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    花月ゆき

    @yuki_bluesky

    20↑(成人済み)。赤安大好き。
    アニメ放送日もしくは本誌発売日以降にネタバレすることがあります。

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    花月ゆき

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    ライ時代、催眠術をかけられてしまった赤井さん。
    組織壊滅作戦前、赤井さんが降谷さんへの恋心を自覚するのと同時に催眠の効果があらわれはじめ…というお話の後編です。

    前編:https://poipiku.com/1436391/8302545.html

    #赤安

    ヒトフリの魔法(後編)-降谷Side-


     医師の診断と治療を受けて、降谷は待合室に戻った。想像していたよりも傷は深かったが、まだ軽傷といえる類のもので、誰かの介助を必要とするものではなかった。しかし赤井は、まるで重傷者を扱うように自分に接しようとする。服の上から、幾重にも重なった包帯が透けて見えているせいだろう。
     組織壊滅作戦を間近に控えているこの時期に、この負傷。病院を出てすぐ、赤井の愛車の中で、ひとり行動は避けるようにと赤井に言い渡されてしまう。日常生活や事務作業に支障はないが、敵と相対するのは難しい状況――つまり、自分の身を自分で護れるほどの十分な余力がないことを、赤井には見抜かれてしまっていた。
     今日手に入れたデータの中身は、組織の機密事項だ。あらゆるリスクを承知の上で、倉庫内に保管されている組織のサーバから直接データを抜き取った。
     倉庫の管理を任されているのは、組織内でも末端として噂されているグループのひとつである。サーバ内のデータが奪われたことは、そのグループのボスへ何らかの形で伝わっているだろう。
     警報音が鳴らないよう事前に細工し、監視カメラの映像をあらかじめ別の映像に切り替えておいたが、倉庫内にいた人間に顔を見られた可能性は十分にある。
     もし、データを手に入れたのがバーボンであることが露見した場合、ノックと断定され命を狙われる。仮にバーボンであることが露見しなかったとしても、一警察官として標的にされてしまうだろう。
     ひとりで大丈夫、と言っても、赤井は納得してくれそうにない。かといって、作戦前の準備で忙しくしている部下に護衛を頼むのも気が引ける。
    「そうは言っても、今はどこも人手不足で……」
    「降谷君、俺のことを忘れてもらっては困るよ」
    「えっ……あなたに頼むんですか」
    「……嫌か?」
     正面を向いて運転している赤井の横顔を見る。赤井の表情に変化はないが、「他の人間に任せるつもりなのか、君は」とでも言うような声が、今にも聞こえてきそうだった。
     どことなく気落ちしているような、不機嫌なような、よくわからない感情を赤井に向けられているような気がする。自分の気のせいかもしれないが、赤井は自分の護衛を他の人間に任せたくないと思っているような節があった。
     催眠術の件があってから、自分たちの距離は今まで以上に近づきつつある。自分のことをこうして気にかけてくれるのは、赤井なりの優しさでもあるのだろう。
     友人を放っておけない。
     心配だから、目の届くところに置いておきたい。
     そんなことを思ってくれているのかもしれない。
     赤井の厚意を無下にすることはできないし、降谷にとっても、赤井が傍にいてくれればもちろん心強い。
     別組織の人間に頼っても良いものだろうか? 複雑な大人の事情が一瞬脳裏をよぎりはしたが、“断る”という選択肢を選び取ることはできなかった。
    「あ、いや、その……あなたがいいです」
     そう告げてすぐ、降谷は自分の顔に熱が集まるのを感じた。言い方としては間違ってはいない。けれど、どこか愛の告白を思わせるような言葉だと降谷は思った。
     なぜそんなことを思ってしまったのか。理由はよくわからない。
     ただ、意識すればするほど、頭が混乱して、顔がますます熱くなってゆく。降谷の混乱をよそに、赤井は穏やかな声音でこたえた。
    「了解」

     この日を境に、降谷は赤井と行動を共にすることがさらに増えていった。赤井は組織を壊滅させるという目的を同じくした同士であるが、降谷のボディーガードという新たな役目がそこに加わった。
     組織の人間がどこで見張っているのかわからないため、上の指示もあり、降谷はしばらく自宅には戻らないことにした。
     これを機に、公安が用意した隠れ家で寝泊まりすることにしたのだが、隠れ家もしくは公安の人間が詰めている部屋以外の場所では、降谷の隣にはほぼ必ず赤井がいるような状況となった。
     隠れ家からの行き帰りは、自分の愛車を追尾するように赤井がマスタングを走らせている。ある意味、送り迎えをされているようなものだ。朝最初に見るのも、夜最後に見るのも赤井である。赤井で一日がはじまり、赤井で一日が終わる日々だ。ここまで赤井と一緒にいるのは、これまでの人生で初めてかもしれない。
     日々を重ねてゆくうちに、隣に赤井がいるという状況が当たり前になってゆく。だが、すぐ近くに赤井がいることを意識してしまうたびに、降谷は頭を抱えることになってしまった。
     赤井とこれまでどんな風に会話をしていたのか。それすらも思い出せないほど、混乱してしまうことが増えてきたのだ。
     傍から見れば、自分たちはギクシャクしているように見えていたのだろう。自分たちの様子を見かねて声をかけてきたのは、ジョディだ。
    「シュウに続いてフルヤまで……あんた達、まるで好きな子を直視できないジュニアハイスクールスチューデントみたいよ」
     ジョディのこの言葉を聞いて、降谷は苦笑するしかなかった。赤井には催眠をかけられている事情があるから仕方がないが、自分にはそのような事情はない。赤井は変わらず、自分の顔を見ずに話していたが、なぜか降谷も、赤井の顔をまっすぐに見ることができなくなっていたのだ。それどころか、赤井を目にすると、顔が熱くなる謎の現象に見舞われている。
     そしてその異変を、赤井は見逃してはくれなかった。
    「顔が赤いな。やはり先日の怪我のせいで熱があるんじゃないか?」
    「怪我とは無関係です。さっきまでちょっと急ぎの用事があったので庁内を走り回っていたんですよ」
    「怪我人なんだから、無理はしないでくれよ」
     幾度となく、そんなやり取りを繰り返すことになってしまう。もちろん庁内を走り回ったりなどしていないし、たとえ走り回っていたとしても、それくらいで顔が赤くなるほど息を切らしたりもしない。自分のプライドは少し傷つくが、赤井に疑われないようにするためには仕方のないことだった。
     警察庁内では、公安とFBIは部屋が異なるため、それぞれの部屋にいる間はお互いの行動が目に見えない。それを利用して、降谷はもっともらしい“顔が赤くなる理由”を作り上げていくしかなかった。しかし、赤井が護衛として傍にいる間は、どんな言い訳も通用しない。
    「この部屋が暑いせいですよ」
    「エアコンの設定温度はいつもと同じようだが……」
    「今日は厚着してしまって」
    「いつも通りの服装だろう?」
     不自然な苦しい言い訳を繰り返すうちに、いよいよ赤井は降谷を強制的に病院へ連れて行こうとしはじめた。
     降谷は必死に抵抗した。体調にはまったく問題ないので、病院に行ったところで“異常なし”と診断されてしまうだけ。問題なのは、自分の身体ではなく、心なのだ。
    「僕は大丈夫! 大丈夫ですから!」
     何度そう言っても、今度ばかりは赤井も引き下がろうとはしなかった。
     腕を掴まれた瞬間、赤井と目が合う。真正面から見る赤井の顔は、いつになく真剣だった。
    「いい加減にしろ」
     赤井はそう告げたあと、はっと思い立ったように降谷から目を逸らした。術にかかったままの赤井は、また心にもない言葉を言ってしまったと悔いているのかもしれない。だが、降谷の顔はぶわりとさらに熱を持ち、胸はどきどきと音を立てはじめた。
     赤井に叱られているといってもいいこの状況で、自分のこの反応は、あまりにもおかしい。自分に向けられた真剣な表情と声に、胸の高鳴りを抑えることができない。
     ふと、自分の腕を掴む赤井の手の力が緩むのを感じて、降谷は逃げるようにその場から立ち去ろうとした。しかし、赤井に背を向けた瞬間、再び腕を捕えられてしまう。そのままぐいぐいと引き寄せられて、降谷は焦った。このままでは、これまでにないほど赤面した自分の顔を赤井に見られてしまう。
    「ま、待ってください! 僕は本当に大丈夫ですから!」
    「君のその様子……とても大丈夫とは思えんのだが」
    「身体は本当に大丈夫なんです! 大丈夫じゃないのは別のことで……」
    「別のこと?」
    「あ、いや、その……」
     つい口が滑ってしまい、降谷は赤井のいない場所に逃げ込んで隠れたくなった。赤井が相手だと、いつもの冷静な自分はどこかにいってしまう。
    「身体は大丈夫というのなら、教えてくれないか? 君の様子がおかしい本当の訳を」
     赤井は自分を逃すつもりなど微塵もないのだろう。
     赤井の顔を見なくてもわかる。自分の腕を掴む赤井の手の力強さが、それを証明しているといってもいい。自分が本当のことを言うまで、どこまでも追いかけてくるつもりなのだ。
     逃げるのを諦めて、降谷は身体から力を抜いた。赤井に顔を見られないように、赤井に捕われていない方の手で、自分の顔を覆う。
    「……実は僕も、よくわかっていないんです」
    「ん?」
    「あなたを見ると、顔が赤くなってしまうんですよ」
     他人が聞けば、きっと冗談だと思うだろう。馬鹿馬鹿しいとさえ思うかもしれない。ところが、赤井は真剣に自分の言葉を受けとめたようだった。
     赤井の手が、自分の腕からゆっくりと離れてゆく。
     しばらく静寂があった。赤井が思考しているのがわかる。
     自分の身に起きているこの不可解な現象は、赤井の頭脳をもってしても、そう易々と理解できるものではなかったのだろう。謎を解くための鍵を拾い集めるように、赤井は自分に問いかけてきた。
    「……いつからだ?」
     赤井の声は、低く険しい。
    「おそらく……先日、あなたに助けてもらったあの日から……」
    「……まさか、君もマリーに催眠を?」
    「違います!」
     頭で考えるより先に、降谷は反射的に強く否定していた。赤井のかけられた催眠術に自分が関係している以上、ライだけではなくバーボンも催眠術をかけられていた可能性がある――そう考えるのは、何も不思議なことではない。むしろ、当然ともいえる思考だ。
     催眠をかけられた心当たりは一切ない、そう告げるだけでは何の証明にもならないかもしれない。しかし、降谷は本能的に違うと思った。そして、違うと断言しなければならないとも思った。
    「…………」
     赤井は何も言わない。ただ静かに、降谷の次の言葉を待っていた。
    「……大きな声を出してすみません。催眠術で心を操ることができるのは知っています。でも、自分のこの気持ちは誰かに操られたものではありません」
    「……君の、気持ち?」
     赤井の声に、降谷は我に返る。謎を解く鍵を増やすどころか、さらに新たな謎を増やしてしまった。
    「ぼ、僕は……いったい何を……」
     無意識のうちに放っていた自分の言葉に、降谷は混乱した。
     赤井を見ると顔が赤くなるのは、自分が抱える感情に要因がある。しかもその感情は、催眠によるものではなく、自分自身から湧き上がってきたもの――そう告げたに等しいことを、赤井に言ってしまったのだ。
     顔を赤くする謎の感情の正体は、降谷にもまだよくわかっていない。だが、直観的に、赤井には絶対に言うべきことではないと思った。
    「降谷君?」
     赤井が自分の名を呼んだ。突然声を詰まらせた自分のことを不思議に思っているのだろう。
     赤井は自分を見ていない。自分も赤井を見ていない。
     だが、赤井に顔を覗き込まれているような心地になり、恥ずかしさに似た感情まで湧き上がってくる。
     これ以上、赤井に追及されてしまうと、自分はその感情と向き合い、答えを導き出さなくてはならなくなるだろう。
     それだけはなんとしてでも避けなければならないと降谷は思った。自分の心の中を覗き込むのも、赤井に自分の心の中を覗き込まれるのも、それ相応の覚悟が必要だ。しかし、降谷にはまだ、その覚悟はなかった。
    「と、とにかく! これで病院に行く必要がないことはわかってもらえましたよね あなたが心配することは何もありませんから、大丈夫です!」
     どうしようもなく居た堪れない気持ちになり、降谷は逃げるようにその場から去った。すぐにボディーガードである赤井に捕まってしまったが。

