尾杉「セレブじゃん……」
杉元は初めて入るオートロックのマンションに思わずポカンと口を開く。今日は親がいないから1人なんだ。と同じ中学のクラスメイトで友人の尾形の呟きに思わず絆された金曜日の夜、杉元は尾形の自宅である高層マンションへとやって来た。
ごく平均的な日本家屋の平屋に住んでいる杉元には所謂タワーマンションの部屋は新鮮だった。
「お前、金持ちなの!?」
「……俺が金持ちな訳じゃない」
「や、まーそうだけど」
だだっ広い廊下を抜けると自分の四畳半とは比べ物にならない尾形の部屋にこれまた目を輝かせながら辺りを見回す、尾形は普段と変わらぬ表情の見えない顔で杉元を見つめていた。
「……食いたい物、ある?」
「あ、晩飯?俺なんでも食えるけど…」
「……金はあるから」
連れ立ってリビングへ向かうと甘ったるくキツい香水の香りがして、尾形の母の物だろうかと杉元はこれまた広く眺望のいいリビングを眺めていると書き置きもなく、ただテーブルに1万円札が一枚ポツンと置かれていた。
「え、もしかして、あれが…金?」
「……毎日置いてある」
「…お前の母さん、毎日いないの?」
「いない」
「仕事、とか?」
「まあ……愛人だから」
「あ、いじん?」
尾形の口から出た単語に杉元は盛大に頭上に?を浮かべる、あいじん?あのドラマとかの??なんて視線をあちらこちらにさ迷わせていると尾形がスマートフォンを操作しながら声を掛ける。
「何食う?デリバリーする」
「………な、買い物行こうぜ!」
「買い物、」
「カレーしか作れねえけどさ!スーパー行って買い物しようぜ」
杉元の思わぬ誘いに尾形は初めて一瞬目を見開いて表情を変える、その変化に杉元はニィと笑みを浮かべながら尾形の手を引き外へとまた戻る、夕飯を作ろうなんて思うのも友人と買い物へ行くのも尾形には全て、初めてのことだ。
「うわっ!高っ!!どんだけ高級スーパーなんだよ…」
「……そうなのか」
「けど一万あるなら余裕だな!あ、風呂上がりに食うアイス買おうぜ!尾形好きなアイスある?俺はー…これ!」
「……俺は、」
次々と必要な材料をカゴへ入れる杉元の後をただただ着いていく尾形に冷凍ケースの前で杉元が振り向きそう言うと陳列されたアイス達を一通り眺め、今まで別段選んだことがなかったからかどうしたらいいかと返答に困っていると杉元が自分の選んだアイスを下ろして別のパッケージのアイスを手に取り差し出す。
「じゃ、これにしようぜ!半分ずつ食お。父さんとアイス食う時いつもこれなんだ」
「それでいい」
「ん、じゃ決まりな!」
支払いを済ませてマンションへと戻ると早速杉元は腕まくりをして調理を始める、父親と二人暮らしだからかテキパキとした無駄のない動きをただぼんやりとカウンター越しに尾形が眺めていると不意に、ぐいと玉ねぎを持つ杉元の手が近付く。
「働かざる者食うべからず」
「……金払ったの俺だけどな」
「…お前なぁ、友達無くすぞ?」
ホラ、そう言って笑う杉元の手から玉ねぎを受け取り隣に並ぶと調理実習以外で初めて野菜に触れる尾形の動きはぎこちない。
短い爪でペリ、と皮を剥く。一応父親である男が来る日だけやたらと張り切って料理を支度する母の後ろ姿を尾形はいつもただ見ていた、テーブルに準備される食器はいつも二人分で尾形はやっぱり、1万円札を受け取った。
頭の中の尾形は意外とおしゃべりで、いつも何かしらの言葉を発してそのせいかぼんやりしている事も多い。そんな尾形がハッとしたのは鼻先にカレーの匂いが漂ってきた頃だ。
「なー、皿は?」
「……ある」
尾形は棚から上等な真っ白に金の縁取られた揃いの皿を差し出す、尾形が座ることはないテーブルにいつも並んでいる揃いの皿だ。
