深不知処からの挨拶は他世家と比べると少し早い。同じく早めの挨拶という名目で雲夢にやってきた金凌は、緩く書を開いた手から奪い取ってじっくり眺めた。
「こら、勝手に触るな。お前のとこにも毎年同じものが来てるだろうが」
「来ないよ!いつも定型の挨拶状と贈り物だけ」
「……なに?」
「少なくとも俺宛にはこない」
知らなかった。色々あったあとこういう関係になる前から毎年必ず贈られてきていたはずで、いつもの贈り物だとしか思っていなかった。忙しいだろうに送り先全てにこんな手の込んだことをするとはマメな御仁だとばかり。
「外叔父上、ずるい。ひとりだけ毎年そんな贅沢なもの貰ってたの?!沢蕪君直筆の書と絵なんて。……はっ、まさか今までの捨てたとか言わないよね。ちゃんとお返ししてる?」
沢蕪君は金銭の発生するやりとりは絶対しないし、贈り物としてしか描いてくれないんだよ。
外叔父上は芸術に疎すぎるから価値が伝わらなくて困るだの、いつまでも好き放題捲したてる甥の口をひと睨みで制する。
「ええい、煩い!捨ててはない」
はずである。件の書は訝しむ顔のままの金凌が額装して返すと言ってそのまま持っていってしまった。
「……返礼と言われてもな。それこそ、あの沢蕪君だぞ」
わざわざ自身に宛てて書かれたものだと知ると、確かに金凌の言うことも一理あり、何か返礼はすべきだろうと思ったものの、沢蕪君ほどの才を前にして晒せるような芸は生憎と持ち合わせていない。
「うーん……そうだ、アレとかいいんじゃない?外叔父上の、よく効くからさ」
「沢蕪君、雲夢から品が届きました」
思追から受け取った文の江澄好みの香の残り香に、雲夢の暖かい空気を思い出す。ゆうに二月は顔を見ていないが、きっと自分と似たり寄ったりで忙しくしているのだろうと思う。
やや角張った端正な字で、その内容こそお決まりの文言だが、忙しくともきっちり引き締まった字の向こうに、眉間に浅からぬ皺を刻みながら筆を取る様子が見えるようで微笑ましい。
「ありがとう」
早速開いた蛇腹に畳まれた文には、一枚折りたたまれた紙が挟まっており、首を傾げながら開くと幾つかの獣の特徴が混じってどこかおどろおどろしさをも感じる異形の獣が目に飛び込んできた。
「それは、なんですか?」
差出人を気にしているのか、一緒に首を傾げた思追は濁して問うてきたが、名状しがたい筆使いのこの異形には自分にも覚えが無い。
間違って混入したのだろうかと思ったところで、ふと、ひとつの仮説にいきついた。
「……たぶん、獏じゃないかな」
金凌の小さい頃にはよくおまじないをせがまれたと言う話には覚えがあって、どこにも言及はないものの正しく自分への特別な贈り物なのだと分かると思わず頬が緩んだ。
「ふふ。これは、よく効きそうだ」
さっそく立ち上がって枕の下に忍ばせる。お世辞にも上手いとは言い難いが、これだけ力強い姿であれば、まさしく邪なものも避けてくれるに違いなかった。