     その日から、赤井が必要以上に自分の負った怪我を心配することはなくなった。しかし、赤井が自分を心配することはなくならなかった。むしろ、これまで以上に心配しているようにも見えた。
     明らかに、自分の顔が赤くなる理由を気にしているようである。赤井は自分の顔をよく覗き込んでくるようになってしまったのだ。もちろん、無言で。
     降谷とて、一日中、顔を赤くしているわけではない。
     仕事をはじめれば、顔色は瞬時に戻る。赤井にちらりと視線を向けられたくらいではどうとでもない。
     だが、仕事の合間など、ふとしたときに無言でじっと赤井が自分の顔を見つめてくるときがある。そこで赤井を意識しはじめてしまうと、もうダメだった。ぶわりと顔に熱がこもり、誤魔化しようのないレベルまで赤面してしまう。
     催眠術がまだ解けていないので、目が合った状態で赤井が自ら言葉を発することはほとんどない。赤井が言葉を発しないからこそ妙に意識してしまうのかもしれないが、赤井を見ても顔が赤くならないよう自分自身で制御すればいいだけの話である。
     しかし、顔色ひとつ、降谷はうまく制御することができなかった。三つどころか百の顔だって演じ分けてみせる自分が、赤井の前では形無しである。しかも、赤井に顔を見られていると意識すればするほど、ますます顔が赤くなってしまうので、どうしようもない。
     反射的に顔が赤くなる事象が落ち着くまで、しばらく赤井と距離を置きたい。それができないのならば、せめて顔が赤くなりはじめたら赤井の前から立ち去りたい。そんなことを度々考えていた。自分が本気を出せば、逃げ切れるという自信もあった。
     だが、今の赤井は自分のボディーガードである。逃げ出したい気持ちが顔に出ていたのかどうかはさだかではないが、「俺から離れるようなことはしないでくれ」と赤井から真剣な声で告げられて、降谷は考えを改めざるを得なかった。
     赤井は命懸けで自分のことを護ろうとしてくれている。そんな赤井の気持ちを裏切ることは絶対にできないので、降谷は本気で逃げるようなことはしなかった。
     赤井から離れるにしても、ひとりきりで赤井から遠く離れた場所には行かないよう留意した。あくまで、顔色を元に戻すまでの間、離れるだけ。何かあればすぐに落ち合えるように、赤井の目の届く場所に居続けることを降谷は選んだ。
     とはいえ、赤くなった顔を見られるのが嫌で、赤井を避けるような行動をとってしまっているのは事実である。その代償だろうか。これまで以上に降谷は赤井とギクシャクするようになってしまった。
     降谷が自分自身で自覚できるほどのギクシャク振りだ。傍から見ても、自分たちの様子はおかしかったのだろう。ジョディからは、「あんた達、さらに悪化してない?」と言われるはめになった。