「なんだこれ…うちの皿と全然違う、え、これでカレー食って大丈夫?」
「……大丈夫」
「ならいいけど、…」
そう言って皿に盛られたカレーは極々一般的な家庭のそれだけれど尾形がきっと初めて口にする食べ物でもあった。
やたらと広いあのテーブルで杉元とこのカレーを食べるのは何だか穢される気がして部屋で食おう、と声を掛ける。部屋の狭いテーブルで向かい合って手を合わせ食事が始まると一口目を頬張る尾形を見つめる杉元はまるでワクワクとしっぽを振る子犬の顔だ。
「どんな感じ?味…」
「……美味い」
「だろ?!カレー俺の担当だからさ」
得意げな様子の杉元に表情や言葉には出さない代わりにしっかりとカレーを完食した尾形は互いの空になった皿を重ねる、どうやら洗ってくれるらしい素振りに「ありがとな!」とまた杉元が笑って礼を言う。
キッチンに立ち、初めて洗うカレーの皿の汚れが何だか少し名残惜しくて尾形はゆっくり、ゆっくり皿を洗った。
互いに風呂を終えて先程買ってきたアイスを杉元がパキ、と割って二つに分け、蓋をちぎって「こっちから先に食えよ」と先の部分を差し出されて尾形はそれを口に含む、甘いカフェオレの味が広がった。
並んでアイスを分け合いながら自室のテレビで杉元が勧めるアニメを流し見しつつもチラ、と尾形は杉元の横顔を盗み見る。
尾形にとって杉元は特別だ、人あたりの良くない自分を周りと分け隔てなく接してくれる、屁理屈を言っても口では呆れながら自分を絶対に突き放さない優しさを与えてくれて、特別な感情を抱かない方がおかしいのだ。
そんな杉元の横顔を見ればアイスのチューブを咥えたままの口元がやけに目について離れない、思春期なら当然のことではあるけれど。
「……杉元、」
「んー…?」
「口、付いてる」
「んぇ?マジ、ッン…」
画面に見入って頭半分画面に意識を残したままだった杉元が尾形の言葉にアイスを手に持ち振り向くと不意に、顔へ影が掛かる。
互いの唇が触れ合っていることに気付くのに少し時間が掛かった。目を丸めて瞬かせる杉元を普段と変わらぬ表情で見つめる尾形に杉元の手からポトリとラグの上にアイスが滑り落ちる。
「…っわ!やべ!ごめ、落ちた!」
「……いい、」
アイスが落ちた動揺か今のキスからか空気を変える為かあたふたと慌てた様にアイスを拾い上げて袋に置く杉元の手首を尾形が掴む、ヒクリと手首の筋が震えて一気に杉元の顔に火がついたように色がつく、拒絶されているかどうかはその顔を見れば自ずと分かる。
「…拭かないと、ベタベタすんじゃん」
「……いい」
「けど、…」
互いに初めて味わう独特の色を含んだ空気が部屋を包む、声を出してしまえば互いの震えがあっさり伝わりそうで自然と言葉数も少なくなる。
尾形の目付きを見れば明らかに二度目がもう来ることが杉元には分かる、グッと息を止めて瞼を固く伏せると唇へ柔らかな感触を覚える、先程より長く続くそれに段々と息が苦しく掴まれた手首にまた力が篭もるとそれで何かを察したのかまた尾形が離れ、少しすると三度目がやって来る。
耳には先程まで夢中だったアニメの音声が流れているのに何も頭に辿り着かない、耳を通って反対側へ抜けていくだけだ。
そして四度目が近付く直前、杉元の目の端に一人で寝るには広い尾形のベッドが目に入る。
「客来ないから、布団がない」そう言っていた尾形に「一緒に寝ればいーじゃん」と軽はずみに言ってしまった自分に少しばかりの後悔と更けていく夜に期待を抱きながら杉元は瞼を伏せる。
この家に招かれた時点でこうなると決まっていたことには、気付かないまま。