只是想見你 -ただ、会いたくて- 事前の伺いを立てることなく、勢いで門前まで来てしまってから、不在である可能性の想定がすっぽりと抜け落ちていたことに今更気付いて、浮ついた考えなしの頭に愕然とした。
非礼である以前に、そもそも多忙なのだ。私的な訪問も何度も予定を摺り合わせ漸く実現するかといった具合なのだから、深く考えずともこうなることは目に見えていたのに。
声を掛ければ中には留守をまもる家僕のひとりぐらいはおそらく居るだろうが、何の言付けがあるでも託す土産があるでもない。他世家の宗主の急な来訪など気を使わせるだけで、家僕にとっては仕事を徒に増やす厄介者でしかあるまい。
(――誰かに会う前に、もう帰ろうか)
ぴったり閉じた門扉を前にしばし思案した後、頭を振りくるり踵を返そうとしたところ、後ろからがしと腕を掴まれた。
「こんなところまで来ておいて、どこへ行く気だ?」
まさか本当に居るとはな。微かな呟きと共にそのまま私邸まで半ば引き摺られ、大人しく待っていろと放り込まれたのは彼の私室だ。言われたとおりに座して、しかしどこかそわそわと落ち着かない心地で待っていると、程なくして部屋の主は小さな籠を携えて戻ってきた。
「来るのは一向に構わんが、今日はまた随分と急だな」
「すぐ近くまで来たものだから。……久々に顔が見たくて」
先程すれ違った家僕は、突然現れた藍宗主の姿もさることながら主の早々の帰還にも大いに驚いていたようだった。
公の訪問では無いからと下がらせた江澄は、自ら蓮花茶を淹れ、籠から菓子を取り出して茶請けに勧めてくれた。
「――江澄。今日は何か外に用があったのでは?」
何かの都合で急ぎ館に戻ってきたところに鉢合わせたのであれば、暢気に茶を馳走になっている場合では無いだろう。
「確かに用はあったが。何とかなるからもう気にするな」
腰を浮かせかけるのを制して、なんて顔をしていると可笑しそうに口角を上げた江澄は、真面目な表情で腕を組んだ。
「言っておくが、優先度の履き違えはしていない。本当に急ぎなら、いかに藍宗主だろうと俺は容赦なく追い返す」
江澄が館に急遽戻ったのは、緊急の何かではなく町で『澤蕪君の姿を見かけた』という話を聞いたから、らしい。
「誰かに見られていたとは」
「あなたは自分が目立つ事をもっと知った方が良いぞ」
元々の外出が何であったかは分からないが、彼が自分を優先してくれたという事実が嬉しく、しかし少し心苦しい。
「問題があるなら澤蕪君、あなたの方だろう。姑蘇には寄り道すべからず、だとかという家規もあるんじゃないか?」
家規が服を着て歩いているとまで言われる御仁のくせに。にやりと揶揄う江澄に苦笑して、漸く茶に一口くちを付ける。
「……はは、痛いところをつくね。確かに、そうだ」
姑蘇藍氏四千条の家規の中には指摘通り、寄り道を禁ずる内容もある。どうも気持ちが落ち着かないのは、小さくとも掟破りを働いている自覚が作用しているからかもしれない。
「ま、誰が見ているわけでもないんだ。たまには良いだろ」
「そういうことでは、本来はいけないんだけれどね」
藍氏がその信条とする家規は、たとえその内容のすべてが今の時代に沿うものでないとしても、宗主であればこそ誰よりもきっちり遵守すべきものだ。己が立場ある者だからといって簡単に無視することが赦されてしまえば、誰もついては来ないし、家規そのものの存在意義も揺らいでしまう。
「しかし宗主が破ったところで、誰も罰しはしないだろう」
「いいや。蔑ろにしてしまっていいものではないからね。……自分で自分に課している、が正しいところかな」
罰として蔵書閣の中でも傷みの激しい古書を写して補修している。そう言うと、江澄はやや呆れた顔で肩を竦めた。
「誰も咎めないだろうに。流石は澤蕪君、真面目なことだ」
「あなただって誰より率先して研鑽する背中を弟子達に見せているだろう。それと同じ事じゃないかな」
こうして易々と己の欲のために破ってしまった身で偉そうに言えたことではないのだが。思わず薄く自嘲の笑みを浮かべてしまった向かいで、しばらく考え込んでいた江澄は、何かに思い至った顔でクツクツと肩を振るわせた。
「江澄?」
「すまん。よく考えると面白くてな」
首を傾げて見せると、更に笑みを深くした江澄はにやりと笑った。
「天下の澤蕪君に家規を破らせるのが自分だというのは、存外悪くない」
「……ええ?」
一緒に罰を受けてもらおうかな。いつまでも笑う顔に思わずそうぼやくと、私の拙い字でもよろしければ?と江澄はすっとぼけてみせた。