     そうこうしている間にも、組織壊滅作戦のその日は、容赦なく近づいてくる。
     しばらくは赤井と自分のギクシャク振りを心配する声もあったようだが、二人が仲違いしているのではないかと思っていたのはほんの一部で、自分たちのことをよく知る人間はまったく微動だにしていなかった。もうすっかり慣れてしまったとでもいうような、余裕の表情を浮かべている。
     それは、自分達がどんな関係であれ、仕事に支障をきたすような振る舞いはしないと信用してくれているからだろう。
     その証拠に、仕事においては、ギクシャクするどころか、二人の息はぴったりと合っている。自分たちのことをまだよく知らない者たちは首を捻っているようだったが、作戦に向けての準備は順調としか言いようのない状態だった。
     護衛をしてもらっているから、ということだけが理由ではなく、赤井と降谷はほとんど一緒にいた。現在の住処や公安の人間だけが入れるエリア以外、ずっとだ。度々顔色を戻すために離れるだけで、いつしか一緒にいることが当たり前になりつつあった。
     日々を重ねてゆくなかで、降谷は赤井の様々な姿を見た。赤井は常に緊張と隣り合わせで、心身を休ませている姿を見たことはこれまで一度もなかった。
     外出時。物陰から猫が飛び出してきたときでさえも、赤井は素早く自分と猫の間に立ちはだかった。降谷は自分の前に立つ赤井の背中の逞しさに目を見張った。「なんだ、猫か」と赤井が漏らした安堵の声に、降谷は胸の高鳴りを抑えることができなくなった。
     瞬時に降谷の顔は赤くなり、赤井が無言で顔を覗き込んでくる。何かが起きるたびに、二人はそんなことを繰り返した。
     しかし、どれだけ長い時間一緒にいても、赤井の顔を正面からじっくり見ることはほとんどできない。いつの間にかお互いの目を見て話さないことが、自分たちにとっての日常になりつつあった。しかしそれは、本来のあるべき姿ではないと降谷は思っていた。
     催眠術にかかっているという今の状況は、赤井にとって不都合な状況であることに変わりはない。異質な状態と言ってもいいだろう。もし、赤井以外の人間が赤井と同じ状況に立たされたとしたら、赤井のように平静ではいられないに違いない。
     かけられた催眠が、時期によって変化するものなのかどうか。人を殺めてしまう危険性がないのかどうか。
     不明な部分が多いだけに、常に自身の言動に注意を向けていなければならない。
     普通の人間ならば、皆の足枷になることを恐れて、組織壊滅作戦のメンバーから外れたいと申し出てもおかしくはない状況だ。
     だが、そのような異常事態であるのにもかかわらず、赤井はメンバーを外れるどころか、自分と同じくメンバーの中枢であり続けようとしていた。
     今は組織壊滅に全力を尽くすべきだと、赤井は催眠術を解くための調査は優先度を下げている。いわゆる保留の状態だといってもいい。赤井も自分も、作戦の日までに術を解くのは厳しいと踏んでいた。だから、まだ術が解けていないのはある意味計画通りであり、この状況に焦りを覚える必要もない。
     赤井がかけられた術は、今のところ降谷に対してのみ発動する。
     他の者への影響も少ないことを考えると、自分たちの判断は正しいと断言することができた。だが、自分から顔を逸らして言葉を紡ぐ赤井の姿を見るたびに、赤井にかけられた術を解く鍵、あるいは自分の催眠で上書きできる方法を早く見つけられないものかと降谷は思案してしまうのだ。
     仮眠をとるために隠れ家に帰ったときなど、そばに赤井がいないタイミングを見計らって、降谷は催眠術の本を何度も読み返した。何かヒントになるものはないかと、目を凝らして情報を拾い上げた。書籍だけではなく、検索エンジンを使ってネット上の記事を読んで回ったり、関連する動画を視聴したりもした。赤井には教えていないが、公安のデータベースも一通り精査し終えるところまできている。
     そうして情報を集めてゆくなかで、降谷はあることに気づいた。
    「最近、ゆっくり休めてますか?」
     昼食後のひととき。向かい合わせの席に座っている赤井に向けて、降谷は世間話を切り出すように問いかけた。
    「どうしたんだ、急に」
     赤井は窓の外を眺めながら言った。こうして休憩をしているときでさえも、赤井は律儀に自分から目を逸らして言葉を発する。
    「作戦前の準備に加えて、僕の護衛……ほっと一息つける時間もないんじゃないですか? 心身を整えるためにも、休息は必要不可欠です。しばらく僕の護衛だけでも休んでください」
    「最低限必要な休みは取っている。君は何も心配しなくていい」
     赤井は微笑んで言った。本心からそう思っているのだろうことがわかる、穏やかな笑みだ。
     赤井がそう言うならば……と、そのまま頷きそうになったが、今は赤井の優しさに甘えてはならないと降谷は思った。降谷は自らを奮い立たせて言った。
    「ただ休んでください、と言うつもりはありません。あなたに休んでほしい理由は他にもあるんです」
    「他にも?」
    「あなたも聞いたことがあるでしょう? 催眠術はリラックスした状態の方がよくかかる、と……」
    「確かに、一般的にはそう言われているな」
    「ええ。僕としたことが、その催眠術の基本を疎かにしていたんです。あなたに術をかける前に、あなたが術にかかりやすい状態を作らなければならなかったんですよ」
     過去に何度も失敗した、催眠術を上書きしようとしたときの話を降谷は持ち出した。
    「十分にリラックスできていたと思うがな。水晶を左右に振るのも、導入としては間違っていない」
     そう告げる赤井に、降谷は続ける。
    「でも、あれでは不十分だったんです」
    「……不十分?」
    「段階があるんですよ。催眠にかかるには、睡眠状態に近いぐらい脱力した状態になる必要があるんです」
    「ああ、トランス状態のことか」
     赤井に説明は不要のようだ。降谷は頷いた。
     催眠術の専門知識を持たない自分は、この分野においては素人も同然である。何か間違いなどあってはならないと、脚色を加えたりせず、本やネットで得た知識をそのまま忠実に赤井に対して実行した。しかし、これまで何度試しても、赤井に催眠をかけることはできなかった。赤井が少し眠そうな顔をしていたのは記憶に残っているが、いわゆるトランス状態には程遠い状態だったのだと言わざるを得ない。
     本来、赤井は催眠術にかかりにくい体質なのではないかと降谷は思っていた。ライが催眠術にかかってしまったのは、極めて例外的な出来事だったに違いない。マリーの技術が高かった可能性もゼロではないのだろうが、その日、赤井を油断させるような何かが起きていた可能性もある。“あの赤井”に術をかけるのだから、術をかけるタイミングも計算されたものだったのかもしれない。
     術をかける前。マリーは赤井といったいどんな会話をしていたのか。そこにヒントが隠されているのかもしれないが、二人の会話の内容を根掘り葉掘り問うのは気が進まなかった。
     素人の自分では、もうどうにもできないのだろうか。
     いや、赤井にかけられた術を解けるのは自分しかいないはず。
     そうして自分を鼓舞しながら、降谷は続けた。
    「あなたは気が進まないでしょうが、敵が襲ってきても油断するぐらいにはリラックスする必要があると思うんです」
     あくまで例えだが、それくらい気を緩ませた状態でないと術の上書きはできないと降谷は思った。赤井にとってはもっとも避けたい状態であるに違いない。仮に、赤井が意識してリラックスした状態を作り出そうとしても、その境地に達するのは至難の業であるように思う。
     まず、本能が邪魔をするだろう。そして、理性もまたそれを踏み留まらせるだろう。
     組織の人間が襲撃してくる可能性も考えて、自分たちは行動しなければならない。いつ、誰が、どこで、自分たちを襲ってくるのかもわからない今のこの状況で、無防備になるわけにはいかないからだ。今はもっとも催眠を上書きするのに難しい時期であると言わざるを得なかった。
    「このタイミングで敵に隙を与えるわけにはいかんよ、降谷君。もし君に何かあったらどうするんだ」
     まっさきに自分のことを心配してくれるとは。赤井の言葉に、ぽっと顔に熱が灯るのがわかる。降谷は心の中に湧き出てくる甘やかな感情をどうにか振り払い、こほんと軽く咳払いをして言った。
    「大丈夫ですよ。僕の護衛はしばらく別の人に――」
    「…………」
     空気が凍え固まる心地がした。
     赤井からの強かな圧を感じて、降谷は途中で何も言えなくなってしまう。
     赤井は一言も声を発していないが、「他の人間に頼むつもりなのか、君は」と言っているのが聞こえたような気がした。
     ここ最近の自分たちの様子を、降谷はギクシャクと表現していたが、その表現がかわいらしく感じてしまうほど、赤井から放たれている空気は重い。
     降谷の背中に冷たい汗が伝った。どうやら自分は、言ってはならないことを言ってしまったらしい。
     このまま赤井に叱られてしまうのだろうか。それとも、「君のことなどもう知らん」とでも言って、ここから立ち去られてしまうのだろうか。
     まるで子どもに戻ったかのように不安で心を揺らされていると、赤井がふっと笑みを浮かべる気配を感じた。信じられない気持ちで、降谷は赤井を見る。この冷え切った空気を作り出したのは赤井だが、それを打ち破るのもまた、赤井だった。赤井の横顔に、もう何度目かもわからない胸の高鳴りを覚える。
     赤井はこちらを見ずに口を開いた。
    「君のボディーガードは俺だよ」
     改めて宣言されて、降谷は目を見開く。
     窓の外を見つめる赤井の横顔は穏やかだ。だが、その声音には、赤井の覚悟が表れているように思えてならなかった。こんなにも自分は赤井に大事にされている。そう考えると胸がぎゅっと締めつけられた。術の影響を受けていない赤井の言葉は、赤井の本心を乗せているといっていい。
     赤井は与えられた任務を途中で投げ出したりなどしない人間だ。よくよく考えてみればすぐにわかることなのに、赤井が自分のそばからいなくなるというありもしない可能性を考えて、心が震えあがった。どうしてこんなにも心を乱されてしまうのか。降谷は自分で自分がよくわからなくなってくる。
     ボディーガードはあくまで仕事のひとつ。そう割り切ることができたのならば、赤井が何と言おうと、赤井の負担を考慮して、複数人で交代できるような体制を作っていただろう。仕事を言い訳にすれば、いくらでも赤井に反論することはできる。しかし、降谷にはそれができそうになかった。
     赤井の言葉を聞いていると、まるで自分が赤井にとって特別な人間になったかのような気持ちになる。自分がただの錯覚を起こしているだけなのかもしれない。だが、赤井の真摯な言葉を、自分の胸に押し寄せているこの気持ちを、降谷は見て見ぬフリをしたりせず、大事にしたいと思った。
     と同時に、今の自分たちの状況を降谷は振り返る。
     赤井の顔を見ると、降谷の顔は赤くなる。赤井は赤井で、術にかかっているせいで、降谷の顔を見ずに喋ることを余儀なくされている。
     お互いがお互いを視界に入れなければ、自分たちはいつも通り。お互いにそう認識し合っていて、今のこの状況も受け入れている。
     だが、降谷は願ってしまうのだ。決戦前に、いつもの赤井に戻ってはくれないだろうか、と。
     顔が赤くなってしまうので自分からは目を合わせられないというのに、赤井と目を合わせて話がしたい。そんな矛盾した気持ちも抱きかかえながら、降谷は赤井に懇願した。
    「……ええ。僕のボディーガードはあなただけです。でも、せめて一日だけ、僕の護衛をすることは忘れて、ゆっくり休んでもらえませんか? 僕もその日は一日隠れ家に籠ります。そして、一日の最後に少しだけ僕に時間をください。もう一度、術の上書きを試してみます。それでもしダメだったら、作戦が終わるまで、僕はもうこの件には触れません」
     必死にそう言い募ると、赤井が一瞬だけこちらを向く。しかし赤井はすぐにまた窓の外へと目をやり、何かを考えはじめた。
     訪れた静寂を受け入れていると、しだいに赤井の横顔が、思案している表情から悪巧みを考えているような表情へと変わってゆく。あまり良くない方向に話が進んでいくような予感がして、降谷は固唾を呑んだ。
    「君がそこまで言うなら、ひとつ提案がある」
    「提案?」
    「その日、君の隠れ家に俺を泊めてくれないか?」
    「えっ」
     まったく予想もしなかった提案をされて、降谷は思わず驚きの声を上げる。良い案だろう? とでも言うような声音で赤井は言った。
    「そうすれば、何か問題が起きたときにも対処しやすい」
    「で、でも、僕と一緒じゃ、あなたはリラックスできないでしょう?」
    「いや……君と一緒の方がリラックスできる」
    「まさか、そんな……嘘でしょう?」
     信じられない気持ちで、降谷は赤井に問いかける。
     かつて自分が赤井に向けていた感情を、赤井自身もよくわかっているはずだ。いつ破裂してもおかしくないほど、激しくて、熱い、そして愛を裏返したような荒れ狂った感情を自分が向けていたことを。
     それを認識しておきながら、リラックスできるとはいったいどういうことなのだろう。
     緊張感が足りないのではないか、と憎まれ口を叩きたくもなったが、降谷はぐっと堪えた。
     降谷の心情を理解しているのか、していないのか。あるいは、わざと混乱させようとでもしているのか。赤井は不敵な笑みを浮かべて言った。
    「いや、嘘じゃない。リラックスしているときも、エキサイトしているときも、俺のそばには君がいる……と言った方がいいだろうか」
     そこで言葉を切って、赤井が視線を自分に向けてくる。当然ながら、赤井は言葉を発しない。思い出したように、降谷の顔は赤くなった。
    「あなたの言っている意味が、よくわかりませんね……」
     赤井の顔が見たい。そう思いながらも、実際に真正面から顔を見るとどうしようもなく顔が赤くなるので、ここから逃げ出したくなる。
     今度は降谷の方が顔を逸らす番となってしまった。そんな自分の態度を気にする様子もなく、赤井は楽しそうに微笑んで言った。
    「では、よろしく頼むよ。降谷君。それで、いつ二人で休みを取ろうか?」

     ここ最近まったく休みをとっていなかったこともあってか、周囲にも後押しされて二人は同じ日に休みを入れた。この休みのために、普段の仕事の量をさらに増やしたため、休みの前日になると降谷も疲労困憊の状態になっていた。赤井は赤井で、目の下の隈を濃くし、煙草の本数を増やしていた。 
     赤井は翌朝に自分の住む隠れ家を訪れることになっている。しかし赤井の様子を見て、降谷は予定を早めることを提案した。今の赤井に工藤邸と隠れ家を行き来させるのは、移動の手間を考えると心苦しくなったのだ。
    「君さえよければ」と赤井が言うので、降谷は二つ返事で頷いた。とはいえ、赤井の訪問が早まるのは予定外のことである。かえって赤井を困らせたのではないかと思案していると、赤井はロッカーに置いてあった予備の衣類を取り出し、最初から予定に組み込まれていたかのような自然さで、降谷のもとへとやってきた。工藤邸に帰れない状況に陥っても問題ないように、常備していたものなのかもしれない。
     その一方。一瞬で宿泊の準備を終えた赤井とは違い、赤井を迎え入れる自分の方には、わずかながら問題があった。まず、家には料理の材料となりそうなものが何ひとつない。職場もしくは現場に入り浸りの状態だったため、ずっと買い物をしていなかったのだ。
     明日、赤井が来る前に買い出しに行こうと思っていたので、予定を早めてしまうとこうした不都合も出てしまう。今夜は外食で簡単に済ませ、明日の朝、買い物に行こうかと降谷は考えた。すぐに行って帰ってくれば、ひとりで出かけたとしても問題はないだろう。もし仮に何か問題が起きたとしても、朝であれば、闇の中に潜っている人間も派手な行動はできないはずだ。
     二人が警察庁を出る頃には、もうすっかり夜も更け、飲食店もほとんど店じまいをしている時間になっていた。どこで食べようかと思案する元気もなく、近場にある二十四時間営業の定食屋に入り、手早く空腹を満たす。疲労もあってか、お互いほとんど喋らずに食事を終えた。
     隠れ家に着いてすぐ、赤井にはシャワーを浴びてもらうことにした。その間、降谷は寝室で二人分の布団を敷く。
     仕事とは関係なく、こうした形で赤井と一夜を過ごすのは初めてだ。ふと、一夜を過ごす、という表現で別の何かを想い起こしてしまい、降谷は妙な緊張感を覚えた。そもそも赤井とはその“何か”が起きる関係ではないのだが、隙間なく並んでいる布団を見ていると、なんとなく気恥ずかしくなってくる。
     降谷は自分の分の布団を引き寄せて、赤井のそれから距離をとった。ただ同じ部屋で一緒に寝るだけだと言うのに、布団も別々だというのに、妙に意識してしまうのはなぜだろう。赤井はこの場にいないというのに、顔が赤くなってゆくような予感がして、降谷は両手で自分の両頬を叩いた。
     しばらくすると、赤井が浴室から出てくる。当然のごとく上半身は裸で、癖のある髪から滴る水滴が、肩を濡らしていた。普段一緒にいるだけでは、けっして見ることのできない光景だ。
     慣れないこの状況に、降谷の緊張はさらに膨らんだ。このままでは、自分の様子がおかしいことに気づかれてしまう。
     降谷は平静を装って赤井にドライヤーを渡し、逃げるように浴室へ向かった。頭の中のごちゃごちゃした思考も一緒に洗い流すように、頭上から勢いよくシャワーを浴びる。冷水を頭からかぶりたい気分だったが、風邪を引くわけにもいかないので、いつものように髪と身体を丁寧に洗うだけに留めた。
     シャワーを浴び終えて寝室に戻ると、部屋の端に寄せたちゃぶ台の上にノートPCを乗せて、赤井はキーボードを叩いていた。報告書でも書いているのか、誰かに向けてメールやチャットのメッセージを書いているのか、何をしているのかまではよくわからないが、規則的なキーの音には眠気を誘われる。
     シャワーを浴びてどっと疲れがでたのか、会話をする気力もほとんど残っておらず、降谷は布団の上に横たわった。寝転んだ状態で、真剣な表情でキーを叩く赤井を、声をかけるでもなくぼんやりと眺める。
     仕事に集中するあまり、自分が見つめていることに気づいていないのか。あるいは気づいて気づかぬフリをしているのか。赤井の心の内はよくわからないが、赤井はPCのモニターを真剣な目で見つめている。こちらを見る素振りはひとつも見せない。
     自分のことを見てはくれないだろうか。
     ふと、そんな気持ちが沸き起こる。途端、降谷は自分の心臓の音を意識せざるを得なくなった。
     夜。ひとつ屋根の下で赤井と二人きり。そんな状況で赤井に見つめられでもしたら、きっと平静ではいられなくなってしまうだろう。
     すぐそばで聞こえるそれは、けっして不快なものではない。自分が生きている証でもあり、赤井に対する自分の気持ちを表すような音でもある。遠くにいる赤井には聞こえない、今は自分だけにしか聞こえない音だ。
     しばらく待っていたが、赤井がこちらを向くことはない。一度速まった鼓動も、時間とともに落ち着いてゆく。
     トク。トク。トク。自分の心臓の音を聞きながら、降谷はゆっくりと目を閉じた。

     次に目を開いたときには、カーテン越しに朝陽が差し込んでいた。視線を上げると、常夜灯がかすかにあたりを照らしている。赤井が作業を終えて、灯りを絞ってくれたのだろう。穏やかな夜が過ぎ去ったことをそれらは教えてくれていた。
     隣の布団を見ると、赤井がこちらを向いて眠っている。
     とんとんとん、と人差し指で小さく自分の布団を叩いてみたが、赤井は何ひとつ反応しない。完全に眠っているといっていいだろう。
     赤井だって疲れたら眠る――当たり前のことなのに、跳ね起きてしまうほど驚いてしまった。赤井のことだ。ここで敵襲があれば、即座に目を覚ますに違いない。だが、小さくはあるが自分が音を立てても、赤井が目を開ける気配はなかった。仮に寝たふりをしていたとしても、異音があれば赤井は起き上がるはずだ。それがないということは、隣で眠っても問題ないと思えるくらいには、赤井にとって自分が安心できる人間になっているということなのだろう。そう思うと、実に感慨深いものがある。
     降谷は再び横たわり、自分にかかっていた毛布を引き寄せた。赤井がかけてくれたのだろうそれに包まると、ほっとするような温かさを感じる。
     毛布に包まったまま、降谷は赤井の寝顔を眺めた。
     赤井と自分の距離は以前よりも近づいたが、赤井の顔を間近でじっくり見ることはなかなかできるものではない。ここまでじっくりと赤井の顔を見る機会もそうそうないだろう。今は、赤井を起こしさえしなければ、好きなだけ見ていられる。そう、好きなだけ、だ。
     嬉しい。楽しい。そんな単純な感情が、降谷の心を躍らせている。不思議なものだ。憎たらしいとさえ思ったことのある顔を、今は違った感情で眺めている。
     その感情が果たして何なのか。手を伸ばせばすぐ届くところまで、いや、もう言葉にできるところまで、掴みかけている。
     初めて出逢ったときからこれまで。思い起こせば、色々なことがあった。けれど今が一番、赤井との距離は縮まっているし、気づけばお互い一緒にいる。これからもずっと、こんな風に赤井と一緒にいられたらいいのに。そう願うのと同じ熱量で、降谷はこの日々に終わりがくることを恐れていた。
     作戦が無事に終わり一段落ついたら、赤井はアメリカへ戻るだろう。その日が来ることを想像するだけで、胸が引き裂かれそうな心地になる。赤井にとって自分は、今は“護るべき対象”だろうが、すべてが終われば、どんなに良くても“ただの友人”止まりだ。
     もし赤井が自分と同じ気持ちでいてくれたら、たとえ遠く離れ離れになったとしても、繋がりは消えたりしないだろう。だが、赤井にとっての自分は“そういう対象”ではない。赤井の過去の恋人たちを振り返ってみても、男である自分がその対象になることはまず考えられなかった。
     自分がもし催眠術師だったならば、想いをこじらせた結果、自分のわがままで赤井をこの国に縛りつけようと考えたかもしれない。実現性はゼロだが、その可能性を考えると、自分が催眠術師ではなくて本当によかったと心から思う。たとえ自分の都合の良いように人の気持ちを操ることができたとしても、それは偽りの関係しか生み出さない。そして、結果的に自分は赤井を不幸にしてしまうだろう。
     じわりと目に浮かんだ水滴を、降谷はそっと人差し指で拭った。
     いつか別れが来たときに後悔しないように、赤井の姿を自分の記憶に焼きつけておこう。そんなことを思いながら、降谷は赤井の顔を眺めた。
     陽が昇り、部屋に入る光の位置が変わってゆく。一瞬、部屋の中できらりと輝くものがあり、降谷はその光の源を確かめた。輝くものの正体は、朝の光を集めた円錐型の水晶――ペンデュラムだった。吸い寄せられるようにして、降谷は布団の脇に置いておいたペンデュラムを手に取った。眠っている赤井の顔を眺めながら、ペンデュラムをゆっくりと左右に振る。
     催眠にもっともかかりやすいのは、リラックスから弛緩に変わり、そして睡眠状態に近いくらい脱力した状態――トランス状態である。
     目を閉じている赤井を見つめながら、降谷はゆっくりと口を開いた。
     今の赤井は完全に眠っているので、自分が何を言おうとも、その声が赤井に届くことはない。
     ――だからこれは、催眠をかけることも叶わない、ひとりの男の、ただの独り言だ。
    「赤井が僕を好きになってくれますように……」
     実際に口にすると、自分の声音で赤井への想いをますます自覚させられてしまう。いくら独り言とはいえ、一線を越えた言葉だ。
     胸に込み上げてくる熱い感情の裏で、深く沈むような罪悪感を覚える。降谷は赤井の顔を見ていられなくなり、そっと視線を逸らした。
     降谷は赤井を起こさないように静かに立ち上がる。朝、赤井が起きたとき、いったいどんな顔をすれば良いのだろう。次に赤井の顔を見るのは、赤井が目を覚まして、朝食をとるときだろうか。
     それまでに普段通りの自分の顔に戻れるのか。自信はないが、戻すしかない。降谷は洗面所に行き、冷水で顔を洗った。
     赤井が起きるまでに朝食でも作ろうかと考えたところで、この家には朝食にできそうな材料が何もないことを降谷は思い出した。
     時計を見れば、まだスーパーは開いていない時間である。開いているとすれば、二十四時間営業のコンビニくらいだろうか。スーパーほどの品揃えはないだろうが、パンや卵などは調達できそうだ。
     赤井が起きる前に、コンビニから戻り、朝食を作ろう。外の空気を吸えば、気持ちも幾分落ち着くかもしれない。そう考えて、降谷は素早く身支度をし、財布とスマートフォンを持つ。ひとつ深呼吸をし、気を引き締めながら拳銃も上着に忍ばせて、降谷は静かに家を出た。
     外に出ると、青色一色で澱みひとつない空が広がっている。今日は洗濯物を干すのもいいかもしれない。そんなことを考え⁠⁠⁠⁠ながらしばらく歩いていると、背後に人の気配を感じた。ただの通行人ではない。あきらかに気配を消して、自分の後を追っている人物がいる。それも複数だ。
     一人、二人、と数えていきながら、降谷は途中で数えるのをやめた。この人数では尾行を巻いて逃げ切るのもなかなか難しそうである。
     これからどうすべきか。後方に意識を向けながら思案していると、前方に大きな人影が立ちはだかった。途端、背後で消えていたはずの気配が顔を出し、自分を中心とするように周囲から多数の殺気が集まる。
     夜も空けて、いつ人通りがあってもおかしくないというのに、目の前の大男が無骨な漆黒の筒を自分に向けてきた。さっと周囲を見渡せば、通行止めの看板と赤色の三角コーンが周囲に張り巡らされている。敵は用意周到のようだ。
     自分の周囲にいる者たちは、体形や顔を隠すためか、真っ黒で背丈の長いコートを着て、サングラスをかけている。
     これだけの人数を集めているとなると、雑ではあるが、それなりに計画を立てて自分に接近しているのだろう。自分がどんな行動を起こすのか。敵はある程度シミュレーションしているのかもしれない。
     敵を攻撃すべきか。あるいは逃亡に転じるか。頭の中であらゆる選択肢を考えるが、バリケードのすぐそばに中学生くらいの子どもがいるのが見え、降谷は息を止める。部活動か何かで早めに登校しているのだろう。もちろん、子どもの存在に気づいているのは、自分だけではない。
     ここで妙な動きをすると、一般人を巻き込みかねない。もし一般人を人質に取られるようなことがあれば、取り返しのつかないことになる。そして、組織壊滅作戦を間近に控えた今。自分の判断ミスで、作戦が無駄に終わることなど絶対にあってはならない。
     犠牲になるのは、自分ひとりであるべきだ。
     降谷はおとなしく両手を上げた。まるでそれを待っていたかのように、周囲が一斉に取り囲んでくる。実に数任せなやり方だ。人数が多ければ多いほど、“足がつく”リスクは格段に高くなる。今後のことを考える余裕がないのか。あるいは、自分を利用して、自分の背後にある公安という組織に大勢で揺さぶりをかける気なのか。
     どちらにせよ、戦略に長けた者が立てた計画ではないだろう。自分にデータを奪われた組織の下っ端の仲間が、徒党を組んで襲ってきたとしか思えなかった。
     だが、付け焼刃の計画であったとしても、今、自分の逃げ道は完全に塞がれている。敵はどう出るか。自分はこの場で射殺されるのか。あるいは拘束されるのか。目の前の敵の目的にもよるだろうが、きっと無事ではすまないだろう。
     自分の正面に立っているグループのボスらしき人物が、自分の左右両端にいる人間に目配せをする。
     攻撃を仕掛けられるかと身構えていると、両手を後ろ手に縄で結ばれ、黒い布で目隠しをされた。乱暴に背中を押されて声を漏らすと、思い出したように粘着力の強いガムテープを口に貼られる。
     しばらく歩くと、車のエンジン音が聞こえてきた。再び乱暴に背中を押されて、後部座席に乗せられる。後部座席に乗っているのは、自分を含めて三人。自分の両隣に人の気配を感じるので、縄を解く隙もない。
     反抗はせず、おとなしく布で覆われた暗闇を眺めながら、降谷は思案した。
     自分はいったいどこに連れて行かれてしまうのか。東都内か。それとも地方か。あるいは海外か。心の中で、様々な可能性を考える。
     しばらく経つと、車のドアが開き、車から出るよう促される。しばらく歩くと、埃っぽい場所へ辿り着いた。足場を確かめるために、じりじりと靴を地面に擦りつける。そこで、降谷は既視感を覚えた。以前、来たことのある場所のような気がする。早く答え合わせをしたいと思ったが、視界は奪われたままだ。
     多くの足音が聞こえ、周囲から人が集まってくる気配を感じる。敵の狙いは、自分が手に入れたデータを取り戻すことだろうか。いや、今更取り戻したところで意味がないことは敵もわかっているだろう。データの中身はすでに世界中の情報機関に共有されてしまっている。狙いは他にあるはずだ。
     耳を澄ませていると、変声機を通したような声が聞こえてきた。
    「お前が力ずくで手に入れたあのデータ……お前らの組織はいったい何を企んでいる?」
    「…………」
     問われて素直に答えられる訳がない。降谷は沈黙することを選んだ。
    「武器の入手経路、金の出入り、そして過去に組織と取引のあった人間のデータ――そして、お前たちが複数アクセスしたのは、マリーという情報屋のデータだったか」
    「…………」
     思わず反応しそうになったが、降谷はぐっと堪える。手に入れたデータを閲覧するとき、ネットに繋げなければファイルを開くことができない仕組みになっていた。そこから導き出されるのは、ファイルを開けば閲覧履歴がどこかへ送信される可能性があるということだ。もちろん対策は打っていたので、どこでデータを開いたのか、どのネットワークを用いたのか、自分たちの足元はわからないようにしてある。
     とはいえ、閲覧履歴をこうして口に出されるのは、自分たちの足跡に虫眼鏡を向けられているようで、気分が悪い。
     何度もアクセスしたという事実は、その対象に対して興味があるという証左でもある。マリーに興味があるのは事実だが、仕事とは直接関係のないことだ。
     緊張感に満ちた作戦前のこの時期。マリーの情報を入手するためだけに、リスクを冒してまで組織からデータを奪うことはできない。
     必要なデータと同時に、マリーの情報を手に入れられるかどうかは、降谷にとっては賭けに近かった。
     だが、今、目の前にいる敵は、自分たちが手に入れたデータを手がかりにして、マリーから新たな情報を得たとでも思っているのだろう。
     まさか、マリーの持つ情報ではなく催眠術に用があるとは、考えもつかないに違いない。そして、組織のデータベースに残っていたマリーの情報が古いものであることや、マリーの今の所在の足掛かりになるものは何ひとつなかったということにも気づいていないのだろう。
    「お前らの目的を今ここで洗いざらい吐くならば、悪いようにはしない。俺達に協力するのなら、お前がノックであることも黙っておいてやる。だがこのまま黙秘を続けるのなら――今すぐここでお前を射殺する」
     変声機を通した声が、再び降谷の耳に届く。取引をしよう、ということなのだろう。
     機械を通していても、相手の感情ははっきりと感じ取れるものだ。相手は苛立ちと焦りで平静を失いつつある。敵には、タイムリミットがあるようだ。データを盗まれたことが組織の幹部にはまだ伝わっていないのか。あるいは、伝わっているが適当な言い訳でもして誤魔化しているのか。
     どちらにせよ、日本の警察にデータを奪われたという事実を彼らが認めなくてはならない、そのタイミングが近づいているのだろう。
     データを奪われた事実を組織の幹部に知られてしまえば、彼らは無事では済まない。失態を知られたくないがために、無茶な計画を携えて自分を拉致したのだろう。
     データを手に入れたあの日から、今日のような事態が起こることはある程度予想はできたことだ。
     敵は、赤井がボディーガードとしてそばにいる間は静観を貫き、自分がひとりになるタイミングを今か今かと狙っていたのだろう。まさか朝に行動に及ぶとは思いもしなかったが、そこまで追い詰められていたと考えれば納得できる。
     もし自分が襲われるとしたら、敵は人目の少ない場所や時間帯を選ぶに違いない。そう考えていたが、それは降谷にとって大きな誤算だった。
     しかし、その誤算とは裏腹に、自分の計算のさらに上をゆく事態が今起きていることに、降谷は気がついた。
     目隠しのせいで目の前は真っ暗だが、周囲に緊張感が走っているのを感じる。おそらく今、自分は銃口を向けられているのだろう。敵は自分が協力しないとわかれば、ためらうことなく引き金を引いてくるに違いない。
     しかし、その心配はもうしなくても良さそうだ。自分に向かって、一人分の足音がゆったりと確実に近づいてくる。視覚以外の感覚を研ぎ澄ませて、降谷は静かに息をついた。
     変声機を通した声が、「お前、何をするつもりだ」と、自分に近寄ってきた人間に声を上げる。
     この場で指示にない行動をする人間が、いったい何者なのか。自分に何をしようとしているのか。その答えはすぐ目の前にあった。
    「縄は自分でほどけるか」
     そう告げられるのと同時に、視界が開ける。
     視界を覆っていた黒い布が宙を舞い、地に落ちた。
     それが合図となり、周囲の敵意が一斉に自分たちへと向けられた。想定していたよりも人数が多い。
     目の前に広がるのは、埠頭の倉庫。逮捕した組織の末端に、まだこれだけの仲間が残っていたとは驚きだ。だが、多勢に無勢という言葉とはまったく無縁である。今ここには、あの“ライ”こと“赤井秀一”がいるからだ。
    「そんなの朝飯前ですよ、赤井!」
     そういえば本当に朝飯前だったな、と思いながら、降谷はすばやく自分の両腕にまとわりついていた縄をほどいた。
     自分に向けて撃たれた弾を寸でのところで避けて、降谷は襲いかかってくる敵をひとり、またひとりとなぎ倒してゆく。素早く周囲を見渡し、敵の戦闘能力がいかほどかを確かめた。全員が拳銃を持っているわけではなさそうだ。銃器を十分に手に入れられないところを見ると、組織内でも末端中の末端なのだろう。だが、末端とはいえ、人数が多ければそれなりの威力を発する。
     背後では赤井が、連射に近い速さで弾を撃っていた。銃器で遠くから攻撃を仕掛けてくる者には赤井が。近距離で攻撃を仕掛けてくる者には自分が。会話を交わさずとも、いつの間にか役割分担が出来上がっている。
     赤井は、真っ黒なロングコートを羽織り、サングラスをかけていた。
     ただでさえ目立つ男だ。全身を黒ずくめにしたところで、その存在を掻き消すことはなかなか容易ではない。
     何らかの手段を使って敵と同じ衣装を準備し、息をひそめるようにして自分を助けるタイミングを見計らっていたのだろう。敵の人数も多いので、身を隠しやすかったのかもしれない。
     赤井の手には拳銃が一丁。ライフルはない。拳銃ひとつで敵の中に紛れ込み、こんなところまでやってきた赤井秀一という男を、降谷は狂おしいほど恋しく感じた。 
     数十人ほどはいたと思うが、気づけば目の前にいるボスらしき人物を除いて、全身真っ黒な男達が地面に突っ伏していた。もちろん、全員、息はある。
     応援を呼ぼうとしているのか。それとも組織の幹部に連絡を入れようとしているのか。ボスらしき男がスマートフォンを慌てたように操作しはじめた。周囲の状況を見て、勝ち目がないと悟ったのだろう。しかし、男が発信ボタンをタップする寸前、赤井の撃った弾がスマートフォンの画面に命中する。画面はひび割れて、スマートフォンとしてはもう使いものにならない状態になった。
     最後の抵抗といわんばかりに、震える手でこちらに銃を向けてきたが、それすらも赤井の撃った弾によって遠くへと弾き飛ばされてしまった。武器を失くした男は、闘う気力も失くしてしまったのか、あるいは自分たちの闘い方を目の当たりにして恐れおののいたのか、その場に力なく座り込む。
     降谷は自分の縛られていた縄を地面から拾い上げ、しっかりと目の前の男の腕に巻きつけた。隣では、赤井がサングラスを外し、自身のスマートフォンで誰かに連絡を入れている。自分たちの仲間と連携を取り合っているのかもしれない。
     赤井が電話を切ると、あたりがしんと静まり返る。地上を舞っていた埃も、ぱらぱらと地面に降りてきて、視界が少しずつ開けてきた。
    「また、あなたに助けられましたね」
     今朝のこともあり、赤井の顔を見るのは抵抗がある。だが、降谷は赤井の目をしっかり見て、礼を言った。
    「……」
     赤井は何も言わない。赤井を起こさず、ひとりで外に出たことを怒っているのだろうか。
     赤井の顔色を窺うために、降谷はそっと近づく。すると、突然、真正面から抱き締められた。
    「あ、あかい」
     赤井の行動に驚いて、降谷の口から上ずった声が上がる。
    「俺から離れるなと言っただろう」
     赤井にしては珍しく、感情のこもった声。低く強めの口調で言われて、降谷は思わず身体を震わせてしまう。
     抱き合っているので、お互いの顔は見えない。赤井のこの声も言葉も、催眠にかかっていない赤井の本音を表しているということだ。
    「……ごめんなさい」
     赤井に抱き締められたまま、いったいどうすればいいのか降谷はわからなくなる。離れたほうが良いのではないかという思考も吹き飛ぶほど、赤井の腕の力は強い。赤井の温もりに包まれていると、離れたくない気持ちすら湧いてくる。今まで知らなかった感情だ。
     初めて赤井の腕の中で感じる温もりは、降谷にとって心を溶かされるような甘美なものだった。知らず知らずのうちに赤井の肩に頬を寄せていると、赤井は声を優しいトーンに変えて言った。
    「今朝、君の気持ちを聞いて俺も覚悟を決めたというのに、まさか君ひとりで敵に立ち向かおうとするとは……」
    「……けさ?」
     赤井の腕の中にいて緊張感が解けてしまったのか。赤井の言うことがすぐに理解できずに問い返す。
    「君が出かける前、俺に言った言葉だよ」
     しばらく考えて、ようやく降谷は今朝の自分の言動に思い至った。
    『赤井が僕を好きになってくれますように……』
    「え 聞いていたんですか?」
     熱でぼんやりとしていた頭がたちまち覚醒し、ぶわりと顔が赤くなる。あのとき、たしかに赤井が眠っていることを確認したはずだが、まさか起きていたとは。
    「これでも俺は君のボディーガードでね。君が起きるのとほぼ同時に目を覚ましていた。奴等が動くとしたら今日だと踏んでいたよ」
     自分の言動は赤井に筒抜けだったということか。そして、昨晩、赤井がノートPCと向き合っていたのは、今日のための情報収集だったのだろう。
     赤井の行動を何ひとつ見抜けなかった恥ずかしさで、心臓が暴れ出す。ドクドクドクとうるさい自分の心臓の男を聞きながら、降谷は低く唸る。
    「狸寝入りか、貴様……」
     思わず拳を振り上げると、拳ごと赤井の手にそっと包まれてしまう。再び拳を振り上げようとしても、赤井の手はびくともしない。それどころか、赤井は手の甲を指で愛撫するように撫でてくる。思わず声を上げてしまいそうになるほど、くすぐったい。
     いったいこの甘ったるい雰囲気は何なのだろう。
    「いや、起きるタイミングを見失っただけだよ」
     赤井が囁くように言う。雰囲気だけではなく、赤井の声までどこか甘ったるい。
     赤井の言うことが本当なのか、嘘なのか。赤井の声音からは判断がつかないが、これ以上真偽を問いただすのはやめることにする。
     赤井の言った言葉でもうひとつ、降谷には気になることがあったのだ。
    「それで、あなたの覚悟っていったい何なんですか?」
     赤井の覚悟とはいったい何なのか。気になって仕方がなかったが、問うてしまったあとで、降谷は不安でたまらなくなった。
     赤井の口からどんな言葉が紡がれるのか。良いことなのか。悪いことなのか。いくら赤井本人に対して言ったつもりはなかったとはいえ、赤井にとっては告白の言葉を聞いてしまったも同然である。赤井が何を想い、何を考えたのかはよくわからない。
     同性の自分に恋愛感情を向けられて、一緒に行動することが嫌になったのだろうか。赤井は優しいので、直接言ったりはしないだろうが、遠回しに距離を置きたいと言われてしまうのではないか。あれこれ想像しようとしたところで、赤井にその思考ごと阻まれる。
     赤井は迷いひとつ見せずに言った。
    「俺は君が好きなんだ」
     首筋に、ちゅ、と小さくキスをされる。一瞬、自分の身に何が起きたのかわからなかった。
     赤井の言葉、そして行動。いずれも自分が想像していたものとは大きく乖離している。
    「……え?」
    「信じられないか? 君への告白……これが俺の覚悟だよ」
     フッ、と赤井が笑うのがわかる。降谷は混乱した。
     自分にとって都合の良い夢を見ているのではないだろうか。もしや自分の聞き間違いではないのか。勘違いしたりしないように、今度こそ赤井の言葉をちゃんと聞こう。そう心に決めて、降谷は赤井に懇願する。
    「……もう一度、言ってくれませんか?」
     聞き返すべきものではないと頭の中ではわかっていたが、降谷にとってはそれどころではなかった。降谷は降谷で必死だったのだ。
     まるで自分のそんな反応すら楽しむかのように。降谷が混乱を極めている一方で、赤井が笑みを深めてゆくのが空気の震えでわかった。
     もう一度告げることを戸惑いもせず、赤井は言った。
    「君が好きだよ」
     降谷の耳にこの言葉が伝うのは、二度目である。これでもう答え合わせは完了だ。
     降谷はぐいと赤井の胸を押す。自然と、赤井と正面から見つめ合う形になった。赤井の表情を見て、降谷は緊張した。
     初めて見る、赤井の表情だった。
     自分を見る赤井の顔をなかなか直視できずにいたが、自分が見ていないときもずっと、赤井はずっとこんな風に自分を見ていたのだろうか。
     まるで愛おしいものを見るような目で見つめられて、恥ずかしさのあまり目を逸らしたくなってしまう。しかし降谷は、それをぐっと堪えた。
     二回とも、赤井の顔を見ずに告白の言葉を受け取る形となってしまったことに、降谷は悔しさを覚えた。
     降谷は覚悟を決めて言った。
    「……僕の顔を見ながら、言ってください」
     赤井が目を見開く。催眠が解けていない赤井に向けて、言うべき言葉ではないのかもしれない。だが今の自分ならば、赤井のどんな言葉でも受けとめられそうな気がした。顔が熱い。今すぐにでもここから逃げ出したい気持ちが襲ってくるが、今ここで逃げるわけにはいかない。
     赤井は一瞬考える素振りを見せた。
     どんな言葉が飛び出すのか。自分はもちろんのこと、赤井自身にもよくわからないからだろう。告白の言葉を台無しにするような言葉を、言われてしまうかもしれない。そうは思ったが、心のどこかで、そうはならない予感があった。
     そう予感したのは自分だけではなかったのか、赤井が心を決めるのは早かった。
    「……君が好きだよ」
     赤井に見つめられながらほしい言葉を聞くことができて、降谷の胸は甘く締めつけられた。
     赤井にも届いてしまいそうなほど、どきどきと胸が大きな音を立てる。
     これで信じてもらえたかな? と告げる赤井に、「信じます」とこたえたくなったが、降谷はあることに思い至り、青褪めた。
    「まさか、僕が今朝あんなことを言ったから、僕の催眠にかかったんじゃ……」
     おそるおそるそう告げると、赤井は声を上げて笑った。絶対そんなことはありえない、と赤井の表情が語っている。
    「ずっと前から、俺の気持ちは変わっていないんだがな」
     予想もしない言葉が返ってきて、降谷はますます顔が熱くなるのを感じた。「顔が赤いな」と悠長に告げる赤井を降谷は睨む。なぜ自分の顔が赤くなるのか、赤井はすべて悟ったような顔をしていた。
     降谷はひとつ息を吐いて、赤井の言葉を振り返った。自分を見ていても、見ていなくても、赤井が発する言葉は同じになった。それはつまり、マリーのかけた催眠が効かなくなっている、ということだ。
    「じゃ、じゃあ……マリーにかけられた催眠は?」
     降谷の問いかけに、赤井はすぐにこたえた。
    「さっき、解けたんだろう」
     赤井の声はどこか確信しているような節があった。
    「解けた?」
    「君に『素直にお喋り』できたから」
    「……あなたの言っている意味がよくわからないんですが」
     真剣な目で訴えかけると、赤井は真面目な口調でこう言った。
    「催眠を解く方法は……俺が君に愛の告白をすることだったと思っている」
    「ええっ」
     思わず大きな声を上げてしまう。赤井は笑みを浮かべて言った。
    「マリーの言葉にヒントがあったんだよ。そして、俺がかけられた催眠は、“これから先、俺が本気で人を愛したとき、その相手に対して発動する”というものだった」
    「その相手が、僕……」
     赤井の催眠は、降谷と見つめ合っているときに発動する。
     それが何よりの証拠だと赤井は言いたいのだろう。
    「ああ。君も知っての通り、この条件に該当するのは、まぎれもなく君だよ。降谷零君」
     赤井に再び強く抱き締められる。
     言葉だけではない確かな証拠を目の前にして、降谷はもう何も言えなくなってしまった。信じてもいいのだ。赤井の言葉を。マリーのくれた真実を。
     降谷はそっと赤井を抱き締め返した。それにこたえるように、赤井がますます強い力で抱き締め返してくる。
     もうすぐ自分たちの仲間がここに駆けつけるだろう。それまではずっとこのままでいたい。まるで夢の中にいるような心地に浸りながら、降谷は目を閉じた。

     しばらくそうしていると、どこかで小さな物音がした。
     自分たちの仲間ではない、何者かの気配を感じ、降谷は目を開ける。遠くにある倉庫の入口付近で佇む人物を見て、降谷は大きく目を見開いた。
     まるで、この日に赤井の催眠が解けるのを予知していたかのように。
     “彼女”はあの日とまったく同じ姿で、自分たちを見ていた。
     抱き合っているので、赤井に彼女の姿は見えていない。彼女の姿を視界に入れているのは自分だけだ。
     降谷が赤井の背後に視線を向けていることに気づいたのだろう。赤井の纏う空気が、甘いそれから臨戦態勢へと変わってゆく。
    「残党か?」
     赤井が小さく声を発する。赤井の声が聞こえたのか、あるいは何かを察したのか、彼女がそっと物陰に隠れるのがわかった。
     彼女は“ライ”に会うつもりはないのかもしれない。あの日、マリーが自分に告げたように。彼女はただ覗き見をしに来ただけなのだろう。
    「……いいえ。きっと僕の気のせいです」
     魔法が解けるとき、ライのそばにはバーボンがいる――。
     かつて彼女が告げた言葉を思い出しながら、降谷は赤井の肩に頬を擦り寄せた。
     




     ――X年前。


    『あら。ちょうど良いところに来たわね、バーボン』
    『おや、あなたでしたか。……ライは今どこに?』
    『まだ店にいるわよ』
    『そうですか。早く帰って来いって言ったのに、いったい何をやっているんだか……』
    『まだ動けないかもしれないわね』
    『……動けない?』
    『ええ、でもあともうしばらくしたら、きっと元通りになるわ』
    『……いったい何をしたんですか?』
    『そんな怖い顔しないで。ほんのちょっと魔法をかけてあげただけよ』
    『魔法?』
    『そう、魔法。そんなに難しいものじゃないわ。これをこうやって、左右に揺らして――』
    『……それで? ライはあなたの魔法にかかってしまったと』
    『ええ。いつ効力が出るか楽しみね』
    『……あなたにしては珍しいですね。こんなに酔われているなんて』
    『酔ってなんかいないわよ。……あら、その顔は信じてないわね。ふふ、今はそれでいいわ。でも、いずれあなたはそれを目の当たりにすることになるから』 
    『……そう、ですか。まぁわかりましたよ、あなたは嘘をつかない女性ですからね。それで、その魔法とやらはちゃんと解けるんでしょうね?』
    『それはライ次第……と言いたいところだけど、魔法を解く鍵を握っているのは、あなたよ。バーボン』
    『……僕が?』
    『ええ、そうよ。もし、いつかこの日を夢に見る日が来たら……そうねぇ素直な気持ちでいることを心がけるといいわ。ライも“目を覚ます”でしょう』
    『言っている意味がよくわからないんですが』
    『物事を前に進めるためには、時には自分の気持ちに正直になるのも必要ってことよ』
    『そうは言っても、そのときはライも僕も、違う任務についていて、二度と会えない関係になっているかもしれませんよ』
    『いいえ、それはないわ。魔法が解ける日が来るとしたら……ライのそばには必ずあなたがいるはずだから』
    『へぇ……必ず、ですか。それは面白い……本当にその時が来たら、ライに手をかしてやりますよ。…………本当に来るんならね』
    『ふふ、なんだか楽しみになっちゃったわ。そのときは、私もちょっと覗きに行っちゃおうかしら』


    FIN
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